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最後の答え
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「三日後の朝、わたくしとローゼンハイム公爵はこの国を発つ。それまでによく考えて決めなさい」
考える時間は二日と少し――レオカディアが与えた猶予はあまりにも短かった。それでもバルトールの窮状を思えば、クレアに温情をかけたつもりなのかもしれない。
「分かっているでしょうけれど、この子を言いくるめるのはやめてくださるわね、ハウトシュミット卿」
「それぞれの案のメリットとデメリットを述べて『説得』するだけだ。クレアはくだらない嘘を信じるほど馬鹿じゃないよ」
「一方の案を支持するあなたには、公正な説明はできない。それに、賢人を愚かにする物は酒や薬物だけではないでしょう?」
「……何のことだか」
「不誠実な男だこと。あなたのことはどうでもいいけど、一時的な気持ちの弱みにつけ込まれて後悔するのはクラウディアよ? あなたはこの子が大事じゃないの?」
「君は嫌な言い方をするね」
「お褒めにあずかり光栄だわ」
フレッドの刺すような視線を背中に受けながら、レオカディアは動じず悠然と小部屋を去った。
「……私ったら、急に『モテる女』になっちゃったわ」
夜会を終えて自室に戻ったクレアは、鏡台の椅子に腰かけて呟いた。
鏡には装った自分が映っている。人より幼く見える顔は化粧のおかげで印象が引き締まっていて、希少な宝石のアクセサリーもデコルテを晒す型のドレスも不似合いではないと思う。
でも――。
「故郷に帰ったら女王様だし、ここに残っても誰もが羨む素敵な旦那様が全力で守ってくれるんですって。まあ、なんて素敵な人生なのかしら!」
努めて明るい声を出してみても、鏡の中の娘の表情は曇ったままでぱっとしなかった。
やっぱり口紅はもっと淡い色を選べばよかった。夜会の前に鏡を見た時には馴染んでいたはずなのに、血の気が引いて青ざめた顔の中では唇だけが浮いて見える気がする。
「……っ、どうして?」
夜会が始まる前は、こんな気持ちで化粧を落とすことになると思ってもみなかったのに。
たとえ夫の無神経さに傷つけられても『次こそは』と闘志を燃やして再起を図ることだってできたはずだ。
でも、クレアにはもう『次』の機会すら無い。
「普通に恋をして、普通に家族を作って、普通に幸せになりたかっただけなのに。そのために一生懸命頑張ったのに、『王にふさわしく成長した』って何よ! 私、王様になりたいなんて一回も思ったことないのにっ! フレッドもフレッドよ! 『君は気づかなくていい』『守ってあげる』って、私は今も『何もできない子』のままだって……っ!」
望んでもいない栄誉は押し付けられて、望むささやかな幸せを得ることすらできない。一番褒めてほしかった人は、本音ではクレアがいつまでも無力な子どものままでいることを望んでいた。
これが、クレアの努力の結果なのだ。
自分が望んでいたものは何ひとつ手に入らないのだと思い知らされて、クレアはぼろぼろと大粒の涙を流した。
化粧を洗い流すような勢いで泣いたら、見た目に見苦しいのはもちろん、翌日の目は腫れ上がって物を見づらくなるし、頬はひりひりと痛むだろう。考えを巡らす頭の中の理性的な自分を『うるさい』と怒鳴りつけて、クレアは鏡台に突っ伏して子どものように泣き続けた。
ひとしきり泣いてからむくりと顔を上げると、化粧は崩れてどろどろに混ざり合っていた。下地が剥げて、目元や頬、鼻の頭が赤くなっているのが分かる。
「……顔、洗わなきゃ。浮腫まないように、今日はゆっくり湯船に浸かって――」
血行を良くしてから寝ないと、と考えた自分に、クレアは呆れて笑ってしまった。
ついさっき、どんなに努力を続けたところで報われないのだと思い知ったところなのに!
