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序章 桜の花びらが旅をする季節に
断章:幕を開ける世界
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桜の木はイングレンスの世界中に生え、春になると各地で咲き誇る。
何日か、何週間か咲き誇り、後は風に吹かれて空を舞う。
さながらその姿は、未知なる空にも果敢に向かって行くようで。故に多くの人々が、桜の花びらを旅人と例えて嗜んできた。
ある東からの花びらは、港で佇む少女を見かけた。
その後やにわに吹いてきた潮風が、彼女の頬を撫でる。
深緑の髪が揺れ、紫の瞳が閉じられた。くすぐったくて、彼女は思わず微笑みを零す。
「……はぁ」
埠頭から水面を越しに、自分の姿を見る。決して着ることはないと思っていた、学生服と呼ばれるもの。
それに着られている自分は、まるで水面よりも深い場所、沼の底に沈んでいるようで。
「おーい! カタリナちゃん!」
彼女に近付く人影が一人。それを受けて、彼女の身体から姿を現す者が。ぴっちりと仕立てられたタキシードに身を包んだゴブリンだ。
「こっちにいたのか。いやあ、あっしとはぐれちまったんじゃねえかって、心配したんだわ」
「……」
「……あれ? 大丈夫?」
「お嬢様は極度の緊張状態にあられます。そう遠くない学園生活のことを考えておられるのでしょう」
「おうおう、そうかそうか……つっても、あっしも学園生活なんて知りようがないから、アドバイスもなーんもできねえ。すまねえ……」
男性は申し訳なさそうに頭を掻いた。彼は至って普通の折り襟シャツにスラックスを着ているが、深緑の髪と紫の瞳の鮮やかさが目を引く。
「……悪く、ないです。ソールさんは……」
「いやいや……なあセバスン、カタリナちゃんのこと頼んだぞ? 本当にさ」
「承知の上でございます。不肖ながらわたくしセバスン、お嬢様のために身を捧げる所存でございます」
どこからか船笛の音が聞こえてきた。それを受けて、三人は周囲を見回す。
「もしかしたらカタリナちゃんが乗り込む船かもしれねえ。受付に行こう、なっ?」
「……はい」
「大丈夫だって。人生はどうにでもなる! だから気楽に行きなせえ?」
「はい……」
「……ん」
ある花びらは、煉瓦と石で作られた洒落た街並みを行き交い、
路地裏で寝ていた少年の腹に落ちた。
「……」
癖が付きまくった茶髪が特徴的な少年だ。それを見つめる瞳は、同様の茶色をしていた。
彼は花びらを手に取り、じっと見つめる後に、また風に吹かせてやる。今日は心地良い風が吹いており、花びらはそれに乗ってよく飛んでいく。
「ふわあ……よく寝たなあ」
「……そろそろ時間かなあ」
耳を澄ませると、潺に乗って音が聞こえてくる。
「ああ……」
この街で散々聴き慣れたこの音とも、暫しお別れ。聴き納めるように目を閉じ、そして歌う。
『十年後、二十年後、三十年後――』
小刻みに振動し、所々雷鳴にも似た、迫力のある轟音。
『僕らはどんな風になっているのかな――』
線のように真っ直ぐで、どこか平穏を与える重低音。
『素敵な人に出会っているかな、子供は何人生まれているのかな――』
脈打つ鼓動のような、熱を内包した、反響する拍子の音。
全てが心地良く、この肉体に溶け込んでくる。
「イザークちゃーん!? 何処にいるのー!? もうすぐ出航しちゃうわよー!?」
「私達からも渡す物あるからー! 早く戻ってきて頂戴なー!」
甲高い女性の声を二つ聞くと、彼は身体を起こす。
「……これ持ってけ。オマエの身体で隠してくれや」
指を鳴らして、全身が黒い布で覆われた人間を呼び出すと、
近くに置いてあった黒く長い物体を、彼に投げ渡す。
「……行こうぜサイリ。もうすぐこの街ともおさらばだ」
北の雪が積もる島々に舞う桜が見たのは、大きな屋敷か施設のような建物の前で、大勢の子供達に囲まれる少女であった。
「お姉ちゃん行かないで……! やっぱり、さみしいよう……」
「だめだよ! お姉ちゃんは行かないといけないんだから!」
「そういうあんただって泣いてるじゃない! ぐすん……」
「そ、そりゃあ、さみしいに決まってるでしょ……!」
「うん、うん、寂しいよね……私だって寂しいよ……でも我慢するから、皆も我慢しよう! ねっ?」
「「「うわああああん……!」」」
胸程まである薄茶色の髪をポニーテールに纏め、雲が溶け込んだ空のような、水色の瞳が輝いている。彼女は小さい子供にとても好かれていた。
「……はいお姉ちゃん! お守りだよ!」
「みんなで作ったの! お姉ちゃんがたくさんのお友達できますようにって!」
「ありがと~! 私いーっぱいお友達作るね!」
「スノウにもあげる! はい!」
「ありがとうなのです!」
「お姉ちゃんのこと、まもってあげるんだよ! ちっちゃい雪だるまって、ばかにされないようにね!」
「がんばるのです!」
足元にはマフラーを巻いて厚着をした、少女の膝程の身長しかない少女が、ぴょんぴょん飛び跳ねている。大きい子供も、皆が新たなる旅立ちを祝福している。
「リーシャ。向こうに行っても元気でやるんだぞ」
「そんな、今生の別れじゃないんだから。長い休みになったら戻ってくるよ!」
「ええっ、そんなことできるの? 学園生活って忙しいんでしょ?」
「頑張って時間を作りまーす! できたらだけど!」
渡された物を鞄に入れると、最後に修道服に身を包んだ妙齢の女性が話しかけてくる。
「リーシャ……無理だけはしないように。貴女は頑張りすぎてしまうきらいがあるから……」
「シスター……メアリーさん。うん、大丈夫だよ」
「何かあったらいつでも戻ってきていいんですからね。貴女は皆の家族で、私の娘で、この孤児院の一員なのですから」
「ありがとう……ありがとう、ございます!」
数歩後ろに下がって、慣れ親しんだ建物を視界に収めて。
「では、行ってきます!!」
「いってきます!! なのです!!」
いってらっしゃいという声と昇る太陽、白く輝く大地に積もる桜に見送られて、少女は走り出していった。
大陸の遥か西、岩が剥き出しになっている地方にも、桜の木は誇らしげに立っている。
その花びらは、自分を見上げる一人の少年を見ていた。
くりくりとした緋色の瞳が、じっと見上げている。この桜を美しいと思って、見つめているのだろう。
そこにこんどは黒い子竜がやってきて。
「よぉ、こんなとこにいたのか。どうしたんだ?」
「グルゥ……」
「へえ、花とかが好きなのか。意外だわ」
「……」
「お、おい? 何だその目は? 俺何かやばいこと言っちまったか?」
「ごめんね。ルシュドはそういう偏見持たれるの嫌いなんだよ、ジャバウォック」
ピンク色の髪に黄色い瞳の少女が、これまたピンク色の猫を引き連れて、少年の所にやってくる。
「むぅ、それはすまねえ。ナイトメアなのに情けねえことをしちまった」
「まあ出会って数週間なんだし、気にしなくていいよ! それよりも!」
「ガルッ?」
少女は少年の隣にどんと構える。目元の辺りがよく似ている二人であった。
だが少女は鱗や爪が生えていて、およそ人間とは思えない風貌なのに対して、少年の見た目は人間のそれである。
「いいか、魔法学園で何言われても気にすんなぁ。それでも気にしちゃうことがあったら、姉ちゃんに手紙寄越せぇ。全力で励ましてやっからな!」
「グルルルル……グッ、グルルゥ」
「ん? どしたぁ?」
「……ありがと、るか、ねえちゃ」
「あはは、今の内から帝国語の勉強? 熱心だね~!」
少女はわしゃわしゃと少年の髪を撫でる。紺色のツンツン頭が、若干ではあるがよれてしまったが、すぐに元通りになった。
