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青年・1
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今でも時折、悪夢を見る。
女の絶叫。胸に走った鋭い痛み。鼻をつく鉄錆の匂い。それから扉の開く音。
『早く――を探せ! 腐った王家に正義の鉄槌を下す!』
部屋に駆け込んできた大勢の足音と、飛び交う怒号。
それ以外に何も思い出せない。
でも、それが何だって言うんだ?
記憶が無くとも飯は食えるし、生きていくには困らない。
忘れてしまいたいほど恐ろしい出来事なんて、どうせろくなものじゃない。それに、その過去に『彼女』はいないのだ。
そんな記憶をわざわざ思い出す必要なんてない。ただ『今』を謳歌して何が悪い?
☆
イェルチェに拾われてから五年が経った。彼女は今もブランカを食べずに傍に置いている。
イェルチェは事あるごとに『惜しんでいるうちに食べ頃を逃して筋張ったアスパラガスに育ってしまった』とブランカを見上げて恨めしげに言う。……でも、きっと、それは嘘だ。
彼女には最初からブランカを食べるつもりは無かったのだと思う。たぶん胸の傷も彼女が『つまみ食い』で負わせたものではなくて、大怪我をして死にかけている子どもを情に負けてうっかり拾ってしまったとか、そういう話なのだろう。
この五年間、少なくともブランカから見えるところでは、イェルチェは人間を一人も食べなかったし、生き血も啜らなかったから。
これだけ長く一緒にいれば、ブランカにも少しはイェルチェのことが分かるようになってきた。
彼女はあまり魔法を使えない魔女で、得意分野は魔法薬の調合と教会では行われない外科手術らしい。
人を喰わない、大して魔法を使えない魔女。これまでに使った魔法だって、他人を傷つけることも自分の身を守ることもできない、ささやかなものだ。
自分よりも背が低くて、自分よりも細くて軽くて、自分よりも力が弱くて――男の情欲を煽るような、蠱惑的で美しい女。
もう分かっている。
その気さえあれば、今のブランカにとって魔女の棲家から逃げ出すことは容易い。力尽くでイェルチェを我が物にすることも同様に。
そうしてしまえば彼女は二度と自分に笑顔を向けてくれなくなると分かっているから、しないだけだ。
「三日後、旧い友人が来るのよ」
ある晩の食卓でイェルチェがそう言ったときも、本当は嫌で嫌で仕方がなかった。彼女に嫌われたくないから言わなかっただけで。
「……この家に?」
ブランカの知るかぎり、イェルチェがこの屋敷に人を呼んだことは無かった。
近くの村へ往診に出かけたり、麓の町へ育てた薬草を売りに行ったり、年に数日間『どうしても外せない魔女の集会があるから』といって留守にすることはあったけれど、それだけだ。
その彼女が屋敷に呼ぶほど特別に親しい旧友の存在をブランカは知らなかったし、その旧友に嫉妬しないわけがなかった。
「どういう知り合いだ?」
「昔馴染みの魔女仲間だけど。何か?」
「いや、別に」
「悪いんだけど、水入らずで話したいことがあるから、彼が来たらあなたは席を外してちょうだいね」
「分かった。……『彼』だって?」
「ありがとう。彼も女の子を育てているんだけど、あなたの前では話しにくいこともあるだろうから――」
「待ってくれ、『彼』ってどういうことだ!? 魔女仲間なんじゃないのか!?」
「男の魔女なの」
そんなの、聞いてない! 情報の後出しだ!
ブランカの内心の叫びに、ただでさえ鈍感なイェルチェが気づくはずもなかった。
その『男の魔女』が来る日、ブランカは朝から不機嫌だった。
何が悲しくて、想い人が旧友だという男と二人きりで話し込むことを物分かり良く受け入れねばならないのか。
考えれば考えるほど、イェルチェの『旧友』に対しては腹が立つし、自分が会話の場から弾き出されたことにも納得がいかない。
「挨拶くらいさせてくれれば牽制はできるのに。……僕がいるとできない話があるってだけなら、向こうに気づかれないように覗くぶんにはいいはずだ」
ブランカは自分に都合の良い理屈を押し通すことにした。
その決断が、心地の良いぬるま湯のような関係を終わらせてしまうとも知らずに。
旧友を待つイェルチェを木の上から見守っていると、古びた馬車が乗りつけた。どうやら男の魔女も移動には馬車を使うらしい。
「元気そうだね、イェルチェ! 君のところの子も元気?」
「私も、あの子も、どっちも元気よ」
ブランカの位置からは男の暗金色の後頭部しか見えないが、軽薄な声を聞くだけで彼がいけすかない男だということは分かる。
長く聞いていると苛つきで頭が痛くなりそうな声と口調だ。否、もう既にブランカの頭はずきずきと痛んでいる。
「どうして……っ? 初めて来るイェルチェの友達だって……」
会ったことの無い男の声。それなのに、ブランカはこの声に聞き覚えがあった。
「よかった。引き続き『彼』の監視をよろしくね。イェルチェ・ツァルト一等医官?」
「かしこまりました、護国卿」
初めて会うはずなのに、聞き覚えがある男の声。
よく知っているはずなのに、初めて聞く女の名前と肩書き。
『早くレオポルト王太子を探せ! 腐った王家に正義の鉄槌を下す!』
あの声だ。荒々しい足音とともに『誰か』を探す、ブランカの記憶の中でも一際耳に残る男の声。
その声の持ち主とイェルチェは『旧い友人』だという話で――彼らはいつから繋がっていたのか。
「……ああ、そういうことか。『最初から』だったんだな」
頭痛が治まった時、ブランカは全てを思い出していた。
女の絶叫。胸に走った鋭い痛み。鼻をつく鉄錆の匂い。それから扉の開く音。
『早く――を探せ! 腐った王家に正義の鉄槌を下す!』
部屋に駆け込んできた大勢の足音と、飛び交う怒号。
それ以外に何も思い出せない。
でも、それが何だって言うんだ?
