97 / 100
愛おしい過去 ㉒ 失ったものは
しおりを挟むシロウは毎月、少ない時間をやりくりして、男が入院している病院を訪れた。
士官という立場は忙しいもので、丸一日の休日をとるのはかなり難しいものだった。
男は、酸素マスクを付けて朦朧として居る時もあれば、鼻腔カニューレをしながらも上体を起こして本を読んでいる時もあった。
状態は一進一退。
それでも、病室のドアを開けるシロウを見る度に、男は穏やかに微笑み手招きした。
徐々に痩せていく身体。やつれていく顔。
この男の苦しみの原因を作ったのは自分であるのに。
今更…いつ死んでも構わないと思って入隊した事を悔いても遅い。
男に会う時は、必ず最初にハロルドの近況を伝えた。
それが、男にとって一番知りたい事であろうと思ったからだ。
「いつもありがとう」と、カサカサに乾いた手が、自分の頬を撫でるたび、目頭が熱くなった。
いつまでもいつまでも、そうやって自分に触れていて欲しい。
「ちゃんと食べて、自分の身体も大事にしておくれ」
別れ際のキスと共に、男は必ずシロウの身体を気遣った。
そして、男の体調はゆるやかに下降線を描きながら数年が経過した頃、ハロルドにルームメイトが出来た事を報告した。
その日の男はベットに起き上がり、何か書き物をしていた様だが、シロウの姿を見るとすぐに手元の手帳を閉じて、マクラの下にしまった。
酸素マスクもカニューレも付けていない。そんな姿を見るのは久しぶりだった。
ただそばに居ると、男の肺の奥からゼーゼーとくぐもった呼吸音が聞こえる。
決して、苦しくないと言うわけではないのだろう。
「お前のお眼鏡に叶う子が入隊したんだね」と、男はシワの増えた目尻を下げ、嬉しそうに微笑んだ。
まあ、あのスラム出身の子供が、よくぞ試験に合格する程の語学力を身につけたものだ、とシロウは少なからず関心してはいた。
更に言えば、あの子供であれば、隊内で何かしでかしたとしても、自分の裁量でどうとでも出来るとも思っていた。
「どんな子なんだい?」
(どんな……)
「向上心と根性があって」
(なにせ身売りしてスラムから這い上がって来たくらいだ)
「戦闘のセンスがあるのは確実です」
(入隊初日に複数の隊員を殴り飛ばしたくらいだし)
「はは、それは頼もしいルームメイトだ」
朗らかに笑う男の横で、シロウは『嘘は言っていない』と自分で自分を納得させた。
ひとしきり、隊内の現状を伝えたところでシロウはイスから立ち上がった。
「シロウ、キスは?」
ドアに向かおうとしたシロウの指先を、男が慌てて掴んだ。
そして。
すぐに離した。
まるで、触れた事が過ちであったかのように、軽く被りを振った。
「ははっ、すまない。こんな年寄りに。帰って大丈夫だよ」
自嘲気味に笑った男に、シロウは酷く苛立った。
「貴方ってバカですね」
軽く舌打ちしたシロウの唇が、男のそれに強く押し当てられる。
唇をくっつけたまま、シロウはベットに上がり、男の身体の上に跨った。
そして男の頬を両手で固定すると、有無を言わさぬ勢いで、グイグイと自分の舌を男の口に侵入させる。
最初こそ驚いたように身を堅くした男だったが、やがてシロウと舌を絡ませ合い、互いの柔らかな粘膜を堪能した。
あまり長いと、男が苦しいだろうとシロウは口を離し、膝立ちになって男を見下ろす。
そして、ガシッと男の手を掴むと、自分の股間に導いた。
見開かれる男の瞳。
「わかりますか?私は今から、人目のない所で、コレを収めなければならないわけです」
肌寒いからとトレンチコートを持ってきて正解だった。スリムタイプのパンツを履いているから、隠す物がないと服の上からでも形が丸分かりだ。
「わ、かった、ケホッ」
あからさまに動揺する男の手を離してやると、男は真っ赤になった顔を両手でおおった。
「わ、私は勘違いを……お前があのまま帰ってしまうのかと思って」
「二度とくだらない事をおっしゃらないでください。貴方の体調が良いなら、ココで抜き合いしても構わないんですよ、私は」
「ぬ、ぬき⁈ゴホッッ」
「あと、さっきドアの方に向かったのは、隙間が開いていたので、キスする前に閉めようとしただけです」
「えっ」
ギョッとした風に、男はドアを見やった。確かに閉まりきっていない。
「院内のスタッフに見られたかもしれませんが、私は悪くありませんからね?」
ベットから降りたシロウは、平然と言い放った。
「まぁ、見られたって私は構いませんが」
その言葉に、男はシロウの腰を抱き寄せ、細い身体に顔を埋める。
「わたしは、幸せ者だな。お前にそんな風に言ってもらえて」
白髪の増えた男の頭をシロウはそっと撫でた。
「また来ます。ブランドン」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次に見舞いに行けたのは雨の日だった。訪ねた病室に男の姿が無かった事から、体調が良くて自宅に戻って居るのかと病院スタッフに尋ねてみる。
返ってきたのは最悪の言葉だった。
おそらくはセルジオの耳にさえまだ入っていない。
訃報。
シロウは言葉を失って、その場からしばらく動く事が出来なかった。
その佇まいがあまりに悲哀に満ちていたからか、スタッフがそっと独り言のようにしておしえてくれた。
「お身内の方が看取りに間に合いました。穏やかに逝かれましたよ」
……身内?
男からは家族はいない、と聞いていた。絶縁していた一人息子が来たのだろうか。わからない。
わかるのは、その最も重要な時に、自分はそばにいなかった、という苦い事実だけだった。
轟々とフロントガラスに打ち付ける雨の中、たった一度通っただけの道を、シロウは迷わずに進んだ。
豪雨だからか、墓地の入り口にある店にはクローズの看板が掛かっていた。
しかし、墓地自体には入る事ができた。
シロウは、傘もささずに目的の石版に向かう。
掘られていた真新しい二人目の名前。
雨に濡れるシロウの黒い瞳。その視線が、ゆっくりと石版の文字をなぞる。
『ブランドン・グロス』
ーあぁ。
とうとう失った。
失ってしまった。
わたしの愛。
0
お気に入りに追加
39
あなたにおすすめの小説


