『コスパがいいから』で選ばれた幼妻ですが、旦那さまを悩殺してみせます!

美海

文字の大きさ
上 下
26 / 33

知りたくないこと

しおりを挟む
 人は誰しも忘れられない思い出を持っている。
 それは必ずしも人生における劇的な出来事とは限らなくて、フレッドにとっては少年の日の何気ない会話もまた、そうだった。

「ねえ、義兄上。『世間話をする時に女は共感を求めて、男は解決策を求める』って話は本当なの?」

 あの日のフレッドにはどうしても知りたいことがあって、義兄に声をかけたのだ。正確には当時の彼の身分はまだ『姉の婚約者』だったのだけれど、元々幼なじみでしょっちゅう互いの家を出入りする仲だったから、既に『義兄上』と呼んでいた。
 穏やかで思慮深い義兄は相談相手にはもってこいだ。だって、こんな話題を家族、特に姉に聞かれようものなら――。

「フレッド、またどこかでくだらない話を聞いてきたわね!」

 ほら、来た。こうやってキャンキャンと噛みつかれるんだから。
 姉のミランダに『なに馬鹿な話を信じてるのよ』と言われたのが悔しくて、ふてくされたフレッドは拗ねた口ぶりで言った。

「うるさいなあ。ミラには聞いてないじゃんか」
「『ミラ』じゃなくて『ミランダお姉様』とお呼び!」
「たった一つしか違わないのに」
「返事は?」
「はいはい、わかりました、姉上。ねえ、それでどうなの? 義兄上は姉上と話す時に何でも『そうだね』って頷くの? こんな横暴な姉上の言うことなのに?」
「フレッド!」

 すぐさま口喧嘩を始めた姉弟を見やってくすくすと笑った義兄は、それとなく姉を宥めてくれた。姉も彼の言うことは素直に聞き入れるから、やっぱり彼に相談して正解だった。

「フレッド、どうしてそんなことを聞くんだい? 誰か上手く話したい相手、気になる女の子でもいるのかな?」
「別にっ、そういうのじゃないけど。ただの世間話というか、ちょっと気になっただけで」
「うん。でも、気になったきっかけはあるんじゃないかい?」
「……次の週末にね、布問屋のマノンと出かけることになったんだ。急に誘われてびっくりして、何を話したらいいか分からないし、」
「それで『上手な話し方』を覚えようと思ったのか」
「参考に、あくまでも参考にするだけだから!」

 ほら、僕があんまり失礼なことを言ってマノンに嫌われたら、父上の仕事にも影響があるかもしれないし。――それまで考えてもいなかったような言い訳を、必死に並べたことを覚えている。
 冷静になってみれば弁解すればするほど『怪しい』のだろうが、まだ少年だったフレッドには知恵も経験値も無かったし、自分の姿を客観的に見ることもできなかった。
 そんなフレッドを見て、姉は何かを悟ったようににやにやと笑っていたが、義兄は笑わずに真面目な顔で答えてくれた。

「僕個人の意見だけど、共感と解決策のどちらを求めるかは、男女の差ではなくてその人と状況によって変わるんじゃないかな。悩みごとなんて人それぞれだし、感じ方も人によって違う。同じ人でも気分が落ち込んでいる時に悪いことが重なると深刻に考えすぎてしまったり……簡単に『常にこれが正解だ』とは言えないと思うよ」
「そんなあ」
「でも、フレッドは気になる子に良いところを見せたいと思ったんだろう? 気になる子の話なら自然と興味を持って聞くだろうし、そうすれば彼女が欲しい言葉も自然と分かるんじゃないかな」
「そんなにうまくいくかなあ……って、マノンは『気になる子』じゃないから!」
「ふふ、そういうことにしておこうか。怖がらなくても、取り返しのつかない大間違いなんて滅多に無いさ。悩みに寄り添うことも、正解へと導くことも、どちらも大切なことだからね」

 求めていた答えとは少し違うものが返ってきたとしても、真摯に話した結果であれば、相手の気を悪くすることは無いと思うよ。
 義兄の言葉にフレッドは少しだけ気を楽にして、頭の片隅に『相手の話をしっかり聞く!』と書き込んだ。

