上 下
2 / 2
第一章

怪しい女

しおりを挟む
 走る。
 春輔は前だけを見て、全速力で走った。
 せっかく帝国図書館で借りた本も荷物も、あの場に全て投げ捨ててきてしまった。きっと本を返すときには、やれ汚損だ弁償だとうるさく言われるだろう。

(まあ、それも生き残って返しに行ければの話だ! 何なんだ、あのバケモノは! いや、振り返るな、気にするなっ! とにかく走って距離を稼ぐしかない!)

 別段運動が苦手でもない春輔が、足を縺れさせるほど必死に走っているのに、ほんの少しだけの距離を置いて後方にぴったりと貼りつくような気配を感じる。
 生臭い匂いをぷんぷんと漂わせたソレは、先ほどから甘ったるい猫なで声でわけのわからないことを絶えずわめき続けているのに、息のひとつも切らしていない。
 ここまで来ると、『もしかしてちょっと個性的な格好なだけの普通の人間なのでは?』という楽観的な見方は諦めるしかなさそうだ。

(それにしても、なんでこんなに臭いんだ! 傷んで腐りかけた魚みたいな酷い匂いがする!……もしもアレが魚類なら川から離れた方がいいのか!?)

 春輔は一歩前に踏み込んだ右脚を軸にして体の向きを変え、川べりの道を突っ切った。
 そのまま御茶ノ水駅の方へと駆け出せば、背後からは焦れたようなバケモノの咆哮が聞こえてくる。
 御茶ノ水駅はこの近辺では一番大きな駅だ、きっと夜も煌々と明かりも灯っている。人通りだって多いだろう。誰かに助けを求めることも容易いはずだ。
 だから、そこまで逃げてしまえば――。

「よしっ! これで、あとは駅まで逃げれば……っ!」
 
 ――逃げれば、どうなるっていうんだ?
 
 浮かんだ考えに、足が止まった。
 自分の後を追ってくるのは人知を超えたバケモノだ。このまま駅前まで逃げたところで、バケモノに対抗する術を持った人間に運良く出会える保証はない。警官や軍人の銃器や刀なら太刀打ちできるのかも分からない。
 仮に助けを求めることはできたとしても、バケモノに追いつかれる前に事情を説明できる自信も無い。

(それどころか、アレが、あたりの人を誰彼構わず襲うバケモノだとしたら、)

 ここで逃げたところで被害が増えるだけだとしたら。
 逃げた自分は助かったとしても、その代わりに他の人が死ぬとしたら。
 
 ――俺なんかが生き残るために、俺はまた誰かを犠牲にするのか?
 
 浮かんでしまったその問いは、頭に取り憑いて離れなくなった。

「……クソッ!」

 舌打ち一つをその場に残して、川辺へと踵を返す。
 気づけばバケモノは距離を随分詰めていた。どうやらアレは水辺から離れても消耗せずに動けるらしい。このバケモノはどこまでも追ってくるのだろう。
 だったら、春輔がやることはひとつしかない。
 素手で戦って勝てる相手とは思えない。どうせ自分は追いつかれてしまうのだから、バケモノを人混みに寄りつかせないことだけが、春輔にできる唯一の――最善の選択だ。
 
「来いよバケモノ! 俺はこっちだ!
 
 手を叩いて挑発すれば、バケモノはべちゃり、と汚らしい水音を立てながら、嬉しそうに春輔に向かって滑り寄ってくる。
 苦し紛れの時間稼ぎにと投げつけてやった高下駄は、軟泥のようにとろけたソレの内部にあっけなく取り込まれる。一応は人間らしく見えていた外見も今や崩れて、ヘドロの腕は春輔の胴を絡めとるように――おぞましく表現するならば、春輔の身体を包み込んで抱擁するように、まとわりついた。

「離せよっ!」
「待ッテェ! ナンデッ……ネェェ、約束! ヤクソクシタァ……ッ!」
「お前なんか知らない!」
「嘘、ウソ……ウソウソウゥ……ナンデェ、アァナタ……」
「息がっ、……ぐっ、ぅくっ!」
「ウゥウッ! コロッ、コロス、殺すぅ……!」

 バケモノは抵抗する春輔に戸惑うように身を震わせると、拒絶されたことに憤怒したかのように、いっそうきつく締めあげてきた。
 胴を強く圧迫され続け、呼吸さえままならなくなった自分の喉が掠れた笛の音に似たひゅうひゅうと哀れっぽい音を出すのを、どこか他人事のような心地で聞いた。

(こいつ、俺を、『誰』と間違えてるんだ……?)

 このバケモノは、何か――『誰か』を探しているらしい。
 その相手とした『約束』を春輔が覚えていなかったばっかりに、春輔はここで死ぬ、ということらしい。
 痴話喧嘩なら他人を巻き込まずにやればいいものを、傍迷惑もいいところだ。人違いで殺されるなんて勘弁してくれと力のかぎり弁解したいけれど、もう声が出なかった。
 酸素が送られなくなった頭はぼんやりとして常のようには働かず、春輔の視界はもやがかかったように白み始めていた。

(痛い、冷たい、水? ああ、川の中に引きずり込まれたのか……)

 バケモノに引きずられるままに水面に叩きつけられた衝撃と、浴びるにはまだ冷たすぎる初夏の水の温度。足に絡みつく藻のぬめりと、川の水を吸い込んでだんだんと重たくなっていく着物の感触に、いやでも間近に迫った死を悟る。――ああ、俺はこのまま死ぬ、ここでバケモノに殺されるんだ、と。
 
(……いや、だ。嫌だっ、やっぱり死にたくないっ!)
 
