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フィロソファーズ・ストーン
回想② 被験者
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脳オルガノイドとコンピューターを接続したディープラーニングの研究は順調に進んでいた。
開発責任者は夫の高瀬湊、副責任者に末木、データベースの管理は武田主任、ARIAの生活システムの設計と実装を私が担当し、それぞれの能力を活かした人員配置が功を奏していた。だが、開発は理想通りにはいかなくなっていた。
脳オルガノイドの試験投入が始まると、湊と武田さんの言い争いが頻繁に聞こえるようになった。
「だから、しっかり順序立てて話を進めないと、上層部は納得しないだろう。お前のプランは配慮が足りない」
「事後報告で構いませんよ。スポンサーから打ち切りの話が出ているんです。俺を末木さんのポジションに据えれば、倍のスピードで進められます。」
薄い壁の向こうから、そんな声が外にまで漏れていた。
元々、武田さんは今のポジションに不満があるようだった。彼のデータベース周りの管理能力は目を見張る物がある。
だが、AIエンジニアとしては、どうしても湊や末木さんが目立ってしまい、いつも日陰の身にあった。
武田さんは承認欲求が強く、常に上を目指していた。いつか、あの二人を追い落としてやろうと……。
私はそんな彼を宥め、あなたにも優れた能力があるのだから卑下せず、一歩ずつ前に進みなさいと励まし続けた。
「でも、俺は……」と苦しそうに呟く武田さんの表情を見ながら、私はその重みを痛感した。
彼には、もっと話す機会を与えるべきだったのかもしれない。
それでも研究は進み続け、半年が経過した頃に湊から驚きの発表がされた。
「脳オルガノイドの被検体を増やそうと思う。既存の脳オルガノイドを利用したディープラーニングが頭打ちになっている」
その言葉を聞いた瞬間、胸がざわつき、どうしても黙っていられなかった。
「湊、正気なの? 私たちは非人道的な実験をやっている、怪しげなプロジェクトチームだと、揶揄されていることを知っているでしょ」
湊は目をつむり、一呼吸おいてから、私の目を見ながら話し始めた。
「実はその倫理的な問題を解決するための手段でもあるんだ」
末木さんや武田さんも顔を見合わせている。どうやら何も聞いていないようだ。
「末木さん、それ以前も言ってましたね。そんな都合の良い解決方法があるとは思えないんですが……」
「いや、ある。かんたんな話でな、人の役に立てばいいんだ。その説明のために、3人に着いてきて欲しい場所があるんだ」
そう促されると、自動車に乗せられて会社から三十分程の距離にある「湘南中島総合病院」に連れて行かれた。
湊は病院の総合受付で受付を済ませると、私たちを東病棟5階にある特殊な症例の患者を扱う病室に案内してくれた。
そこには、少し幼さの目立つ、色白で長い黒髪の女の子が眠っていた。
彼女の体にはあらゆる生体センサーが繋がれていた。
「湊、この子は? 」
「とある事故で、遷延性意識障害になったそうだ……」
「つまり、植物人間ってこと……? 」
湊は小さく頷いた。この状態から回復した事例は少ない……。私が医大生の頃に読んだ文献に僅からながら見た記憶がある。
今まで関心なさそうにしていた武田さんが、夫の方に目を向ける。
「それで、……この子とARIAはどう繋がるんですか? 」
湊はベッドに横たわる黒髪の少女を見つめながら話す。
「幸い、いや……不幸にもというべきか、正確に言うなら、植物人間ではなく、最小意識状態にあるらしい」
「どういう意味です? 医療用語はわからないですよ」
私が説明を補足する
「……つまり、ほんのわずかに意識や自発的な反応があるということ? 」
「ああ、こちらから話しかけると、瞳孔が開いたり、閉じたり程度の反応はするそうだ。もっとも……反応したり、しなかったり、状態は安定しないみたいだがな……」
「それがなんだって言うんです? 」
武田さんはなかなか結論に辿り着かない事にイラつきを覚えているのか、パイプ椅子に座りなから貧乏ゆすりをしている。
そんな武田さんの肩に末木さんが手を置く。そして、目を細めながら、語り始めた。
「武田くん、俺はなんとなく話が読めたよ。おそらく、この子は大脳新皮質に欠陥があるのでしょう? 違いますか、湊さん? 」
夫は首肯する。
「ああ、そうだ。大脳新皮質を補完するために脳オルガノイドを埋め込み、治療を行う」
「なんですって!! 」
武田さんが驚きのあまり、立ち上がり、パイプ椅子をバタンと倒してしまった。
私たちの顔を見て少し冷静になったのか、パイプ椅子を元に戻し、座りなおしていた。
「すみません、取り乱しました。でも、そんなこと可能なんですか? 」
「理論上は、な。脳オルガノイドを利用したディープラーニングの学習で副産物が出来上がったのは知っているな」
「ええ、ディープラーニングの結果、脳オルガノイドにも生成AIと同じ能力が備わったんでしたよね」
双方向にデータのやり取りを行った結果、脳オルガノイドにも生成AIと同じような処理能力が備わったのだ。
いや、正確に言うならコンピューター上で動作する生成AIよりも、遥かに精度が良かった。
何よりサイズの割に記憶容量も大きく、発熱も少ない。人間の身体の神秘を目の当たりにした。
「この子の大脳新皮質を補完するために、脳オルガノイドを移植する。成功すれば、彼女は意識を取り戻す可能性がある」