目標、それは
mahiro
BL
画面には、大好きな彼が今日も輝いている。それだけで幸せな気分になれるものだ。
今日も今日とて彼が歌っている曲を聴きながら大学に向かえば、友人から彼のライブがあるから一緒に行かないかと誘われ……?
ルームシェアは犬猿の仲で
凪玖海くみ
BL
几帳面なエリート会社員・望月涼介は同僚の結婚を機に家を失う。
新たな同居人として紹介されたのは、自由奔放なフリーター・桜庭陽太。
しかし、性格が正反対な二人の共同生活は予想通りトラブル続き⁉
掃除、食事、ルール決め——ぶつかり合いながらも、少しずつ変化していく日常。
犬猿の仲なルームメイトが織りなす、ちょっと騒がしくて心地いい物語。


代わりでいいから
氷魚彰人
BL
親に裏切られ、一人で生きていこうと決めた青年『護』の隣に引っ越してきたのは強面のおっさん『岩間』だった。
不定期に岩間に晩御飯を誘われるようになり、何時からかそれが護の楽しみとなっていくが……。
ハピエンですがちょっと暗い内容ですので、苦手な方、コメディ系の明るいお話しをお求めの方はお気を付け下さいませ。
他サイトに投稿した「隣のお節介」をタイトルを変え、手直ししたものになります。


婚約者に会いに行ったらば
龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。
そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。
ショックでその場を逃げ出したミシェルは――
何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。
そこには何やら事件も絡んできて?
傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

紹介なんてされたくありません!
mahiro
BL
普通ならば「家族に紹介したい」と言われたら、嬉しいものなのだと思う。
けれど僕は男で目の前で平然と言ってのけたこの人物も男なわけで。
断りの言葉を言いかけた瞬間、来客を知らせるインターフォンが鳴り響き……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる