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愛おしい過去 ⑫ 期限付きの恋
しおりを挟む次の日の朝、男は回診にやってきた主治医に、今後は積極的にリハビリに参加すると宣言した。
いままで渋っていたのに、どういった心境の変化だろうと、シロウは訝しんだが、体力を維持する為には必要な事だ。
早速今日から参加すると言うので、たまたまキャンセルが出た午後の部に入れ込んでもらう。
内容は、ウォーキングだったり、軽いストレッチだったり、合間に酸素マスクを付けて休憩を挟みながら、二時間ほど身体を動かす。
損傷した肺で取り込める酸素量は少なく、まずはその状態に身体を慣らしていく事が目標らしい。
リハビリ中は、シロウは特にする事がないので、開始時間に車椅子で男を送り届けると、一旦病室に戻った。
一人で病室に入ると、主のいない部屋は昼間なのに嫌に寒々しく感じた。
『妙な感覚だ…』
男の気配が無いのが、物足りない……。
いや、
寂しい?
ふと、サイドテーブルに山積みにしてある大量の本が目に入る。
毎晩横で聞く、ページをめくる音。
ちょっとした好奇心で、大きなベッドに上がり、積んである本の背表紙を眺めてみた。
内容は様々だ。
法律や武術の指南書……コレは仕事に役立ちそうか?
そうかと思えば[たるませない!下っ腹!]なんて雑誌も混じっている。
『何を基準に選んでくるのだか』
男の可愛らしい一面を知れた気がして、シロウは口元が弛んだ。
男がそうするように、大きなマクラに顔をうずめてみる。
体の大きな男の為に、この部屋のベッドやマクラはひと回り大きいものだと聞いた。
フカフカのマクラからはふんわりと甘い香りがする。
目を閉じると、脳裏に蘇るのは男の逞しい身体。そして、昨晩触れた唇。
『あれは……受け入れられた、と思って良いんだろうか……』
同性に恋した自分を。
上司に欲情した自分を。
「シロウ!こっちだ」
ニコニコと自分に手を振る男に、シロウは気恥ずかしいのを隠して、澄ました顔で車椅子を用意した。
親子(という事にしている)のやり取りを、周囲のスタッフや患者達は微笑ましく眺めている。
「シャワーは、必ず息子さんに付き添ってもらって下さいね」
リハビリ担当者に念を押されて部屋を出る。
本人が大丈夫だと思っても、急に血圧が下がって倒れる、という事があるらしい。
「おや、シロウ。シャワー浴びてたのかい?」
ホワホワとした湯気と、甘いボディーソープの香りが病室に漂っている。
しまった、換気しておけば良かった。と後悔したがもう遅い。
シロウは『ええ、まあ』と曖昧に返事をしておいた。
男の事を考えながらベッドに居るうちに、下半身が熱を帯びてしまい、慌ててシャワールームで処理した事は秘密にしておかなければならない。
すぐに汗を流すという男の為に、清潔な着替えとタオルを用意する。
シャワールームのドアの隙間から、そっと筋肉質な身体を盗み見た。
もこもこに泡立てたボディーソープで、気持ち良さげに身体を洗い、サァサァとお湯で流していく。
太い首、厚い胸板。そこから泡が流れる先には、体格に見合った立派なペニスがあり、先端から流れ落ちる白い泡が、あらぬ事を連想させて目を逸らした。
「シロウ、シロウ」
呼ばれて、ハッと我にかえる。
「見てくれ。ここだけ毛を剃られてるんだ」
男は全裸のまま、自分の胸元を指差して、コレコレ!と訴える。
傷口が塞がったので、胸を覆っていたガーゼや包帯は取り除かれている。
銃弾の跡は赤く生々しいが、もう出血する事はない。
胸に集中している傷跡に、罷り間違えばこの男は命が危なかったのだとゾッとした。
だが男にとっては、胸毛を剃られてしまった事の方がショックな様だ。
「ほら、なんだかアンバランスじゃないかい?こう、全体的に見て胸だけツルツルなんだよ?」
「しょうがありませんよ。剛毛で処置するのに邪魔だったんじゃないんですか?」
くっくっ、とタオルで口元を隠して笑うシロウに、男はむい、と不満気に口を尖らせた。
「そんなに濃いかね…」
「冗談ですよ、出ますか?」
差し出された、太い腕に見惚れながらタオルを渡した。
そして夜。
「そういえば、ドクター・セルジオから連絡があったそうです」
「んん?」
隣のベッドで分厚い本を読んでいた男が、シロウを見下ろす。
シロウは片肘ついて、そんな男を見上げた。
「さっきランドリーで、たまたま主治医と会いまして」
「それで、セルジオはなんだって?」
「さっさと退院させろと。なんでも第二部隊と第三部隊がもめてるそうで。仲裁に入って欲しいそうです」
「おやおや。仲良くすれば良いのに」
男は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「主治医は、退院時期は責任持って自分の判断で決める、とは話していましたよ」
「ふうむ、そうか、それは……」
そのまま男は沈黙した。
「どうしました?」
見上げるシロウに、男は真剣な眼差しを向けた。
「シロウ」
「はい」
「名前で呼んでくれんか」
「はい?」
男は身を乗り出してシロウに顔を近づけた。
「私の名前だよ。
ブランドン・グロスと言うんだ。本当の名前はもっと長いんだが、理由があって全部は明かせないんだ。だから、私の事は今後ブランドンとー」
「急にどうされたんですか?」
「復職したら、『士官』としか、呼んでくれないだろう?だから、今だけでも名前で呼んでおくれ」
今だけ……。
そうだ、この生活には期限がある。
「…まぁ、考えておきます」
「今、だよ。呼んでおくれ、ホラ」
悪戯っぽい笑顔がシロウの顔に近づく。
「言わないと、キスしてしまうよ?」
男の言葉に、内心ドキリとしたが、平静を装うのは得意だ。
「逃げないのかね?」と男が真顔で問えば。
「何故ですか?」と、目を逸らさずにシロウも答える。
そして無言のうちに、男とシロウは唇を合わせ、ゆっくりと離した。
離れる男の柔らかな体温を。
あぁ、名残惜しい、と感じた。
「こう言う事は、なんと言うか、もしお前が嫌な時があるなら隠さずに教えて欲しいんだが…」
「……」
「シロウ?なぜ黙っているんだね?」
「考えていました」
「なにを?」
「人の唇というのは、これほどまでに柔らかいのだなと、思って」
それを聞いた男の手が、シロウの首元にまわり、耳元でそっとささやかれた。
「なら、もう一度しても良いかな?」
シロウは男の腕を引き、顔を近づけた。
男が、自分と同じ気持ちであったことが、嬉しかった。
「あ、髭は気になるかね?いつも、剃ろうか残そうか迷うんだよ」
「……わたしは、どちらでも似合うと思いますよ」
「チクチクしないかね?」
「気になる程では」
シロウの返事が終わると同時に、そっと。
そして先程より長く長く二人は唇を合わせた。
男と過ごす、このふわふわとした甘い日々は、もうすぐ終わるのかと思うと、切なさに胸が痛んだ。
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