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無償の愛と有償の愛*
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エフィの最初の記憶は、女の甲高い絶叫から始まる。
『どうしてっ、お前は黄金じゃなかったの!? せめて王子ならよかったのに!』
その女の顔立ちは並外れて整っているのに、怒りに目を吊り上げているせいで、美しさは台無しだった。唯一普段の風情を残している口元は、なんとなくエフィに似ている気がする。
だから、これ以外の記憶は無いけれど、彼女のことは暴君レオポルト7世の2番目の王妃――エフィの母なのだと思っていた。
後で人に聞いて知った話だが、エフィの母は元々レオポルト7世の最初の王妃の侍女だったという。
折り合いが悪く義務的に王子を儲けて以来没交渉だった国王夫妻は、頼みの綱である第一王子が不慮の事故で死亡しても、関係を修復することは無かった。色好みの国王の触手は、歳を重ねた王妃ではなく、若く美しいその侍女へと伸びた。
野心家だった侍女は、寝物語に王妃の座をねだり、王妃にしてくれれば必ず黄金の瞳の子を産むと国王を口説いたのだという。
国王が建国王の瞳を持たないことに劣等感を抱いていることは周知の事実で、かつ、その頃にリーフェフット侯爵家に黄金の瞳の子が生まれたことで、国王は焦っていた。
いずれにせよ、王妃との間に次の子が望めない以上、跡取りは別の女と作るしかない。そして、一夫一妻制を採る国教の下では、愛人の子は庶子として扱われ、後継者にできない。
国王の決断は早かった。王妃と離婚して実家に帰し、すぐさま侍女と再婚して2番目の王妃に据えたのだ。
最初の王妃は大貴族の娘だったため同派閥からの反発は大きく、国王は教会からも名指しで批判された。一方で、弱小貴族の出身である2番目の王妃との結婚で得られるものは何も無かった。
もしも得をする者がいるとすれば、2番目の王妃本人だけ――そんな結婚だったのに。
『どうしてなの!? あの方はもう、他の女を見ているわ! 黄金の瞳を産まなきゃならないのに!』
2番目の王妃は、ついに野望を果たすことができなかった。
彼女が産んだのは第一王女エフェリーネで、しかも王女が生まれた時には国王の寵愛は既に失せていた。
元から自身の美貌以外に頼るものが無い女だった。最初の王妃の家と違って実家の発言力も無いに等しい。
だから、王妃にしておく旨みがない彼女は不義密通の罪を着せられて、一族もろともあっさりと処刑された。エフェリーネが2歳の時の話だ。
エフィは生まれたときから『ハズレ』の子で、数年後に3番目の王妃が王子を産んでからは、いっそう価値がない存在になった。
弟王子はいつも人に囲まれていて近づくことすらできないのに、エフィには後ろ盾になってくれる外戚どころか、甘い蜜を啜るために近寄ってくる取り巻きの一人すらいない。
王城の片隅で政略結婚の駒として使われる日を待つだけの、皆に忘れ去られた王女――そんな惨めで哀れな王女だったからこそ、国王は栄光あるリーフェフット侯爵家の嫡男に仕えさせたのだろう。
同年代の子らが『王子の遊び相手』として未来の国王との接点を得ていく中で一人だけ、誰にも顧みられない鄙びた王女の世話をさせられて、どれほどヴィルは悔しかっただろう。
もしもあの時きちんと事情が分かっていたら、『わたくしに護衛は必要ありません』と断って、彼を解放していたのに。実際に、第一王女には暗殺者に狙われるだけの価値など無かったのだから。
(わかってなかったから……ずっと一緒にいてほしい、って)
初めて触れ合う自分以外の子ども。初めての友達で、初恋の人。
それまで狭い世界で過ごしてきたエフィは、自分の世界に異物として入ってきたヴィルに執着した。
彼と一緒じゃないと嫌なのだと駄々をこねて、どこに行くにも連れまわした。本当は『わたくしの自慢の騎士』をみんなに見せびらかしたかったのだ。『自慢の主』でも何でもないエフィに誇られたところで、ヴィルにとってはいい迷惑なだけだったろうに。