「ありがとう、義兄上!」

 それにしても義兄は頼りになる。貴族との縁談もあったミランダが迷わず義兄を選んだ理由が分かった気がした。彼が『家族』になるのは良いな、羨ましいな、と素直に思えた。
 自分にもいつかそういう『良い』と思える相手ができるのだろうか。今度出かける約束をしたマノンは父の取引先の娘で、結婚相手として不足は無いはずだけれど――とまで考えて、先走りすぎだと頭を振る。まずは『次のデート』に漕ぎつけるかどうかが問題だ。きちんと当日までに対策をしておかないと!
 挙動不審な自分を見る姉と義兄の視線にも気づかないくらい、フレッドの頭の中は『初めての恋』でいっぱいになっていた。

「次の週末、王城に新商品を持っていくことになった。フレッド、伴をしなさい」
「えー!」

 だから、父から用事を言いつけられた時には思わず不満の声を上げてしまった。『まずい』と気づいて手で口を覆っても、遅い。父は怪訝な顔でフレッドのことを見返してきた。

「どうした? お前、いつも王城に行きたがるじゃないか」
「べつにっ、何でもないけど……」

 父は子どもたちに甘いから、事情を話せば聞いてくれただろう。
 でも、フレッドは『その日は気になる女の子とのデートだからお手伝いは無しにしてください』とぬけぬけと言えるような性格をしていなかった。父に言って、からかわれたり、勝手に気を回して縁談を進められたりするかもしれないと思うだけで嫌だった。

「お父さま、その日はフレッドはどうしても外せない用事があるんですって。だから私が代わりに行ってもいい?」

 俯いて黙り込んでしまった弟を見かねた姉の援護射撃に、フレッドはぱっと顔を上げた。その時ばかりはミランダが光り輝いて見えた。

「ミランダが? いや……」
「お願い。嫁げば王城に行く機会も無くなるもの。今のうちに、ね?」

 姉の嫁ぎ先も裕福な商家ではあるけれど、王城への出入りは許されていなかった。『一度でいいから綺麗なお城の中を見てみたい』と言ったのは、あながち弟のための嘘ではなかったのかもしれない。
 父は姉にも商人としての教育を与えていたが、どういうわけか王城に行く時のお伴にはフレッドばかりを選んでいたから。

「まあ、いいだろう」
「やった!」
「……会うのはせいぜい侍従長までだ。まさか、あの場に――がいらっしゃるわけでもあるまいし」

 父の行動の理由を考えてみればよかった。渋々ながら許可を与えた父の言葉に注意を払っておけばよかった。
 そんなことを考えもせずに、フレッドはただ恋に浮かれていた。

 その頃のフレッドは遅めの成長期を迎えていた。
 幼い頃から『女の子みたい』と言われ続けた顔と伸び悩んでいた身長のせいで抱えた劣等感からようやく解放されて、『頭でっかちの小心者』は『知的で素敵』と言ってもらえるようになった。
 ついには街でも評判の美少女のマノンから声までかけられた。おまけに彼女は積極的で、最初のデートでキスまでさせてくれる。

(たぶん、いくらかは打算もあるんだと思う。マノンの家よりハウトシュミット家の方が裕福だ。僕だってマノンを本当に好きなのかは分からない。でも、お互い嫌いなわけじゃないし……)

 だからいいよね、と思った。
 義兄に『マノンは気になる子ではない』と言ったのは、八割は照れくささによるもので、残りの二割はフレッド自身にも分からなかったからだ。
 異性への好奇心、初体験を自慢する友人への劣等感と焦り、彼女への漠然とした好意、恋愛が許される関係への甘え――そういったものをごた混ぜにして『恋』と呼んでいたような気がする。
 そもそも『初恋』なんてそんなものだろうから、これが『恋』だったことに間違いはない。けれど、大切なものを失ってまで貫き通すほど、崇高で高尚な想いだったわけではない。そんな軽薄な気持ちのために、フレッドは姉を犠牲にした。

