たぶん戦利品な元王女だけど、ネコババされた気がする

美海

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王女と侯爵令息《過去》

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 お前は力ある者なのだから、と、ヴィルベルトの父は事あるごとに息子に言い聞かせた。

「権力、武力、財力、頭脳、人徳、美貌、弁舌……何か人より優れた資質を持つ者は、自制を忘れてはいけないよ。それらは『力』だ。振るいようによっては相手をひどく傷つけることもできる」

 誰だって叩かれたら痛いだろう、と優しい父に諭されても、その時のヴィルにはよく分からなかった。
 両親はもちろん使用人に至るまでリーフェフット侯爵家の皆に愛されて育った少年は、それまでに誰かに叩かれたことなど一度も無かったのだから。
 きょとんとして首を傾げた息子のことを、侯爵は愛おしむように見た。

「……そう。『力』なんだ。ありすぎても扱いに困るが、無いと何も守れない」
「父上?」
「本当にすまない、ヴィル。私の力が足りなかったせいだ」

 我が子が黄金の瞳を持って生まれて以来、十年。
 何かと理由をつけて息子を呼び出そうとする伏魔殿からの誘いも、ついに断りきれなくなってしまった。
 あからさまな敵意を向けてくる相手のもとに可愛い我が子を送りたいはずもない。その相手が『国王』という絶対的権力者であれば、なおさらのこと。

「いいかい、ヴィル。王城ではこと。良いことも悪いこともね」

『国王に目をつけられずに無事に帰ってきなさい』が親としての最大限の愛情を込めた言葉になるなんて、誰が思っただろう。
 日頃から『高潔なるリーフェフット』の名に恥じぬように生きろと教えてきたというのに。
『良いこともするな』と言われた意味がわからないのか、また首を傾げた息子に、侯爵は根気強く言い聞かせ続けた。

「お初にお目にかかります。ヴィルベルト・レネ・リーフェフットです」

 父の言いつけの甲斐あってか、王城でヴィルは立派に無味乾燥な自己紹介を果たしてみせた。
 相手に気に入られたいという下心の無い挨拶は、集められた同じ年頃の『行儀見習い』の少年たちの中で浮きもせず目立ちもしなかった。国王は一瞥して鼻を鳴らし『決めた通りに』という指示だけを出して、謁見の間を去った。

 そして、その後、少年たちの中でヴィルだけが王城の片隅の王女の庭へと連れて行かれたのだ。
 王城の日当たりのいい庭に面した部屋は、国王や世継ぎの王子、来賓のために使われていた。
 王女の庭は日差しが差さないうえに庭師が手入れを怠っているのか、花壇に植わった花は枯れて、代わりに雑草が繁茂していた。

(……でも、この子だけは綺麗だ。雪の妖精みたい)

 ヴィルは侍従から『エフェリーネ王女』と紹介された少女を見て、思った。
 珍しい白銀の髪が背中に垂らされているのを見て、氷雪を連想した。灰色の大きな瞳も白い肌も、少女の生まれ持った色合いはどこかひんやりとしている。
 でも、『雪の妖精』のようだと思ったのは、それが原因ではなかった。
 彼女の人形のような無表情は、あまりにも人間の子どもらしくなくて、自分と同じく温い体温を持った生き物だとは思い難かったのだ。

(彼女が動くところが見てみたい)

 言葉にするならそれだけだった。
 人間離れした雰囲気の少女のことを、人間だと確かめて安心したかった。ただそれだけの、ほんの出来心で、ヴィルは口火を切った。

「お初にお目にかかります。ヴィルベルト・レネ・リーフェフットです。どうぞよろしく」

 目の前に堂々と差し出された右手を、王女はじっと見つめて、戸惑ったように瞳を揺らした。
 大方、『行儀見習い』の少年が、仮にも主君となる王女に対してという対等の礼を求めてくる事態など、彼女は想定していなかったのだろう。
 エフェリーネ王女は着ていたドレスの裾を両手でぎゅっと掴むと、そのままその場から走り去った。

(……なんだよ。王女だか何だか知らないけど、お高くとまっちゃってさ)

 礼儀知らずに対して尽くす礼は無いという趣旨だろうと理解したヴィルは、取られなかった右手を下ろした。
 でも、もしも彼女が今の無礼に怒ったのだとしたら、作り物みたいな見かけの中身はちゃんと人間らしいみたいだ。

