この世界に魔法は存在しない

美海

文字の大きさ
上 下
4 / 9

青年・1

しおりを挟む
 今でも時折、悪夢を見る。
 女の絶叫。胸に走った鋭い痛み。鼻をつく鉄錆の匂い。それから扉の開く音。

『早く――を探せ! 腐った王家に正義の鉄槌を下す!』

 部屋に駆け込んできた大勢の足音と、飛び交う怒号。
 それ以外に何も思い出せない。

 でも、それが何だって言うんだ?

 記憶が無くとも飯は食えるし、生きていくには困らない。
 忘れてしまいたいほど恐ろしい出来事なんて、どうせろくなものじゃない。それに、その過去に『彼女』はいないのだ。
 そんな記憶をわざわざ思い出す必要なんてない。ただ『今』を謳歌して何が悪い?

 ☆

 イェルチェに拾われてから五年が経った。彼女は今もブランカを食べずに傍に置いている。
 イェルチェは事あるごとに『惜しんでいるうちに食べ頃を逃して筋張ったアスパラガスに育ってしまった』とブランカを見上げて恨めしげに言う。……でも、きっと、それは嘘だ。
 彼女には最初からブランカを食べるつもりは無かったのだと思う。たぶん胸の傷も彼女が『つまみ食い』で負わせたものではなくて、大怪我をして死にかけている子どもを情に負けてうっかり拾ってしまったとか、そういう話なのだろう。
 この五年間、少なくともブランカから見えるところでは、イェルチェは人間を一人も食べなかったし、生き血も啜らなかったから。

 これだけ長く一緒にいれば、ブランカにも少しはイェルチェのことが分かるようになってきた。
 彼女はあまり魔法を使えない魔女で、得意分野は魔法薬の調合と教会では行われない外科手術らしい。
 人を喰わない、大して魔法を使えない魔女。これまでに使った魔法だって、他人を傷つけることも自分の身を守ることもできない、ささやかなものだ。
 自分よりも背が低くて、自分よりも細くて軽くて、自分よりも力が弱くて――男の情欲を煽るような、蠱惑的で美しい女。
 もう分かっている。
 その気さえあれば、今のブランカにとって魔女の棲家から逃げ出すことは容易い。力尽くでイェルチェを我が物にすることも同様に。
 そうしてしまえば彼女は二度と自分に笑顔を向けてくれなくなると分かっているから、しないだけだ。

「三日後、旧い友人が来るのよ」

 ある晩の食卓でイェルチェがそう言ったときも、本当は嫌で嫌で仕方がなかった。彼女に嫌われたくないから言わなかっただけで。

「……この家に?」

 ブランカの知るかぎり、イェルチェがこの屋敷に人を呼んだことは無かった。
 近くの村へ往診に出かけたり、麓の町へ育てた薬草を売りに行ったり、年に数日間『どうしても外せない魔女の集会があるから』といって留守にすることはあったけれど、それだけだ。
 その彼女が屋敷に呼ぶほど特別に親しい旧友の存在をブランカは知らなかったし、その旧友に嫉妬しないわけがなかった。

「どういう知り合いだ?」
「昔馴染みの魔女仲間だけど。何か?」
「いや、別に」
「悪いんだけど、水入らずで話したいことがあるから、彼が来たらあなたは席を外してちょうだいね」
「分かった。……『彼』だって?」
「ありがとう。彼も女の子を育てているんだけど、あなたの前では話しにくいこともあるだろうから――」
「待ってくれ、『彼』ってどういうことだ!? 魔女仲間なんじゃないのか!?」
「男の魔女なの」

 そんなの、聞いてない! 情報の後出しだ!
 ブランカの内心の叫びに、ただでさえ鈍感なイェルチェが気づくはずもなかった。

 その『男の魔女』が来る日、ブランカは朝から不機嫌だった。
 何が悲しくて、想い人が旧友だという男と二人きりで話し込むことを物分かり良く受け入れねばならないのか。
 考えれば考えるほど、イェルチェの『旧友』に対しては腹が立つし、自分が会話の場から弾き出されたことにも納得がいかない。

