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1章 出会い
1 伯黎泉と朱明
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森林での目覚めは朝霧の香りがして心地よい。しかし、今の朱明(シュメイ)は爽快感からは程遠かった。
「死体がない」
昨日討伐した魔羆の遺骸が忽然と消えていたのだ。
目の前の地面は黒く血溜まりの跡が残されているが、周囲には引き摺った痕跡や足跡も見当たらない。辺境の小さな村から半日かけて獣道を歩き、ようやく辿り着く山の中で、いったい誰が盗みを働いたのだろう。
朱明は地方都市のギルドに所属する冒険者だ。得意は獣や魔獣の討伐で、近隣に棲むどんな生き物も倒せる自信と実力がある。腰まで伸ばした赤い髪は、朱明の地元では『白兵戦で長髪というハンデがあっても敵に勝てる』強さの証だ。尤も、ギルドではあまり知られていない風習で、周囲からは単に勝気な少女めいた朱明の容姿に合わせた髪型と受け取られている。
ものぐさな朱明は昨晩に魔羆を倒してから、核も抜かず呑気に野営をして寝こけていた。魔獣には核があり、それを討伐証明としてギルドに買い取って貰う形で報酬が出る。核以外にも死体からは毛皮や牙、珍しいものでは胆石などの素材が取れ、それも収入源だ。このままではタダ働きになる。
「俺のクマ……」
がっくりと嘆息した時だった。
「なんだ、もしかしてアレはまだ捨てていなかったのか」
面白がるような男の声が、真後ろからした。深みのある甘い声音は、全く聞き覚えのないもので、咄嗟に朱明の身体に緊張が走る。
「……あんた、誰?」
気配を感じなかったことをおくびにも出さず、ゆっくり振り向く。数歩離れたところに、見知らぬ男が立っていた。
闇を溶かしたような漆黒の髪は肩まで長さがあり、半分後頭部で結んで垂らしている。きりりとした眉の下には夕陽色の瞳が嵌っていて、少し目をすがめる様にしてこちらを見つめている。腰に佩く長剣の鞘は趣味の良い拵えで、使用感があった。肩幅や胸は分厚いが軽装なところから、騎士というより冒険者だろうとあたりをつける。
「我は伯黎泉(ハク・レイゼン)。お前の名はなんと言う」
男が朗々と名乗る。この辺りの土地では聞かない響きの名前だ。流れ者だろうか、と思いつつ返事をする。
「朱明。それで、俺のクマについて何か知っているのか」
伯黎泉と名乗る男は朱明より頭ひとつ分は背が高い。朱明には自分を小柄だと甘く見てきた相手に悉く拳でツケを払わせてきた自負がある。胸を張って真正面から問い返してやると、男はゆったりと微笑んだ。
「美しい名前だ。朱明、悪いがお前の熊は我が喰った」
「ーーは?」
魔羆は普通の熊よりも大きい。小屋ほども大きさがある上に、魔獣だけあって魔羆の肉を食べ過ぎるとひどい食当たりになる。
目の前の男は朱明よりもはるかに体格に恵まれているが、健啖家の域を明らかに超えた発言だ。
呆気に取られる朱明の前で、伯黎泉は悪びれた様子なく言葉を続ける。
「核すら抜いていなかったからな。てっきり雌の魔羆に用は無いものとばかり思い、他の魔獣が寄ってくる前に片付けた」
「今朝にでも抜くつもりだったよ。というか、アレって雄じゃないの」
死体の行方の追求を忘れ、朱明はついツッコむ。ギルドに貼り出された討伐対象は雄の魔羆だった。魔羆は普通の羆が突然変異で魔獣化したと言われており、通常2頭同時には現れない。しかし伯黎泉の言葉を信じるなら、この森にはまだ雄の魔羆が放浪していることになる。
「尻が丸く、身体が小さい。何より子宮があった。あれは雌だ」
「十分デカかったと思うけど」
「この森の奥にいる雄は、あの枝に爪が届くだろうな」
指し示された木の枝の高さに朱明は鼻白んだ。朱明が縦に2人並んだよりもまだ大きいというのか。
「見てきたように言うんだな」
皮肉を込めた言葉はあっさり首肯されてしまう。