「ニャァン……」
「そうだそうだよチェシャ、こっち来た用事! 竜賢者様がね、荷物の準備終わったって! だから行こう!」
「……うん、わかった」
「よーし、じゃあしゅっぱーつ!」
二人の若者を見送った後、桜の花びらも木から離れ、旅に出たのだった。
全ての花びらは旅をすると言われているが、とはいえ気分という物がある。
大陸の北方、ある屋敷の前に咲いている桜の花びらは、まだ旅立つ気分ではなかったようだが、無理矢理叩き起こされることになった。
というのも、狼の耳と尻尾と爪を持つ少女が、自分の生えている木に向かって殴りかかっているからである。
「クラリア……何をやっているんだお前は……」
屋敷から出てきたのは、こちらも狼の特徴を持つ少女。しかし身長は小さく、どこか幼さが残っている。
「クラリス! 何って、訓練してた! 木を殴って力をつけていたぜ!」
「殴られる木の気持ちになれ。出立の準備を全部私に任せるな。言いたいことは以上」
「ぶー! つまんねー奴だなー!」
「私はナイトメアとしてお前の生活を見守るという義務がだな……」
「ナイトメアとしてアタシの命令に従いやがれー!!」
「……ぷっ、あはは。早速振り回されているね」
幼女の後ろから、少女によく似た青年が近づいてくる。彼も同様に、耳に尻尾に爪と狼の特徴を有していた。
「クライヴ様……貴方はこれでいいんですか」
「僕は構わないし、父上だってそう思っておられる。クラリアはクラリアの好きなようにやるといいさ」
「やったー!! イヴ兄に褒められたぜー!!」
「褒めてないだろ今のは!」
「そういえば、港までの馬車はあと三十分で到着するみたいだよ」
「何だと!? おいクラリア、準備を急ぐ――」
「うおおおおお!! 打ち込み百発だぜ!!」
「こいつは!! 本当に!!」
「にゃあああああ!!」
幼女に引っ張れていく少女。やや面白味のある光景を見て、花びらはこれでもいいかと、旅に出てしまったことを前向きに捉えることにしたのだった。
桜以外にも、この季節には植物が顔を覗かせる。特に多くの木々が葉を付かせ、風に靡いて空を彩っていく。
自然豊かな町に生えている桜は、そうした他の植物達と共に、眼下を行き交う少年少女を眺めていた。
「ハンス様、おはようございます!」
「ああおはよう。今日もいい天気だねえ。まるできみの笑顔みたいだ」
「そんな……あっ」
「ハンス様、今日はサンドイッチを作ってまいりましたの。よかったらご試食になられまして?」
「ふふ、有難く受け取らせてもらうよ」
薄いクリーム色の髪を小綺麗に纏めた、糸目の生徒が大勢の女子生徒に囲まれながら道を歩いている。
何て温厚そうな少年なのだろうと、花びらが思ったのも束の間、
「――ねえ、そこをどけてくれるかな、人間」
少年の態度が豹変し――
先を行っていた生徒を飛ばす。
文字通り風の魔法で飛ばしていった。当然だが、喰らった生徒は大怪我では済まされない。
「まあ、何て無礼な人間共だこと! ハンス様の行く道を邪魔するだなんて!」
「ふん、人間は土を舐めているのがお似合いね!」
「どうした――ってああ、ハンスか。早くこっち来いよ、こんな猿共に構ってないでさ」
「……言われなくてもそのつもりさ」
あんな態度では、前途多難という言葉が似合うだろう。少年もそれに関わる人々も。
せめてもの情けで、花びらは旅立って彩りを飾る。
ある砂漠の町では、自生している植物は一部に限られている。椰子の木、芝生、生垣。故に桜の花が咲くと、人々は我先にと花びらの旅立つ様を見届けるべく尋ねるのだ。
今日もそんな人々が去った後、ぽつりと一人の少女が桜の下を訪れた。
「……」
瓶底眼鏡の奥から黄緑の瞳が見つめてくる。明るい茶色のショートカットで、腰に右手を当ててじっと見上げていた。
