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第1章2節 学園生活/慣れてきた二学期
第78話 演劇部にて
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帝国建国祭が終わると新しい月がやってくる。葉も大地も色付き、鮮やかな姿を見せる十月。暑くもなく寒くもない秋の空気が、人々に外に出てみなさいと囁きかける。
そんな過ごしやすい秋空の下、生徒達は学園生活の一大行事『学園祭』に向けて準備を進めていたのだった。
「エリスちゃーん、そこ押さえててー」
「はーい」
「よしアーサー、そこを真っ直ぐ切っていってよ」
「……ああ」
「ワンちゃーん、絵の具の赤いの持ってきてー」
「ワオーン!」
「やあ、順調そうだね」
料理部では学園祭に出店をすることになっている。そのため十月に入ってからは、普段の料理活動は休止して学園祭の準備を行っていく。
現在エリスとアーサーとカヴァスは、美術室にて入り口に置く立ち看板の製作中。他数名の生徒と協力して製作していると、そこに料理部顧問のセロニムがやってきた。
「先生、また頭が……」
「おっと、ごめんごめん。よっと。しかし今年も大層なの作るねえ」
「店は客引きが肝心なんですよ、客引きが! ここで命懸けなくてどうするんですか!」
「それは確かにその通りだ、うんうん。こっちで何か僕に手伝えることある?」
「えーじゃあ調理班の方行ってください。商品について先生の意見が求められてると思うんですよ。準備班はどうにもなるんで」
「了解了解」
セロニムが美術室を出ていくのを見送った後、生徒の一人が立ち上がってポケットから設計図を取り出す。
「えーっと、形はある程度完成したな。後はこれをくっつけるだけ……ニース先生! 魔術粘着剤ありますか?」
「ん? 魔術粘着剤か? ちょっと待ってな……」
職員控室から出てきて、机と棚を一通り漁るニース。
「……うん、ないな。ということは演劇部に貸したっきりそのままだな」
「何だよ演劇部、まーだ返してないのかよっ。よし。エリスにアーサー、二人で取りに行ってきてもらってもいいかな。あ、ワンちゃんは引き続きこっちで」
「ワオン!」
「わかりました~」
「……ああ」
「演劇部は今講堂で活動してると思うから。んじゃあよろしくね!」
生徒は再び厚紙の近くに座り、構図と睨み合いを再開した。
エリスとアーサーは美術室を出て講堂に向かう。放課後の学園内は、どこもかしこもせわしなく時間が進んでいる。
「それにしても、どこの活動も学園祭一色だね」
「一大行事と言われているだけあるな」
「ええと、まず手芸部が作品販売するから、カタリナはお留守でしょ。それでイザークが手伝いに行くって言ってたっけ」
「あいつはこの時期暇しているかと思ったが意外だったな」
「本当にね。そして武術部も何か出店するみたいだし、曲芸体操部も演目の発表があるからその追い込み。ルシュド、リーシャ、それにクラリアもそれで忙しいみたい」
「あいつは武術部だったのか。意外でもないな」
「ね、むしろそれ以外だったらおかしいもん。あとわたし達の知り合い……ヴィクトールがいる生徒会と、サラがいる園芸部?」
「一体何をするんだか」
「園芸部は苗とか売りそう。生徒会は……毎年やってることって聞いたけど、何なんだろう」
そんな話をしながら、二人は講堂に到着する。
「あれかな、ステージでやってる人達……」
「そうだな」
靴を脱いで歩みを進める。
「……」
「ん?」
「……」
「……どうした?」
そこで繰り広げられていた光景を見て、エリスは固まってしまう。
「……ああ、勇ましきお方。私の前に現れる、勇敢な貴方は誰かしら?」
白いドレスに金髪の女性は、ベッドに座りながら、目の前の革の鎧の男性に問いかける。男性は大振りの剣を携えながら続けた。
