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叱責と励まし
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ヴィルと初めて出会った時のことなら、エフィの記憶にも色濃く残っている。
あの頃のエフィは使用人からも侮られていて、まともな教育を受けるどころか最低限の世話がされるかすら怪しい状況にあった。
顔合わせの前日に『どうせ侯爵令息はすぐに寄りつかなくなるので今だけ無難にやりすごしてください』と付け焼き刃の所作を叩き込まれて、『できなかったら罰として食事を抜く』と言いつけられた。
飢えのひもじさは知っていたから、式次第と想定問答を言葉の意味も分からないまま必死に覚えて、侯爵令息との顔合わせに臨んだ。
それなのに――。
『お初にお目にかかります。ヴィルベルト・レネ・リーフェフットです。どうぞよろしく』
目の前の美しい少年は、黄金の大きな瞳を明るく輝かせて、堂々とエフィに握手を求めてきた。
想定から外れたやりとりを補えるだけの知識も経験もないエフィには、どうしたらいいのか分からなかった。この綺麗な男の子に『売女の娘で罪深く汚らわしい』自分なんかが触れていいのだろうか。でも、せっかく差し出された手を取らないのも失礼かもしれない――分からなかったから、逃げ出したのだ。
「初めて会った時、お前を笑わせてみたいと思った。王女に気に入られて出世したいとかそういう欲があったわけじゃない。ただ、『あの子が喜んでいるところを見てみたい』って思ったからだ」
大人になった彼は、抱きすくめられて動けないでいるエフィの顔を覗き込んで、愛おしげな目で見てくる。
「それは……子どもが珍しい変な虫を見かけて突くようなものでは」
「愛する女を虫に喩えられたらさすがに怒るぞ」
「ごめんなさい」
確かに『女の趣味がすごく悪い男』と評されるのは彼の沽券に拘わるだろうと考えていると、『その顔はたぶん分かってないな』とため息を吐かれてしまった。
「俺よりお前の名誉に関わることだろう。……まあ、『可愛い子の反応が気になって突いた』というのはその通りだが」
「っ、それ、もういいわ!」
「何がだ?」
その場に留められたまま、過去の自分のことを『可愛い』『可愛い』と連呼されると居心地が悪い。
咎める視線を向けたエフィに向かって、ヴィルは至って爽やかに笑いかけてきた。その反応を見て気づく。――わざとだ。
「素直に褒め言葉を受け取れないところも可愛いが……いずれは受け取ってもらわないとな。お前は愛されるべき人間だ」
「わざとらしい誉め殺しは要らないわ」
「俺の本心を言っただけだ。それで甘やかされて駄目になってくれるなら、俺としては大歓迎だが」
「やめて……っ」
「嫌だ、聞かない。前にも言っただろう、お前が壊れるまで愛するって」
本当は、誰より愛されたいくせに。自分には『愛』が手に入らないと思い込んでいるから、向けられている愛を受け入れられない。
そんなエフィを一度壊してから作り変えてしまおうと、ヴィルは言った。
「お前のことを愛している。お前にも俺や生まれた子のことを愛してほしい。これは今の俺の本心だ。何千回でも何万回でも愛を誓えと言われれば、喜んでそうする。それでも『永遠に絶対に変わらない』を証明することは不可能だと、エフィも分かっているだろう?」
純真に『永遠』を誓える子どもでもあるまいし、もちろんそんなことは分かっている。未来のことなど誰にも知り得ないのだから。
エフィがこくりと頷いた拍子に、目尻を伝った涙の粒がぽろりと零れ落ちた。
「……お前が泣くのは、未来が怖いからか。俺の愛を失うことも少しは惜しんでくれるのか? さっきは子の行く末を案じていたな、『産めば我が身は安泰だから生まれさえすればいい』とは思わなかったか?」
