この世界に魔法は存在しない

美海

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青年・2

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 男が帰った後、イェルチェはいつもより豪勢な晩餐を用意した。
 珍しいことに食卓には焼いた肉の塊も並んでいる。イェルチェはブランカを放っておいた後、例えば『魔女の集会』から帰った日には必ず詫びのように特別な食事を用意した。
 彼女に大事にされている証だと喜んでいたそれらは、『面倒な子どもへの媚び』『後ろめたさの表れ』でしかなかったのかもしれない。
 疑い始めればきりがない。ブランカが味の感じられない料理をどうにか口に運んで皿を空けると、イェルチェは『今日は疲れたから』と寝室に引っ込んでしまおうとした。

「待ってくれ。――全部、思い出したんだ」

 このまま『おやすみ』と挨拶を交わして、明日の朝から何事もなかったかのような顔で元通りの関係を続けていく選択肢もあったのかもしれない。 
 それでも、ブランカは確かめずにはいられなかった。
 自分が享受している居心地の良い関係が嘘に塗り固められたものだとは思いたくなかったし、もしもそうだとしても、どうせ壊して作り直すなら早い方がいい。
 ブランカにはイェルチェを諦める気はさらさら無いのだから。

「……全部? なんの、」
「僕が忘れていて、イェルチェが隠していたことを」
「いつ?」
「昼間イェルチェに会いに来た男の声を聞いたときに」
「……あーあ。ばれちゃったか。『席を外して』って言ったのに」

 椅子に座り直したイェルチェは独り言のように言っただけで、それ以上ブランカを責めることも、疑問を口にすることも無かった。

「僕の名は、レオポルト・ウィルヘルム・スヘンデルだ。スヘンデル王国の王太子だったが、反乱軍に王城を攻め落とされたから、今の身分は『亡国の王子』か?」
「王国は亡くなったけど『スヘンデル』という国なら今もあるわ。革命で王政が倒れたことをどう評価するかによるわね」
「なんでもいい、イェルチェが言うならそれに合わせる。あなたが言うことに」

 イェルチェの『旧友』だというあの男は、フレデリック・ハウトシュミット。
 スヘンデル王国の各地で反乱が相次いだ――彼女たちの言葉で言えば『革命のために民が立ち上がった』時に、首謀者として名前が上がっていたことを覚えている。
 スヘンデル王家に矢を向けながら、不遜にも『護国卿』を名乗るけしからん反逆者だと。

「それで? 気を失ってる間に故国を滅ぼされていた王子さまは、革命軍の魔女を殺そうと?」
「いや。思い出したと言っただろう」

 殺される覚悟ならしていると肩をすくめてみせた彼女に、ブランカは念押しのように言葉を重ねた。

「革命軍は王城を攻め落とし、王家の宝物庫までずかずかと無遠慮に踏み込んで――そこに倒れていたの命を救ったんだ」

 覚えているのは、女の絶叫。胸に走った鋭い痛み。鼻をつく鉄錆の匂い。扉の開く音。
 悪夢を見るたびに不思議だった。――どうして、扉が開く前に、すなわちに、女は絶叫して、自分は胸に怪我を負っているのかと。

『ああ、どうして! どうしてあと十年待ってくれなかったの!』

 あの日、王妃はそう言った。
 自分の代でこれほどの大反乱が起きるとは思っていなかった。自分が王妃を退いた後、息子が王位に就いてから起こってくれればよかったのに、と彼女はひたすら自らの不運を嘆いていた。

『母上、助けが来るかもしれません。まだ諦めなくても……』
『いいえっ、陛下は恨まれているもの! 巻き添えでわたくしたちまで八つ裂きにされて終わりよ! ひどいわっ、わたくし、何もしていないのに!』

 悪政を敷く暴君の妻子が助かるはずがない、と甲高い声で泣きわめく彼女を見て、『母上も父上が民に恨まれていることは知っていたんだな』と思った覚えがある。
 トラブルは自分の当番が終わった後に起こってほしいと願うことは、一人の人間としては無理もないことかもしれない。
 でも――本当は、自分たちは『何もしない』だけでは駄目だったのだろう。本当は、王妃や王太子にはできることもすべきこともたくさんあったはずだ。民が苦しんでいることを知っているなら、なおさらのこと。

 その怠慢は『罪』ではないのか?