あのリヴィシェーンの離宮の時もそうだった。
もしもヴィルを王城に置いていっていたら、単なる護衛とその対象として適切に距離を取って接していたら、旅先でエフィが王女らしく内に籠もって過ごしていたら――少しでも何かが違っていたら、ヴィルが濡れ衣を着せられることは無かった。リーフェフット侯爵夫妻が死ぬことも無かっただろう。
いつもそうだ。
エフィが勝手なことをするから、迷惑をかける。
エフィが期待に応えられないせいで、他の人が不幸になる。
母の望みどおりに、黄金の瞳を持って生まれるか、せめて男児であればよかった。――そうしたら、母は殺されなかった。
ヴィルを側に置かなければよかった。あるいは、エフィがもっと隙も疵も無い、皆に誇れるような主だったらよかった。――そうしたら、彼は今も仲のいい父母と笑い合っていたはずだ。
だから、その幸せを奪った自分は、何を差し出してでも償いをしなくてはならない。
(でも……ヴィルの今の悩みの種は、わたくしで。わたくしだって、求婚を断って彼を悲しませたいわけじゃなくて)
それに、好きなひとに求められて結ばれることの、何が悪いというのだろう。いったい何が間違っているというのだろう。
互いに唯一を誓うことは神が寿くほど尊く、愛し合うことはこんなにも気持ちがいいのに。
ぷつり、と張りつめた理性の糸が切れる音が聞こえた気がした。
「――ああ、やっと頷いてくれたな」
安堵したような声が言う。
夜毎の荒淫に苛まれるようになってから、ひと月以上が経過していた。
もう幾度めかも覚えていない彼の求婚に対して、わずかに顎を引いて答えただけなのに、ヴィルは見逃さなかったらしい。
正面から繋がったエフィの腕を自分の首に回させて抱き上げると、書類一式のそろった机の前まで運ばれた。
「気が変わらないうちに書いてしまおう」
「ふ、う……っ、」
「エフィ、ここの欄だ」
挿し込んだものを抜かないまま体を半回転されて、机に向かわされ、右手には羽根ペンを握らされる。
結婚の際に教会に届け出る書類一式は、そのほとんどの欄が既に埋められていた。残り僅かな空欄に手を引いて導かれて、エフィは震える手で『エフェリーネ』と書きつけ続けた。
今まで書いてきた中で一番崩れた字の署名になってしまったが、書類の有効性自体に問題はないだろう。
「書けたか? 見せてくれ」
「ぁあ゛っ、ぁん……! うご、かなっ!」
「不備はないな。ありがとう、これでお前は、正真正銘俺の妻だ」
向き直ったヴィルが久しぶりに心底嬉しそうな顔をして笑ってくれたから、エフィも嬉しくなって、へらりと笑みを浮かべた。
(なんだ。署名なんかでこんなに喜んでくれるなら、もっと早く書けばよかった)
何か考えなければいけないことがあった気がするけれど、快楽に溺れて靄のかかったような頭では、うまく思い出せなかった。
それからのエフィは、淫蕩で従順なヴィルの妻になった。
毎夜愛される体からは怠さが去らず、ものを考えることが億劫になり、日のほとんどを寝台の住人として微睡んで過ごす。開発されきって疼く体を火照らせながら、ひたすらヴィルの帰りを待ち、帰ってきた彼と淫らな遊びに興じる。絶頂を迎えて気を遣り、泥のように眠る。
そんな生活を続けていれば、自然と体力も落ち、食も細くなる。今のエフィからは活発な少女の面影は薄れ、退廃的な色気が身体に纏わりついていた。
「……少しは食べてくれ」
この頃、ヴィルはエフィからの情事の誘いを断るようになった。
抱き寄せたのも色めいたことが目的ではなく、体を支えて食事を摂らせるためらしい。エフィは差し出されたパン粥の匙を、小鳥の雛のように啄んだ。
「ごめんなさい、もう食べる気がしないの」
「俺への抗議のつもりなら、自分の体を傷つけない方法にしろ」
苦しそうなヴィルの顔を見て、エフィは思わず笑ってしまった。