「そんなこと……っ、」
――自分には、ヴィルに愛される資格なんて無いのに、このまま愛され続けたいなんて。
――我が子には、革命派の神輿になんかならずに、争いとは無縁の満ち足りた生を送ってほしいなんて。
生きることさえ許されない身のエフィが、そんな強欲な願いを持っていいはずがないのに、わざわざ口にさせないでほしい。
体を抱き締めていたヴィルの腕が緩んだ。エフィに呆れきって、解放する気になったのかもしれない。
想像して俯いたエフィの細い肩に、いつかのように大きな掌が掛けられた。
「――もっと、わがままになってくれ! 頼むから!」
がしりと肩を掴んで揺さぶられる。
エフィを見るヴィルは、昔の彼と同じように、苦しそうな顔をしていた。
「俺はお前の話が聞きたい! 好きなら好きと、嫌なら嫌だと言ってくれ。『他人が許さない』だとか『常識的にそうするべき』だとか、どうして、俺はお前に尋ねたのに、お前の口から『お前以外の誰かの言葉』を聞かなきゃならないんだ! 色々考えて、それで、お前はどう思うんだ?」
彼はずっと言いたいことを堪えていたんだと知った。
エフィがヴィルに迫って抱いてもらった時も、ヴィルから求婚された時も、彼は『エフィはどう思うか、何をしたいか』を聞いていたのに。
エフィはいつも『何が状況にふさわしい正しい行動か』ばかり考えていた。それは『ふさわしい』行動に紛れさせて恋心を隠すためだったり、『ふさわしくない』自分の心を律するためだったり、理由は様々だったけれど。
「……無理よ。もう、わからないわ」
エフィの周りには、エフィの『素直な気持ち』に用がある人なんて長らくいなかったから、幼い頃は僅かにでも持てていたその気持ちの抱き方も表し方も忘れてしまった。
「わかんないの……そんな気持ちはもう無くなっちゃった」
「無くなってない!」
一喝したヴィルは、何度か言葉に迷うようなそぶりをした後に、唸った。
「……お前は、面倒くさい」
その言葉を聞いて、エフィは微笑んだ。どうやら、今度こそ本当に愛想を尽かされてしまったらしい。
「そうかしら、昔から『扱いやすい楽な子』だと言われたけれど」
「悪口ではなく……いや悪口なのか? お前は『都合よく使え』と言うわりに、完全に身を任せようとはしない。いつまでも主導権を握っていたがる。それを自我や矜持というのかもしれないが」
「そんな大したものじゃないわ」
翻弄されるだけされて、どこに流れ着くかも分からない。流れ着いた後に哀れだからと守ってもらえるわけでもない。単なる自衛のための警戒心に『矜持』なんて立派な名前はつかないだろう。
言い募るエフィのことを、ヴィルは押しとどめて言った。
「分かってる。そこが扱いづらくて面倒くさくて――余計に手に入れたいと欲を煽る」
簡単に心を許さないからこそ、手に入れたいと思うのだ。――もしもエフィが本心から誰かを好きになって身も心も尽くしたいと思ったら、どれほどの想いを向けるのだろう。もしも自分がその『誰か』になれたら、と。
「俺を諦めさせたいなら逆効果だったな。俺も俺のやりたいようにやる。お前がどんなに嫌がって逃げ出そうとしても離さない。見ると多少心は痛むが、お前の泣き顔も怒った顔も嫌いじゃない。もっと見たいくらいだ」
「……変態」
「知らなかったのか?」
王女らしくない悪態をついたエフィにヴィルは小さく笑いかけると、エフィの体を横抱きにして長椅子まで運び、隣に腰かけた。
「大丈夫だ。これからゆっくり思い出して、覚えていけばいい」
時間はたくさんあるんだから、と宥める『夫』の肩に、エフィは頭をもたれさせた。
その次の次の日、ヴィルは早くも公邸の使用人を数人選んで私邸に遣わした。
「はじめまして、姫君。グレーテルと申します。リーフェフット侯爵家ではヴィルベルト様の乳母を務めておりました」