「これはこれは、何とも美しい姫君がここにいらしたものだ。我が名はオージン。ログレスの大平原に名を轟かせる、一騎当千の戦士である」
「まあ。一騎当千だなんて、大層素晴らしいのですね。ですが私は、生まれてこの方ログレスから先に出ていったことがないにも関わらず、貴方様のお名前を聞いたことがありません」
「なんと、それはまことか。我が名を聞いた者は、皆一様に顔色を変えて、武器を掲げて襲いかかってくるか、頭を下げて懇願するか、二つに一つだ。だのに君はそのどちらでもない。君は一体如何様な人なのか、私に教えてはくれないだろうか」
男性は女性に近付き、片膝をついて見上げる。身振り手振りも交えながら、女性は続けた。
「ああ、勇ましきオージン様。どうか私の話を聞いてください。私の名はフリッグと申します。この町で生まれ、この町の人々に育まれました」
「そして先程私は、ログレスの平原から出たことはないと申し上げましたが、私はそれどころか、この館からも出たことがないのです。私にとっての空は、単調で飾り立てる物のない灰色の天井で、私にとっての大地は、固く冷たい鉄の地面なのです」
「驚いた。花びらも旅に赴くイングレンスの世界で、緑と茶色が彩る大地を踏み締め、青く澄んだ空を仰いだこともない者がいるとは」
「しかし、ならば今がその時。今君は、私が勇敢にも窓から入ってきたのを見ただろう。今度はそれを反対に行うのだ。私は君を連れてこの窓から飛び降りる。そうすれば君も大地に降り立つことができるだろう――」
男性が女性の手を握り、窓の外に連れて行こうとする。
しかし女性はベッドから立とうとせず、その行為を拒否した。
「いけません、そのようなことは。私がその窓から地面を見ると、そこには目にも見えず、耳にも聞こえない何かがいて、それが身体を震わせてくるのです。そして震えて怯えきったこの身を温めるように、すかさず恐怖の布で包み込むのです。見下ろしただけでもこのような気持ちに襲われるのに、まして飛び降りるなんてこと、できるはずがありません」
「麗しきフリッグよ。私の言ったことを覚えているだろうか。私は一騎当千の戦士。このような窓から飛び降りることなんて造作もない」
「昔、遥か彼方のラグナルに聳え立つ、ナーシルの山々のドラゴンを倒した時、飛んでいる最中にとどめを刺したものだから、剣を掲げたまま落ちていき、背中から身体を打ち付けた。その高さに比べれば、この窓から飛び降りることなぞ、夜空に煌々と浮かぶ月と地をずるずると這う亀を比べるようなもの。故に君は、私に身を預けていればよいのだ」
男性は女性の肩を抱く。しかし女性は俯いたまま顔を上げようとしない。
「怖いもの知らずの、勇猛果敢なオージン様。館の外には、恐ろしい物が雨粒のように幾多も存在していると聞いています。人の心を知ろうともしない、凶暴な魔物。弱き者や貧しき者を狙う、残虐な賊達。どれほど祈りを捧げようとも、一切の容赦をしない、神々が作り上げた理」
「それに襲われて命を尽かせるぐらいなら、全てから守られたこの館の中で人生の全てを終わらせる方が余程幸福だと、私はそう思うのです……」
「……そうだ、君の言う通りだ。私はその恐ろしい物を、この町にやってくるまでに全て見てきた」
「私の腹には爪の傷跡が残っている。これは深い森の中に住み、涎を垂らして貪欲に獲物を狙うグリズリーめに襲われて、命からがら戦い抜いた時の傷だ。また背中には、長方形の焼き印の跡が残っていて、今も時々むず痒くなる。一度賊の所有物になったことがあり、その時に刻まれた、苦々しい敗北の証だ。そしてこの町に来る途中で、地震や飢餓、寒冷や熱波で滅び去った町の数々を、この目でしかと見てきた」
「ああ、それ以上はどうか言わないで。それならば、貴方様もわかっているでしょう。イングレンスの世界には、恐ろしき物しか存在しないのです」