「……懐かしいな」
「五歳の誕生日。砂嵐の中を、ワタシを庇いながらここまで来たわよね。着いた時にはローブの中に砂が溜まって、洗い流すのに苦労したっけ」
「それも全て桜を見せるために。そう、こんな綺麗な――」
両腕を広げて伸ばす。
落ちてくる花びらを受け止めるように。
されど全て、伸ばした間をすり抜けていき――
「……」
少女が気配を感じて背後を振り向くと、そこには妖精が浮いていた。
目元まで前髪で隠れてしまって、表情は読み解けない。大きい花を手に持ち、何かを伝えるようにくるくる回す。
「……そうね。そろそろ行きましょうか、サリア……サリア」
二度名前を呼ばれた妖精は、ほんのりと笑う。
「ワタシは……サラは頑張るから。空の上から見守っていてね、母さん」
一般的に木は数百年は生きるものである。それは海を越えた西の大陸にある、とある貴族の家に生える桜も例外ではないのだが。
「……くそ……」
心躍る春という季節に、ここまで肩を落とす人間というのは、数百年の中で始めて見た。
「……」
「……貴様。俺を励ましているつもりか?」
「!」
「はは……主君思いなのだな」
「♪」
「当然の義務か……シャドウ、貴様はよくできたナイトメアだよ」
細身の眼鏡をかけた、黒髪の七三分けの少年。暗い青色の瞳からは涙が流れているようにも見える。幹に手を押し当て、その視線を地面にじっと向けていた。
彼の隣にいたのは、彼と瓜二つの少年。眼鏡をかけていないのが唯一の違いだが、
少年の姿から鳥、精霊、果てには自分達と違わぬ花びらに姿を変え、どうやら彼の気を紛らわしているようだった。
すると、変身されていた少年の肩が突然ぴくっと震える。
「兄上!」
「……」
「こちらにいらしたのですね、兄上。出立の準備はよろしいのですか?」
「……ウィルバート。父上も……」
声をかけてきた、恐らく少年の弟と思われる彼は、艶々とした黒髪に暗い青の目をしていた。身長がもう少し高ければ少年と見間違えるだろう。
弟に連れ添っていたのは縮れた黒髪の男性。皺も数本あって温厚そうな印象だ。少年が父上と呼んだのは彼だろう。
花びらに姿を変えていた少年は知らぬ間に少年の影に潜んでいた。そして潜まれた少年は重々しく口を開く。
「……昨日のうちに終わらせておいたので、何時でも出立できます」
「そうか、そうか。相変わらずお前は用意がいいな、ヴィクトール」
「……」
「その分なら海の向こうに行っても上手くやっていけるだろう……心配することはない」
「兄上、ケルヴィンに戻ってきたら沢山お話聞かせてくださいね。僕がこっちで学んだことと擦り合わせて、素敵な学びを得ましょう!」
「……!」
弟の純粋に煌めく瞳を、彼は忌避しているようだった。
「そうだ兄上! 今街に露天商が来ているんですよ! 出立前の思い出作りです、一緒に見に行きませんか?」
「……そうだな。暫くは会えないだろうし、見ていこうか……」
「ありがとうございます兄上! 僕は先に向かってますね!」
はしゃぎまわる幼子のように、弟は駆け出していく。少年はすぐに追いかけず、父と呼んだ彼を見つめ、言葉を待っていた。
「……ヴィクトール」
「……はい」
「色々と思う所はあると思うが」
「……」
「自分ができることを、精一杯やりなさい。私からはそれだけだよ」
「……承知しました」
その言葉は彼の心にどう響いたのだろう。
花びらはもう少し、それを見ていたいと思ったが、時間切れ。
風に煽られ、旅立つことを余儀なくされていった。
人が違えば桜も違う。咲く姿もその意味も。
けれども一つだけ言えることは、桜が咲き誇り散っていく様は、新しい世界の幕開けを知らせるということだ。
まるで舞台のカーテンが上がり、物語が始まっていくように――
何日か、何週間か咲き誇り、後は風に吹かれて空を舞う。