彼は大きな勘違いをしている。彼のことを恨むはずがない、こうなることを最終的に選んだのは、エフィなのだから。
「違うわ。本当に食欲が無いだけよ。昼間も眠くて、全然動かないせいかしら」
「医者に診せよう」
「こんなことで?」
「お前の身に何かあったら、俺は生きていられない」
大袈裟すぎると笑い飛ばそうとして、ヴィルの瞳が笑っていないことに気づいた。
もう流石に分かっている。ヴィルのエフィへの執着は異常だ。もしかしたら本当に、と思わせるだけの迫力があった。
「……分かったわ。信頼できるひとを呼んで」
翌日すぐに遣わされてきたのは、医学の発達した隣国カルメで学んだという女性の医官だった。
熱と脈を測った後、彼女は一日の過ごし方や食生活、月の障りの有無について尋ねてきた。思い出しながら訥々と答えると、医官は微笑ましいものを見るような目をして言う。
「おそらく懐妊されてらっしゃるかと」
「……懐妊? 赤ちゃんが、ここに……?」
「ええ、そうですよ。おめでとうございます」
エフィは幼げな動作で自身の下腹部にぺたりと手を当てた。そこはまだ平らかで、子を宿した実感は湧かなかった。
(おめでとう、と言われても)
ヴィルに望むものをあげられることは、嬉しい。子に対する元気に育ってほしいという素朴な情はある。
だが、体に流れる旧王族の血に翻弄される生を送るであろう我が子を思えば、素直に『嬉しい』『よかった』と喜びの声を発することはできそうになかった。
時間がもう少し経って、腹が大きく膨らめば、あるいは赤子が生まれた後なら、母として純粋に子の誕生を喜んでやれるだろうか。
『どうしてっ、お前は黄金じゃなかったの!? せめて王子ならよかったのに!』
脳裏に狂気を帯びた女の金切り声が蘇る。
一生愛せないままかもしれない、と一瞬でも思ってしまった自分が恐ろしかった。
早馬で帰宅したヴィルは医官から報告を受けていたのだろう、帰宅するなり部屋を訪ね、エフィのことをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、エフィ」
その声がくぐもって聞こえたのは、彼が涙ぐんでいるからか。
エフィがぼんやりと視線をそちらにやる前に、ヴィルは袖でぐいと顔を拭ってしまったから、確かめることはできなかった。
「ここだと人手が心もとないな。公邸にいる侍女を数人こちらに移す。侯爵家に長年仕えていた者たちだ」
「わたくしのことを知られるわけにはいかないでしょう?」
「ああ。だからお前を向こうに連れて行くのは我慢する。公邸の方が仕事場からも近いし警備も厳重なんだが……と、それはいい。口が堅く人となりも信頼できる者を選ぶ」
産婆の手配も考えておかないと、と大真面目に気の急いたことを言ったヴィルは、『まだ先のことでしょう』と指摘されても、往生際悪くもごもごと口を動かした。
「初めてのことだから、できるかぎり万全の準備をしたい」
何か困っていることはないか、なんでも言ってくれ、と労られて、エフィは居心地の悪さに後退りした。
だって――彼の期待に応えられるとは、まだ限らないのに。
「早く会いたいな。お前に似れば、男でも女でもきっと可愛い」
「……男の子がいいわ。その方が、『国王』の予備スペアとしては都合がいいでしょう?」
叶うならば、ヴィルによく似た黄金の瞳の男子がいい。
そうでなければ、生まれた子は望まれた役割を十分に果たすことができない。役立たずの期待外れの欠陥品のことなんて、誰も求めて愛していないのだから。
「……エフィ」
その声は、冷酷な言葉を吐いたエフィのことを怒り責めるというよりも、教え諭すように優しく落ち着いていた。
「俺は、『役に立つ道具』が欲しいわけじゃない。愛する女が産んだ、愛する子どもが欲しいんだ。だから……泣きながらそんなことを言うな」
涙に濡れた頬を撫でられて、エフィは顔を背けて逃げ出そうとした。元から体格の差があるうえに弱ったエフィの抵抗など、赤子の手をひねるように制圧され、捕まってしまったけれど。