髪を後ろでひっつめて分厚いレンズの眼鏡をかけたグレーテルは、いかにも厳格そうな壮年の女性だ。
硬く格式ばった挨拶の言葉とともに彼女にじろりと見据えられて、エフィは肩をびくつかせた。考えてみれば、事情を打ち明けられた侯爵家ゆかりの人間が、主家を取りつぶした『エフェリーネ王女』を憎まないはずがない。
グレーテルの次の言葉を固唾を飲んで待っていると、彼女はため息を吐いて言う。
「この度は本当に申し訳ございません。私の教育が行き届かないせいもあったのでしょう。……拉致監禁に婦女暴行など、人の風上にもおけぬ所業、亡き旦那様と奥様がどれほどお嘆きになるか。私もこんなことはしたくなかったのですが」
じろり、と、彼女の仕える主人であるはずのヴィルを見据えながらそう言った後、エフィに向かって再度詫びて深々と頭を下げた。
「返す言葉も無い」
「っ、違います!」
目の前で『罪』を認めたヴィルの片頬には、赤い掌の痕がくっきりとついていた。もしかして、グレーテルに擲たれたのだろうか。
エフィは慌てて否定した。確かに多少強引なところはあったが、『ヴィルは極悪人でエフィは被害者だ』と扱われるのは何だか違う気がする。
「わたくしが望んだことですから、どうか頭を上げてください」
「仮にそうだったとしても、それは不健全で間違った行いです」
グレーテルはヴィルを庇うエフィの言葉をぴしゃりと撥ねつけてから、顔を上げて堂々と言った。
「あなたは正しく遇されなければなりません。私たちが仕えるべき『リーフェフット家の奥様』になられたのですから」
私たちは誠心誠意仕えますから、あなたも『誇らしい主人』でいてくださいますように。
そこにあるのは、主人と奴隷のような上下関係ではなく、親愛の情で結ばれた人的な繋がりだけでもない。近いものを挙げるとするなら『互いに尊敬できる仕事相手でありたい』という職業プロ意識だった。
グレーテルの指揮の下、エフィの部屋は一階の中庭に面した部屋に移された。階段や段差を経ずに中庭に出られることが決め手だったらしい。
『無理は禁物ですが、十月十日ずっと寝ついて過ごすと体も心も弱り、足も萎えてしまいます。軽い運動をした方がよろしいかと』
グレーテルの助言によって、過保護なヴィルも渋々と納得し、エフィは久しぶりに太陽の下に出た。
エフィが館に連れてこられた頃に植えられた花々はきちんと根づいて、春を迎えた今は綺麗な花を咲かせている。花の咲き誇る花壇や木々、四阿を巡る散歩は、エフィの眼を楽しませるだけでなく心までも安らげてくれた。
「エフィ。また庭にいたのか」
「おかえりなさい、ヴィル」
帰宅するや否や庭に足を向けたヴィルは、エフィの頬に挨拶のキスを降らせると、妻の散歩に付き添った。
蕾や咲き初めの花の変化を楽しみ、美しく咲いた花を一輪だけ摘んで、エフィの髪に挿して飾るのが、近頃の彼の日課になっている。
「……」
「なに?」
エフィを見つめて満足そうに笑むヴィルに、エフィは首を傾げた。
この頃のエフィは体を締めつけるコルセットは付けず、アンダードレスの上に丈長のワンピースだけを着ている。まじまじと見つめるほど物珍しくもなければ華美でもないと思うのだが。
「いや。初めて会った時は雪の妖精だと思ったのに、今のお前は春の女神みたいだ」
「っ!?」
明らかに過言だ。何か言い返したかったが、ヴィルの声に揶揄の色は無かった。彼は、本心からそう思っているらしい。
(……ヴィルの眼か趣味が悪いのは、前からだけれど。最近、何か、変だわ)
エフィは、どきどきとうるさく騒ぐ胸にそっと手を当てた。
以前なら同じ言葉を聞いても『お世辞は要らないわ』とばっさり切り捨てるか、『ヴィルは優しいのね』と同情を受け取るか、どちらかだっただろう。
最近のエフィは、蚊の鳴くような声で『ありがとう』と呟くことしかできなくなるのだ。顔に血が上って頬が熱くなるのを感じながら。