(それなら、怒るよりも笑った方がきっと可愛い。笑わせてみたいな)

 後から思えば『気になる子にちょっかいを出す』以外の何物でもない行動をするくらいには、ヴィルは最初から王女のことが

 名目上は『行儀見習い』であっても、王城に有力貴族の子弟を集めることは、『国王にとっての人質』かつ『貴族たちの人脈作り』でしかなかった。
 修養よりも『いかに将来の有力者に気に入られるか』こそが大事なのだから、少年たちは必死に国王や王子に気に入られるように努め、その反応に一喜一憂し、結果が振るわない同輩を嗤った。
 そんな彼らにとって、ヴィルは遠巻きにする存在だった。
 ヴィルが一人だけ世継ぎの王子から遠ざけられたことは嘲笑の対象となったが、彼自身が次代のリーフェフット侯爵であり『黄金の瞳』まで持っている。大人でも迷うであろう接し方を子どもたちが測りかねるのは、至極当然のことだった。

「……することが無いなら、帰してくれればいいのに」

 ヴィルの口からついに弱音が溢れたのは、王城に連れてこられてから二ヶ月ほど経ってからのことだ。
 仕えるべき王女には避けられているのか、初日以来、彼女は姿を見せない。行儀見習いの同輩も王城の使用人たちも、ヴィルとはやりとりを交わさないように国王から言いつけられているらしい。
 まだ十歳の、それもこれまで皆に愛されてきた子どもにとって、『いない者のように扱われる』という陰湿な嫌がらせは堪えた。
 尊敬する父は『何もするな』と言ったけれど、何もせずにここにいると、まるで自分が幽霊にでもなったような気がするのだ。
 家に帰りたい、ともう一度呟いたとき、右目からぽろりとこぼれた涙の滴が少年のまるい頬を伝った。

「なに、してるの?」

 ――そして、そんな時にかぎって、一番涙を見られたくない相手が通りかかるのだ。

「王女殿下……!」
「泣いてた……?」
「泣いてません! リーフェフットの子が泣くはずない!」
「でも、顔がぬれてるわ。泣いていないなら、顔をあらったとか」
「泣いてないって言ってるだろ! 話を聞けよ!」

 二ヶ月ぶりに会う彼女は相変わらず表情に乏しかった。
 首を傾げる仕草や心底不思議そうな声の調子によって、彼女にヴィルを揶揄うつもりが無いことは分かる。
 それでも、自分の情けないところを自分より年下の小さな女の子に見られるのは恥ずかしくてたまらなくて、ヴィルは逆上して声を荒らげた。

「こんなわけわかんないところに連れてこられて、お前みたいなぼんやりしたやつが主になるなんて、嫌に決まってるだろ!」

 それは『だから泣いても仕方ないのだ』と言うための根拠の無い八つ当たりに過ぎなかったから、言葉が口からこぼれた後でヴィルははっと顔を青ざめさせた。
 彼女は王女で、自分よりも身分が高いのだ。こんな八つ当たりで王女に不快な思いをさせればどんな処罰が下るか――ようやく父の言いつけの意味を理解しても遅い。

「ごめんなさい」

 しかし、エフェリーネ王女の反応は、泣きもせず怒りもせず、予想したどれとも違っていた。
 理不尽な八つ当たりを吹っかけられたというのに、彼女はぺこりと頭を下げたのだ。

「いや……申し訳ありません。言いすぎました」
「ううん。みんなもよく言ってるわ」
「みんな?」
「『こんなところに来たくなかった。でも、グズな王女の世話が楽なのだけはいい』って」

 あなたも思ったことを言っただけなんでしょう、と王女は何でもないことのように言った。

「帰りたいなら門から出ない方法もあるのだけれど、みんな、教える前に持ち場に戻ってしまうから」
「……王女殿下。どこでそんな噂を聞いたんですか」
「『うわさ』……?」
「あーもう、誰が誰に話してるところを見たんですか!」
「わたくしに」
「……」
「みんなが、わたくしに、『王女殿下がグズなおかげでいつも助かります』って言うわ」