記憶が無くとも飯は食えるし、生きていくには困らない。
忘れてしまいたいほど恐ろしい出来事なんて、どうせろくなものじゃない。それに、その過去に『彼女』はいないのだ。
そんな記憶をわざわざ思い出す必要なんてない。ただ『今』を謳歌して何が悪い?
☆
イェルチェに拾われてから五年が経った。彼女は今もブランカを食べずに傍に置いている。
イェルチェは事あるごとに『惜しんでいるうちに食べ頃を逃して筋張ったアスパラガスに育ってしまった』とブランカを見上げて恨めしげに言う。……でも、きっと、それは嘘だ。
彼女には最初からブランカを食べるつもりは無かったのだと思う。たぶん胸の傷も彼女が『つまみ食い』で負わせたものではなくて、大怪我をして死にかけている子どもを情に負けてうっかり拾ってしまったとか、そういう話なのだろう。
この五年間、少なくともブランカから見えるところでは、イェルチェは人間を一人も食べなかったし、生き血も啜らなかったから。
これだけ長く一緒にいれば、ブランカにも少しはイェルチェのことが分かるようになってきた。
彼女はあまり魔法を使えない魔女で、得意分野は魔法薬の調合と教会では行われない外科手術らしい。
人を喰わない、大して魔法を使えない魔女。これまでに使った魔法だって、他人を傷つけることも自分の身を守ることもできない、ささやかなものだ。
自分よりも背が低くて、自分よりも細くて軽くて、自分よりも力が弱くて――男の情欲を煽るような、蠱惑的で美しい女。
もう分かっている。
その気さえあれば、今のブランカにとって魔女の棲家から逃げ出すことは容易い。力尽くでイェルチェを我が物にすることも同様に。
そうしてしまえば彼女は二度と自分に笑顔を向けてくれなくなると分かっているから、しないだけだ。
「三日後、旧い友人が来るのよ」
ある晩の食卓でイェルチェがそう言ったときも、本当は嫌で嫌で仕方がなかった。彼女に嫌われたくないから言わなかっただけで。
「……この家に?」
ブランカの知るかぎり、イェルチェがこの屋敷に人を呼んだことは無かった。
近くの村へ往診に出かけたり、麓の町へ育てた薬草を売りに行ったり、年に数日間『どうしても外せない魔女の集会があるから』といって留守にすることはあったけれど、それだけだ。
その彼女が屋敷に呼ぶほど特別に親しい旧友の存在をブランカは知らなかったし、その旧友に嫉妬しないわけがなかった。
「どういう知り合いだ?」
「昔馴染みの魔女仲間だけど。何か?」
「いや、別に」
「悪いんだけど、水入らずで話したいことがあるから、彼が来たらあなたは席を外してちょうだいね」
「分かった。……『彼』だって?」
「ありがとう。彼も女の子を育てているんだけど、あなたの前では話しにくいこともあるだろうから――」
「待ってくれ、『彼』ってどういうことだ!? 魔女仲間なんじゃないのか!?」
「男の魔女なの」
そんなの、聞いてない! 情報の後出しだ!
ブランカの内心の叫びに、ただでさえ鈍感なイェルチェが気づくはずもなかった。
その『男の魔女』が来る日、ブランカは朝から不機嫌だった。
何が悲しくて、想い人が旧友だという男と二人きりで話し込むことを物分かり良く受け入れねばならないのか。
考えれば考えるほど、イェルチェの『旧友』に対しては腹が立つし、自分が会話の場から弾き出されたことにも納得がいかない。
「挨拶くらいさせてくれれば牽制はできるのに。……僕がいるとできない話があるってだけなら、向こうに気づかれないように覗くぶんにはいいはずだ」
ブランカは自分に都合の良い理屈を押し通すことにした。
その決断が、心地の良いぬるま湯のような関係を終わらせてしまうとも知らずに。
旧友を待つイェルチェを木の上から見守っていると、古びた馬車が乗りつけた。どうやら男の魔女も移動には馬車を使うらしい。
「元気そうだね、イェルチェ! 君のところの子も元気?」
「私も、あの子も、どっちも元気よ」
ブランカの位置からは男の暗金色の後頭部しか見えないが、軽薄な声を聞くだけで彼がいけすかない男だということは分かる。
長く聞いていると苛つきで頭が痛くなりそうな声と口調だ。否、もう既にブランカの頭はずきずきと痛んでいる。
「どうして……っ? 初めて来るイェルチェの友達だって……」
会ったことの無い男の声。それなのに、ブランカはこの声に聞き覚えがあった。
「よかった。引き続き『彼』の監視をよろしくね。イェルチェ・ツァルト一等医官?」
「かしこまりました、護国卿」
初めて会うはずなのに、聞き覚えがある男の声。
よく知っているはずなのに、初めて聞く女の名前と肩書き。
『早くレオポルト王太子を探せ! 腐った王家に正義の鉄槌を下す!』
あの声だ。荒々しい足音とともに『誰か』を探す、ブランカの記憶の中でも一際耳に残る男の声。
その声の持ち主とイェルチェは『旧い友人』だという話で――彼らはいつから繋がっていたのか。
「……ああ、そういうことか。『最初から』だったんだな」
頭痛が治まった時、ブランカは全てを思い出していた。
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