「……ねぇ、ヴィル。今夜は部屋に来る?」
「それが、夜は外せない会食があって、帰りが遅くなる。先にやすんでくれ」
「……そう」
「急に時間が空いて家に寄れてよかった」
妊娠が明らかになってから、ヴィルはエフィを抱かなくなった。
孕んだから用済みなのかとも思ったが、ヴィルの態度からするに『無理をさせて何かあると怖いから』と躊躇っているのだろう。
それ自体には不満は無いが、今日のように一緒の寝台で寝むことすらできない日は、二人で熱を交わした夜を懐かしく思いもする。
散歩を終えたエフィを自室まで送るとすぐに、ヴィルは王都小離宮へと取って返していた。『急に空いた時間』だったせいで、前後にもぎっしりと予定が詰まっているのだろう。
『懐妊したんだって? おめでとう! 珍しくヴィルが家に呼んでくれるっていうから、今はちょっと忙しいんだけどいろいろ落ち着いたら時間を作って、今度はちゃんとした手土産を持っていくよ。その代わりといったらなんだけど、君にも頼みごとがあって……』
タイミングよく届けられた手紙は、祝辞と近況報告と要求を一通で兼ねていた。
「ハウトシュミット卿ったら……」
エフィは呆れながらフレッドからの手紙を読み込んで、まだしばらくヴィルの多忙は続く見込みだと知った。寂しいが、政情不安で革命まで起きた国の事後処理がすんなり行くはずもない。
ヴィルが無事で早く帰ってくることを、祈るしかなかった。
(ハウトシュミット卿からの『頼み事』も、今のところ、わたくしがすることは無い。……暇だわ)
何もすることが無いと、春の陽気も相まっていくらでも眠れてしまう。
エフィはそっと腹を撫でた。まだ服の上からでは膨らみも分からないほど小さい胎児が、よほど睡眠を欲しているのだろうか。
「お方さま。生姜茶はいかがですか?」
「ありがとう。いただくわ」
ハンナが、茶と茶菓子を載せた大きなワゴンを押してくるのが見えた。
普通の紅茶よりも薄い水色の生姜茶は、飲むと舌にピリッと刺激がある。体をぽかぽかと温めてくれるのが好ましくて、エフィは昔から愛飲していた。
「ハンナ、ありがとう。あなたの淹れる生姜茶が一番美味しい」
グレーテルたちの人手も増えたことでハンナと接する機会は以前よりも減っていたが、気心知れた彼女ならではの気遣いをしてくれたことに、自然とエフィの頬も緩んだ。
(あたたかいからかしら? なんだか、眠――)
急激な睡魔に襲われて、エフィは掛けていた長椅子に横向きに倒れ込んだ。
手に持っていたカップが滑り落ちて鳴らした耳障りな音にも、毛足の長い絨毯に大きく染みを広げていく光景にも、すでに夢の世界へと旅立ったエフィは気づかない。
「……」
見るからに尋常でない様子で眠った――眠らされた女主人を見ても、小間使いの少女は硬直したように動かなかった。
少女の顔に『驚き』はない。だって――エフィを生姜茶に入れた薬で眠らせたのは、ハンナ自身なのだから。
だが、驚きはしていなかったものの、動揺もしていなかったわけではなかった。むしろ、少女はひどく狼狽していた。
少女の頭の中にはこれまでの『お方さま』との思い出がいくつも蘇っていた。
初めて会った時に、世の中にはこんなに綺麗な人がいるのかと見惚れてしまったこと。
俗っぽいことに免疫が無くてすぐに照れたり丸め込まれたりしてしまうのを、自分より身分も高い年上の女の人なのに『可愛い』と思っていること。
旦那さまと喧嘩した後の彼女は元気が無くていっそういじらしく見えたから、ついつい励ましてしまったこと。
いつも謙虚で、ちょっとした指示を出すときにも笑顔と御礼を忘れないこと。
そんな彼女のことが――憎い、わけではないけれど。
「どうしようっ、どうしよう……でも、『お姫さま』を隠してたことがバレたら、旦那さまが大変なことになるって言われたもの。早く出ていってもらわないと!」