 キスの後にマノンから思わせぶりな目配せをされて、二人で連れ込み宿に向かいかけた時だった。

「フレデリック坊っちゃま! 大変です!」
「どうしたの? 見ての通り、その、僕は取り込み中なんだけど」
「いいから早く戻ってください!」

 慌てた様子のハウトシュミット家の使用人に見つかって、流しの馬車に詰め込まれ、家まで即座に連れ帰られた。
 手伝いを断ってデートしているのがバレたからってここまでしなくても、と唇を尖らせたフレッドは、裏門で馬車を降りて屋敷の裏口に足を踏み入れてから家の異様な雰囲気に気づいた。

「ミラ! ここを開けてくれ!」

 二階の姉の部屋の扉を義兄が叩いていた。
 普段のミランダなら、義兄が訪ねてくるのを玄関で忠実な番犬みたいに待ち構えているのに。部屋にいて返事もしないなんて、よほど体調が悪いのだろうか。ううん、そんなはずがない。今朝のミランダはいつも通りに元気に口うるさくて、父と一緒に王城に向かっていたのだから。
 それに、返事もできないほど深刻な病状だとしたら、客人である義兄はともかく父母だって姉の傍を離れようとしないだろう。

「ミランダ・ハウトシュミットには国王陛下直々の出仕命令が下っております。命令を拒否するつもりですか?」
「うちの敷居を跨ぐな、この、女衒がっ! よくもおめおめと顔を見せられたもんだな!」

 もしも姉が病気になったのなら、父だってこんなふうに知らない男を怒鳴りつけるのに時間を割いたりはしないはずだ。
 階下にいたのは針金のような体を黒い衣服に包んだ死神のような男だった。後から思えば、その印象は『姉を遠いところに連れ去ってしまう』という意味では間違っていなかったのだけれど。

「わたくしは侍従長の任にあります」
「はんっ、女衒と何が違う! あの暴君に女を斡旋するのがてめえの仕事だろうがっ!」
「王への無礼は聞かなかったことにしましょう。おまえは卑しい商人とはいえ、貴族にも劣らぬほどの財を蓄えているのでしょう、ハウトシュミット。娘御に国王陛下の愛妾として恥ずかしくない支度をしてやり送り出すのが親心ではありませんか」
「娘が好いた男に嫁ぐなら、身分違いだろうがどうにかしてやるし、いくらでも金は出してやる! だが俺の娘に勝手に目をつけて奪い取って金まで出せだぁ? 冗談もいいかげんにしやがれっ!」
「それが許されるのが『国王』というものです」

『死神』は父に向かってわざとらしくため息を吐いてみせると、肩をすくめて言った。

「はっきり言わねば分かりませんか。あの娘は王の子を孕んだかもしれないのですよ。城の外に捨て置けるわけがないでしょう」

 このひとは何を言っているのだろう。
 だって、ミランダはもうすぐ義兄と結婚するはずで、彼と幸せな家庭を築くはずで。そのうち二人の間に可愛い子どもが生まれたら、フレッドは若くして『叔父さん』になるかもしれなくて。それがちょっと嫌だけど、そんな日が来るのを楽しみにしていたのに。
 その姉が、国王の愛妾になる? すでに国王の子がお腹にいるかもしれない? 
 そんなこと起きるはずがない。起きてはならない。起きてはならないことが起きている。

「どうしても呑めないというのなら、王命を無視したあなたがたを全員処刑すれば済むこと。財産は没収され、娘も守れない。どちらが賢明な判断かも分かりませんか?」
「おう、やれるもんならっ」
「――待ってください! いきますっ、王城に行きますから!」

 だから家族は許してください、お願いします。
 よろよろと壁伝いに部屋を出てきた姉は、頭を下げるとも崩れ落ちるとも分からない動作で絨毯に伏せて泣きじゃくった。

「逃げられないのちゃんと分かってますから……っ、ぐすっ、許してくださいっ!」

 その場において姉の言葉は紛れもない『正解』で、それは家族を守るための勇気ある行動で、それでもフレッドには彼女を称えることも慰めることもできなかった。

(ちがう。こんなの、間違ってる……)

