この世界に魔法は存在しない

美海

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少年・2

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 魔女は人ならぬ身の化け物だけあって、気味が悪いほど物を知っていた。その魔女が言うことには、『恐ろしい目に遭って心が傷ついた人間の体には不調が出ることがある』らしい。
 少年が過去を丸ごと忘れたのは思い出したくない出来事から心を守るために記憶に蓋をしたからかもしれない、少年の黒い髪が老人のような白髪に変わってしまったのはストレスのせいかもしれない――魔女は断言を避けながらも少年の身に『恐ろしい出来事』が起こった可能性を示唆した。
 それなのに、少年がひどい目に遭ったのだということは魔女だって分かっているはずなのに、魔女はちっとも少年のことを気遣おうとはしない。
 魔女が少年を拾ったのはあくまでも『食糧として』で、すぐに殺さないのは『肉づきが良くなるのを待ってから食べるため』らしい。
 つまり、少年は人喰い魔女の非常食で、丸々と太った頃に屠殺するために養われている家畜なのだ。――このまま魔女のもとに留まれば確実に殺される。
 自らを待ち受ける運命を知った少年が、じっとしていられるわけがなかった。だが、動かすのも儘ままならない体では満足に暴れることもできない。

「あなたの反骨精神は買うけど、あまり頭のいい方法じゃないわ」

 魔女が呆れたようにため息を吐いた時、少年は寝台周りの手近なものを投げ尽くしていた。
 部屋の床中に何かの破片が散乱し、分厚い生地のカーテンは裂け、ガラスの窓にはヒビが入って破れていた。
 魔女の左頬にも、少年が壁に叩きつけた花瓶の破片がかすめた際に切り傷が作られて、一筋の赤い血を流している。
 それでも、魔女は少年の行いに怒るどころか狼狽えすらしなかった。

「わたしを油断させて隙を見て逃げ出す作戦に切り替えたら?」
「お前に媚びろと!? 僕を誰だと思ってる! 僕はっ、――」

 立ち向かった敵に相手にされないどころか、助言までされる屈辱があろうか。とっさに反発しようにも『自分が何者か』を覚えていない少年には、言葉の先を続けることすらできない。
 少年が黙り込んだ隙を逃さず、魔女は畳みかけてきた。

「生きていくために他人に媚びて何が悪いの。あなた自身にとって『誇り』がそれほど重いなら仕方ないけど、他人に『誇りを重んじろ』と言われて従うだけなら、それはわたしへの『媚び』と何が違うの?」

 心の隙間にするりと入り込んでくるような問いかけに、『人の心を惑わす魔女め』と少年は内心で毒づいた。

「さて。暴れておなかもすいたでしょう? ご飯にしましょう。ちなみにわたしは、なんてことない野菜炒めを『美味しい』って食べてくれる人が好きよ」

 逃げたいならわたしを褒めていい気分にさせてちょうだい、と厚顔無恥にも求めてくる魔女にはきっと、人の心が無いのだ。

 ――そう、魔女にはひとの気持ちなど分からない。

「……どこだ、ここは」

 部屋で大暴れをした次の日、少年が目を覚ますと狭苦しい箱の中に閉じ込められていた。

「馬車の中よ」

 向かいに座った魔女は答えた。
 魔女の言葉通り『箱』だと思ったものは、あらためてよく見れば『馬車』なのだろう。ただ、側面の窓は打ちつけた板で塞がれていて、外の景色を見ることはできなかった。
 それに、ここが馬車だとしたところで――。

「なぜ馬車にいる!? 乗った覚えが無い!」
「あなたが寝ている間に乗せたから当然ね」
「お前っ、僕のことを何だと思って、」
「大事な食糧……兼、労働力?」
「労働だと!?」
「あなたを拾って食い扶持が増えたから、正直家計がカツカツなのよ。今日からは自分の食べるものは自分で用意してもらおうと思って。もうすぐ狩場に着くわ」
「狩場?」
「ほら着いた」

 魔女の『狩り』の獲物とは……まさか人間ではあるまいな!?
 不安に身をこわばらせる少年の手を引いて、魔女は馬車の外に出る。そこに広がっていたのは、人っ子ひとりいない、青々とした野原だった。

「うん、思ったとおり、のどかね。まだまだ穴場の狩場として使えそうで何より」
「……見渡す限り雑草しかないが?」
「ええ、野草があなたの今日からの主な食糧よ。食べられる草を血眼になって探して、自然に感謝して摘みなさい」
「冗談だろ!?」

 こんな横暴が許されていいのだろうか。
 肥えさせるためとはいえこれまでは三食が保証されていたのに、これからは餌やりすら疎かにされるらしい。
 肉がついたところで屠殺が早まるだけだから、その意味では『草』という粗食は好都合かもしれないが――育ち盛りの少年の胃袋にはあまりにも過酷すぎる。
 おまけに、渋々ながら少年が野原に足を向けると、魔女は重い布の塊を投げつけてきた。

「何だよ、これ!?」
「草を摘むときは被ってちょうだい」
「はあ? フードのついた外套? この暑いのになんで……」
「あなたのその瞳、隠したほうがいいわ」

 魔女は躊躇いなく、人差し指で少年の瞳を示していた。

「……なんだよ。『血みたいに真っ赤で怖い』って言うのか?」

 少年の口をついて出たのは、聞いた覚えがない言葉だった。そんなことを言われた記憶は無いのに、体に染みついているみたいにとっさに口からまろび出たのだ。
 手洗い盥の水面に映った真っ白な顔の中で瞳だけが赤く輝くのを見たとき、少年自身だってぎょっとした。だったらきっと、今までにもこの瞳を見た人は皆『怖い』とか『不気味』とか思ってきたはずだ。