だから、やっぱり『計画』は実行しないといけないのだ。
少女は自分を励ますように、一度頷いてみせた。
あの頃のエフィは使用人からも侮られていて、まともな教育を受けるどころか最低限の世話がされるかすら怪しい状況にあった。
顔合わせの前日に『どうせ侯爵令息はすぐに寄りつかなくなるので今だけ無難にやりすごしてください』と付け焼き刃の所作を叩き込まれて、『できなかったら罰として食事を抜く』と言いつけられた。
飢えのひもじさは知っていたから、式次第と想定問答を言葉の意味も分からないまま必死に覚えて、侯爵令息との顔合わせに臨んだ。
それなのに――。
『お初にお目にかかります。ヴィルベルト・レネ・リーフェフットです。どうぞよろしく』
目の前の美しい少年は、黄金の大きな瞳を明るく輝かせて、堂々とエフィに握手を求めてきた。
想定から外れたやりとりを補えるだけの知識も経験もないエフィには、どうしたらいいのか分からなかった。この綺麗な男の子に『売女の娘で罪深く汚らわしい』自分なんかが触れていいのだろうか。でも、せっかく差し出された手を取らないのも失礼かもしれない――分からなかったから、逃げ出したのだ。
「初めて会った時、お前を笑わせてみたいと思った。王女に気に入られて出世したいとかそういう欲があったわけじゃない。ただ、『あの子が喜んでいるところを見てみたい』って思ったからだ」
大人になった彼は、抱きすくめられて動けないでいるエフィの顔を覗き込んで、愛おしげな目で見てくる。
「それは……子どもが珍しい変な虫を見かけて突くようなものでは」
「愛する女を虫に喩えられたらさすがに怒るぞ」
「ごめんなさい」
確かに『女の趣味がすごく悪い男』と評されるのは彼の沽券に拘わるだろうと考えていると、『その顔はたぶん分かってないな』とため息を吐かれてしまった。
「俺よりお前の名誉に関わることだろう。……まあ、『可愛い子の反応が気になって突いた』というのはその通りだが」
「っ、それ、もういいわ!」
「何がだ?」
その場に留められたまま、過去の自分のことを『可愛い』『可愛い』と連呼されると居心地が悪い。
咎める視線を向けたエフィに向かって、ヴィルは至って爽やかに笑いかけてきた。その反応を見て気づく。――わざとだ。
「素直に褒め言葉を受け取れないところも可愛いが……いずれは受け取ってもらわないとな。お前は愛されるべき人間だ」
「わざとらしい誉め殺しは要らないわ」
「俺の本心を言っただけだ。それで甘やかされて駄目になってくれるなら、俺としては大歓迎だが」
「やめて……っ」
「嫌だ、聞かない。前にも言っただろう、お前が壊れるまで愛するって」
本当は、誰より愛されたいくせに。自分には『愛』が手に入らないと思い込んでいるから、向けられている愛を受け入れられない。
そんなエフィを一度壊してから作り変えてしまおうと、ヴィルは言った。
「お前のことを愛している。お前にも俺や生まれた子のことを愛してほしい。これは今の俺の本心だ。何千回でも何万回でも愛を誓えと言われれば、喜んでそうする。それでも『永遠に絶対に変わらない』を証明することは不可能だと、エフィも分かっているだろう?」
純真に『永遠』を誓える子どもでもあるまいし、もちろんそんなことは分かっている。未来のことなど誰にも知り得ないのだから。
エフィがこくりと頷いた拍子に、目尻を伝った涙の粒がぽろりと零れ落ちた。
「……お前が泣くのは、未来が怖いからか。俺の愛を失うことも少しは惜しんでくれるのか? さっきは子の行く末を案じていたな、『産めば我が身は安泰だから生まれさえすればいい』とは思わなかったか?」
「そんなこと……っ、」
――自分には、ヴィルに愛される資格なんて無いのに、このまま愛され続けたいなんて。