 まだ現実を受け止めきれずにいた頭では理屈など考えられない。でも、勝ち気な姉をこんなふうに泣かせることが正しいわけがないと直感的に思った。

「それは結構。世話役を置いていきますから、二週間後、王宮に出仕なさい。それまでに周りの者と別れを惜しんでおきなさい。……永遠の別れになるかもしれませんから」

 見張り役をつけられて逃げることもできず、別れを惜しむにはあまりにも短すぎる時間を与えられた。それでも死神にしてみれば慈悲を与えたつもりだったのかもしれない。
 ミランダを召し出したこの国の王は暴君だ。妾奉公を強制されるのみならず、彼の不興を買えば命すら危うい。文字通り、生きた姉を見られるのはこれが最後になるかもしれなかった。

 姉が出仕するまでの二週間、フレッドは屍のように過ごした。あまりに大きな衝撃を受けると、頭はぼんやりとしかものを考えられなくなるらしい。そんなフレッドを現実に引き戻してくれたのは、マノンだった。彼女自身は意図せず、さらに強い衝撃を与えて直すようなやり方で。

「坊っちゃま、マノン嬢が訪ねて来られましたよ」
「マノン……ああ、彼女か。今行くよ」

 名前を聞いても彼女の顔が思い出せなかった。応接間で待っていた少女を見て色合いの一致からマノンだとは分かったものの、心はぴくりとも動かない。確かに彼女に恋をしていたはずなのに。
 失礼にならないように、とだけ考えて彼女の話に相槌を打った。
 ミランダの身に起きたことを知らないマノンは曇った表情のフレッドを訝しむように見ると、もじもじと身をくねらせて言った。

「あのね、フレッド。この間の続きのことだけど、あたし……フレッドだったら、いいよ?」
「『いい』って何が?」
「もうっ、言わせないでよ!」

『恥ずかしい』と両手で顔を覆ったマノンを見て、ようやく彼女が何を言いたいかを悟った。
 この間の続き。キスの後にあるもの。人目につかない部屋で二人でするような性行為。
 フレッドがマノンと軽率にしようとしていた行為で――姉の心と体に一生消えない傷を刻み込んだ行為。

「どうしたの、顔が真っ青よ」

 今の今まで、フレッドは自分のことを『姉を奪われた被害者』だと思っていた。
 でも、本当は自分の中にも姉を傷つけたのと同じ獣欲はあって、その欲を満たすためにフレッドはマノンと会おうとして、父の手伝いを姉に押しつけて、そのせいで姉は不幸になった。

 だったら――自分は『加害者』じゃないか。

「近寄らないでくれ」
「大丈夫? 風邪でも引いたとか、」
「来るな!」

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!
 自己嫌悪に吐き気がした。どんなに押さえつけようとしても、それまで好感を持っていた少女の温かくて柔らかい体に寄り添われれば意識してしまう。
 存在すら認めたくない自分の中の欲を、暴君との共通点を、直視させられてしまう。

「フレッド? ねえ、あなた、様子が――」
「僕に触るな! 気持ち悪い!」

 恐慌状態に陥ったフレッドに戸惑いの目を向けていたマノンは、それを聞くときゅっと唇を噛み締めた。
 パシン、と小気味良い音を立てて、彼女の平手がフレッドの頬を捉えた。

「さいってー! ちょっと金持ちでちょっと顔がいいからって、調子に乗るんじゃないわよ! あなたなんか、あなたなんか……っ、ちょっと良いなって思ってただけなんだから!」

 憤然として去る彼女に勘違いをされたのは分かったけれど、追いかける気にはならなかった。だって、フレッドが彼女との触れ合いを気持ち悪いと感じてしまったことも、フレッドが『最低』なのもただの事実で、そこに解くべき誤解なんて無かったのだから。
 フレッドは私欲のために姉を犠牲にした最低の人間だ。姉に死んで詫びろと言われれば喜んでそうする。でも、今はまだ駄目だ。姉を助け出していない今死んだところで償いにはならない。

「父上、お酒の飲みすぎは良くないよ」
「飲まずにいられるか。見ろ、これを。今日王城から届いた手紙だ。貴殿の働きをもって男爵に任ずる、だとさ! 俺の働き? おとなしく娘を差し出したことか!?」

