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フィロソファーズ・ストーン
回想⑦ 平穏な日々
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お義父さんが支店長をしている中島不動産茅ヶ崎支店で働き始めて、もう三年が経つ。
末木の理不尽な人事により、未経験の不動産業に放り込まれたものの、今では居心地は悪くない。
時折、お義父さんの姿を見ていると、湊のことを思い出すこともあるけれど、その穏やかな人柄に心が安らぐのを感じる。少しずつ、湊の死への哀しみも和らいできたのかもしれない。
ARIAのサーバーは、中島不動産が管理するアパート「モン・トレゾール」の一室に設置されている。
毎日その部屋を訪れて、桔梗との会話を交わすことが日課になっているが、桔梗の現実世界の記憶は未だ目覚めていない。それでも、彼女はARIAとしては着実に成長しているようだ。
「京香ちゃん、今日はなんだか嬉しそうだね?」
お義父さんが、ふと声をかけてきた。
「え? いや、そうでもないですよ。お義父さんこそ、何かいいことでも?」
「いやいや、俺はいつも通りだよ。それにさ、店では 'お義父さん' じゃなくて '寺さん' って呼んでくれないと、落ち着かなくてさ」
「そうですか? でも、'寺さん' もなんか他人行儀な感じがしますけど」
「じゃあ、どうすればいいかな?」
彼は冗談交じりに笑い、そんなやりとりをしていると、お義兄さんが雫を連れてやってきた。
お義兄さんと雫が笑顔でお店に入ってきた。
「あっ、こんにちは!」
「京香ちゃん、こんにちは!」
雫が嬉しそうに手を挙げてくる。私は微笑んで、その小さな手にタッチした。
「今日はどうしたんですか、お義兄さん? 昼間にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「うん、今日は雫と辻堂海浜公園でやってるお祭りに行こうって約束してて。その前にちょっと顔を出しに来たんだよ」
「お祭りですか。いいですね、雫。楽しみだね」
「うん! すっごく楽しみ!」
雫はエヘンと胸を張り、得意げな表情を見せる。
「京香ちゃんも一緒に行こうよ。どうせ暇でしょ?」
雫が誘ってくる。
「いやいや、暇ではないから……人は来ないけど……」
お義父さんがこちらをチラリと見て、軽く咳払いする。
「なあ、親父、雫もああ言ってるしさ、京香さん、ちょっとお借りできないかな?」
そう言ってお義兄さんはお義父さんに目配せし、雫もタイミングを見計らったかのように、お義父さんの袖を引っ張ってねだった。
「お願い、駄目~?」
「仕方ないなあ、今日は土曜日だし、お店も暇だから、京香ちゃんも遊んでおいでよ」
「えっ、でも……お店は……」
「大丈夫大丈夫、滅多にお客さん来ないからさ」
「やった! じゃあ、決まりね!」
「もう、強引なんだから……」
それでも、悪い気はしない。最近、湊のことも少しずつ心の中で整理がついてきた気がする。穏やかな時間が増えたのだ。
もう、これでいいのかな……
ふと、そんな考えが頭をよぎる。桔梗に現実世界の記憶が戻ったら、ARIAプロジェクトから退いて、中島不動産で正式に働かせてもらうのも悪くないかもしれない。
「分かりました。じゃあ、着替えてきますから少し待っててください」
「うん、待ってる!」
急いで更衣室で服を着替えていると、スマホが振動した。
「はい、高瀬です」
「武田です。今、少しお時間よろしいでしょうか?」
「ごめん、これから出かけるところなの。仕事の話なら後にしてもらえる?」
「ええ、急ぎではないんですが、少しだけ相談したいことがありまして……5分だけ、いや、3分でもいいのでお時間をいただけませんか?」
服を整えながら、扉越しにお義兄さんと雫に電話中であることを示すジェスチャーを送る。二人は笑顔で頷いてくれた。
「……分かりました。3分だけですよ」
「ありがとうございます。率直に言います。プロジェクトARIAに正式に戻る気はありませんか?」
「えっ……」
突然の申し出に言葉を失った。
「末木さんのことは私が説得します。このチームには高瀬さんがどうしても必要なんです。もう一度、一緒にやりませんか?」
「ちょ、ちょっと待って。その気持ちは嬉しいけど……」
「今の高瀬さんの待遇は明らかに不当です。僻地に追いやられて、慣れない仕事を押し付けられているなんて……」