――我が子には、革命派の神輿になんかならずに、争いとは無縁の満ち足りた生を送ってほしいなんて。
生きることさえ許されない身のエフィが、そんな強欲な願いを持っていいはずがないのに、わざわざ口にさせないでほしい。
体を抱き締めていたヴィルの腕が緩んだ。エフィに呆れきって、解放する気になったのかもしれない。
想像して俯いたエフィの細い肩に、いつかのように大きな掌が掛けられた。
「――もっと、わがままになってくれ! 頼むから!」
がしりと肩を掴んで揺さぶられる。
エフィを見るヴィルは、昔の彼と同じように、苦しそうな顔をしていた。
「俺はお前の話が聞きたい! 好きなら好きと、嫌なら嫌だと言ってくれ。『他人が許さない』だとか『常識的にそうするべき』だとか、どうして、俺はお前に尋ねたのに、お前の口から『お前以外の誰かの言葉』を聞かなきゃならないんだ! 色々考えて、それで、お前はどう思うんだ?」
彼はずっと言いたいことを堪えていたんだと知った。
エフィがヴィルに迫って抱いてもらった時も、ヴィルから求婚された時も、彼は『エフィはどう思うか、何をしたいか』を聞いていたのに。
エフィはいつも『何が状況にふさわしい正しい行動か』ばかり考えていた。それは『ふさわしい』行動に紛れさせて恋心を隠すためだったり、『ふさわしくない』自分の心を律するためだったり、理由は様々だったけれど。
「……無理よ。もう、わからないわ」
エフィの周りには、エフィの『素直な気持ち』に用がある人なんて長らくいなかったから、幼い頃は僅かにでも持てていたその気持ちの抱き方も表し方も忘れてしまった。
「わかんないの……そんな気持ちはもう無くなっちゃった」
「無くなってない!」
一喝したヴィルは、何度か言葉に迷うようなそぶりをした後に、唸った。
「……お前は、面倒くさい」
その言葉を聞いて、エフィは微笑んだ。どうやら、今度こそ本当に愛想を尽かされてしまったらしい。
「そうかしら、昔から『扱いやすい楽な子』だと言われたけれど」
「悪口ではなく……いや悪口なのか? お前は『都合よく使え』と言うわりに、完全に身を任せようとはしない。いつまでも主導権を握っていたがる。それを自我や矜持というのかもしれないが」
「そんな大したものじゃないわ」
翻弄されるだけされて、どこに流れ着くかも分からない。流れ着いた後に哀れだからと守ってもらえるわけでもない。単なる自衛のための警戒心に『矜持』なんて立派な名前はつかないだろう。
言い募るエフィのことを、ヴィルは押しとどめて言った。
「分かってる。そこが扱いづらくて面倒くさくて――余計に手に入れたいと欲を煽る」
簡単に心を許さないからこそ、手に入れたいと思うのだ。――もしもエフィが本心から誰かを好きになって身も心も尽くしたいと思ったら、どれほどの想いを向けるのだろう。もしも自分がその『誰か』になれたら、と。
「俺を諦めさせたいなら逆効果だったな。俺も俺のやりたいようにやる。お前がどんなに嫌がって逃げ出そうとしても離さない。見ると多少心は痛むが、お前の泣き顔も怒った顔も嫌いじゃない。もっと見たいくらいだ」
「……変態」
「知らなかったのか?」
王女らしくない悪態をついたエフィにヴィルは小さく笑いかけると、エフィの体を横抱きにして長椅子まで運び、隣に腰かけた。
「大丈夫だ。これからゆっくり思い出して、覚えていけばいい」
時間はたくさんあるんだから、と宥める『夫』の肩に、エフィは頭をもたれさせた。
その次の次の日、ヴィルは早くも公邸の使用人を数人選んで私邸に遣わした。
「はじめまして、姫君。グレーテルと申します。リーフェフット侯爵家ではヴィルベルト様の乳母を務めておりました」
髪を後ろでひっつめて分厚いレンズの眼鏡をかけたグレーテルは、いかにも厳格そうな壮年の女性だ。