「……でも、普段やってることを止めて、明日腫れぼったい顔で後悔するのは嫌だわ」
これは『努力』というより、もはや『惰性』なのかもしれない。流れに一度足を踏み入れてしまえば、立ち止まって抜け出すことにもまた覚悟が要るのだ。
☆
翌朝早くからクレアは王都小離宮の図書室にこもって、歴史書を読み耽った。もしかしたら歴史上にも似たような例があったかもしれないし、そうでなくとも王朝交代後に生じた問題を見れば判断材料にできるかもしれない。
「……どうしても他の方法は無いのかしら」
クレアがバルトール女王として即位すれば、コルキアへの資源の輸出は制限して親スヘンデル政策を採る。鉱山で実質的な強制労働をさせられているバルトール国民を救えるし、コルキアは戦争の準備が捗らずスヘンデルへの侵攻を諦める――かもしれない。
クレアがスヘンデルに残ることを選べば、コルキアはスヘンデルへの侵攻の準備を進めるだろう。でもクレア無しでもレオカディア達のクーデターは成功するかもしれないし、鉄鉱石の採掘量はそれほど増えないかもしれないし、コルキアと戦争になってもスヘンデルが勝つかもしれない。……その過程でどれだけの人が死ぬかは分からない。
全ては未知数だ、未来など誰にも分からない。歴史書から過去を学ぼうにも、ぴったり同じ例など存在しない。
「……ん? これ、賢王レオポルト一世の詩集ね。懐かしい」
本の束に混じっていたのは『賢王』と讃えられるスヘンデル王国の名君が書き残した文章を彼の王妃が勝手にまとめた本、嫁いだばかりの頃にフレッドから薦められた本だった。
「前に読んだ時は……確か、途中から表現が難解になって、よく分からないから途中で読むのを止めたのよね」
記憶を辿りながら、前に目を通したところまでページをぱらぱらと繰る。次第に、後に書いたものになればなるほど、紙のうちのインクが占める割合が増えて、余白が減っていく。
『北の氷河の奥底に潜む古の雪床のごとく彼女は柔らかな光を放つ。凍てつく手の霜を恐れる僕の臆病さよ! 触れ難き彼女は月、遠く天にありて、冷徹に僕を照らす。されどその笑みは咲き初めの薔薇に似て馥郁たる香が僕を和ます。悩ましき妻よ、哀れな僕に一片の慈悲を!』
「……今読んでもよく分からないわ」
エルネスティーヌ妃の美しさを賛美していることだけは分かるが、これでは雪なのか月なのか花なのかすらよく分からない。
一言『あなたは綺麗だ』と言った方がずっと伝わるのではないかと思ってから、賢王には詩を人に見せる気は無かったのだと思い出した。誰の目にも触れないからこそ表現が大仰なのかもしれない。
「ふふっ、『賢王なのに詩の才能は無いのが笑える』っていうのは、この部分のことだったのね。これじゃあ確かにフレッドがそう言うのも――……」
思わず口をついて出た言葉は、途切れた。
ああ、駄目だ。この本にもフレッドとの思い出が染みついてしまっている。教えてくれた時の彼の言葉、表情、声色、その全てをまだ覚えている。五年も共に過ごして思い出を共有して、好きになった人のことを、簡単に忘れられるわけがない。
それくらいクレアにとってフレッドが傍にいることは『当たり前』だったのに、そんな自分が彼から離れて生きていけるのだろうか――。
クレアは決断から逃れるように詩集の続きに目を落とした。
『どうにも気持ちの収まらない出来事があったので記す。とっくに済んだ話だが、エルネスティーヌの故国が滅んだ顛末を』
「え……?」
エルネスティーヌ妃の故国がレオポルト一世の即位から数年のうちに滅びたことは、クレアも歴史的事実として知っていた。だが、その件に関するレオポルト一世の目立った事績は無かったはずだ。
『しばらく前から身辺が煩わしかった。あの国が隣国に脅かされるようになってから、エルネスティーヌの兄はしょっちゅう援軍を求める使者を寄越すようになった。国王親書の文面からはだんだんと余裕が無くなっていき、やがて『肝心な時に手を貸さずに何のための結婚なのか』と僕を非難し、エルネスティーヌを『役立たず』と罵るようになった。それでも僕は何もしなかった。『スヘンデルにも余裕は無い』という返信以外は』
もしも今のバルトールがコルキアの侵略に抗うつもりだったら、クレアにも同じように『スヘンデルから援軍を引き出せ』という内容の書面が届いていたかもしれない。