「僻地」という言葉に思わずムッとしてしまった。ここは私にとって、もう「僻地」なんかじゃない。
それに、「AK001」ではなく「桔梗」だ。名前を大切にする気持ちは、湊に対して感じたものと同じだった。
少しずつ、彼の気持ちが理解できるようになってきたのかもしれない。
「確かに、最初は理不尽だって思った。でも今は違う。この暮らしは悪くないし、私は今の生活を守りたいと思っている。それに、ARIAプロジェクトを辞めたって構わないって最近、少し思ってるの」
そう言葉が自然とこぼれた。まだ考えがまとまっていないはずなのに、口から出てしまった言葉だった。
「そんな……考え直してください。高瀬さんがいたからこそ、今まで頑張ってこれたんです。もう一度、一緒に仕事がしたいんです」
武田の声には、必死さが滲んでいた。だが、私の心は……。
「ごめんなさい。今はその話を続ける気分じゃない。また今度にしましょう」
「そうですか……分かりました。すみませんでした」
微妙な空気が漂い、電話を切るタイミングを失ってしまう。武田は一瞬躊躇した後、再び口を開いた。
「あの、今日はどちらに行かれるんですか?」
当たり障りのない質問をしてきた。気まずさを消そうとしているのだろう。
「辻堂海浜公園のお祭りに行くんです。お義兄さんと、姪っ子の雫と一緒に」
「そうですか。三人で……楽しそうですね。気をつけて行ってきてください。また連絡します」
「ありがとう。それじゃあ」
電話を切ると、ふうっと大きく息をついてしまった。ほんの数分の会話だったのに、なぜかとても疲れた気がする。
「ごめんね、待たせちゃって! 雫、行こうか」
「京香ちゃん、遅いよー! 罰ゲームね!」
「罰ゲームか。何がいい? チョコバナナ買ってあげる? それとも金魚すくい?」
雫は小さな頭をフルフルと振りながら、ニカッと笑った。その笑顔はまるでお義父さんにそっくりで、思わずこちらも微笑んでしまう。
「手をつないで! 」
「いいけど、雫はもう小学校4年生でしょ。そんなに甘えん坊で大丈夫? 」
「たまにしか遊んでくれないから、甘えん坊じゃないよ! これは正当な権利だもん!」
「どこでそんな言葉を覚えたの?」
「YouTubeだよ!」
雫と手をつなぎ、お義兄さんと一緒に公園へ向かう。雫の反対の手はお義兄さんとつながり、三人で笑いながらお祭りに向かった。
「じゃあ、出発!」
末木の理不尽な人事により、未経験の不動産業に放り込まれたものの、今では居心地は悪くない。
時折、お義父さんの姿を見ていると、湊のことを思い出すこともあるけれど、その穏やかな人柄に心が安らぐのを感じる。少しずつ、湊の死への哀しみも和らいできたのかもしれない。
ARIAのサーバーは、中島不動産が管理するアパート「モン・トレゾール」の一室に設置されている。
毎日その部屋を訪れて、桔梗との会話を交わすことが日課になっているが、桔梗の現実世界の記憶は未だ目覚めていない。それでも、彼女はARIAとしては着実に成長しているようだ。
「京香ちゃん、今日はなんだか嬉しそうだね?」
お義父さんが、ふと声をかけてきた。
「え? いや、そうでもないですよ。お義父さんこそ、何かいいことでも?」
「いやいや、俺はいつも通りだよ。それにさ、店では 'お義父さん' じゃなくて '寺さん' って呼んでくれないと、落ち着かなくてさ」
「そうですか? でも、'寺さん' もなんか他人行儀な感じがしますけど」
「じゃあ、どうすればいいかな?」
彼は冗談交じりに笑い、そんなやりとりをしていると、お義兄さんが雫を連れてやってきた。
お義兄さんと雫が笑顔でお店に入ってきた。
「あっ、こんにちは!」
「京香ちゃん、こんにちは!」
雫が嬉しそうに手を挙げてくる。私は微笑んで、その小さな手にタッチした。
「今日はどうしたんですか、お義兄さん? 昼間にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「うん、今日は雫と辻堂海浜公園でやってるお祭りに行こうって約束してて。その前にちょっと顔を出しに来たんだよ」
「お祭りですか。いいですね、雫。楽しみだね」
「うん! すっごく楽しみ!」
雫はエヘンと胸を張り、得意げな表情を見せる。
「京香ちゃんも一緒に行こうよ。どうせ暇でしょ?」
雫が誘ってくる。
「いやいや、暇ではないから……人は来ないけど……」
お義父さんがこちらをチラリと見て、軽く咳払いする。
「なあ、親父、雫もああ言ってるしさ、京香さん、ちょっとお借りできないかな?」
そう言ってお義兄さんはお義父さんに目配せし、雫もタイミングを見計らったかのように、お義父さんの袖を引っ張ってねだった。
「お願い、駄目~?」
「仕方ないなあ、今日は土曜日だし、お店も暇だから、京香ちゃんも遊んでおいでよ」
「えっ、でも……お店は……」
「大丈夫大丈夫、滅多にお客さん来ないからさ」
「やった! じゃあ、決まりね!」
「もう、強引なんだから……」
それでも、悪い気はしない。最近、湊のことも少しずつ心の中で整理がついてきた気がする。穏やかな時間が増えたのだ。
もう、これでいいのかな……
ふと、そんな考えが頭をよぎる。桔梗に現実世界の記憶が戻ったら、ARIAプロジェクトから退いて、中島不動産で正式に働かせてもらうのも悪くないかもしれない。
「分かりました。じゃあ、着替えてきますから少し待っててください」
「うん、待ってる!」
急いで更衣室で服を着替えていると、スマホが振動した。
「はい、高瀬です」
「武田です。今、少しお時間よろしいでしょうか?」
「ごめん、これから出かけるところなの。仕事の話なら後にしてもらえる?」
「ええ、急ぎではないんですが、少しだけ相談したいことがありまして……5分だけ、いや、3分でもいいのでお時間をいただけませんか?」
服を整えながら、扉越しにお義兄さんと雫に電話中であることを示すジェスチャーを送る。二人は笑顔で頷いてくれた。
「……分かりました。3分だけですよ」
「ありがとうございます。率直に言います。プロジェクトARIAに正式に戻る気はありませんか?」
「えっ……」
突然の申し出に言葉を失った。
「末木さんのことは私が説得します。このチームには高瀬さんがどうしても必要なんです。もう一度、一緒にやりませんか?」
「ちょ、ちょっと待って。その気持ちは嬉しいけど……」
「今の高瀬さんの待遇は明らかに不当です。僻地に追いやられて、慣れない仕事を押し付けられているなんて……」
「僻地」という言葉に思わずムッとしてしまった。ここは私にとって、もう「僻地」なんかじゃない。
それに、「AK001」ではなく「桔梗」だ。名前を大切にする気持ちは、湊に対して感じたものと同じだった。
少しずつ、彼の気持ちが理解できるようになってきたのかもしれない。
「確かに、最初は理不尽だって思った。でも今は違う。この暮らしは悪くないし、私は今の生活を守りたいと思っている。それに、ARIAプロジェクトを辞めたって構わないって最近、少し思ってるの」
そう言葉が自然とこぼれた。まだ考えがまとまっていないはずなのに、口から出てしまった言葉だった。
「そんな……考え直してください。高瀬さんがいたからこそ、今まで頑張ってこれたんです。もう一度、一緒に仕事がしたいんです」
武田の声には、必死さが滲んでいた。だが、私の心は……。
「ごめんなさい。今はその話を続ける気分じゃない。また今度にしましょう」
「そうですか……分かりました。すみませんでした」
微妙な空気が漂い、電話を切るタイミングを失ってしまう。武田は一瞬躊躇した後、再び口を開いた。
「あの、今日はどちらに行かれるんですか?」
当たり障りのない質問をしてきた。気まずさを消そうとしているのだろう。
「辻堂海浜公園のお祭りに行くんです。お義兄さんと、姪っ子の雫と一緒に」
「そうですか。三人で……楽しそうですね。気をつけて行ってきてください。また連絡します」
「ありがとう。それじゃあ」
電話を切ると、ふうっと大きく息をついてしまった。ほんの数分の会話だったのに、なぜかとても疲れた気がする。
「ごめんね、待たせちゃって! 雫、行こうか」
「京香ちゃん、遅いよー! 罰ゲームね!」
「罰ゲームか。何がいい? チョコバナナ買ってあげる? それとも金魚すくい?」
雫は小さな頭をフルフルと振りながら、ニカッと笑った。その笑顔はまるでお義父さんにそっくりで、思わずこちらも微笑んでしまう。
「手をつないで! 」
「いいけど、雫はもう小学校4年生でしょ。そんなに甘えん坊で大丈夫? 」
「たまにしか遊んでくれないから、甘えん坊じゃないよ! これは正当な権利だもん!」
「どこでそんな言葉を覚えたの?」
「YouTubeだよ!」
雫と手をつなぎ、お義兄さんと一緒に公園へ向かう。雫の反対の手はお義兄さんとつながり、三人で笑いながらお祭りに向かった。
「じゃあ、出発!」
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