さながらその姿は、未知なる空にも果敢に向かって行くようで。故に多くの人々が、桜の花びらを旅人と例えて嗜んできた。
ある東からの花びらは、港で佇む少女を見かけた。
その後やにわに吹いてきた潮風が、彼女の頬を撫でる。
深緑の髪が揺れ、紫の瞳が閉じられた。くすぐったくて、彼女は思わず微笑みを零す。
「……はぁ」
埠頭から水面を越しに、自分の姿を見る。決して着ることはないと思っていた、学生服と呼ばれるもの。
それに着られている自分は、まるで水面よりも深い場所、沼の底に沈んでいるようで。
「おーい! カタリナちゃん!」
彼女に近付く人影が一人。それを受けて、彼女の身体から姿を現す者が。ぴっちりと仕立てられたタキシードに身を包んだゴブリンだ。
「こっちにいたのか。いやあ、あっしとはぐれちまったんじゃねえかって、心配したんだわ」
「……」
「……あれ? 大丈夫?」
「お嬢様は極度の緊張状態にあられます。そう遠くない学園生活のことを考えておられるのでしょう」
「おうおう、そうかそうか……つっても、あっしも学園生活なんて知りようがないから、アドバイスもなーんもできねえ。すまねえ……」
男性は申し訳なさそうに頭を掻いた。彼は至って普通の折り襟シャツにスラックスを着ているが、深緑の髪と紫の瞳の鮮やかさが目を引く。
「……悪く、ないです。ソールさんは……」
「いやいや……なあセバスン、カタリナちゃんのこと頼んだぞ? 本当にさ」
「承知の上でございます。不肖ながらわたくしセバスン、お嬢様のために身を捧げる所存でございます」
どこからか船笛の音が聞こえてきた。それを受けて、三人は周囲を見回す。
「もしかしたらカタリナちゃんが乗り込む船かもしれねえ。受付に行こう、なっ?」
「……はい」
「大丈夫だって。人生はどうにでもなる! だから気楽に行きなせえ?」
「はい……」
「……ん」
ある花びらは、煉瓦と石で作られた洒落た街並みを行き交い、
路地裏で寝ていた少年の腹に落ちた。
「……」
癖が付きまくった茶髪が特徴的な少年だ。それを見つめる瞳は、同様の茶色をしていた。
彼は花びらを手に取り、じっと見つめる後に、また風に吹かせてやる。今日は心地良い風が吹いており、花びらはそれに乗ってよく飛んでいく。
「ふわあ……よく寝たなあ」
「……そろそろ時間かなあ」
耳を澄ませると、潺に乗って音が聞こえてくる。
「ああ……」
この街で散々聴き慣れたこの音とも、暫しお別れ。聴き納めるように目を閉じ、そして歌う。
『十年後、二十年後、三十年後――』
小刻みに振動し、所々雷鳴にも似た、迫力のある轟音。
『僕らはどんな風になっているのかな――』
線のように真っ直ぐで、どこか平穏を与える重低音。
『素敵な人に出会っているかな、子供は何人生まれているのかな――』
脈打つ鼓動のような、熱を内包した、反響する拍子の音。
全てが心地良く、この肉体に溶け込んでくる。
「イザークちゃーん!? 何処にいるのー!? もうすぐ出航しちゃうわよー!?」
「私達からも渡す物あるからー! 早く戻ってきて頂戴なー!」
甲高い女性の声を二つ聞くと、彼は身体を起こす。
「……これ持ってけ。オマエの身体で隠してくれや」
指を鳴らして、全身が黒い布で覆われた人間を呼び出すと、
近くに置いてあった黒く長い物体を、彼に投げ渡す。
「……行こうぜサイリ。もうすぐこの街ともおさらばだ」
北の雪が積もる島々に舞う桜が見たのは、大きな屋敷か施設のような建物の前で、大勢の子供達に囲まれる少女であった。
「お姉ちゃん行かないで……! やっぱり、さみしいよう……」
「だめだよ! お姉ちゃんは行かないといけないんだから!」
「そういうあんただって泣いてるじゃない! ぐすん……」
「そ、そりゃあ、さみしいに決まってるでしょ……!」