『彼の国が戦争に負け、国を一つ呑み込んだ戦勝国はスヘンデルと地続きになってしまった。そのこと自体も厄介だが、政略結婚を申し入れてきたのは本当に勘弁してほしい。『エルネスティーヌと別れて新しい王妃を娶れ』だなんて。貴族たちは『亡国の姫を王妃にしておく利点は無い、教会がうるさくて離婚できないなら病死に見せかけて殺してしまえ』と言う』
「ひどい……」
『悩みに悩んだ。僕はスヘンデルの国王だ。たとえ押しつけられた国王稼業でも、僕の肩にはおびただしい数の命が乗っている。それを投げ捨てる選択はできない。国王は国の益となる行動をしなければならない』
国を守るために愛する女性を殺すか、彼女を守るために国と民を捨てるか。確実にどちらか大切なものを失う選択の岐路に立たされた賢王は、ある一つの決断をした。
『だから僕は、こう言った。――』
そこに記された『答え』を見て、クレアは目を見開いた。
☆
「もう答えが出たの? クラウディア」
二日目の昼、ローゼンハイム公爵と一緒に迎賓館に滞在しているレオカディアを訪ねると、そこには既にフレッドがいた。真剣な顔で何かを話し合っていたらしい。
姉は、硬い表情でクレアを見やった。その顔が悲しんでいるように見えたのは妹の贔屓目だったのかもしれない。
「ええ、姉様」
「まだ半日あるのに」
「大丈夫。よく考えて決めたことだから」
「……そう。それで、あなたはどうするの?」
レオカディアに試すような視線を向けられても、心を決めたクレアはもう怯まなかった。
「――私、バルトールに帰ります。私にしかできないことをするために」
いずれ後悔はするかもしれない。いいや、きっと必ず後悔する。正直なことを言えば、今だって迷ったままだ。
(でも、人の心は目に見えない。だから私は『迷っていないふり』をする。迷いのある指導者に率いられたい者はいないもの。皆を引っ張って迷わず正しい道に導いたら称賛されて、迷わず間違った道に引きずり込んだら自分の首で責任を取る、『人の上に立つ』とはそういうことなんでしょう)
王族だろうと庶民だろうと、個人の人格に大した差は無いし、ほとんどの差は適切な教育を受けることによって埋められる。
違いがあるのは『人』ではなく『役』にだ。
そして、クレアにはバルトール王女でありスヘンデルの護国卿の妻という特別な『役』が割り振られている。ならば、精いっぱい演じねばなるまい。
「今までありがとう、フレッド」
クレアは傍らの夫に目をやった。
強張った顔の彼を見て、一瞬そこに途方に暮れた迷子の少年を幻視する。ここにいるのは、三十路も超えて、大勢の人々の尊崇を集める立派な大人のはずなのに。
「今夜、私にあなたの時間をちょうだい?」
『最後の晩餐になるかもしれないから』と言うと、フレッドは目をぎゅっとつぶってから開き、短く『分かった』と答えた。
考える時間は二日と少し――レオカディアが与えた猶予はあまりにも短かった。それでもバルトールの窮状を思えば、クレアに温情をかけたつもりなのかもしれない。
「分かっているでしょうけれど、この子を言いくるめるのはやめてくださるわね、ハウトシュミット卿」
「それぞれの案のメリットとデメリットを述べて『説得』するだけだ。クレアはくだらない嘘を信じるほど馬鹿じゃないよ」
「一方の案を支持するあなたには、公正な説明はできない。それに、賢人を愚かにする物は酒や薬物だけではないでしょう?」
「……何のことだか」
「不誠実な男だこと。あなたのことはどうでもいいけど、一時的な気持ちの弱みにつけ込まれて後悔するのはクラウディアよ? あなたはこの子が大事じゃないの?」
「君は嫌な言い方をするね」
「お褒めにあずかり光栄だわ」
フレッドの刺すような視線を背中に受けながら、レオカディアは動じず悠然と小部屋を去った。
「……私ったら、急に『モテる女』になっちゃったわ」
夜会を終えて自室に戻ったクレアは、鏡台の椅子に腰かけて呟いた。
鏡には装った自分が映っている。人より幼く見える顔は化粧のおかげで印象が引き締まっていて、希少な宝石のアクセサリーもデコルテを晒す型のドレスも不似合いではないと思う。
でも――。
「故郷に帰ったら女王様だし、ここに残っても誰もが羨む素敵な旦那様が全力で守ってくれるんですって。まあ、なんて素敵な人生なのかしら!」
努めて明るい声を出してみても、鏡の中の娘の表情は曇ったままでぱっとしなかった。
やっぱり口紅はもっと淡い色を選べばよかった。夜会の前に鏡を見た時には馴染んでいたはずなのに、血の気が引いて青ざめた顔の中では唇だけが浮いて見える気がする。