「だから、そのような世界に私を連れて行かないで。私を安寧の揺り籠の中から、解き放つようなことはしないで。お願いです、どうか、どうか……」
「いや、私の決意は変わらない。君を必ずこの館から連れて行く。確かにイングレンスの世界には、恐ろしき物で溢れ返っている。だがその中にも、素晴らしく、尊ぶべき物もあることを、私は知っている」
男性は腰から鉢植えを取り出し、女性に見せる。
「オージン様、この入れ物に宿っている、赤く可愛らしい木の実は何でしょう? これが素晴らしく、尊ぶべき物?」
「そうだ。皆はこの木の実を苺と呼んでいる。昔、氷の海に浮かぶビブレストの島を訪れた時、冷徹に降り注ぐ雪にも屈することなく、雪原に実っていた木の実だ。過酷な環境でも耐え抜く強さを持っている、この木の実は相応に美味しいのだ。ほら、口に入れてごらん」
男性は鉢植えから苺の実を一粒つまみ、女性に渡す。
女性が苺の実を口に入れると、俯いていて暗くなっていた表情は、どんどん太陽に当てられたように変わっていく。驚いたように目を見開き、そして大粒の涙をこぼす。
「……美味しい。甘くて、でも酸っぱくて、そして種が弾けるこの感触。ああ、オージン様。私はこの苺の実を、生まれて初めて口にしました」
「そうだろう、そうであろう。私はこの苺の実が好物なのだ。君が言った通り、甘くて、酸っぱくて、種の弾けるような感触が心地良いから、食べると力が沸いてくる。どれだけ恐ろしい物を見てしまっても、この苺の実を口にすれば、そういうこともあったが、悔やんでも仕方ないと、前を向いて進ませてくれるような気持ちにさせるのだ」
男性は女性の身体を優しく抱き締める。
「君はこのフェンサリルの館を、安寧の揺り籠だと言った。だがここは揺り籠ではなく、牢獄なのだ。牢獄に閉じ込められた、哀れなる囚人フリッグよ――ここから出てしまえば、君は空を旅する鳥のように自由になれる」
「もしも恐ろしい物が君に襲いかかったとしても、恐れるに足らん。何故なら――私が君の傍にいて、それらから君を守っていくからだ」
台詞の後に涙をこぼし、抱き合う二人。
だがそこに響く、不規則にやってくる大勢の足音。
髪を巻き上げ、ビロードで作られたチュニックを身に着けた男が二人の前に現れると、男性は顔を上げて叫ぶ。
「――何者だ! 我が愛しきフリッグに手を出すのなら、容赦はせんぞ!」
「容赦はしないだと。ふん、それはこちらの台詞だな。フェンサリルの館の様子がおかしいと聞いて来てみたら、まさか貴様だったとはな、オージン。実に残念だ。町長は貴様のことを大層気に入っていたのに、館に忍び込んだことを知ったら、さぞかし残念がるだろう」
「……ああ、今の言葉で理解したぞ。この館にフリッグを閉じ込めていたのは町長だったのだな!」
「この町で生を受けず、恵みすらも享受したことのないような、浮浪者たる貴様の知る所ではない!」
「ぐっ……!」
「ああ、そんな……どうか、どうかお願いです。私はどのような罰でも裁きでも甘んじて受け入れます。だから、彼に残酷な仕打ちをするようなことはしないで……!」
男の後ろにいた数人の鎧の男が、無理矢理割って入り込み、女性と男性を引き離していく。
「……おお、なんて可哀想なフリッグ。男と出会ってしまったからに、それと別れる苦しみを知ってしまった……だが安心するがいい、もうそれを味わうことはないのだから……」
哀れんで目を潤ませる姿と、鼻を膨らませて見下す姿を交互に変えて。
「男の方は窓から捨てておけ。先の戦いぶりを見るに、死ぬことはないだろうが、頭でも打ってもらって数日寝込んでもらえれば僥倖だ……やれ!」
「はっ! ――オージンよ、貴様は覚えていないだろうが、おれは数日前に貴様の背中に傷を付けようとして、それに気付いた貴様の、剣の一撃で撃退された兵士だ。あの時は苦汁を浴びせられたが、今はそれも下ってしまって最高に気分が良い! はははっ!」