「……今のあなたはそう言っていても、人の気持ちは変わるでしょう? この子が疎んじられない確固たる理由がないと、何も安心できないじゃない……っ!」
理由も無く愛されたいなんて、高望みはしない。
少なくとも『斯くあるべし』と期待されたことに応えていれば、それを理由に排除されることはない。
エフィはそれを悟ったから、国王に苦しめられた人々の助けを求める目に応えるように、慈悲深い王女として行動したのだ。
国王に目をつけられない程度の動きしかしない、手の届く範囲にだけ優しい、慈悲深い王女――いつか言われた通りだ、自己保身のために外面のいい最低限の善行を施す行為が『慈悲』だなんて、欺瞞にも程がある。
でも、王政打倒の革命が起きたこの国に『王女』はもう要らないのだという。もうここには、エフィを必要とする愛してくれる者などいない。だからかえって、死にも未練が残らなくてよかった。……そのはずだったのに。
「なんでっ、あなたは、いつまでもわたくしなんかに構うのっ!? わたくしには愛される理由なんて無いのに!」
何も返せないどころか彼を不幸にしかしない関係なのに、どうして遠ざかってくれないのだろう。
彼の理解できない行動が怖くて、それに慣れつつある自分のことも怖い。このまま愛を受けることに慣らされて、愛が無いと生きていけなくなってしまったら、中毒患者と同じじゃないか。依存してしまったら、それが無くなったときの渇きにどれほど苦しめられるのだろう。
「……ごめんなさい」
もう取り乱したりしないから離して、少し一人にさせて、と身を捩っても、ヴィルは逃がしてくれそうになかった。
腕の中に閉じ込めたエフィに向かって、彼は問いかけた。
「エフィ、俺たちが初めて会った時のことを、覚えているか?」
俺はあの時から王女を愛したいと思ったのだと、『無理やり忠誠を誓わされた騎士』だったはずの男は、静かに語り始めた。
『どうしてっ、お前は黄金じゃなかったの!? せめて王子ならよかったのに!』
その女の顔立ちは並外れて整っているのに、怒りに目を吊り上げているせいで、美しさは台無しだった。唯一普段の風情を残している口元は、なんとなくエフィに似ている気がする。
だから、これ以外の記憶は無いけれど、彼女のことは暴君レオポルト7世の2番目の王妃――エフィの母なのだと思っていた。
後で人に聞いて知った話だが、エフィの母は元々レオポルト7世の最初の王妃の侍女だったという。
折り合いが悪く義務的に王子を儲けて以来没交渉だった国王夫妻は、頼みの綱である第一王子が不慮の事故で死亡しても、関係を修復することは無かった。色好みの国王の触手は、歳を重ねた王妃ではなく、若く美しいその侍女へと伸びた。
野心家だった侍女は、寝物語に王妃の座をねだり、王妃にしてくれれば必ず黄金の瞳の子を産むと国王を口説いたのだという。
国王が建国王の瞳を持たないことに劣等感を抱いていることは周知の事実で、かつ、その頃にリーフェフット侯爵家に黄金の瞳の子が生まれたことで、国王は焦っていた。
いずれにせよ、王妃との間に次の子が望めない以上、跡取りは別の女と作るしかない。そして、一夫一妻制を採る国教の下では、愛人の子は庶子として扱われ、後継者にできない。
国王の決断は早かった。王妃と離婚して実家に帰し、すぐさま侍女と再婚して2番目の王妃に据えたのだ。
最初の王妃は大貴族の娘だったため同派閥からの反発は大きく、国王は教会からも名指しで批判された。一方で、弱小貴族の出身である2番目の王妃との結婚で得られるものは何も無かった。
もしも得をする者がいるとすれば、2番目の王妃本人だけ――そんな結婚だったのに。
『どうしてなの!? あの方はもう、他の女を見ているわ! 黄金の瞳を産まなきゃならないのに!』
2番目の王妃は、ついに野望を果たすことができなかった。
彼女が産んだのは第一王女エフェリーネで、しかも王女が生まれた時には国王の寵愛は既に失せていた。
元から自身の美貌以外に頼るものが無い女だった。最初の王妃の家と違って実家の発言力も無いに等しい。