「……っ、どうして?」
夜会が始まる前は、こんな気持ちで化粧を落とすことになると思ってもみなかったのに。
たとえ夫の無神経さに傷つけられても『次こそは』と闘志を燃やして再起を図ることだってできたはずだ。
でも、クレアにはもう『次』の機会すら無い。
「普通に恋をして、普通に家族を作って、普通に幸せになりたかっただけなのに。そのために一生懸命頑張ったのに、『王にふさわしく成長した』って何よ! 私、王様になりたいなんて一回も思ったことないのにっ! フレッドもフレッドよ! 『君は気づかなくていい』『守ってあげる』って、私は今も『何もできない子』のままだって……っ!」
望んでもいない栄誉は押し付けられて、望むささやかな幸せを得ることすらできない。一番褒めてほしかった人は、本音ではクレアがいつまでも無力な子どものままでいることを望んでいた。
これが、クレアの努力の結果なのだ。
自分が望んでいたものは何ひとつ手に入らないのだと思い知らされて、クレアはぼろぼろと大粒の涙を流した。
化粧を洗い流すような勢いで泣いたら、見た目に見苦しいのはもちろん、翌日の目は腫れ上がって物を見づらくなるし、頬はひりひりと痛むだろう。考えを巡らす頭の中の理性的な自分を『うるさい』と怒鳴りつけて、クレアは鏡台に突っ伏して子どものように泣き続けた。
ひとしきり泣いてからむくりと顔を上げると、化粧は崩れてどろどろに混ざり合っていた。下地が剥げて、目元や頬、鼻の頭が赤くなっているのが分かる。
「……顔、洗わなきゃ。浮腫まないように、今日はゆっくり湯船に浸かって――」
血行を良くしてから寝ないと、と考えた自分に、クレアは呆れて笑ってしまった。
ついさっき、どんなに努力を続けたところで報われないのだと思い知ったところなのに!
「……でも、普段やってることを止めて、明日腫れぼったい顔で後悔するのは嫌だわ」
これは『努力』というより、もはや『惰性』なのかもしれない。流れに一度足を踏み入れてしまえば、立ち止まって抜け出すことにもまた覚悟が要るのだ。
☆
翌朝早くからクレアは王都小離宮の図書室にこもって、歴史書を読み耽った。もしかしたら歴史上にも似たような例があったかもしれないし、そうでなくとも王朝交代後に生じた問題を見れば判断材料にできるかもしれない。
「……どうしても他の方法は無いのかしら」
クレアがバルトール女王として即位すれば、コルキアへの資源の輸出は制限して親スヘンデル政策を採る。鉱山で実質的な強制労働をさせられているバルトール国民を救えるし、コルキアは戦争の準備が捗らずスヘンデルへの侵攻を諦める――かもしれない。
クレアがスヘンデルに残ることを選べば、コルキアはスヘンデルへの侵攻の準備を進めるだろう。でもクレア無しでもレオカディア達のクーデターは成功するかもしれないし、鉄鉱石の採掘量はそれほど増えないかもしれないし、コルキアと戦争になってもスヘンデルが勝つかもしれない。……その過程でどれだけの人が死ぬかは分からない。
全ては未知数だ、未来など誰にも分からない。歴史書から過去を学ぼうにも、ぴったり同じ例など存在しない。
「……ん? これ、賢王レオポルト一世の詩集ね。懐かしい」
本の束に混じっていたのは『賢王』と讃えられるスヘンデル王国の名君が書き残した文章を彼の王妃が勝手にまとめた本、嫁いだばかりの頃にフレッドから薦められた本だった。
「前に読んだ時は……確か、途中から表現が難解になって、よく分からないから途中で読むのを止めたのよね」
記憶を辿りながら、前に目を通したところまでページをぱらぱらと繰る。次第に、後に書いたものになればなるほど、紙のうちのインクが占める割合が増えて、余白が減っていく。
『北の氷河の奥底に潜む古の雪床のごとく彼女は柔らかな光を放つ。凍てつく手の霜を恐れる僕の臆病さよ! 触れ難き彼女は月、遠く天にありて、冷徹に僕を照らす。されどその笑みは咲き初めの薔薇に似て馥郁たる香が僕を和ます。悩ましき妻よ、哀れな僕に一片の慈悲を!』
「……今読んでもよく分からないわ」
エルネスティーヌ妃の美しさを賛美していることだけは分かるが、これでは雪なのか月なのか花なのかすらよく分からない。
一言『あなたは綺麗だ』と言った方がずっと伝わるのではないかと思ってから、賢王には詩を人に見せる気は無かったのだと思い出した。誰の目にも触れないからこそ表現が大仰なのかもしれない。