「ぐぅぅぅ……!」
数人がかりで男性に組み付かれても、なお男性は必死にもがく。
「フリッグ……! 私は、必ず……! 君を、迎えに、来るぞ……!」
その叫びと共に、男性は外に――舞台袖に放り投げられてしまう。
そんな過ごしやすい秋空の下、生徒達は学園生活の一大行事『学園祭』に向けて準備を進めていたのだった。
「エリスちゃーん、そこ押さえててー」
「はーい」
「よしアーサー、そこを真っ直ぐ切っていってよ」
「……ああ」
「ワンちゃーん、絵の具の赤いの持ってきてー」
「ワオーン!」
「やあ、順調そうだね」
料理部では学園祭に出店をすることになっている。そのため十月に入ってからは、普段の料理活動は休止して学園祭の準備を行っていく。
現在エリスとアーサーとカヴァスは、美術室にて入り口に置く立ち看板の製作中。他数名の生徒と協力して製作していると、そこに料理部顧問のセロニムがやってきた。
「先生、また頭が……」
「おっと、ごめんごめん。よっと。しかし今年も大層なの作るねえ」
「店は客引きが肝心なんですよ、客引きが! ここで命懸けなくてどうするんですか!」
「それは確かにその通りだ、うんうん。こっちで何か僕に手伝えることある?」
「えーじゃあ調理班の方行ってください。商品について先生の意見が求められてると思うんですよ。準備班はどうにもなるんで」
「了解了解」
セロニムが美術室を出ていくのを見送った後、生徒の一人が立ち上がってポケットから設計図を取り出す。
「えーっと、形はある程度完成したな。後はこれをくっつけるだけ……ニース先生! 魔術粘着剤ありますか?」
「ん? 魔術粘着剤か? ちょっと待ってな……」
職員控室から出てきて、机と棚を一通り漁るニース。
「……うん、ないな。ということは演劇部に貸したっきりそのままだな」
「何だよ演劇部、まーだ返してないのかよっ。よし。エリスにアーサー、二人で取りに行ってきてもらってもいいかな。あ、ワンちゃんは引き続きこっちで」
「ワオン!」
「わかりました~」
「……ああ」
「演劇部は今講堂で活動してると思うから。んじゃあよろしくね!」
生徒は再び厚紙の近くに座り、構図と睨み合いを再開した。
エリスとアーサーは美術室を出て講堂に向かう。放課後の学園内は、どこもかしこもせわしなく時間が進んでいる。
「それにしても、どこの活動も学園祭一色だね」
「一大行事と言われているだけあるな」
「ええと、まず手芸部が作品販売するから、カタリナはお留守でしょ。それでイザークが手伝いに行くって言ってたっけ」
「あいつはこの時期暇しているかと思ったが意外だったな」
「本当にね。そして武術部も何か出店するみたいだし、曲芸体操部も演目の発表があるからその追い込み。ルシュド、リーシャ、それにクラリアもそれで忙しいみたい」
「あいつは武術部だったのか。意外でもないな」
「ね、むしろそれ以外だったらおかしいもん。あとわたし達の知り合い……ヴィクトールがいる生徒会と、サラがいる園芸部?」
「一体何をするんだか」
「園芸部は苗とか売りそう。生徒会は……毎年やってることって聞いたけど、何なんだろう」
そんな話をしながら、二人は講堂に到着する。
「あれかな、ステージでやってる人達……」
「そうだな」
靴を脱いで歩みを進める。
「……」
「ん?」
「……」
「……どうした?」
そこで繰り広げられていた光景を見て、エリスは固まってしまう。
「……ああ、勇ましきお方。私の前に現れる、勇敢な貴方は誰かしら?」
白いドレスに金髪の女性は、ベッドに座りながら、目の前の革の鎧の男性に問いかける。男性は大振りの剣を携えながら続けた。
「これはこれは、何とも美しい姫君がここにいらしたものだ。我が名はオージン。ログレスの大平原に名を轟かせる、一騎当千の戦士である」