「ああ、半日前に見かけた」
気性が荒く、常に獲物に飢えており鼻の良い魔羆を肉眼で見た距離から逃げられるなんて、相当の手練れか嘘吐きだ。朱明は伯黎泉をはかりかねた。目の前の男は少なくともこんな人里離れた森の中まで来ることのできる能力はあるのだろうが、本当にそんな手練れなら落ちていた死体を拾い食いなんてしない気がする。
「ふーん、ならそっちを倒して食べれば良かったんじゃない」
「食糧調達は我の仕事ではない。面倒で億劫だ」
「じゃあなんでこんな山にいるの」
「……この時期の雌の魔羆は美味いから」
男が少し気まずげな顔をした。
「魔羆が出たと聞いて、雌ならまあ、手間をかけてでも食べたくなったんだ。お前だってそういう時ぐらいあるだろう? 無性に特定の物が欲しくて、わざわざ足を運ぶことが」
「魔羆なんて美味いか?」
急に饒舌になった黎泉に朱明は呆れたが、黎泉の方も朱明の疑問に哀れむような視線を向けた。
「美味いとも。好みの分かれる味であることは否定しないが、きちんと調理すれば雌雄を問わずお前の舌にも合うだろう」
「食べ過ぎると毒に当たるって」
「魔素の耐性は個人差があるからな。自分の限界は食べて覚えるものだ」
食い意地の張った物言いに朱明はますます呆れ、いっそ感心を覚えた。
「そんなに美味いなら、もう一頭の魔羆のところに案内してよ。俺が倒すから、黎泉が料理して食べさせて」
「いいのか?」
喜色を見せる男に、朱明は仕方ないなと腕を組んだ。
「あと、素材の採取もして。核とか毛皮とか、あと腱もだっけ? ギルドで売れそうなやつは選り分けて納品まで付き合ってよ。雌のは全部無くなったんだし」
「ふむ……しかしそうすると可食部まで減る……」
「じゃあ高く売れる部分だけでいい」
元々自分独りでは核以外の素材採取なんてろくにしないのだ。鷹揚に頷くと、黎泉の顔色がさっと明るくなった。
「朱明は気前がいいな。お前には我手ずからの一皿を味わせよう」
歌うような口調で機嫌良く言って、手を差し伸べてくる。握った手のひらは大きくて温かい。
「楽しみにしてる」
朱明は半ば本気でその言葉を口にした。
「死体がない」
昨日討伐した魔羆の遺骸が忽然と消えていたのだ。
目の前の地面は黒く血溜まりの跡が残されているが、周囲には引き摺った痕跡や足跡も見当たらない。辺境の小さな村から半日かけて獣道を歩き、ようやく辿り着く山の中で、いったい誰が盗みを働いたのだろう。
朱明は地方都市のギルドに所属する冒険者だ。得意は獣や魔獣の討伐で、近隣に棲むどんな生き物も倒せる自信と実力がある。腰まで伸ばした赤い髪は、朱明の地元では『白兵戦で長髪というハンデがあっても敵に勝てる』強さの証だ。尤も、ギルドではあまり知られていない風習で、周囲からは単に勝気な少女めいた朱明の容姿に合わせた髪型と受け取られている。
ものぐさな朱明は昨晩に魔羆を倒してから、核も抜かず呑気に野営をして寝こけていた。魔獣には核があり、それを討伐証明としてギルドに買い取って貰う形で報酬が出る。核以外にも死体からは毛皮や牙、珍しいものでは胆石などの素材が取れ、それも収入源だ。このままではタダ働きになる。
「俺のクマ……」
がっくりと嘆息した時だった。
「なんだ、もしかしてアレはまだ捨てていなかったのか」
面白がるような男の声が、真後ろからした。深みのある甘い声音は、全く聞き覚えのないもので、咄嗟に朱明の身体に緊張が走る。
「……あんた、誰?」
気配を感じなかったことをおくびにも出さず、ゆっくり振り向く。数歩離れたところに、見知らぬ男が立っていた。
闇を溶かしたような漆黒の髪は肩まで長さがあり、半分後頭部で結んで垂らしている。きりりとした眉の下には夕陽色の瞳が嵌っていて、少し目をすがめる様にしてこちらを見つめている。腰に佩く長剣の鞘は趣味の良い拵えで、使用感があった。肩幅や胸は分厚いが軽装なところから、騎士というより冒険者だろうとあたりをつける。