 自身に向けられた悪口を表情すら変えずに復唱する子どもを見て、少年はぎゅっと拳を握りしめた。

 ヴィルは、王女付きの侍女たちを集めて、怒鳴りつけた。

「何を考えているんだ、お前たちは! 僕の家でもしも使用人が父上に向かってそんなことを言おうものなら、クビだぞ!」

 侯爵は人格者ではあったが、階級意識自体は確固たるものを持っていた。各々の身分に応じた役割を果たすべきだという考えの彼は、自身に高貴なる者の義務を厳しく課しているぶんだけ、『使用人としての本分』を忘れた使用人がいれば容赦なく叱責しただろう。
 王女という高い身分、幼い子どもだという年齢、仕えるべき主君だという関係――どの要素をとってみても、エフェリーネに対して使用人が暴言を吐いていい理屈など無いのだ。

「お言葉ですが、ヴィルベルト様」
「何だ?」

 そのはずなのに、叱責された侍女頭はふてくされたような顔をして反省の色もみせずに言った。

「侯爵閣下やヴィルベルト様は尊き方ですもの、使用人ふぜいが軽んじるなんて許されませんわ。でも、」
「でも、何だ!? 侯爵の息子が偉いなら、王女に敬意を払わないなんてあり得ないだろう!」
「私たちに売女の子を敬えと?」

 ヴィルベルト様にとっては木端のような有象無象かもしれませんが、私たちだって貴族の端くれですのよ。
 ねっとりとした怒りと侮蔑を込めて、彼女の赤い唇はヴィルの知らない単語を形作った。

「ばいた……とは何だ?」
「口にするのも穢らわしい言葉ですわ。王女殿下のお母上は華やかな方でしたの。
「確かに殿下の髪は綺麗だし目立つ。前王妃も似ておられたのならさぞかし華やかな美しい方だったのだろうな」
「……まあ。ええ、母娘でとてもよく似ていらっしゃいますわ。殿方をたらし込むのがお上手で」

 含みのある言い方が意味することを少年が知るよしもない。
 前王妃の男性関係をあげつらって王女を貶めたはずが、文字通りに賞賛と捉えられて、機嫌を損ねた侍女頭の凶手が『何をされても逆らわない少女』に向くこともまた、この時のヴィルは知らなかった。

 翌日、ヴィルに与えられている部屋に、綺麗に包装された箱が置かれていた。
 箱に添えられたカードの『きのうはおこらせてごめんなさい』という筆蹟は拙く、幼い子どもが書いたことがわかる。内容からして、エフェリーネが贈ってきたのだろうか。
 彼女が詫びる必要など無いのだから中身を確認してから返そうと、ヴィルは箱を開け――驚いて目を見開いた。

「殿下!」

 王女に割り当てられた区画を探し回って、ようやく見つけた少女は木陰で本を読んでいた。擦り切れた表紙の題名を見て、童話の本だと分かった。

「……どうしたの?」
「どうしたの、じゃない!」

 息を切らして駆けてきたヴィルの姿をまじまじと見て、王女は首を傾げた。その姿を見て、泣きたくなる。

「――何なんだ、!?」

 背中の中ほどまで伸ばされていたはずの美しい白銀は、昨日の今日でぱっつりと肩上で途切れていた。
 スヘンデル王国では庶民はともかく貴族女性は髪を長く伸ばすことが一般的だ。仮に短くするにしても、大切な髪は丁寧に手入れして鋏を入れて長さや形を決めるだろう。
 今の王女のように鎌か何かで一息に刈られたように乱雑に髪を切られるなんて――罪人か、貧者か、娼婦でないとあり得ない。

「言え! その髪は誰にやられた!?」 
「わたくしが」
「そんなわけないだろう!?」
「痛っ」
「早く言え!」

 両手で掴んだ肩の細さに怯みながらも、ヴィルは力を込めて小さな体を揺さぶった。
 早く真相を聞き出したいという気持ちももちろんあったが、最初に頭をよぎったのは『自分のせいじゃないか』という疑いだった。虐げられている王女を助けるという『正しいこと』をしたつもりが、かえって彼女に鬱憤を向けさせたなんて思いたくなかった。

「だって……あなたが、わたくしの髪の毛をほめてたって聞いたからっ、」

 幼い王女はついに泣き出してしまった。
『怒らせてしまった人に謝りたい』と言ったら手伝ってくれただけで、決めたのは自分だ、と泣いて、最後まで『手伝ってくれたひと』の名前を吐かなかった。
 主君が髪を切るのを止めもせずに手伝い、ご丁寧に箱詰めして送るような人物が、王女に正しく『自由』や『選択の余地』を与えていたはずがないのに。

