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2章 街
9 宿屋
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黎泉と朱明の選んだ宿屋は、中の上から上あたりに位置するような門構えをしていた。二泊三日の料金は前払いで、朝だけ部屋に食事を出される。通りを真っ直ぐに進めば市場や繁華街に出ることができる便利な立地だ。
「浴槽とシャワーがある」
部屋の中を歩き回って設備を確認していた朱明が、浴室を見て嬉しそうに呟いた。
「普段の宿には無かったのか?」
「うん。大きい盥に湯を入れて貰って、それで身体を洗ってた。近くに湯屋があったんだけど、公衆浴場は好きじゃないんだ。こっちの宿にして良かった」
魔石を用いた給湯設備はあまりこの辺りには普及していないらしい。天井についた水のみのシャワーと、焼けた石を入れて温める風呂に、朱明はにこにことご機嫌そうだった。
「少々窮屈だが、二人でも入れそうな大きさだな」
旅行者向けの宿なのか、浴槽は意外に大きい。水魔法で身体を洗う水に事欠かないとはいえ、温かい湯に浸かって寛げる機会は黎泉にとっても寛ぎのひとときだ。
「一緒に入るの? 黎泉が風呂の間、屋台街で夕飯を買って来ようと思っていた」
番の自覚がまだ薄いらしく、朱明はきょとんと小首を傾げている。一方黎泉も屋台街の方に気を取られ、一緒に入浴する云々のことは思考の端に追いやられた。割れ鍋に綴じ蓋の二人かもしれない。
「屋台街か。この街の名物料理などもあるのか?」
「うーん、名物はあんまり詳しくないんだけど、旅行者には屋台街自体が人気らしいよ。市場近くにあって、割と清潔感あって綺麗なんだよね。シチュー載せのパンとか、揚げた魚とか、腸詰めの串焼きが俺は好き」
大変興味深い内容だ。黎泉は深く頷いた。
「お前の好物が気になる。二人で買いに行くのはどうだ?」
「じゃあ、また明日一緒に行こう。ゆっくり見て回るにはもう遅い時間だ」
朱明の視線は窓の外を見ている。空の色には紅や橙が混じり始め、綿を千切ったような雲が夕映えていた。
「夜市はないのだな」
「祭りの時期はあるんだけど、今の時期はやってないよ」
傾きつつある日の光が、窓から差し込んで朱明の横顔を染めている。細かな産毛が白く輝く頬のまろい輪郭に、黎泉は指を滑らせようとした。
「ん、どうしたの」
ぱっと振り向かれて苦笑する。戦士の肌に手を出すには、こちらの気配を消す能力が問われるようだ。
「夕食は宿の者に頼もう。今は番から離れがたい気分だ」
「う……急にそういうこと言う」
唸るように呟いているのは照れ隠しだと分かる。朱明の視線を受けながら、黎泉は正面から堂々と彼の頬に触れた。柔らかな肌は少し緊張していて、彼の不慣れを感じる。
「お前が小鳥や仔猫なら、毛繕いをして親愛の情を示したところだな」
「ふふ。なら、俺のことを洗ってくれたのも親愛の情?」
自分のことを小動物だとは微塵も思っていなさそうな調子で、朱明がおかしそうに笑った。その自負と誇りが好ましい。
「そうだな。だが番相手となれば、我の手で丸ごと洗ってやりたいぐらいだ」
「じゃあ俺だって黎泉のことを洗うよ」
「ほう」
黎泉は楽しくなった。初心な自覚はあるだろうに、こちらと対等でいようとする姿勢に興を覚える。
「触ってみたいと思っていたんだよね」
「好きにして構わない。我もお前に触れられたい」
強がりや負けん気では無い言動に、愛おしさが深くなる。
同意を受けて差し伸べられる手を、黎泉はじっと待った。やがて、冷えた指先がそろりと頬に触れてくる。朱明の掌は些か緊張した様子でこわごわと肌の上を辿り、少しさまよってから黎泉の黒髪を撫で始めた。
「頭か。幼子扱いというわけでもなさそうだが、どういった風の吹き回しだ?」
「タンラン族は髪に触れさせることが信頼や愛情のしるしなんだ。黎泉の髪は、初めて見た時から清潔で艶々して綺麗だと思っていた」
しなやかな指に頭皮を刺激され、くすぐったさと心地よさが織り交ざったような心地になる。意図せず毛繕いをされる形になった黎泉は、朱明の頭髪に視線を向けた。