「まあ。一騎当千だなんて、大層素晴らしいのですね。ですが私は、生まれてこの方ログレスから先に出ていったことがないにも関わらず、貴方様のお名前を聞いたことがありません」
「なんと、それはまことか。我が名を聞いた者は、皆一様に顔色を変えて、武器を掲げて襲いかかってくるか、頭を下げて懇願するか、二つに一つだ。だのに君はそのどちらでもない。君は一体如何様な人なのか、私に教えてはくれないだろうか」
男性は女性に近付き、片膝をついて見上げる。身振り手振りも交えながら、女性は続けた。
「ああ、勇ましきオージン様。どうか私の話を聞いてください。私の名はフリッグと申します。この町で生まれ、この町の人々に育まれました」
「そして先程私は、ログレスの平原から出たことはないと申し上げましたが、私はそれどころか、この館からも出たことがないのです。私にとっての空は、単調で飾り立てる物のない灰色の天井で、私にとっての大地は、固く冷たい鉄の地面なのです」
「驚いた。花びらも旅に赴くイングレンスの世界で、緑と茶色が彩る大地を踏み締め、青く澄んだ空を仰いだこともない者がいるとは」
「しかし、ならば今がその時。今君は、私が勇敢にも窓から入ってきたのを見ただろう。今度はそれを反対に行うのだ。私は君を連れてこの窓から飛び降りる。そうすれば君も大地に降り立つことができるだろう――」
男性が女性の手を握り、窓の外に連れて行こうとする。
しかし女性はベッドから立とうとせず、その行為を拒否した。
「いけません、そのようなことは。私がその窓から地面を見ると、そこには目にも見えず、耳にも聞こえない何かがいて、それが身体を震わせてくるのです。そして震えて怯えきったこの身を温めるように、すかさず恐怖の布で包み込むのです。見下ろしただけでもこのような気持ちに襲われるのに、まして飛び降りるなんてこと、できるはずがありません」
「麗しきフリッグよ。私の言ったことを覚えているだろうか。私は一騎当千の戦士。このような窓から飛び降りることなんて造作もない」
「昔、遥か彼方のラグナルに聳え立つ、ナーシルの山々のドラゴンを倒した時、飛んでいる最中にとどめを刺したものだから、剣を掲げたまま落ちていき、背中から身体を打ち付けた。その高さに比べれば、この窓から飛び降りることなぞ、夜空に煌々と浮かぶ月と地をずるずると這う亀を比べるようなもの。故に君は、私に身を預けていればよいのだ」
男性は女性の肩を抱く。しかし女性は俯いたまま顔を上げようとしない。
「怖いもの知らずの、勇猛果敢なオージン様。館の外には、恐ろしい物が雨粒のように幾多も存在していると聞いています。人の心を知ろうともしない、凶暴な魔物。弱き者や貧しき者を狙う、残虐な賊達。どれほど祈りを捧げようとも、一切の容赦をしない、神々が作り上げた理」
「それに襲われて命を尽かせるぐらいなら、全てから守られたこの館の中で人生の全てを終わらせる方が余程幸福だと、私はそう思うのです……」
「……そうだ、君の言う通りだ。私はその恐ろしい物を、この町にやってくるまでに全て見てきた」
「私の腹には爪の傷跡が残っている。これは深い森の中に住み、涎を垂らして貪欲に獲物を狙うグリズリーめに襲われて、命からがら戦い抜いた時の傷だ。また背中には、長方形の焼き印の跡が残っていて、今も時々むず痒くなる。一度賊の所有物になったことがあり、その時に刻まれた、苦々しい敗北の証だ。そしてこの町に来る途中で、地震や飢餓、寒冷や熱波で滅び去った町の数々を、この目でしかと見てきた」
「ああ、それ以上はどうか言わないで。それならば、貴方様もわかっているでしょう。イングレンスの世界には、恐ろしき物しか存在しないのです」
「だから、そのような世界に私を連れて行かないで。私を安寧の揺り籠の中から、解き放つようなことはしないで。お願いです、どうか、どうか……」