「我は伯黎泉(ハク・レイゼン)。お前の名はなんと言う」
男が朗々と名乗る。この辺りの土地では聞かない響きの名前だ。流れ者だろうか、と思いつつ返事をする。
「朱明。それで、俺のクマについて何か知っているのか」
伯黎泉と名乗る男は朱明より頭ひとつ分は背が高い。朱明には自分を小柄だと甘く見てきた相手に悉く拳でツケを払わせてきた自負がある。胸を張って真正面から問い返してやると、男はゆったりと微笑んだ。
「美しい名前だ。朱明、悪いがお前の熊は我が喰った」
「ーーは?」
魔羆は普通の熊よりも大きい。小屋ほども大きさがある上に、魔獣だけあって魔羆の肉を食べ過ぎるとひどい食当たりになる。
目の前の男は朱明よりもはるかに体格に恵まれているが、健啖家の域を明らかに超えた発言だ。
呆気に取られる朱明の前で、伯黎泉は悪びれた様子なく言葉を続ける。
「核すら抜いていなかったからな。てっきり雌の魔羆に用は無いものとばかり思い、他の魔獣が寄ってくる前に片付けた」
「今朝にでも抜くつもりだったよ。というか、アレって雄じゃないの」
死体の行方の追求を忘れ、朱明はついツッコむ。ギルドに貼り出された討伐対象は雄の魔羆だった。魔羆は普通の羆が突然変異で魔獣化したと言われており、通常2頭同時には現れない。しかし伯黎泉の言葉を信じるなら、この森にはまだ雄の魔羆が放浪していることになる。
「尻が丸く、身体が小さい。何より子宮があった。あれは雌だ」
「十分デカかったと思うけど」
「この森の奥にいる雄は、あの枝に爪が届くだろうな」
指し示された木の枝の高さに朱明は鼻白んだ。朱明が縦に2人並んだよりもまだ大きいというのか。
「見てきたように言うんだな」
皮肉を込めた言葉はあっさり首肯されてしまう。
「ああ、半日前に見かけた」
気性が荒く、常に獲物に飢えており鼻の良い魔羆を肉眼で見た距離から逃げられるなんて、相当の手練れか嘘吐きだ。朱明は伯黎泉をはかりかねた。目の前の男は少なくともこんな人里離れた森の中まで来ることのできる能力はあるのだろうが、本当にそんな手練れなら落ちていた死体を拾い食いなんてしない気がする。
「ふーん、ならそっちを倒して食べれば良かったんじゃない」
「食糧調達は我の仕事ではない。面倒で億劫だ」
「じゃあなんでこんな山にいるの」
「……この時期の雌の魔羆は美味いから」
男が少し気まずげな顔をした。
「魔羆が出たと聞いて、雌ならまあ、手間をかけてでも食べたくなったんだ。お前だってそういう時ぐらいあるだろう? 無性に特定の物が欲しくて、わざわざ足を運ぶことが」
「魔羆なんて美味いか?」
急に饒舌になった黎泉に朱明は呆れたが、黎泉の方も朱明の疑問に哀れむような視線を向けた。
「美味いとも。好みの分かれる味であることは否定しないが、きちんと調理すれば雌雄を問わずお前の舌にも合うだろう」
「食べ過ぎると毒に当たるって」
「魔素の耐性は個人差があるからな。自分の限界は食べて覚えるものだ」
食い意地の張った物言いに朱明はますます呆れ、いっそ感心を覚えた。
「そんなに美味いなら、もう一頭の魔羆のところに案内してよ。俺が倒すから、黎泉が料理して食べさせて」
「いいのか?」
喜色を見せる男に、朱明は仕方ないなと腕を組んだ。
「あと、素材の採取もして。核とか毛皮とか、あと腱もだっけ? ギルドで売れそうなやつは選り分けて納品まで付き合ってよ。雌のは全部無くなったんだし」
「ふむ……しかしそうすると可食部まで減る……」
「じゃあ高く売れる部分だけでいい」
元々自分独りでは核以外の素材採取なんてろくにしないのだ。鷹揚に頷くと、黎泉の顔色がさっと明るくなった。
「朱明は気前がいいな。お前には我手ずからの一皿を味わせよう」
歌うような口調で機嫌良く言って、手を差し伸べてくる。握った手のひらは大きくて温かい。
「楽しみにしてる」
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