「挨拶くらいさせてくれれば牽制はできるのに。……僕がいるとできない話があるってだけなら、向こうに気づかれないように覗くぶんにはいいはずだ」

 ブランカは自分に都合の良い理屈を押し通すことにした。
 その決断が、心地の良いぬるま湯のような関係を終わらせてしまうとも知らずに。

 旧友を待つイェルチェを木の上から見守っていると、古びた馬車が乗りつけた。どうやら男の魔女も移動には馬車を使うらしい。

「元気そうだね、イェルチェ! 君のところの子も元気?」
「私も、あの子も、どっちも元気よ」

 ブランカの位置からは男の暗金色の後頭部しか見えないが、軽薄な声を聞くだけで彼がいけすかない男だということは分かる。
 長く聞いていると苛つきで頭が痛くなりそうな声と口調だ。否、もう既にブランカの頭はずきずきと痛んでいる。

「どうして……っ? 初めて来るイェルチェの友達だって……」

 会ったことの無い男の声。それなのに、ブランカはこの声にがあった。

「よかった。引き続き『彼』の監視をよろしくね。イェルチェ・ツァルト一等医官?」
「かしこまりました、護国卿」

 初めて会うはずなのに、聞き覚えがある男の声。
 よく知っているはずなのに、初めて聞く女の名前と肩書き。

『早くレオポルト王太子を探せ! 腐った王家に正義の鉄槌を下す!』

 あの声だ。荒々しい足音とともに『誰か』を探す、ブランカの記憶の中でも一際耳に残る男の声。
 その声の持ち主とイェルチェは『旧い友人』だという話で――彼らはいつから繋がっていたのか。

「……ああ、そういうことか。『最初から』だったんだな」

 頭痛が治まった時、ブランカは全てを思い出していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

ホストな彼と別れようとしたお話

下菊みこと
恋愛
ヤンデレ男子に捕まるお話です。 あるいは最終的にお互いに溺れていくお話です。 御都合主義のハッピーエンドのSSです。 小説家になろう様でも投稿しています。

偏屈な辺境伯爵のメイドに転生しましたが、前世が秋葉原ナンバーワンメイドなので問題ありません

八星 こはく
恋愛
【愛されスキルで溺愛されてみせる!伯爵×ぽんこつメイドの身分差ラブ!】 「私の可愛さで、絶対ご主人様に溺愛させてみせるんだから!」 メイドカフェ激戦区・秋葉原で人気ナンバー1を誇っていた天才メイド・長谷川 咲 しかし、ある日目が覚めると、異世界で別人になっていた! しかも、貧乏な平民の少女・アリスに生まれ変わった咲は、『使用人も怯えて逃げ出す』と噂の伯爵・ランスロットへの奉公が決まっていたのだ。 使用人としてのスキルなんて咲にはない。 でも、メイドカフェで鍛え上げた『愛され力』ならある。 そう決意し、ランスロットへ仕え始めるのだった。

暴君幼なじみは逃がしてくれない~囚われ愛は深く濃く

なかな悠桃
恋愛
暴君な溺愛幼なじみに振り回される女の子のお話。 ※誤字脱字はご了承くださいm(__)m

【完】瓶底メガネの聖女様

らんか
恋愛
伯爵家の娘なのに、実母亡き後、後妻とその娘がやってきてから虐げられて育ったオリビア。 傷つけられ、生死の淵に立ったその時に、前世の記憶が蘇り、それと同時に魔力が発現した。 実家から事実上追い出された形で、家を出たオリビアは、偶然出会った人達の助けを借りて、今まで奪われ続けた、自分の大切なもの取り戻そうと奮闘する。 そんな自分にいつも寄り添ってくれるのは……。

コワモテ軍人な旦那様は彼女にゾッコンなのです~新婚若奥様はいきなり大ピンチ~

二階堂まや
恋愛
政治家の令嬢イリーナは社交界の《白薔薇》と称される程の美貌を持ち、不自由無く華やかな生活を送っていた。 彼女は王立陸軍大尉ディートハルトに一目惚れするものの、国内で政治家と軍人は長年対立していた。加えて軍人は質実剛健を良しとしており、彼女の趣味嗜好とはまるで正反対であった。 そのためイリーナは華やかな生活を手放すことを決め、ディートハルトと無事に夫婦として結ばれる。 幸せな結婚生活を謳歌していたものの、ある日彼女は兄と弟から夜会に参加して欲しいと頼まれる。 そして夜会終了後、ディートハルトに華美な装いをしているところを見られてしまって……?

処理中です...