「うん、うん、寂しいよね……私だって寂しいよ……でも我慢するから、皆も我慢しよう! ねっ?」
「「「うわああああん……!」」」
胸程まである薄茶色の髪をポニーテールに纏め、雲が溶け込んだ空のような、水色の瞳が輝いている。彼女は小さい子供にとても好かれていた。
「……はいお姉ちゃん! お守りだよ!」
「みんなで作ったの! お姉ちゃんがたくさんのお友達できますようにって!」
「ありがと~! 私いーっぱいお友達作るね!」
「スノウにもあげる! はい!」
「ありがとうなのです!」
「お姉ちゃんのこと、まもってあげるんだよ! ちっちゃい雪だるまって、ばかにされないようにね!」
「がんばるのです!」
足元にはマフラーを巻いて厚着をした、少女の膝程の身長しかない少女が、ぴょんぴょん飛び跳ねている。大きい子供も、皆が新たなる旅立ちを祝福している。
「リーシャ。向こうに行っても元気でやるんだぞ」
「そんな、今生の別れじゃないんだから。長い休みになったら戻ってくるよ!」
「ええっ、そんなことできるの? 学園生活って忙しいんでしょ?」
「頑張って時間を作りまーす! できたらだけど!」
渡された物を鞄に入れると、最後に修道服に身を包んだ妙齢の女性が話しかけてくる。
「リーシャ……無理だけはしないように。貴女は頑張りすぎてしまうきらいがあるから……」
「シスター……メアリーさん。うん、大丈夫だよ」
「何かあったらいつでも戻ってきていいんですからね。貴女は皆の家族で、私の娘で、この孤児院の一員なのですから」
「ありがとう……ありがとう、ございます!」
数歩後ろに下がって、慣れ親しんだ建物を視界に収めて。
「では、行ってきます!!」
「いってきます!! なのです!!」
いってらっしゃいという声と昇る太陽、白く輝く大地に積もる桜に見送られて、少女は走り出していった。
大陸の遥か西、岩が剥き出しになっている地方にも、桜の木は誇らしげに立っている。
その花びらは、自分を見上げる一人の少年を見ていた。
くりくりとした緋色の瞳が、じっと見上げている。この桜を美しいと思って、見つめているのだろう。
そこにこんどは黒い子竜がやってきて。
「よぉ、こんなとこにいたのか。どうしたんだ?」
「グルゥ……」
「へえ、花とかが好きなのか。意外だわ」
「……」
「お、おい? 何だその目は? 俺何かやばいこと言っちまったか?」
「ごめんね。ルシュドはそういう偏見持たれるの嫌いなんだよ、ジャバウォック」
ピンク色の髪に黄色い瞳の少女が、これまたピンク色の猫を引き連れて、少年の所にやってくる。
「むぅ、それはすまねえ。ナイトメアなのに情けねえことをしちまった」
「まあ出会って数週間なんだし、気にしなくていいよ! それよりも!」
「ガルッ?」
少女は少年の隣にどんと構える。目元の辺りがよく似ている二人であった。
だが少女は鱗や爪が生えていて、およそ人間とは思えない風貌なのに対して、少年の見た目は人間のそれである。
「いいか、魔法学園で何言われても気にすんなぁ。それでも気にしちゃうことがあったら、姉ちゃんに手紙寄越せぇ。全力で励ましてやっからな!」
「グルルルル……グッ、グルルゥ」
「ん? どしたぁ?」
「……ありがと、るか、ねえちゃ」
「あはは、今の内から帝国語の勉強? 熱心だね~!」
少女はわしゃわしゃと少年の髪を撫でる。紺色のツンツン頭が、若干ではあるがよれてしまったが、すぐに元通りになった。
「ニャァン……」
「そうだそうだよチェシャ、こっち来た用事! 竜賢者様がね、荷物の準備終わったって! だから行こう!」
「……うん、わかった」
「よーし、じゃあしゅっぱーつ!」
二人の若者を見送った後、桜の花びらも木から離れ、旅に出たのだった。
全ての花びらは旅をすると言われているが、とはいえ気分という物がある。