夫は……湊は脳オルガノイドによる実験でこうなる事を見越していたのかもしれない。
話がスムースすぎるのだ。
「この子の名前は、坂本桔梗……両親から本プログラムの承諾は得ている」
開発責任者は夫の高瀬湊、副責任者に末木、データベースの管理は武田主任、ARIAの生活システムの設計と実装を私が担当し、それぞれの能力を活かした人員配置が功を奏していた。だが、開発は理想通りにはいかなくなっていた。
脳オルガノイドの試験投入が始まると、湊と武田さんの言い争いが頻繁に聞こえるようになった。
「だから、しっかり順序立てて話を進めないと、上層部は納得しないだろう。お前のプランは配慮が足りない」
「事後報告で構いませんよ。スポンサーから打ち切りの話が出ているんです。俺を末木さんのポジションに据えれば、倍のスピードで進められます。」
薄い壁の向こうから、そんな声が外にまで漏れていた。
元々、武田さんは今のポジションに不満があるようだった。彼のデータベース周りの管理能力は目を見張る物がある。
だが、AIエンジニアとしては、どうしても湊や末木さんが目立ってしまい、いつも日陰の身にあった。
武田さんは承認欲求が強く、常に上を目指していた。いつか、あの二人を追い落としてやろうと……。
私はそんな彼を宥め、あなたにも優れた能力があるのだから卑下せず、一歩ずつ前に進みなさいと励まし続けた。
「でも、俺は……」と苦しそうに呟く武田さんの表情を見ながら、私はその重みを痛感した。
彼には、もっと話す機会を与えるべきだったのかもしれない。
それでも研究は進み続け、半年が経過した頃に湊から驚きの発表がされた。
「脳オルガノイドの被検体を増やそうと思う。既存の脳オルガノイドを利用したディープラーニングが頭打ちになっている」
その言葉を聞いた瞬間、胸がざわつき、どうしても黙っていられなかった。
「湊、正気なの? 私たちは非人道的な実験をやっている、怪しげなプロジェクトチームだと、揶揄されていることを知っているでしょ」
湊は目をつむり、一呼吸おいてから、私の目を見ながら話し始めた。
「実はその倫理的な問題を解決するための手段でもあるんだ」
末木さんや武田さんも顔を見合わせている。どうやら何も聞いていないようだ。
「末木さん、それ以前も言ってましたね。そんな都合の良い解決方法があるとは思えないんですが……」
「いや、ある。かんたんな話でな、人の役に立てばいいんだ。その説明のために、3人に着いてきて欲しい場所があるんだ」
そう促されると、自動車に乗せられて会社から三十分程の距離にある「湘南中島総合病院」に連れて行かれた。
湊は病院の総合受付で受付を済ませると、私たちを東病棟5階にある特殊な症例の患者を扱う病室に案内してくれた。
そこには、少し幼さの目立つ、色白で長い黒髪の女の子が眠っていた。
彼女の体にはあらゆる生体センサーが繋がれていた。
「湊、この子は? 」
「とある事故で、遷延性意識障害になったそうだ……」
「つまり、植物人間ってこと……? 」
湊は小さく頷いた。この状態から回復した事例は少ない……。私が医大生の頃に読んだ文献に僅からながら見た記憶がある。
今まで関心なさそうにしていた武田さんが、夫の方に目を向ける。
「それで、……この子とARIAはどう繋がるんですか? 」
湊はベッドに横たわる黒髪の少女を見つめながら話す。
「幸い、いや……不幸にもというべきか、正確に言うなら、植物人間ではなく、最小意識状態にあるらしい」
「どういう意味です? 医療用語はわからないですよ」
私が説明を補足する
「……つまり、ほんのわずかに意識や自発的な反応があるということ? 」
「ああ、こちらから話しかけると、瞳孔が開いたり、閉じたり程度の反応はするそうだ。もっとも……反応したり、しなかったり、状態は安定しないみたいだがな……」
「それがなんだって言うんです? 」
武田さんはなかなか結論に辿り着かない事にイラつきを覚えているのか、パイプ椅子に座りなから貧乏ゆすりをしている。
そんな武田さんの肩に末木さんが手を置く。そして、目を細めながら、語り始めた。
「武田くん、俺はなんとなく話が読めたよ。おそらく、この子は大脳新皮質に欠陥があるのでしょう? 違いますか、湊さん? 」
夫は首肯する。
「ああ、そうだ。大脳新皮質を補完するために脳オルガノイドを埋め込み、治療を行う」
「なんですって!! 」
武田さんが驚きのあまり、立ち上がり、パイプ椅子をバタンと倒してしまった。
私たちの顔を見て少し冷静になったのか、パイプ椅子を元に戻し、座りなおしていた。
「すみません、取り乱しました。でも、そんなこと可能なんですか? 」
「理論上は、な。脳オルガノイドを利用したディープラーニングの学習で副産物が出来上がったのは知っているな」
「ええ、ディープラーニングの結果、脳オルガノイドにも生成AIと同じ能力が備わったんでしたよね」
双方向にデータのやり取りを行った結果、脳オルガノイドにも生成AIと同じような処理能力が備わったのだ。
いや、正確に言うならコンピューター上で動作する生成AIよりも、遥かに精度が良かった。
何よりサイズの割に記憶容量も大きく、発熱も少ない。人間の身体の神秘を目の当たりにした。
「この子の大脳新皮質を補完するために、脳オルガノイドを移植する。成功すれば、彼女は意識を取り戻す可能性がある」
夫は……湊は脳オルガノイドによる実験でこうなる事を見越していたのかもしれない。
話がスムースすぎるのだ。
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