 周りの同級生のように輝かしい将来の夢や希望を持っていたわけではないけれど。誰にも知られず冷たい川底で、息が詰まって苦しい思いをして、身の毛もよだつバケモノと無理心中させられるなんて、そんな最期だけはまっぴらごめんだ。
 ああ、今助けてくれるというなら、神でも仏でも、いっそ悪魔でも誰でもいい。
 俺の魂の一つや二つくらいは喜んで安く売り飛ばすから、誰か――!

「……たす、けっ……!」
「一緒ニィ……ッ、ヒヒッ! 死ノゥ?」

 助けなど来るはずがないと分かっているのに、往生際悪く諦めきれない――そんな心境だったから、今際の際の都合の良い夢を見たのだと思った。
 
「――なぁ。そこのお二人さん、合意か?」
 
 そのとき春輔が目にした光景はあまりにも美しくて、とんと現実感というものが無かったから。

「……だれ、……っ?」

 汗と涙と川の水でぼんやりと滲んだ視界に映ったのは、齢十六、七ほどに見える少女だ。
 海老茶袴に草木柄の着物、革のブーツを合わせた姿だけは昨今はやりの女学生らしい身なりだが、足首まで届きそうなほど長く艶やかな黒髪は束髪に結いもせず、そのまま流して風になびかせている。
 大きくまるい猫の瞳は、じいっと観察するような視線を春輔に向けていた。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

声劇台本置き場

ツムギ
キャラ文芸
望本(もちもと)ツムギが作成したフリーの声劇台本を投稿する場所になります。使用報告は要りませんが、使用の際には、作者の名前を出して頂けたら嬉しいです。 台本は人数ごとで分けました。比率は男:女の順で記載しています。キャラクターの性別を変更しなければ、演じる方の声は男女問いません。詳細は本編内の上部に記載しており、登場人物、上演時間、あらすじなどを記載してあります。 詳しい注意事項に付きましては、【ご利用の際について】を一読して頂ければと思います。(書いてる内容は正直変わりません)

【第一部完】全包防御衣的巫女退魔日誌

ジャン・幸田
キャラ文芸
 淫獣霊を退治する巫女が闇の世界にいた。その巫女は全包防御衣として桃色の全身タイツのようなもので身を固めていた。いま、その巫女に選ばれた少女・美鈴が闇巫女ミスズとなっての冒険が始まる! *一応、続編の構想はありますが、とりあえず完結といたします。気が向けば再開いたします。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ヒカリとカゲ♡箱入り令嬢の夢見がちな日常♡

キツナ月。
キャラ文芸
世間知らずな令嬢の恋を、トイレが激近い泥棒が見守る(面白がる)ドタバタおトイレLOVEコメディ❤️ ※表紙はフリー素材です※ 《主な登場人物》 ♡胡桃沢(くるみざわ)ヒカリ 深窓の令嬢。17歳。恋しがち。 ♡カゲ 泥棒。 ヒカリの気まぐれで雇われる? トイレが激近い(危険な時は特に)。 令嬢が章ごとに恋するスタイル👀✨ ⚡️泥棒の章⚡️ 恋愛対象→危険な香りの泥棒❤️ 今後の物語に絡んでくる人物。 🎹ピアノ男子の章🎹 恋愛対象① 奏斗(かなと)さま…謎多き美貌のピアニスト❤️ 恋愛対象② 森下奏人さま…ヒカリが通う学園の教育実習生、担当教科は音楽❤️ 💡ゴージャスな学園やライバルお嬢も登場。 🏥お医者さまの章🏥 恋愛対象→医師・北白河 誠さま❤️ 💡じいちゃんが健康診断を受けることになり──? 🌹お花屋さんの章🌹 恋愛対象→???    

ここなみっくす🐳

ここな🐳
キャラ文芸
ここなの日記だよ🐳

女児霊といっしょに。シリーズ

黒糖はるる
キャラ文芸
ノスタルジー:オカルト(しばらく毎日16時、22時更新) 怪異の存在が公になっている世界。 浄霊を生業とする“対霊処あまみや”の跡継ぎ「天宮駆郎」は初仕事で母校の小学校で語られる七不思議の解決を任される。 しかし仕事前に、偶然記憶喪失の女児霊「なな」に出会ったことで、彼女と一緒に仕事をするハメに……。 しかも、この女児霊……ウザい。 感性は小学三年生。成長途中で時が止まった、かわいさとウザさが同居したそんなお年頃の霊。 女心に疎い駆け出しの駆郎と天真爛漫無邪気一直線のななのバディ、ここに爆誕! ※この作品では本筋の物語以外にも様々な謎が散りばめられています。  その謎を集めるとこの世界に関するとある法則が見えてくるかも……? ※エブリスタ、カクヨムでも公開中。

獣耳男子と恋人契約

花宵
キャラ文芸
 私立聖蘭学園に通う一条桜は、いじめに耐え、ただ淡々と流される日々を送っていた。そんなある日、たまたまいじめの現場を目撃したイケメン転校生の結城コハクに助けられる。  怪我の手当のため連れて行かれた保健室で、桜はコハクの意外な秘密を知ってしまう。その秘密が外部にバレるのを防ぐため協力して欲しいと言われ、恋人契約を結ぶことに。  お互いの利益のために始めた恋人契約のはずなのに、何故かコハクは桜を溺愛。でもそれには理由があって……運命に翻弄されながら、無くした青春を少しずつ取り戻す物語です。  現代の学園を舞台に、ファンタジー、恋愛、コメディー、シリアスと色んなものを詰めこんだ作品です。人外キャラクターが多数登場しますので、苦手な方はご注意下さい。 イラストはハルソラさんに描いて頂きました。 ★マークは過激描写があります。 小説家になろうとマグネットでも掲載中です。

処理中です...