 革命という形で初めてそのことを思い知らされたところで、もう遅いのだけれど。
 間近に迫った死の恐怖に泣き叫んでいる母を『本当はこうするべきだった』とさらに追いつめたところで意味が無いと思ったから、何も言わなかった。彼女は自分の『罪』を知らずに逝くのだろうが、死をもってその罪を贖うのだから、無知くらいは許してやってほしいと神に祈った。

『反乱軍に投降しろですって!? 自ら頭を下げろということっ、なんて屈辱なのっ!』

 だが、彼女にとっては、反乱軍に裁かれることも、自分ひとりで死出の旅路に出ることも、耐えがたかったらしい。あくまでも『息子と一緒に逝く』と言って譲らなかった。

『あなたも自害なさい。王族としての誇りを守るにはそれしかないのっ!』
『いくら逆賊でも、話が通じる相手かもしれないしっ、』
『そんなわけないでしょっ!? 母はあなたのためを思って言っているの!』
『嫌、嫌ですっ! 僕は死にたくない! やめてくださいっ!』
『うるさいっ、手間をかけさせないで! 本当に手のかかる子ね!』

 昔からそうだったと、懐剣を片手に持った王妃は抵抗する息子をなじった。

『血の瞳に老人みたいな白髪の気味の悪い赤子をここまで育ててあげたんじゃない! 少し日に当たればすぐに死にかけて、うるさく喚いて、ぜんっぜん可愛くなかった! あなたっ、なんでそんなにわたくしの言うことを聞かないのっ!? ああ、なんてかわいそうなわたくしっ!』

 王太子レオポルトは、生まれながらに赤い瞳と白い髪を持って生まれた。異様な容姿は人の心を離れさせるからと、王妃の指示によって白い髪は常に染料で黒く染め上げられていたけれど。
 それは母の愛情で我が子への気遣いなのだと思っていたから、嬉しく思いこそすれ、その指示に抵抗は全く感じていなかった。

(違ったんだな。母上は、僕のことが嫌いで、自分のことしか大事じゃなかったんだ)

 民に憎まれるだけなら『王子という立場と生まれたタイミングが悪かった』とも言えた。けれど、実の親にも死を望まれているのなら――自分の命には価値なんてあるのだろうか。
 抵抗を止めた少年の胸に、王妃の振り下ろした懐剣の刃が突き刺さる。
 扉の開く音がして革命軍が部屋に踏み入ってきたのは、その後のことだった。

『……っ、なるほどね。僕らが投降を呼びかけたせいでかえって刺激しちゃったか』
『このありさまでは、生存者の発見は絶望的かと』
『早く王太子を探せ! 腐った王家に正義の鉄槌を下す!……ああ、クソ、もったいないな。ちゃんと裁くから、勝手に死なないでくれよ』

『護国卿、ちょっとすみません。こっちに来て』
『ツァルト軍医? すぐ行く!』

 その時にはもう、少年には目を開ける気力も残っていなかった。
 宝物庫のほこりの積もった床に横たわった体からは、徐々に血液と体温が失われていって、手足の指先がひどく寒かった。その冷えの感覚すらだんだんと失せていく。
 今まともに機能しているのは耳だけだ。近寄ってきた『軍医』と『護国卿』の小声で言い争う声だけが、少年の死出の旅路の伴となるのだろう。

『ほら死んでます』
『うん、王太子殿下だね。……ねえ、イェルチェ』
『もう死んでます。死んでるからを一刻も早く搬送して!』
『いや、僕、『ちゃんと裁く』って言ったよね!?』
『胸をナイフで一突きされてる。普通なら死ぬようなことをされた子どもにまだ何か刑が必要だと言うの?』
『不要というのも君の独断だ。分からないから皆の正義で決める、ルールというのはそういうものでしょ』
『フレッド、あなたが皆の正義感をそれほど信頼してるとは思わなかった』
『……まあ、皆の正義感に任せれば、ヒステリックに死刑一択だろうけどさ。分からないな、どうしてそこまで肩入れするの? 彼は、君の――』
『わたしの患者よ。まだ子どもで、重体の急患』

 一歩も譲らない『軍医』の言葉に、『護国卿』は深々とため息を吐いて言った。

『……治療しても助からないかもよ』
『あなたが長々と無駄な話をするせいでね。ほら、早く!』
『わかったよ。彼には

 小声で呟いた『護国卿』は、周囲に向かって声を張り上げた。

『王太子の亡骸を発見した! 顔を見たくもない、早く運び出せ! それが済んでから宝物庫の財産の接収だ! 運び出したものは一覧にしてから分配する、略奪も横領も許さない!……ほんとうに、絶対もう許さないからね!』

 そこまで聞いて少年は意識を失い、次に目が覚めた時には記憶をすっかり無くしていた。
 少年の心は、革命軍に王城を攻め落とされた恐怖よりも、母親に殺されかけた絶望の方を忘れてしまいたかったのだろう。死にかけたことを覚えておきたくなかったから、あわせて『敵』である女に命を救われたことも忘れてしまった。

「イェルチェは魔女じゃない。あなたは、高い志を持った医者だ」

 この世界に魔法は存在しない。目の前の女は魔女ではない。
 子どもでも分かる真実に辿り着くまで、これほど長い年月を要するとは思わなかった。
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