「朱明こそ美しい髪をしている。冒険者をしながらそこまで伸ばして手入れするのは、相当に骨が折れただろう」
「俺達の伝統では、長い髪が強い男の証だからね」
「では朱明は相当の手練れだな」
「へへ。実力が無いのに伸ばしすぎてると、武闘会で負けた時に刈られてしまうんだよ。ま、俺は負けたことないけど」
黎泉は朱明の背に手を回し、腰に流れる豊かな髪を撫で下ろした。毛束が掌に吸い付くような錯覚を覚えるほど、よく繊維がそろっていて滑らかだ。
「強さと美の両立か。お前によく似合う」
「むう……」
賛辞を贈ったつもりが、朱明の反応は悪かった。少し考えて、視線を彷徨わせる彼の顔が至近距離にあることに思い当たる。二人して相手の髪に触れ、抱き合うような体勢なのだから当たり前だ。
「お前が愛おしい」
初心なところも可愛らしい。直裁に想いを伝えると、朱明はいたたまれなさそうに顔を横に向けた。
「昨日みたいなことをするなら、お風呂の後がいい」
「口付けもか?」
「だって、それで終わらないよね」
こちらに向いている耳がほんのり色付いていて、触れたらどんな反応をするか考えるだけで胸が踊るような気分になる。
昨日の野営は相棒の契りを交わして初めて迎えた晩だった。村外れに設置した天幕の中で、黎泉は朱明と葡萄酒を干し、唇を重ねた。村で求めた葡萄酒は甘酸っぱく、酒気を帯びて温まった身体を触れ合わせて、寄り添い眠ったのは温かな記憶だ。
「確かに、睦むには些か段取りが悪かったな。湯船の支度を先に済ませてしまおう」
「その方がいいよ。先に汗を流した方がお互い心おきなく触れるし」
黎泉はくすりと微笑んだ。
「ということは、口付け以上のことをして良いのだな」
昨晩は本当に触れ合っただけだ。互いに抱きしめたり、相手の身体を撫でたりして、抱き合いながら寝た。もちろん服は着たままだ。
「壁も屋根もあるところにいるんだから、今日の方が落ち着ける。昨日よりは、まあ、色々してもいいよ」
朱明の声は後半にかけてぽそぽそとした小声になっていく。しかし黎泉の耳にはきちんと届いた。
「では、早く湯の支度をしてしまおう」
魅力たっぷりの承諾に心が浮き立つ。愛しい番がこくりと頷いた。
「浴槽とシャワーがある」
部屋の中を歩き回って設備を確認していた朱明が、浴室を見て嬉しそうに呟いた。
「普段の宿には無かったのか?」
「うん。大きい盥に湯を入れて貰って、それで身体を洗ってた。近くに湯屋があったんだけど、公衆浴場は好きじゃないんだ。こっちの宿にして良かった」
魔石を用いた給湯設備はあまりこの辺りには普及していないらしい。天井についた水のみのシャワーと、焼けた石を入れて温める風呂に、朱明はにこにことご機嫌そうだった。
「少々窮屈だが、二人でも入れそうな大きさだな」
旅行者向けの宿なのか、浴槽は意外に大きい。水魔法で身体を洗う水に事欠かないとはいえ、温かい湯に浸かって寛げる機会は黎泉にとっても寛ぎのひとときだ。
「一緒に入るの? 黎泉が風呂の間、屋台街で夕飯を買って来ようと思っていた」
番の自覚がまだ薄いらしく、朱明はきょとんと小首を傾げている。一方黎泉も屋台街の方に気を取られ、一緒に入浴する云々のことは思考の端に追いやられた。割れ鍋に綴じ蓋の二人かもしれない。
「屋台街か。この街の名物料理などもあるのか?」
「うーん、名物はあんまり詳しくないんだけど、旅行者には屋台街自体が人気らしいよ。市場近くにあって、割と清潔感あって綺麗なんだよね。シチュー載せのパンとか、揚げた魚とか、腸詰めの串焼きが俺は好き」
大変興味深い内容だ。黎泉は深く頷いた。
「お前の好物が気になる。二人で買いに行くのはどうだ?」
「じゃあ、また明日一緒に行こう。ゆっくり見て回るにはもう遅い時間だ」
朱明の視線は窓の外を見ている。空の色には紅や橙が混じり始め、綿を千切ったような雲が夕映えていた。
「夜市はないのだな」
「祭りの時期はあるんだけど、今の時期はやってないよ」
傾きつつある日の光が、窓から差し込んで朱明の横顔を染めている。細かな産毛が白く輝く頬のまろい輪郭に、黎泉は指を滑らせようとした。