 子どもにたくさんの財産を遺してやりたいからと貴族の客の開拓に熱心だった父は、奇妙に引き攣る歪んだ顔で国王の詔書をひらりと示した。あれほど欲していた爵位を今になって、愛する娘と引き換えに手に入れたところで意味が無いと思っているのだろう。
 その気持ちは分かるからこそ、フレッドは父の手から詔書を取り上げた。

「そんなもの破いちまえ、フレッド!」
「これはチャンスだ」
「なに?」
「姉上を助け出すにも、その前提として王城に出入りするにも、貴族の身分はあった方がいい」
「娘を売って手に入れた爵位なんか要らん!」
「名より実を取るべきだ。父上がやらないのなら、僕がやる」

 古い考えの王侯貴族は爵位を持たぬ者を虫けら同然に思っている。彼らに話を聞かせるためには、まずは『貴族』にならないことにはどうしようもない。

「僕が奴らと同じ存在になる。そうやって、姉上を取り戻す」

 そうすればきっと償える。フレッドが犯した罪も許されるはずだと信じた。
 そうとでも思い込まなければ自分が許せなくて、これ以上生きていられないと思った。

「姉上が、いない……?」

 男爵として王城に出仕して、姉を連れ帰る許しを得れば終わる話だと思っていた。
 ところがいざ行ってみると、早くも国王の寵愛を失った姉は追い出された後に行方知らずになったことを知らされた。
『国王を満足させられなかったミランダが悪いから知らせなかったし、これまでにハウトシュミット家が支払った支度金は返さない』そうだ。悪どさとがめつさにもはや溜息も出ない。
 姉の情報を得るために、出たくもない貴族たちの集まりに出て媚を売り、吐き気を催すような人柄の人間と親しんだ。

「下賤の者が上手く化けたものだなあ、ハウトシュミット。見かけだけなら立派に貴族に見える。実は貴族の血を引いていたりしないのかね?」
「どうでしょう。私も姉も母に似ているとよく言われましたが、母方とは疎遠でして」
「調べてみた方がいい。なあに、もしということであれば、儂が縁戚だと証明してやってもいい」
「閣下のお気持ちはかたじけなく思います。親戚は助け合うものですからね、閣下の入り用のものを用立てさせてくださいませ」
「うむ、分かっておるではないか」

 得た金以上の金を使えば財産が減る、商人から金を借りたら利子をつけて返さねばならない。そんな子どもが最初に習う算術すらまともにできないくせに、どうして驕り高ぶっていられるのだろう。

「卿と縁戚になっていればなあ。儂も国王陛下に見初められるような美しい娘が欲しかったものだ」
「……はは。それは私の姉のことですか」
「無論だ。卑しい商人の娘のことだ、したたかに陛下に迫ったのだろう。所詮小娘の浅知恵、寵姫として栄華を極めることには失敗したようだが――」

 殺すな、堪えろ。殺してしまえば、姉の話が聞けなくなる。
 頭の中で彼らが悲惨な最期を迎えるところを思い浮かべて堪えた。そうだ、革命を起こすのはどうだろう。身分以外に何も持たない彼らから身分を奪って『ただの人』にした上で処刑してやれば、少しはこの心も晴れるだろうか。
 聞くだけで耳が穢れそうな姉への侮辱を笑顔で聞いて、『陛下に見初めていただけるなど光栄の極みです』と返し、『姉が至らなくて申し訳ありません』と詫びる。
 心とちぐはぐな振る舞いに慣れた頃には、自分が今どんな表情を浮かべているかも分からなくなっていた。

「なにを考えているの、フレッド! ミラが、ミラがどんな思いで王城に行ったと思っているのっ!? なのに、あなたはっ、よくも奴らの仲間と楽しくお茶なんて飲めるわね!」

 塞ぎ込んでいた母に涙ながらに責められた時、自分はようやく『貴族らしく』なれたのだと知った。
 蝙蝠は鳥のふりを覚えなければ鳥を欺くことができないのだから、目標の達成を喜ぶべきだろう。でも、鳥のふりが上手くなった蝙蝠は、もはや獣の仲間とはみなしてもらえないのかもしれない。

