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2章 街

10 風呂

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 赤く焼けた石を入れた熱い湯船に、黎泉れいぜん朱明しゅめいは二人で浸かっている。

「じゃあ、黎泉のいた北方には、温泉があるんだ」
「ああ、塩味のする透明な温泉や、硫黄臭く濁ったものまで、あちらこちらにあったな」
「温泉って、お風呂とはどう違うの?」
「普通の湯より長く体が温まる。それに、入ると身体がぬるぬるする湯もあって面白い」
「それ、ちゃんと綺麗になってるのか分かりにくいなぁ」

 楽しげに笑った朱明は、浴槽の中で「んーっ」と声をあげ、気持ちよさそうに伸びをした。色白な肌は湯に浸かっていた部分が赤くなり、鎖骨のあたりで綺麗に紅白の境界ができている。

「肌艶が良くなるからと、女性や旅行客に人気らしい」
「ぬるつくってことは、油を塗ったのと同じような効果なのかな?」

 可愛いつがいはピンとこない顔で小首を傾げている。黎泉は慈愛を込めて微笑んだ。

「百聞は一見に如かず。いつかお前を温泉に連れて行こう。薬草の蒸気を浴びる蒸し風呂も心地良いぞ」
燻製くんせいみたいだね。塩味のつく温泉といい、黎泉に料理されそう」
馳走ちそうになる」
「食べちゃダメだよ」

 大真面目に返したのが笑いのツボに入ったらしく、くすくすとおかしそうに朱明は肩を揺らした。

 浴室では朱明がしっかりくつろげるように、性的な触れ方をしない。入浴前にそう約束してから、朱明の身体の強張こわばりは目に見えて取れた。向き合って湯船に浸かった頃にはまだ恥じらいを残していたが、黎泉の故郷の話が弾むうちに、すっかり緊張の解れた様子で身をさらすようになっている。

「そろそろ暑くなってきた。先に身体を洗ってもいい?」
「ふむ。では、シャワーの代わりにこちらから湯を掛けよう」
「あっそれ嬉しいな。ありがとう」

 朱明が湯船から出る。丸く締まった小さな尻も、すんなり伸びた手脚も、どこもかしこも美味しそうな色に染まっていて、黎泉の目を楽しませた。

「水球は、純粋な湯から作ることも、汚れた部分を集めることもできる」

 実際に見比べられるよう、二つ並べて視線の高さまで浮かべてやる。一方は透明で、一方は薄く白濁した球だ。

「便利だね」

 感心しているのがそのまま表情に出ている。素直で柔軟なつがいだ。

ゆえに、一度使った湯だが、お前にかけるのは水道から出したばかりの湯にほぼ近い。安心して身体を洗ってくれ」

 湯船の汚れを集めた白い水球は、排水溝に捨てておく。これで、黎泉自身がまだ浸かってはいるが、湯はかなり清浄になった。

「黎泉がいたら川も井戸も無い土地でも生活できそう」
「緑のある土地なら水の調達はできるだろうな。だが、元から水の無い荒野ではさすがに骨が折れる」
「そうなんだ?」

 長い髪を丁寧に洗い始めていた朱明が、意外そうな声を上げた。

「我は水の気配を集めて水球を作っているのに過ぎない。元から水が無ければ、集めようがないということだ」
「魔術にも理屈があるんだね。じゃあさ、湯船から水球を作るみたいに、俺の髪の水分で水球を作るのはどう? 髪や身体を乾かせるんじゃないかな」 

 黎泉の送った水球で髪を流しながら、そんなことを言う。着眼点の良い発想だが、黎泉はこれにも首を振った。

「生き物は皆、魔術に対する抵抗力を多かれ少なかれ持つ。我自身の身体でそれをするのは容易たやすいが、お前にほどこすには少なくとも肌を知る必要があるな」
「なんでまたそうなるの……」
「水を奪う対象を知るためだ。よく知った相手でないと、指定が難しい」
「なるほどね」

 残念そうに呟いて、洗い終えた髪をタオルで纏めて頭に巻いている。
 朱明は勘違いしているようだが、肌を知るとは性交の比喩のみではなく、文字通り身体を隅々まで触って確認して知ることでも魔術の行使は可能となる。どちらにせよ、今の朱明が受け入れるには時期尚早の印象があり、黎泉は沈黙した。

「さっき言っていた魔術への抵抗力ってさ、魔獣にもあるの?」
「そうだな。個体差はあるが、人間より強い抵抗力を持っている」

 朱明は身体を洗いながら、考え込むような顔をしている。

「黎泉は魔術が得意なのに狩りは好きじゃないのって、もしかしてそのせい?」

 黎泉は自然と笑みが浮かぶのを感じた。朱明の勘の良さには敬意を覚える。

「ああ、そうだ。魔獣の魔術への抵抗力は経時的に変化していてムラがあり、我が攻撃するとかすり傷を負わせるか肉片にするかの両極端になってしまう。その間の調節が難しい」
「粉微塵にしちゃったら食べられないもんね」
「そういうことだ」

 もともと黎泉は手加減が不得手ということもあり、魔術で魔獣を倒すと如何いかんせん肉が飛び散って食べられなくなるという、本末転倒になることが多かったのだ。朱明との出会いは僥倖ぎょうこうだった。
 身体を流し終えた朱明が、なぜかまた石鹸を手に取る。

「お湯をかけてくれてありがとう。俺は黎泉みたいなことできないから、背中でも流そうか?」

 入浴前のやり取りを受けて、律義にお返しを考えていたらしい。朱明に要らぬ借りを感じさせてしまったことに気付き、黎泉は苦味を覚えた。

「不要だ。我はお前に三助や湯女ゆなの真似事をさせたくて、入浴を共にしたのではない」
つがいは相手の身体を洗いあうものじゃないの?」
「形だけ真似ても身になるものではない。お前が我を愛撫したくなるほど、艶事に慣れた時にまた頼む」

 黎泉の指摘を受けて、朱明は先の言葉が浴室での色事を指しているとようやく気付いたらしい。
 きょとんと一瞬見開かれた目が、じとりと呆れた半目になる。

「黎泉ってさ、満腹じゃなくてもムラムラしてない?」
「幸いまだ魔羆が残っている。それなりに腹は満ちた状態だ」
「じゃあお腹が空になったら発情しなくなるの」
「そうだな。食欲で性欲を忘れる」
「とことん欲で動いているね」

 珍しいものでも見るような顔をされた。そこで残念さや寂しさが滲まないあたり、朱明に房事は本当に縁がないのだなとしみじみ思う。

「素直な性質だろう?」
「うん、それに他がちゃんとしている分、面白い。黎泉のそういうところ、自由な感じがして好きだよ」

 思わず手を差し伸べると石鹸を渡された。手を取るつもりだった黎泉は愉快な気分になる。朱明の方こそ面白いのではないだろうか。

「ありがとう。つい話し込んでしまったな。我はすぐに上がるから、先に夕食を宿の者に頼んでおいてくれるか」
「たくさん頼んでおくから、ゆっくり入ってね」

 綺麗な笑みひとつおいて、朱明は浴室を出ていく。残された黎泉は吐息をつき、頭からばしゃりと水を被るのだった。
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