「あげたら、ゆるしてくれると思ったの……」

 ごめんなさい、と謝りつづける王女は、どうしてヴィルが怒っているのか理解できないのだろう。
 無償の愛を受け取ったことが無い彼女は、何かをあげるとかあげないとか、損得でしか人の感情が動かないと思っている。そう思わなければ、『愛されていない自分』に耐えられなかったのかもしれない。ヴィルはあまりの怒りで沸いた頭の熱を逃がすように、大きく深呼吸をした。

「……エフィ」
「……?」
「お前のことだよ。『エフェリーネ』だから『エフィ』だ。エフィと僕は友達だから、お互いを『エフィ』『ヴィル』って呼び合う。それで、もしも困ったこととか迷ったことがあったら、『ヴィルにも聞いてみる』って言え」

 人よりも優れた資質は、『力』は、人を傷つけることも守ることもできる。――尊敬する父はそう言った。
 目の前の『王女』であるはずの少女は無力で、彼女を傷つける者にとっては、何故かまだ爵位も継いでいない一貴族にすぎない自分の方が恐ろしいらしい。
 だから、権力の傘のもとで彼女を守ってやろうと思った。

「ともだち……」
「分かった? 返事は?」
「わかった」
「よし」

 返事を強いて、頷かせる。
 彼女を傷つけた者とやっていることが同じなのは分かっているが、自分は絶対に彼女を傷つけたりはしない。未来永劫ずっとそうに決まっていると、少年は呟いた。

「ミゲルは器用だから、これくらいならすぐに綺麗にしてくれると思うんだけど……エフィをうちに連れて帰るわけにもいかないしなあ」

 家のお抱え理髪師の名前を出しながら、ヴィルはざんばらに切られてしまったエフィの髪を撫でた。不揃いな長さを揃えた後で編み込みを入れてまとめれば、短い髪も悪目立ちはしないだろう。
 ヴィルの母は洒落者で、よく鏡台に向き合ってはああでもないこうでもないと髪の結い方を試行錯誤していた。そんな時に侯爵が部屋を訪ねて声をかけると、母は振り返って大輪の花のように『急かすならあなたも手伝って?』と笑うのだ。それに肩をすくめた父が『仰せのままに、侯爵夫人』と応じるのを見るのが、ヴィルは好きだった。

(エフィも……)

 連れ帰ったエフィの髪を結ったり綺麗なドレスを着せたりして、彼女が喜ぶところを想像した。
 振り返った彼女がヴィルのことを『あなた』と呼びかけるところも――。

「ヴィル……?」
「っ、どうした!? いや、べつに、僕は何も……!」

 不敬な想像だったかもしれないと後ろめたくて、ヴィルはぶんぶんと首を振った。エフィは不思議そうな顔をした後で、おずおずと切り出した。

「あの、友達になってくれて、うれしい。『エフィ』って呼ばれるのも……でも、わたくし、あなたにあげられるものがなくて……」
「エフィをちょうだい」
「えっ?」

 お礼の気持ちを表せないと眉を下げる彼女に向かって、間髪入れずに答えていた。
 エフィはまた誰かの悪意に晒されるだろうし、そもそも『ヴィルが綺麗だと言ったから』だけで髪まで切ってしまうくらい、自分のことがどうでもいいのだ。『お礼なんて要らないよ』と放っておくことはできなかった。
 それに――。

「僕がいいって言うまで、髪の毛一本でも傷つけるような真似をしないで。エフィは僕のものだから、僕のものを傷つけようとするやつがいたら、すぐに教えて」

 どうせくれるというなら一番価値があるものがいい。
 お金や物なら何人にも配れる。髪だってまた伸びるが、『エフィ』は一人しかいないのだから。他のやつに傷つけられるくらいなら、自分のものにしてしまいたい。
 ヴィル本人さえ無意識の独占欲に気づくはずもなく、エフィは『わかった』とだけ答えた。

 結論から言えば、エフィを『ヴィルのもの』にしたことは、良い方向に働いた。
 エフィに害意を持つ者にとっては『後ろ盾の無い捨てられた王女』よりも『リーフェフット侯爵令息』の不興を買う方がよほど恐ろしいらしい。
 自らのことに無頓着なエフィもまた、『僕のものをいいかげんに扱うな』と言われれば、少しは頓着するようになったようだ。
 ヴィルが綺麗だと褒めた白銀の髪は梳られてさらにきらきらと輝き、彼女の愛らしい顔を縁取るようになった。
 触り心地のいい髪にヴィルがつい手を伸ばしてしまい、エフィの頭を撫でると、彼女は猫の子のように懐いてくる。