「血みたいで怖い、ですって? 魔女相手に何を言ってるの? 見慣れた血を怖がるもんですか」
「……そういえばそうだな」
「その外套は日焼け防止よ。フードも目深にかぶってちょうだい。あなたの瞳、天気のいい日は外で目を開けるのも辛いでしょう?」
「どうしてそれを? 魔女は心も読めるのか?」
「肌の色素が薄いと日焼けが火傷みたいになることがあるの。その瞳も色素の薄さが原因ね。『血みたいに真っ赤』というか、本当に虹彩に血の色が透けているのよ。わたしは好きな色だけど、持ち主には苦労も多いでしょう」

 魔女は血の色の瞳を恐れることなく分析して、あっけらかんと『好きな色』だと言ってのけた。

「……人間の血を啜ってつまみ食いするような魔女の目には、そう見えるのかもな」
「別に魔女とか関係ないでしょう、個人の好み」
「じゃあ、お前個人の趣味が悪いってことか」
「食糧のくせに生意気よ。前から思ってたんだけど、ご主人様のことは『あなた』って呼びなさい」
「魔女を? 馬鹿馬鹿しい」
「その態度をどうにかできたら、わたしが獲った野鳥の肉も晩ごはんにつけてあげる」
「……っ」

 狩猟道具を見せびらかす魔女を見て、少年の心は揺れた。
 魔女の言いなりになる屈辱と、肉が食べたいという切実な食欲。
 その二つを天秤にかけて、少年は重い口を開いた。

「……イェルチェ」

 迷いに迷った結果、少年は『あなた』でも『お前』でもない、魔女が最初に名乗った名前を口に出した。

「うん。それでもいいわ」

 それを聞いた魔女イェルチェは、笑みを浮かべた。
 蠱惑的な顔つきに似合う妖艶な笑みではなく、にやにやと意地の悪そうな魔女らしい笑みを。

 ☆

 野草採りと狩猟が終わると、二人は馬車に再び乗り込んだ。
 そう長くもない時間、馬車に揺られて、魔女の屋敷に戻ると、また別の驚きが待っていた。

「全部、直ってる……!」

 少年が眠りにつくまで散らかっていたはずの室内は綺麗に片付いていて、汚れた壁も、裂けたカーテンも、破れた窓も、全て元の姿を取り戻していた。

「そうよ。わたしは魔女だもの。こんなのは杖の一振り、ちょちょいのちょいで直せるの。だから暴れるのはおすすめしないわ、あなたも怪我をするかもしれないし」

 どれだけ暴れたところで元通りにできるから逃げられないという魔女の言葉に、絶望すべきだったのかもしれない。だが、少年は別のことに気を取られていた。

「……その割には」

 少年は魔女の左頬に手を伸ばす。指の腹の感触に驚くように、魔女は体を跳ねさせた。

「っ、どうしたの?」
「壊れた物は直せても、自分の怪我は魔法で治せないんだな。イェルチェの頬の切り傷は消えてない」
「……魔女にも得手不得手があるの。わたしは魔法薬で傷の治りを少し早くするくらいしかできなくて」
「そうなのか」

 どうやら、魔女というのも万能ではないらしい。
 部屋を綺麗に片づけることはできても、食べられる野草のことも赤い瞳のことも知っていても、移動するには馬車を使い、鳥を獲るには道具を使わねばならないし、自分の怪我も治せない。
 それなら――ほとんど人間と同じじゃないか。

「ごめんなさい。誰かを傷つけるつもりじゃなかったんだ」
「分かってるわ。あなたをそこまで追いつめたわたしも悪かったし、綺麗にすっぱり切れたおかげで痕も残らないだろうから気にしないで」 
「……」

 イェルチェの『気にしないで』という言葉を聞いたときに、少年はなぜだか面白くない気持ちになった。だからといって、魔女に弱みを握られてたかられるのもごめんなのだけれど。
 むすりと黙り込んだ少年に気づいたのか、魔女は濡れたように光る瞳で少年を見た。

「どうしたの? 食糧さん」
「その『食糧』っていうの、やめてくれないか」
「でも他に呼べないでしょう?」
「……イェルチェが付けていい」
「えっ?」
「べつにっ、『食糧』と呼ばれるのは嫌だし、呼び名が無いと不便だからだ!」

 イェルチェの言葉にかこつけて以前から抱えていた不満をぶつけると、彼女は瞳を瞬かせて、しばらく無言で考え込んだ。

「そうねぇ。――

 彼女はそっと囁くように、その名前を口にした。

「あなたは真っ白だから、ブランカ
「白い毛並みのペットみたいな理由で名付けるな!」

 ブランカ。真っ白のブランカ――……少年はイェルチェがくれた名前を口の中で何度も転がして味わった。そうすれば、名前が舌先から浸み込んで『ブランカ』になれるような気がした。

「……まあ、名前の響き自体は悪くない」

 もごもごと口を動かした少年ブランカが不器用に『気に入った』と伝えると、イェルチェは複雑そうな顔をした。
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