「母さんがごめんな、フレッド。お前が何かをがむしゃらに頑張っているのは分かるよ。……でもな、」

 しばらくはフレッドの行動を静観していた父も、やがて怯えた目を向けるようになった。

「俺も、時々お前のことが怖くなる。普通は家族が傷つけられたら悲しむものじゃないのか? お前は、違う。お前が何を考えているのか、俺には分からない」
「そう。別にいいよ。誰かに分かってもらったり、褒めてもらったりしたくてやってるわけじゃないし。僕が勝手にやるから、父上は心配しないで。じゃあね」
「待ちなさい、フレッド!」
「仕事が忙しいから別宅に移るだけだよ」

 全てフレッドの自己満足でやっていることなのだから、理解されないのも感謝されないのも当然だ。仕方のないことなのに『分からない』と言われた時に反発したくなったのは何故だろう。

「……悲しんでいれば姉上が帰ってくるのか? 何もせずにただじっと待っていろって?」

 父の部屋を逃げるように出て、独りごちた。
 言い負かせばきっと父は『そうだな』と答えただろう。フレッドの考えも行動も間違っていないはずだ。
 でも、それは『父の欲しい答え』ではなかったのだ。

 必要最小限の荷物をまとめて玄関ホールに向かうと、義兄が来ていた。
 この人もまめな人だ。ミランダの帰りなど待たずに、他の女と結婚してしまえばいいのに。彼の家からもせっつかれているはずだ。
 いまだにしょっちゅう訪ねてきては、ハウトシュミット一家を気遣ってくれるものだから『義兄』呼びの止め時が無かった。
 フレッドの義兄ということは、父母にとっては義理の息子扱いということで、父母にとっての『頼れる息子』とは彼の方だったのかもしれない。

「その荷物はどうしたんだい?」
「仕事の都合でしばらく向こうの家を使おうと思って。義兄上、父上と母上のことをお願いしてもいい? あの人たちが欲しかった息子は、僕じゃないみたいだから」
「フレッド……」

『共感と解決策のどちらを求めるかはその人と状況によって変わる』

 父も母も『待っているだけでは姉は帰ってこないよ』という答えなんか突きつけられたくなかったのだ。彼らは一緒に悲しんで心に寄り添ってくれる家族が欲しかったんだろう。
 フレッドには根拠の無い慰めで傷を舐め合うような真似はできなかったし、義兄はその役割を果たしてくれる。この家にはもうフレッドの居場所は無いし、どのみち革命軍の拠点は他に用意しなければならない。巣立ちには良い時機だと自分に言い聞かせて、生まれ育った家を去った。

『革命』はフレッドなりの復讐であり、八つ当たりだった。
 自分が抱えた恨みつらみを悪しき王侯貴族に向けていいと肯定されて、自分たちを苦しめた身分という仕組みが跡形も無く壊れていく様を見ると、心の中の蟠ったものが解けていく気がした。
 姉はまだ見つからない。本当に帰ってくるかも分からない。でも、姉を苦しめたものが無くなれば姉だって喜んでくれるだろう。そうしたら姉は『フレッドは罪を償った』と認めて、許してくれるかもしれない――。

「城の中でエフェリーネ王女殿下だけは親切にしてくださったわ。飽きられて、着の身着のままで城から叩き出されそうになった時も、自分の侍女の中に紛れさせて匿ってくださったのよ」

 そう思っていたのに、革命後に帰ってきた姉はフレッドの欲しい言葉をくれなかった。それどころか憎い暴君の娘のことを慕わしげに話しさえする。

「……へえ、そうなんだ」
「そうよ。ねえ、フレッド。王女殿下は無事なの? 落城時に亡くなったって噂を聞いたのだけど。あなたのお仲間が何かしたなら絶対に許さないわ」
「大丈夫。よそに知れたら殺すしかなくなるけど、今のところは王女とも知り合いの、僕の信頼できる友達が保護してる」
「よかった!」
「姉上、エフェリーネ王女のことはいいんだ。他は? 姉上に嫌な思いをさせた他のやつのことは? ねえ、何だってするから、何かしてほしいことはない?」