だから、王妃にしておく旨みがない彼女は不義密通の罪を着せられて、一族もろともあっさりと処刑された。エフェリーネが2歳の時の話だ。
エフィは生まれたときから『ハズレ』の子で、数年後に3番目の王妃が王子を産んでからは、いっそう価値がない存在になった。
弟王子はいつも人に囲まれていて近づくことすらできないのに、エフィには後ろ盾になってくれる外戚どころか、甘い蜜を啜るために近寄ってくる取り巻きの一人すらいない。
王城の片隅で政略結婚の駒として使われる日を待つだけの、皆に忘れ去られた王女――そんな惨めで哀れな王女だったからこそ、国王は栄光あるリーフェフット侯爵家の嫡男に仕えさせたのだろう。
同年代の子らが『王子の遊び相手』として未来の国王との接点を得ていく中で一人だけ、誰にも顧みられない鄙びた王女の世話をさせられて、どれほどヴィルは悔しかっただろう。
もしもあの時きちんと事情が分かっていたら、『わたくしに護衛は必要ありません』と断って、彼を解放していたのに。実際に、第一王女には暗殺者に狙われるだけの価値など無かったのだから。
(わかってなかったから……ずっと一緒にいてほしい、って)
初めて触れ合う自分以外の子ども。初めての友達で、初恋の人。
それまで狭い世界で過ごしてきたエフィは、自分の世界に異物として入ってきたヴィルに執着した。
彼と一緒じゃないと嫌なのだと駄々をこねて、どこに行くにも連れまわした。本当は『わたくしの自慢の騎士』をみんなに見せびらかしたかったのだ。『自慢の主』でも何でもないエフィに誇られたところで、ヴィルにとってはいい迷惑なだけだったろうに。
あのリヴィシェーンの離宮の時もそうだった。
もしもヴィルを王城に置いていっていたら、単なる護衛とその対象として適切に距離を取って接していたら、旅先でエフィが王女らしく内に籠もって過ごしていたら――少しでも何かが違っていたら、ヴィルが濡れ衣を着せられることは無かった。リーフェフット侯爵夫妻が死ぬことも無かっただろう。
いつもそうだ。
エフィが勝手なことをするから、迷惑をかける。
エフィが期待に応えられないせいで、他の人が不幸になる。
母の望みどおりに、黄金の瞳を持って生まれるか、せめて男児であればよかった。――そうしたら、母は殺されなかった。
ヴィルを側に置かなければよかった。あるいは、エフィがもっと隙も疵も無い、皆に誇れるような主だったらよかった。――そうしたら、彼は今も仲のいい父母と笑い合っていたはずだ。
だから、その幸せを奪った自分は、何を差し出してでも償いをしなくてはならない。
(でも……ヴィルの今の悩みの種は、わたくしで。わたくしだって、求婚を断って彼を悲しませたいわけじゃなくて)
それに、好きなひとに求められて結ばれることの、何が悪いというのだろう。いったい何が間違っているというのだろう。
互いに唯一を誓うことは神が寿くほど尊く、愛し合うことはこんなにも気持ちがいいのに。
ぷつり、と張りつめた理性の糸が切れる音が聞こえた気がした。
「――ああ、やっと頷いてくれたな」
安堵したような声が言う。
夜毎の荒淫に苛まれるようになってから、ひと月以上が経過していた。
もう幾度めかも覚えていない彼の求婚に対して、わずかに顎を引いて答えただけなのに、ヴィルは見逃さなかったらしい。
正面から繋がったエフィの腕を自分の首に回させて抱き上げると、書類一式のそろった机の前まで運ばれた。
「気が変わらないうちに書いてしまおう」
「ふ、う……っ、」
「エフィ、ここの欄だ」
挿し込んだものを抜かないまま体を半回転されて、机に向かわされ、右手には羽根ペンを握らされる。
結婚の際に教会に届け出る書類一式は、そのほとんどの欄が既に埋められていた。残り僅かな空欄に手を引いて導かれて、エフィは震える手で『エフェリーネ』と書きつけ続けた。
今まで書いてきた中で一番崩れた字の署名になってしまったが、書類の有効性自体に問題はないだろう。