「ん、どうしたの」
ぱっと振り向かれて苦笑する。戦士の肌に手を出すには、こちらの気配を消す能力が問われるようだ。
「夕食は宿の者に頼もう。今は番から離れがたい気分だ」
「う……急にそういうこと言う」
唸るように呟いているのは照れ隠しだと分かる。朱明の視線を受けながら、黎泉は正面から堂々と彼の頬に触れた。柔らかな肌は少し緊張していて、彼の不慣れを感じる。
「お前が小鳥や仔猫なら、毛繕いをして親愛の情を示したところだな」
「ふふ。なら、俺のことを洗ってくれたのも親愛の情?」
自分のことを小動物だとは微塵も思っていなさそうな調子で、朱明がおかしそうに笑った。その自負と誇りが好ましい。
「そうだな。だが番相手となれば、我の手で丸ごと洗ってやりたいぐらいだ」
「じゃあ俺だって黎泉のことを洗うよ」
「ほう」
黎泉は楽しくなった。初心な自覚はあるだろうに、こちらと対等でいようとする姿勢に興を覚える。
「触ってみたいと思っていたんだよね」
「好きにして構わない。我もお前に触れられたい」
強がりや負けん気では無い言動に、愛おしさが深くなる。
同意を受けて差し伸べられる手を、黎泉はじっと待った。やがて、冷えた指先がそろりと頬に触れてくる。朱明の掌は些か緊張した様子でこわごわと肌の上を辿り、少しさまよってから黎泉の黒髪を撫で始めた。
「頭か。幼子扱いというわけでもなさそうだが、どういった風の吹き回しだ?」
「タンラン族は髪に触れさせることが信頼や愛情のしるしなんだ。黎泉の髪は、初めて見た時から清潔で艶々して綺麗だと思っていた」
しなやかな指に頭皮を刺激され、くすぐったさと心地よさが織り交ざったような心地になる。意図せず毛繕いをされる形になった黎泉は、朱明の頭髪に視線を向けた。
「朱明こそ美しい髪をしている。冒険者をしながらそこまで伸ばして手入れするのは、相当に骨が折れただろう」
「俺達の伝統では、長い髪が強い男の証だからね」
「では朱明は相当の手練れだな」
「へへ。実力が無いのに伸ばしすぎてると、武闘会で負けた時に刈られてしまうんだよ。ま、俺は負けたことないけど」
黎泉は朱明の背に手を回し、腰に流れる豊かな髪を撫で下ろした。毛束が掌に吸い付くような錯覚を覚えるほど、よく繊維がそろっていて滑らかだ。
「強さと美の両立か。お前によく似合う」
「むう……」
賛辞を贈ったつもりが、朱明の反応は悪かった。少し考えて、視線を彷徨わせる彼の顔が至近距離にあることに思い当たる。二人して相手の髪に触れ、抱き合うような体勢なのだから当たり前だ。
「お前が愛おしい」
初心なところも可愛らしい。直裁に想いを伝えると、朱明はいたたまれなさそうに顔を横に向けた。
「昨日みたいなことをするなら、お風呂の後がいい」
「口付けもか?」
「だって、それで終わらないよね」
こちらに向いている耳がほんのり色付いていて、触れたらどんな反応をするか考えるだけで胸が踊るような気分になる。
昨日の野営は相棒の契りを交わして初めて迎えた晩だった。村外れに設置した天幕の中で、黎泉は朱明と葡萄酒を干し、唇を重ねた。村で求めた葡萄酒は甘酸っぱく、酒気を帯びて温まった身体を触れ合わせて、寄り添い眠ったのは温かな記憶だ。
「確かに、睦むには些か段取りが悪かったな。湯船の支度を先に済ませてしまおう」
「その方がいいよ。先に汗を流した方がお互い心おきなく触れるし」
黎泉はくすりと微笑んだ。
「ということは、口付け以上のことをして良いのだな」
昨晩は本当に触れ合っただけだ。互いに抱きしめたり、相手の身体を撫でたりして、抱き合いながら寝た。もちろん服は着たままだ。
「壁も屋根もあるところにいるんだから、今日の方が落ち着ける。昨日よりは、まあ、色々してもいいよ」
朱明の声は後半にかけてぽそぽそとした小声になっていく。しかし黎泉の耳にはきちんと届いた。
「では、早く湯の支度をしてしまおう」
魅力たっぷりの承諾に心が浮き立つ。愛しい番がこくりと頷いた。
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