硬く格式ばった挨拶の言葉とともに彼女にじろりと見据えられて、エフィは肩をびくつかせた。考えてみれば、事情を打ち明けられた侯爵家ゆかりの人間が、主家を取りつぶした『エフェリーネ王女』を憎まないはずがない。
グレーテルの次の言葉を固唾を飲んで待っていると、彼女はため息を吐いて言う。
「この度は本当に申し訳ございません。私の教育が行き届かないせいもあったのでしょう。……拉致監禁に婦女暴行など、人の風上にもおけぬ所業、亡き旦那様と奥様がどれほどお嘆きになるか。私もこんなことはしたくなかったのですが」
じろり、と、彼女の仕える主人であるはずのヴィルを見据えながらそう言った後、エフィに向かって再度詫びて深々と頭を下げた。
「返す言葉も無い」
「っ、違います!」
目の前で『罪』を認めたヴィルの片頬には、赤い掌の痕がくっきりとついていた。もしかして、グレーテルに擲たれたのだろうか。
エフィは慌てて否定した。確かに多少強引なところはあったが、『ヴィルは極悪人でエフィは被害者だ』と扱われるのは何だか違う気がする。
「わたくしが望んだことですから、どうか頭を上げてください」
「仮にそうだったとしても、それは不健全で間違った行いです」
グレーテルはヴィルを庇うエフィの言葉をぴしゃりと撥ねつけてから、顔を上げて堂々と言った。
「あなたは正しく遇されなければなりません。私たちが仕えるべき『リーフェフット家の奥様』になられたのですから」
私たちは誠心誠意仕えますから、あなたも『誇らしい主人』でいてくださいますように。
そこにあるのは、主人と奴隷のような上下関係ではなく、親愛の情で結ばれた人的な繋がりだけでもない。近いものを挙げるとするなら『互いに尊敬できる仕事相手でありたい』という職業プロ意識だった。
グレーテルの指揮の下、エフィの部屋は一階の中庭に面した部屋に移された。階段や段差を経ずに中庭に出られることが決め手だったらしい。
『無理は禁物ですが、十月十日ずっと寝ついて過ごすと体も心も弱り、足も萎えてしまいます。軽い運動をした方がよろしいかと』
グレーテルの助言によって、過保護なヴィルも渋々と納得し、エフィは久しぶりに太陽の下に出た。
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「エフィ。また庭にいたのか」
「おかえりなさい、ヴィル」
帰宅するや否や庭に足を向けたヴィルは、エフィの頬に挨拶のキスを降らせると、妻の散歩に付き添った。
蕾や咲き初めの花の変化を楽しみ、美しく咲いた花を一輪だけ摘んで、エフィの髪に挿して飾るのが、近頃の彼の日課になっている。
「……」
「なに?」
エフィを見つめて満足そうに笑むヴィルに、エフィは首を傾げた。
この頃のエフィは体を締めつけるコルセットは付けず、アンダードレスの上に丈長のワンピースだけを着ている。まじまじと見つめるほど物珍しくもなければ華美でもないと思うのだが。
「いや。初めて会った時は雪の妖精だと思ったのに、今のお前は春の女神みたいだ」
「っ!?」
明らかに過言だ。何か言い返したかったが、ヴィルの声に揶揄の色は無かった。彼は、本心からそう思っているらしい。
(……ヴィルの眼か趣味が悪いのは、前からだけれど。最近、何か、変だわ)
エフィは、どきどきとうるさく騒ぐ胸にそっと手を当てた。
以前なら同じ言葉を聞いても『お世辞は要らないわ』とばっさり切り捨てるか、『ヴィルは優しいのね』と同情を受け取るか、どちらかだっただろう。
最近のエフィは、蚊の鳴くような声で『ありがとう』と呟くことしかできなくなるのだ。顔に血が上って頬が熱くなるのを感じながら。
「……ねぇ、ヴィル。今夜は部屋に来る?」
「それが、夜は外せない会食があって、帰りが遅くなる。先にやすんでくれ」
「……そう」
「急に時間が空いて家に寄れてよかった」
妊娠が明らかになってから、ヴィルはエフィを抱かなくなった。