 言ってくれ。姉が一言、『憎いやつを苦しめてくれ』と言ってくれれば、フレッドにもできる償いの方法を教えてくれれば、ようやく償うことができるのに。

「うーん……辛いことも悲しいこともたくさんあったけど、全て終わったことだもの。今は特に思いつかないわね」
「そんな。許したっていうの?」
「許すわけないでしょう。たぶん一生許さないし忘れられない。でも、私の人生はこれから先の方がずっと長いのよ? だから忘れたふりをして生きていくことにしたの。嫌いな人のことを考えるのに時間を使いたくないし、今の私は好きな人といて幸せだもの」

 姉は、傍から離れようとしない義兄に微笑みかけた。姉をずっと待っていた――彼に向かって。
 もしかして、と思う。フレッドの背中には冷たい汗が伝っていた。
 ミランダを助けたのは、彼女を匿ったエフェリーネ王女であり、姉が帰る場所を守っていた義兄だ。
 フレッドの行為は何ひとつ姉のためにはならなくて、それどころか一歩間違えば姉の恩人である王女のことも『暴君の娘だから』と殺していただろう。それは『爵位が無いから』と民を虫けらのように扱う奴らの行いと何が違うのだろう。

 僕は今まで『姉のため』をお題目に掲げていただけで、本当は自分自身の欲望を自分勝手に満たし、鬱憤を晴らす先を探していただけじゃないのか?
 僕は気づかぬうちに一番嫌悪する存在と同じものになっていたんじゃないか?

 それからは『違う』ことを証明するために躍起になった。
『護国卿』は暴君とは違う。有能で勤勉で品行方正で、清く正しく美しく賢く強くて、個人的な好悪を持たず全ての人に対して平等に接して、決して私欲を優先させることなく常に国のためになることしか考えていない――そういう存在になることができれば、自分のしたことは許されるだろうか。
 想いが性欲に転じるのが怖くて『愛する人』は作れなくなった。家族はもういないも同然だ。友人たちはいるけれど、彼らはいずれフレッドよりもずっと大事なものを作るだろう。仕事の付き合いはあくまでも『護国卿』の役職に応じて生じるものだ。
『フレッド』には何も無い。空虚で、寂しい。そう、自分は寂しい人間だ。

(死ぬまで『護国卿』を立派に演じきってみせる。……僕にはもう、それしか残っていないんだから)

 使命感や責任感なんてたいそうなものではない。それは、歪んだ自己の存在証明に他ならなかった。

「だから僕は、誰かを特別に愛してはならない。恋に溺れるなんてもってのほかだ。『護国卿』じゃなくなった僕には生きる意味も価値も何も無いのにっ、僕は空っぽになりたくない!」
「いいえ、恋を知ったあなたになるだけよ! 人が人を愛してはいけない理由があるものですか!」

 心を傾けなくてもいいような、愛さなくても妻として振る舞ってくれるような、都合のいい少女を妻に迎えたはずだった。
 それなのにどうして、彼女の一挙一動から目が離せないのだろう。彼女が幸せになるようにと心を砕き、彼女の気持ちを尊重したいと思うのに、身勝手にも自分の傍にいてほしいと頼んだのだろう。
 そろそろ認めなければならない。彼女はとっくに特別で大切で手放したくない存在だ。彼女を自分から奪っていく者のことをフレッドは許せそうにない。たとえそれが彼女自身だったとしても。

「あなたが格好悪くて情けなくてすぐ逃げる臆病な小心者だってことくらい知ってるわ。知った上で恋をして、愛しているのよ」

 彼女と繋がって――これ以上ないくらい近づいて、愛の告白を受けたとき、フレッドは久しぶりに『自分の気持ち』を意識した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

自習室の机の下で。

カゲ
恋愛
とある自習室の机の下での話。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

元彼にハメ婚させられちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
元彼にハメ婚させられちゃいました

白い結婚は無理でした(涙)

詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。 明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。 白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。 小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。 現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。 どうぞよろしくお願いいたします。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

お見合い結婚

詩織
恋愛
35歳。恋人なし!既に前の恋愛から4年経過。このままだと出会いも何もないな…、そんなときに話が出たのがお見合いの話。やっぱりお見合いに頼るしかないのかーと…。そして…

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

処理中です...