「書けたか? 見せてくれ」
「ぁあ゛っ、ぁん……! うご、かなっ!」
「不備はないな。ありがとう、これでお前は、正真正銘俺の妻だ」
向き直ったヴィルが久しぶりに心底嬉しそうな顔をして笑ってくれたから、エフィも嬉しくなって、へらりと笑みを浮かべた。
(なんだ。署名なんかでこんなに喜んでくれるなら、もっと早く書けばよかった)
何か考えなければいけないことがあった気がするけれど、快楽に溺れて靄のかかったような頭では、うまく思い出せなかった。
それからのエフィは、淫蕩で従順なヴィルの妻になった。
毎夜愛される体からは怠さが去らず、ものを考えることが億劫になり、日のほとんどを寝台の住人として微睡んで過ごす。開発されきって疼く体を火照らせながら、ひたすらヴィルの帰りを待ち、帰ってきた彼と淫らな遊びに興じる。絶頂を迎えて気を遣り、泥のように眠る。
そんな生活を続けていれば、自然と体力も落ち、食も細くなる。今のエフィからは活発な少女の面影は薄れ、退廃的な色気が身体に纏わりついていた。
「……少しは食べてくれ」
この頃、ヴィルはエフィからの情事の誘いを断るようになった。
抱き寄せたのも色めいたことが目的ではなく、体を支えて食事を摂らせるためらしい。エフィは差し出されたパン粥の匙を、小鳥の雛のように啄んだ。
「ごめんなさい、もう食べる気がしないの」
「俺への抗議のつもりなら、自分の体を傷つけない方法にしろ」
苦しそうなヴィルの顔を見て、エフィは思わず笑ってしまった。
彼は大きな勘違いをしている。彼のことを恨むはずがない、こうなることを最終的に選んだのは、エフィなのだから。
「違うわ。本当に食欲が無いだけよ。昼間も眠くて、全然動かないせいかしら」
「医者に診せよう」
「こんなことで?」
「お前の身に何かあったら、俺は生きていられない」
大袈裟すぎると笑い飛ばそうとして、ヴィルの瞳が笑っていないことに気づいた。
もう流石に分かっている。ヴィルのエフィへの執着は異常だ。もしかしたら本当に、と思わせるだけの迫力があった。
「……分かったわ。信頼できるひとを呼んで」
翌日すぐに遣わされてきたのは、医学の発達した隣国カルメで学んだという女性の医官だった。
熱と脈を測った後、彼女は一日の過ごし方や食生活、月の障りの有無について尋ねてきた。思い出しながら訥々と答えると、医官は微笑ましいものを見るような目をして言う。
「おそらく懐妊されてらっしゃるかと」
「……懐妊? 赤ちゃんが、ここに……?」
「ええ、そうですよ。おめでとうございます」
エフィは幼げな動作で自身の下腹部にぺたりと手を当てた。そこはまだ平らかで、子を宿した実感は湧かなかった。
(おめでとう、と言われても)
ヴィルに望むものをあげられることは、嬉しい。子に対する元気に育ってほしいという素朴な情はある。
だが、体に流れる旧王族の血に翻弄される生を送るであろう我が子を思えば、素直に『嬉しい』『よかった』と喜びの声を発することはできそうになかった。
時間がもう少し経って、腹が大きく膨らめば、あるいは赤子が生まれた後なら、母として純粋に子の誕生を喜んでやれるだろうか。
『どうしてっ、お前は黄金じゃなかったの!? せめて王子ならよかったのに!』
脳裏に狂気を帯びた女の金切り声が蘇る。
一生愛せないままかもしれない、と一瞬でも思ってしまった自分が恐ろしかった。
早馬で帰宅したヴィルは医官から報告を受けていたのだろう、帰宅するなり部屋を訪ね、エフィのことをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、エフィ」
その声がくぐもって聞こえたのは、彼が涙ぐんでいるからか。
エフィがぼんやりと視線をそちらにやる前に、ヴィルは袖でぐいと顔を拭ってしまったから、確かめることはできなかった。
「ここだと人手が心もとないな。公邸にいる侍女を数人こちらに移す。侯爵家に長年仕えていた者たちだ」
「わたくしのことを知られるわけにはいかないでしょう?」
