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1.この世界の真理
死を待つ家
しおりを挟む頼まれていた教室の掃除を終えて、教会の奉仕活動へ向かう。学校から外へ出ると気が楽だ。まるで吸う空気が入れ替わったかのように、気持ちが晴れやかになる。
そして、イヴは教会の高齢者や子供たちと接する時間がとても好きだった。
一人暮らしで家族がいないから、家が寂しいというのもあるが自分が誰かの助けになれることが何より嬉しかった。
いつものように教会のベルを鳴らすと、ジェコフ神父が顔を出す。笑うと目に皺が寄る、優しい顔で出迎えてくれる。
「こんにちは、今日はどの名前にするんだい?」
イヴはここで本名で活動することはほとんどなかった。誰かの奉仕活動の代わりで行うことが多く、それも神父さんは承知で自分を受け入れてくれている。
「ありがとうございます。ソフィアでお願いします」
「ソフィアだね。ちゃんとこっちでは、言われた通りの名前で学校へ通達しておくからね」
講堂の中へ入るとイヴを見つけた瞬間、子供たちが一斉に駆け寄ってくる。ガバッと勢い良く一番最初に抱きついてきたのは甘えん坊な女の子ムータン、横でスカートの裾を掴むのは男の子のロッタ。
「イヴっ!」
「ハープ弾いて」
「来るのが遅い!ずっと待ってたんだぞ」
そうやって唇を尖らせる男の子はティム。ごめんねと言って頭を撫でると、顔を赤くしている。
あんまり子ども達が懐いているから、子ども達だけには本名を教えてやってくれ、ということで実際に活動する時は自分の名前を名乗っていた。
「ごめんね、ちょっと待ってね」
駆け寄ってきてくれた子供達には申し訳ないが、イヴには気がかりなことがあった。
実は誰かに奉仕活動を頼まれなくても、放課後は毎日のようにここへ立ち寄っているのだが、最近は特に、ネイティというおばあちゃんの体が弱っており心配で足繁く通っていたのだった。
「あの、ネイティさんは?」
「イヴを待ってたよ。最初にそちらから行くかい?」
神父さんに頼んで、先に死を待つ家へ向かう。
この教会は孤児院、高齢者施設、死を待つ家が併設されていた。そして、孤児院には0才から11才の子どもが14人、高齢者施設には15人が生活している。
この高齢者施設からは、一ヶ月に1回程、死を待つ家へ移る人がいる。
寿命がきて食事や水分を取れなくなって、文字通りここでゆるやかな死を待つのだ。
離れにある一軒家のような白い建物。建物の中も白で統一され、部屋には大きな窓があり、外の庭を眺めることができ、天窓からも優しく光が差し込まれるようになっていた。
「ネイティさん、イヴです」
ベッドの上に横たわる痩せ細った体。掛け布団がかけられたその体はイヴの声に微動することもなく、ただ呼吸の動きで胸元の布団が上下に動くだけだった。
ネイティさんのベッド周りには元気だった頃に好きだった刺繍の飾り物や、医学や薬学の古い本など私物が置かれていた。
手をそっと握ると、指が少し動いたのが分かった。イヴが初めて会った時から、もうすでに病気のせいでまともな会話はできなくなっていたが、時折、ありがとうやさようならなどの単語を発することがあった。
人形のようにぼーっと一点を見つめ、声かけに反応してゆっくり黒目を動かす。時折、声かけに柔らかな微笑みを浮かべることもあった。
イヴは食事のお手伝いをよくさせてもらっていたが、次第に食事を飲み込めなくなって、発語や表情も乏しくなって、最近死を待つ家へと移ったのだった。
日に日に意識が薄れて、最後が近づいて来ているのが分かる。手足の先が紫色になってきて、呼吸も大分弱まっている。
こうやって高齢者を見送ることは、ここで何度か経験しているが、そんなイヴの目から見ても、ネイティの今の状態は、今夜、天に召されてもおかしくない状態だった。
ネイティさんは若い頃、薬師だったと聞いた。自分よりも人のために働く人で、とても優しい人だったと。確かに、そんな優しさが垣間見えるような人だった。
一瞬、眉をひそめ、わずかに指に力がこもる。
「苦しいですか?」
問いかけに、もちろん返答はない。
ネイティとの思い出を思い出しながら、手をさする。確かに優しさが垣間見えるような、穏やかな微笑み方をする人だった。
きっと、この手でたくさんの人を助けてきたんだろう。薬だけではなく、たくさんの人の安心と笑顔を作ってきた。立派な手だ。
どうか、少しでも穏やかに終わりを迎えられますように、と。願いを込めて手をさすると表情がすっと和らいだものへ変わる。
「イヴ、そろそろ消灯の時間だから」
しばらくネイティの傍らで手を握っていると、シスターのトリシャに声をかけられた。ここに来てからすでに1時間は経っていた。外は暗くなり始めている。
死を待つ家の消灯は早い。しかし今日は更に早く感じた。おそらくトリシャも差し迫る最後を予期して、いつもよりも早めにネイティを休ませてあげたいと思っていたようだ。
「ごめんなさい。つい長居してしまいました」
「いえ、毎日のように来てくれてありがとうね。ネイティさんもきっと喜んでいるわ」
そう言ってトリシャは、銀皿に乗った草香を取り替えた。
香を焚き、ほのかに甘い花な柔らかい香りがする。イヴも大好きな落ち着く香りだ。
「良い香りですね。ラベンダーですか?」
「そう、今、裏庭で取ってきたの」
「昔、元気だったネイティさんからこの香りがよくした気がする」
「よく気付いたわね、ネイティさんの好きな香りだったのよ」
トリシャはずっとここでネイティの生活のお手伝いをしながらずっと一緒に過ごしてきた。
なんとなく目が潤んでいる気がする。
「きっと今夜お迎えが来ると思う。本当にありがとうね」
悲しそうに微笑むトリシャ。こちらこそ、とイヴは深くお辞儀をして、死を待つ家を後にした。
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