 可愛かった。
 もしも自分に妹がいればこんな感じだったかもしれない。愛らしく自分を一心に慕ってくる小さな生き物を見ると、どんなささやかな望みも叶えてやりたくなった。
 もっともエフィは『一緒に遊んでほしい』というような可愛らしい望みしか言ってくれないのだけれど。

「……もっと、わがままを言っていいのに」

 ヴィルは、机に向かって書き取りの練習をしているエフィを見て、ため息をついた。
 政略結婚の駒となるにも外国語の習得をはじめ、王族の妃にふさわしい教養が必要だ。国王もさすがにこのまま放置するわけにはいかないと思ったのか、教育係が遣わされるようになると、エフィは見ていて心配になるくらい熱心に課題に取り組んだ。

「でも、わたくし、字が綺麗じゃないから」

 今はやるべきことがあるのに遊ぶわけにはいかないと、エフィは恥ずかしそうに手元の手習いの紙を隠した。
 確かに子どもらしい拙さが残る筆蹟ではあるが、これまで碌に教育も与えられていなかったことを考えれば、長足の進歩だろう。
 それでも満足がいかないと、エフィは悔しそうな顔をしていた。

「ヴィルに恥をかかせたくないの。どうしたらヴィルみたいに上手く書けるのかしら……?」
「……一緒に練習しようか」
「ほんとう!? いいの? あのね、ここが……」 

 年季が違うのに焦る必要は無いと思いつつ、彼女のやる気を削ぐのも本意ではない。
 羽根ペンを持ったエフィの手を支えてやりながら、彼女の真剣な表情をそっと盗み見た。

『ヴィルに恥をかかせたくないの』――美しい筆蹟を完全に身につけた後も、詩作につけ刺繍につけ踊りダンスにつけ、エフィは何度もこの言葉を繰り返した。

 それを聞くたびに歪な動機を痛々しくも思ったが、健気だとも思えてしまった。

『私は侯爵閣下のことがずっと好きだったのに、閣下は『自分は誰とも結婚する気は無いしあなたみたいな子どもは論外だ』って言うんですもの。あんまり悔しくって、彼が根負けするまで頑張って認めさせたのよ。『私ほどあなたの花嫁にふさわしい人間はいない』って』――ヴィルの母は、夫との結婚について語る時、晴れやかで得意げな笑みを浮かべていた。
 自分の主君は、自分の守るべき少女は、自分のために美しく聡明であろうとする――それは、まるでみたいじゃないか。

(そうだ。もしかしたら、僕は本当にエフィと結婚できるかもしれない……!)

 王女と侯爵令息なら結婚は不可能ではない。まして、リーフェフット侯爵家は王女の降嫁先にしばしば選ばれるほどの名門で、実際にヴィルベルトの曽祖母も王女だったのだから。
 エフィと結婚して侯爵家の館に迎えれば、他の者がエフィを傷つけることはなく、ヴィルはもっと長い時間一緒にいられる。
 そうして父と母のようにいつまでも仲睦まじく過ごすことができたら、どんなにいいだろう。

「……ごめんね。それは無理だ、ヴィル」

 せっかく良いことを思いついた、と定例貴族議会のために王城に出向いた父侯爵に打ち明けたのに、父の顔色は芳しくなかった。
 父は、たとえ不可能なことであってもその理由をきちんと説明してくれる人だったのに、このことについては『無理だ』と一言で切って捨てた。

「どうして!? だって、父上のおばあさまも王女だったんでしょう!?」
「そうだね。本来なら何の問題も無かったんだろうな。……陛下は私のことを憎んでおられる。憎い相手の息子に娘はやらんだろう」

 だから自分だけ他の貴族子弟とは違う扱いをされているのかと理解はしたが――とうてい納得がいかなかった。
 もしも国王が娘を溺愛していて『ヴィルでは娘の結婚相手に不適格だ』と言って断られるのなら、諦めもついた。だが、そうではない。
 母を亡くし使用人にも心を許せないエフィにとって、父親の存在がどれほど大きいかは誰にだって分かる。それなのに、国王はエフィに教育係を突然送って寄越しただけだった。