大陸の北方、ある屋敷の前に咲いている桜の花びらは、まだ旅立つ気分ではなかったようだが、無理矢理叩き起こされることになった。
というのも、狼の耳と尻尾と爪を持つ少女が、自分の生えている木に向かって殴りかかっているからである。
「クラリア……何をやっているんだお前は……」
屋敷から出てきたのは、こちらも狼の特徴を持つ少女。しかし身長は小さく、どこか幼さが残っている。
「クラリス! 何って、訓練してた! 木を殴って力をつけていたぜ!」
「殴られる木の気持ちになれ。出立の準備を全部私に任せるな。言いたいことは以上」
「ぶー! つまんねー奴だなー!」
「私はナイトメアとしてお前の生活を見守るという義務がだな……」
「ナイトメアとしてアタシの命令に従いやがれー!!」
「……ぷっ、あはは。早速振り回されているね」
幼女の後ろから、少女によく似た青年が近づいてくる。彼も同様に、耳に尻尾に爪と狼の特徴を有していた。
「クライヴ様……貴方はこれでいいんですか」
「僕は構わないし、父上だってそう思っておられる。クラリアはクラリアの好きなようにやるといいさ」
「やったー!! イヴ兄に褒められたぜー!!」
「褒めてないだろ今のは!」
「そういえば、港までの馬車はあと三十分で到着するみたいだよ」
「何だと!? おいクラリア、準備を急ぐ――」
「うおおおおお!! 打ち込み百発だぜ!!」
「こいつは!! 本当に!!」
「にゃあああああ!!」
幼女に引っ張れていく少女。やや面白味のある光景を見て、花びらはこれでもいいかと、旅に出てしまったことを前向きに捉えることにしたのだった。
桜以外にも、この季節には植物が顔を覗かせる。特に多くの木々が葉を付かせ、風に靡いて空を彩っていく。
自然豊かな町に生えている桜は、そうした他の植物達と共に、眼下を行き交う少年少女を眺めていた。
「ハンス様、おはようございます!」
「ああおはよう。今日もいい天気だねえ。まるできみの笑顔みたいだ」
「そんな……あっ」
「ハンス様、今日はサンドイッチを作ってまいりましたの。よかったらご試食になられまして?」
「ふふ、有難く受け取らせてもらうよ」
薄いクリーム色の髪を小綺麗に纏めた、糸目の生徒が大勢の女子生徒に囲まれながら道を歩いている。
何て温厚そうな少年なのだろうと、花びらが思ったのも束の間、
「――ねえ、そこをどけてくれるかな、人間」
少年の態度が豹変し――
先を行っていた生徒を飛ばす。
文字通り風の魔法で飛ばしていった。当然だが、喰らった生徒は大怪我では済まされない。
「まあ、何て無礼な人間共だこと! ハンス様の行く道を邪魔するだなんて!」
「ふん、人間は土を舐めているのがお似合いね!」
「どうした――ってああ、ハンスか。早くこっち来いよ、こんな猿共に構ってないでさ」
「……言われなくてもそのつもりさ」
あんな態度では、前途多難という言葉が似合うだろう。少年もそれに関わる人々も。
せめてもの情けで、花びらは旅立って彩りを飾る。
ある砂漠の町では、自生している植物は一部に限られている。椰子の木、芝生、生垣。故に桜の花が咲くと、人々は我先にと花びらの旅立つ様を見届けるべく尋ねるのだ。
今日もそんな人々が去った後、ぽつりと一人の少女が桜の下を訪れた。
「……」
瓶底眼鏡の奥から黄緑の瞳が見つめてくる。明るい茶色のショートカットで、腰に右手を当ててじっと見上げていた。
「……懐かしいな」
「五歳の誕生日。砂嵐の中を、ワタシを庇いながらここまで来たわよね。着いた時にはローブの中に砂が溜まって、洗い流すのに苦労したっけ」
「それも全て桜を見せるために。そう、こんな綺麗な――」
両腕を広げて伸ばす。
落ちてくる花びらを受け止めるように。
されど全て、伸ばした間をすり抜けていき――
「……」
少女が気配を感じて背後を振り向くと、そこには妖精が浮いていた。