「ふふっ、『賢王なのに詩の才能は無いのが笑える』っていうのは、この部分のことだったのね。これじゃあ確かにフレッドがそう言うのも――……」
思わず口をついて出た言葉は、途切れた。
ああ、駄目だ。この本にもフレッドとの思い出が染みついてしまっている。教えてくれた時の彼の言葉、表情、声色、その全てをまだ覚えている。五年も共に過ごして思い出を共有して、好きになった人のことを、簡単に忘れられるわけがない。
それくらいクレアにとってフレッドが傍にいることは『当たり前』だったのに、そんな自分が彼から離れて生きていけるのだろうか――。
クレアは決断から逃れるように詩集の続きに目を落とした。
『どうにも気持ちの収まらない出来事があったので記す。とっくに済んだ話だが、エルネスティーヌの故国が滅んだ顛末を』
「え……?」
エルネスティーヌ妃の故国がレオポルト一世の即位から数年のうちに滅びたことは、クレアも歴史的事実として知っていた。だが、その件に関するレオポルト一世の目立った事績は無かったはずだ。
『しばらく前から身辺が煩わしかった。あの国が隣国に脅かされるようになってから、エルネスティーヌの兄はしょっちゅう援軍を求める使者を寄越すようになった。国王親書の文面からはだんだんと余裕が無くなっていき、やがて『肝心な時に手を貸さずに何のための結婚なのか』と僕を非難し、エルネスティーヌを『役立たず』と罵るようになった。それでも僕は何もしなかった。『スヘンデルにも余裕は無い』という返信以外は』
もしも今のバルトールがコルキアの侵略に抗うつもりだったら、クレアにも同じように『スヘンデルから援軍を引き出せ』という内容の書面が届いていたかもしれない。
『彼の国が戦争に負け、国を一つ呑み込んだ戦勝国はスヘンデルと地続きになってしまった。そのこと自体も厄介だが、政略結婚を申し入れてきたのは本当に勘弁してほしい。『エルネスティーヌと別れて新しい王妃を娶れ』だなんて。貴族たちは『亡国の姫を王妃にしておく利点は無い、教会がうるさくて離婚できないなら病死に見せかけて殺してしまえ』と言う』
「ひどい……」
『悩みに悩んだ。僕はスヘンデルの国王だ。たとえ押しつけられた国王稼業でも、僕の肩にはおびただしい数の命が乗っている。それを投げ捨てる選択はできない。国王は国の益となる行動をしなければならない』
国を守るために愛する女性を殺すか、彼女を守るために国と民を捨てるか。確実にどちらか大切なものを失う選択の岐路に立たされた賢王は、ある一つの決断をした。
『だから僕は、こう言った。――』
そこに記された『答え』を見て、クレアは目を見開いた。
☆
「もう答えが出たの? クラウディア」
二日目の昼、ローゼンハイム公爵と一緒に迎賓館に滞在しているレオカディアを訪ねると、そこには既にフレッドがいた。真剣な顔で何かを話し合っていたらしい。
姉は、硬い表情でクレアを見やった。その顔が悲しんでいるように見えたのは妹の贔屓目だったのかもしれない。
「ええ、姉様」
「まだ半日あるのに」
「大丈夫。よく考えて決めたことだから」
「……そう。それで、あなたはどうするの?」
レオカディアに試すような視線を向けられても、心を決めたクレアはもう怯まなかった。
「――私、バルトールに帰ります。私にしかできないことをするために」
いずれ後悔はするかもしれない。いいや、きっと必ず後悔する。正直なことを言えば、今だって迷ったままだ。
(でも、人の心は目に見えない。だから私は『迷っていないふり』をする。迷いのある指導者に率いられたい者はいないもの。皆を引っ張って迷わず正しい道に導いたら称賛されて、迷わず間違った道に引きずり込んだら自分の首で責任を取る、『人の上に立つ』とはそういうことなんでしょう)
王族だろうと庶民だろうと、個人の人格に大した差は無いし、ほとんどの差は適切な教育を受けることによって埋められる。
違いがあるのは『人』ではなく『役』にだ。
そして、クレアにはバルトール王女でありスヘンデルの護国卿の妻という特別な『役』が割り振られている。ならば、精いっぱい演じねばなるまい。
「今までありがとう、フレッド」
クレアは傍らの夫に目をやった。
強張った顔の彼を見て、一瞬そこに途方に暮れた迷子の少年を幻視する。ここにいるのは、三十路も超えて、大勢の人々の尊崇を集める立派な大人のはずなのに。
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