「ああ。だからお前を向こうに連れて行くのは我慢する。公邸の方が仕事場からも近いし警備も厳重なんだが……と、それはいい。口が堅く人となりも信頼できる者を選ぶ」
産婆の手配も考えておかないと、と大真面目に気の急いたことを言ったヴィルは、『まだ先のことでしょう』と指摘されても、往生際悪くもごもごと口を動かした。
「初めてのことだから、できるかぎり万全の準備をしたい」
何か困っていることはないか、なんでも言ってくれ、と労られて、エフィは居心地の悪さに後退りした。
だって――彼の期待に応えられるとは、まだ限らないのに。
「早く会いたいな。お前に似れば、男でも女でもきっと可愛い」
「……男の子がいいわ。その方が、『国王』の予備スペアとしては都合がいいでしょう?」
叶うならば、ヴィルによく似た黄金の瞳の男子がいい。
そうでなければ、生まれた子は望まれた役割を十分に果たすことができない。役立たずの期待外れの欠陥品のことなんて、誰も求めて愛していないのだから。
「……エフィ」
その声は、冷酷な言葉を吐いたエフィのことを怒り責めるというよりも、教え諭すように優しく落ち着いていた。
「俺は、『役に立つ道具』が欲しいわけじゃない。愛する女が産んだ、愛する子どもが欲しいんだ。だから……泣きながらそんなことを言うな」
涙に濡れた頬を撫でられて、エフィは顔を背けて逃げ出そうとした。元から体格の差があるうえに弱ったエフィの抵抗など、赤子の手をひねるように制圧され、捕まってしまったけれど。
「……今のあなたはそう言っていても、人の気持ちは変わるでしょう? この子が疎んじられない確固たる理由がないと、何も安心できないじゃない……っ!」
理由も無く愛されたいなんて、高望みはしない。
少なくとも『斯くあるべし』と期待されたことに応えていれば、それを理由に排除されることはない。
エフィはそれを悟ったから、国王に苦しめられた人々の助けを求める目に応えるように、慈悲深い王女として行動したのだ。
国王に目をつけられない程度の動きしかしない、手の届く範囲にだけ優しい、慈悲深い王女――いつか言われた通りだ、自己保身のために外面のいい最低限の善行を施す行為が『慈悲』だなんて、欺瞞にも程がある。
でも、王政打倒の革命が起きたこの国に『王女』はもう要らないのだという。もうここには、エフィを必要とする愛してくれる者などいない。だからかえって、死にも未練が残らなくてよかった。……そのはずだったのに。
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何も返せないどころか彼を不幸にしかしない関係なのに、どうして遠ざかってくれないのだろう。
彼の理解できない行動が怖くて、それに慣れつつある自分のことも怖い。このまま愛を受けることに慣らされて、愛が無いと生きていけなくなってしまったら、中毒患者と同じじゃないか。依存してしまったら、それが無くなったときの渇きにどれほど苦しめられるのだろう。
「……ごめんなさい」
もう取り乱したりしないから離して、少し一人にさせて、と身を捩っても、ヴィルは逃がしてくれそうになかった。
腕の中に閉じ込めたエフィに向かって、彼は問いかけた。
「エフィ、俺たちが初めて会った時のことを、覚えているか?」
俺はあの時から王女を愛したいと思ったのだと、『無理やり忠誠を誓わされた騎士』だったはずの男は、静かに語り始めた。
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そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
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今更ですが、閲覧の際はご注意ください。
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