目元まで前髪で隠れてしまって、表情は読み解けない。大きい花を手に持ち、何かを伝えるようにくるくる回す。
「……そうね。そろそろ行きましょうか、サリア……サリア」
二度名前を呼ばれた妖精は、ほんのりと笑う。
「ワタシは……サラは頑張るから。空の上から見守っていてね、母さん」
一般的に木は数百年は生きるものである。それは海を越えた西の大陸にある、とある貴族の家に生える桜も例外ではないのだが。
「……くそ……」
心躍る春という季節に、ここまで肩を落とす人間というのは、数百年の中で始めて見た。
「……」
「……貴様。俺を励ましているつもりか?」
「!」
「はは……主君思いなのだな」
「♪」
「当然の義務か……シャドウ、貴様はよくできたナイトメアだよ」
細身の眼鏡をかけた、黒髪の七三分けの少年。暗い青色の瞳からは涙が流れているようにも見える。幹に手を押し当て、その視線を地面にじっと向けていた。
彼の隣にいたのは、彼と瓜二つの少年。眼鏡をかけていないのが唯一の違いだが、
少年の姿から鳥、精霊、果てには自分達と違わぬ花びらに姿を変え、どうやら彼の気を紛らわしているようだった。
すると、変身されていた少年の肩が突然ぴくっと震える。
「兄上!」
「……」
「こちらにいらしたのですね、兄上。出立の準備はよろしいのですか?」
「……ウィルバート。父上も……」
声をかけてきた、恐らく少年の弟と思われる彼は、艶々とした黒髪に暗い青の目をしていた。身長がもう少し高ければ少年と見間違えるだろう。
弟に連れ添っていたのは縮れた黒髪の男性。皺も数本あって温厚そうな印象だ。少年が父上と呼んだのは彼だろう。
花びらに姿を変えていた少年は知らぬ間に少年の影に潜んでいた。そして潜まれた少年は重々しく口を開く。
「……昨日のうちに終わらせておいたので、何時でも出立できます」
「そうか、そうか。相変わらずお前は用意がいいな、ヴィクトール」
「……」
「その分なら海の向こうに行っても上手くやっていけるだろう……心配することはない」
「兄上、ケルヴィンに戻ってきたら沢山お話聞かせてくださいね。僕がこっちで学んだことと擦り合わせて、素敵な学びを得ましょう!」
「……!」
弟の純粋に煌めく瞳を、彼は忌避しているようだった。
「そうだ兄上! 今街に露天商が来ているんですよ! 出立前の思い出作りです、一緒に見に行きませんか?」
「……そうだな。暫くは会えないだろうし、見ていこうか……」
「ありがとうございます兄上! 僕は先に向かってますね!」
はしゃぎまわる幼子のように、弟は駆け出していく。少年はすぐに追いかけず、父と呼んだ彼を見つめ、言葉を待っていた。
「……ヴィクトール」
「……はい」
「色々と思う所はあると思うが」
「……」
「自分ができることを、精一杯やりなさい。私からはそれだけだよ」
「……承知しました」
その言葉は彼の心にどう響いたのだろう。
花びらはもう少し、それを見ていたいと思ったが、時間切れ。
風に煽られ、旅立つことを余儀なくされていった。
人が違えば桜も違う。咲く姿もその意味も。
けれども一つだけ言えることは、桜が咲き誇り散っていく様は、新しい世界の幕開けを知らせるということだ。
まるで舞台のカーテンが上がり、物語が始まっていくように――
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ママと中学生の僕
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大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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