「……なんだよ。国王なんて、エフィに会いに来さえしないのに、そういう時だけ親ぶって――!」
「滅多なことを言うな!」

 ぱんっという音がして、それから頬がじわじわと熱くなる。この感覚を『頬を叩かれた』というのだと、ヴィルは初めて気づいた。
 息子を打擲した父は、まるで自分も擲たれたかのように苦しそうに顔を歪めながらも、けっして謝ったり言葉を撤回したりしようとはしなかった。

「お前は何も言うんじゃない。ともかく、無理なものは無理だ。諦めなさい」

 優しい父に叩かれた衝撃と、『諦めろ』と言われた悲しみと。
 何も言えずに黙り込んだ息子を、侯爵は憐れむような目で見た。

「ああ、それから。王女殿下のことが大切なら、その想いはくれぐれも隠しておくことだ。……陛下は残酷なことができるお方だからね」

 王女殿下を気の毒に思わないわけではないが、私にとっては我が子の方がずっと大事なんだ。
 どうか分かってくれるね、と懇願する父に食ってかかれるほど、ヴィルは『子ども』にはなりきれなかった。

 エフィはただの一時の主君だ。そのうち政略結婚で他所の王族か大貴族に嫁がされて、完全に縁が切れる。
 彼女は『ヴィルのもの』でも『妹みたいな存在』でも……『初恋の女の子』でもない。そうであってはならない。

 自分に言い聞かせるのは、うまくいっていた。
 今は心が痛いけれど、このまま言い聞かせ続けていれば、いつか忘れられると思って――。

「どうして、名前で呼んでくれなくなったの?」

 ――エフィを泣かせることになった。
 侯爵と会ってからヴィルの様子が変わったことには気づいていたのだろう、エフィは何かを聞きたげにしていたのに、何も言ってやらなかったからだ。

「……わたくし、何か悪いことをした?」
「違います! ただ、」

 涙を溜め込んだ瞳でヴィルを見上げるエフィは、自分の着ているドレスの裾をぎゅっと握りしめている。
 それは『王女らしくなくてみっともないから』と教育係にいの一番に矯正された動作――不安になった時の彼女の癖だ。ヴィルに突然そっけない態度を取られるようになったことが、よほど堪えたのだろう。
 慌ててエフィは悪くないのだと弁解して、嘘にはならない理由を述べた。

「ただ、身分の別はつけねばならないと思って」
「……」

 嘘ではない。元々が王女と騎士の関係なのだ、対等以上に接する方がおかしかった。
 分かっているのに、エフィの涙の前では、きっぱり拒絶することができなかった。

「……エフィ。『友達』をやめたわけじゃない」
「本当?」
「ああ、本当だ。でも、こうやって話しているとうるさく言うやつもいるから隠す。それだけだよ」
「じゃあっ、誰もいないときなら……っ、二人きりでいるときは、今までみたいに喋っていい?」
「……いいよ」

 迷いながら了承すると、エフィはひしと抱きついてきた。
 おねがい、ひとりにしないで、と乞う幼い少女を突き放すことはできずに、気づけば抱きしめ返していた。

「ひとりになんかするわけない。誓いを立てようか」
「誓い?」

 儀礼上身につけているだけの刃の潰れた剣を、彼女に持たせ、ヴィルは自らの肩に剣の腹を置かせた。

「ヴィルベルト・レネ・リーフェフットは、貴女に永遠の忠誠を誓います」

 この国の古の騎士の誓い。建国王が高潔の騎士リーフェフットに対して執り行ったことに由来する騎士叙任の儀式。
 とっくに形骸化して決まりきった文言をなぞるだけになった儀式は既に経ていた。その時と同じ相手、同じ手順、同じ文言なのに、全く違った心持ちになるのはどうしてだろう。

「えいえん、ってなに?」
「これから先もずっと一緒ってこと。エフィが嫌がっても」
「嫌がったりなんかしないわ!」

 心外だと言わんばかりに目を怒らせた彼女を宥めて、『答えが欲しい』と催促する。

「……ええ、それで結構よ」

 まだ機嫌を損ねているのか硬い声ではあったけれど、愛しい主君に彼女自身の言葉で永遠を誓わせたことに、ヴィルは途方もない幸福を感じた。
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