孕んだから用済みなのかとも思ったが、ヴィルの態度からするに『無理をさせて何かあると怖いから』と躊躇っているのだろう。
それ自体には不満は無いが、今日のように一緒の寝台で寝むことすらできない日は、二人で熱を交わした夜を懐かしく思いもする。
散歩を終えたエフィを自室まで送るとすぐに、ヴィルは王都小離宮へと取って返していた。『急に空いた時間』だったせいで、前後にもぎっしりと予定が詰まっているのだろう。
『懐妊したんだって? おめでとう! 珍しくヴィルが家に呼んでくれるっていうから、今はちょっと忙しいんだけどいろいろ落ち着いたら時間を作って、今度はちゃんとした手土産を持っていくよ。その代わりといったらなんだけど、君にも頼みごとがあって……』
タイミングよく届けられた手紙は、祝辞と近況報告と要求を一通で兼ねていた。
「ハウトシュミット卿ったら……」
エフィは呆れながらフレッドからの手紙を読み込んで、まだしばらくヴィルの多忙は続く見込みだと知った。寂しいが、政情不安で革命まで起きた国の事後処理がすんなり行くはずもない。
ヴィルが無事で早く帰ってくることを、祈るしかなかった。
(ハウトシュミット卿からの『頼み事』も、今のところ、わたくしがすることは無い。……暇だわ)
何もすることが無いと、春の陽気も相まっていくらでも眠れてしまう。
エフィはそっと腹を撫でた。まだ服の上からでは膨らみも分からないほど小さい胎児が、よほど睡眠を欲しているのだろうか。
「お方さま。生姜茶はいかがですか?」
「ありがとう。いただくわ」
ハンナが、茶と茶菓子を載せた大きなワゴンを押してくるのが見えた。
普通の紅茶よりも薄い水色の生姜茶は、飲むと舌にピリッと刺激がある。体をぽかぽかと温めてくれるのが好ましくて、エフィは昔から愛飲していた。
「ハンナ、ありがとう。あなたの淹れる生姜茶が一番美味しい」
グレーテルたちの人手も増えたことでハンナと接する機会は以前よりも減っていたが、気心知れた彼女ならではの気遣いをしてくれたことに、自然とエフィの頬も緩んだ。
(あたたかいからかしら? なんだか、眠――)
急激な睡魔に襲われて、エフィは掛けていた長椅子に横向きに倒れ込んだ。
手に持っていたカップが滑り落ちて鳴らした耳障りな音にも、毛足の長い絨毯に大きく染みを広げていく光景にも、すでに夢の世界へと旅立ったエフィは気づかない。
「……」
見るからに尋常でない様子で眠った――眠らされた女主人を見ても、小間使いの少女は硬直したように動かなかった。
少女の顔に『驚き』はない。だって――エフィを生姜茶に入れた薬で眠らせたのは、ハンナ自身なのだから。
だが、驚きはしていなかったものの、動揺もしていなかったわけではなかった。むしろ、少女はひどく狼狽していた。
少女の頭の中にはこれまでの『お方さま』との思い出がいくつも蘇っていた。
初めて会った時に、世の中にはこんなに綺麗な人がいるのかと見惚れてしまったこと。
俗っぽいことに免疫が無くてすぐに照れたり丸め込まれたりしてしまうのを、自分より身分も高い年上の女の人なのに『可愛い』と思っていること。
旦那さまと喧嘩した後の彼女は元気が無くていっそういじらしく見えたから、ついつい励ましてしまったこと。
いつも謙虚で、ちょっとした指示を出すときにも笑顔と御礼を忘れないこと。
そんな彼女のことが――憎い、わけではないけれど。
「どうしようっ、どうしよう……でも、『お姫さま』を隠してたことがバレたら、旦那さまが大変なことになるって言われたもの。早く出ていってもらわないと!」
だから、やっぱり『計画』は実行しないといけないのだ。
少女は自分を励ますように、一度頷いてみせた。
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