「いや、私の決意は変わらない。君を必ずこの館から連れて行く。確かにイングレンスの世界には、恐ろしき物で溢れ返っている。だがその中にも、素晴らしく、尊ぶべき物もあることを、私は知っている」
男性は腰から鉢植えを取り出し、女性に見せる。
「オージン様、この入れ物に宿っている、赤く可愛らしい木の実は何でしょう? これが素晴らしく、尊ぶべき物?」
「そうだ。皆はこの木の実を苺と呼んでいる。昔、氷の海に浮かぶビブレストの島を訪れた時、冷徹に降り注ぐ雪にも屈することなく、雪原に実っていた木の実だ。過酷な環境でも耐え抜く強さを持っている、この木の実は相応に美味しいのだ。ほら、口に入れてごらん」
男性は鉢植えから苺の実を一粒つまみ、女性に渡す。
女性が苺の実を口に入れると、俯いていて暗くなっていた表情は、どんどん太陽に当てられたように変わっていく。驚いたように目を見開き、そして大粒の涙をこぼす。
「……美味しい。甘くて、でも酸っぱくて、そして種が弾けるこの感触。ああ、オージン様。私はこの苺の実を、生まれて初めて口にしました」
「そうだろう、そうであろう。私はこの苺の実が好物なのだ。君が言った通り、甘くて、酸っぱくて、種の弾けるような感触が心地良いから、食べると力が沸いてくる。どれだけ恐ろしい物を見てしまっても、この苺の実を口にすれば、そういうこともあったが、悔やんでも仕方ないと、前を向いて進ませてくれるような気持ちにさせるのだ」
男性は女性の身体を優しく抱き締める。
「君はこのフェンサリルの館を、安寧の揺り籠だと言った。だがここは揺り籠ではなく、牢獄なのだ。牢獄に閉じ込められた、哀れなる囚人フリッグよ――ここから出てしまえば、君は空を旅する鳥のように自由になれる」
「もしも恐ろしい物が君に襲いかかったとしても、恐れるに足らん。何故なら――私が君の傍にいて、それらから君を守っていくからだ」
台詞の後に涙をこぼし、抱き合う二人。
だがそこに響く、不規則にやってくる大勢の足音。
髪を巻き上げ、ビロードで作られたチュニックを身に着けた男が二人の前に現れると、男性は顔を上げて叫ぶ。
「――何者だ! 我が愛しきフリッグに手を出すのなら、容赦はせんぞ!」
「容赦はしないだと。ふん、それはこちらの台詞だな。フェンサリルの館の様子がおかしいと聞いて来てみたら、まさか貴様だったとはな、オージン。実に残念だ。町長は貴様のことを大層気に入っていたのに、館に忍び込んだことを知ったら、さぞかし残念がるだろう」
「……ああ、今の言葉で理解したぞ。この館にフリッグを閉じ込めていたのは町長だったのだな!」
「この町で生を受けず、恵みすらも享受したことのないような、浮浪者たる貴様の知る所ではない!」
「ぐっ……!」
「ああ、そんな……どうか、どうかお願いです。私はどのような罰でも裁きでも甘んじて受け入れます。だから、彼に残酷な仕打ちをするようなことはしないで……!」
男の後ろにいた数人の鎧の男が、無理矢理割って入り込み、女性と男性を引き離していく。
「……おお、なんて可哀想なフリッグ。男と出会ってしまったからに、それと別れる苦しみを知ってしまった……だが安心するがいい、もうそれを味わうことはないのだから……」
哀れんで目を潤ませる姿と、鼻を膨らませて見下す姿を交互に変えて。
「男の方は窓から捨てておけ。先の戦いぶりを見るに、死ぬことはないだろうが、頭でも打ってもらって数日寝込んでもらえれば僥倖だ……やれ!」
「はっ! ――オージンよ、貴様は覚えていないだろうが、おれは数日前に貴様の背中に傷を付けようとして、それに気付いた貴様の、剣の一撃で撃退された兵士だ。あの時は苦汁を浴びせられたが、今はそれも下ってしまって最高に気分が良い! はははっ!」
「ぐぅぅぅ……!」
数人がかりで男性に組み付かれても、なお男性は必死にもがく。
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