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愛おしい過去 ③

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「くっ…」

 男は苦しそうに口元を手で押さえた。



 ふるふると肩が震え、やがて、耐えられない、という感じで吹き出す。

「っ、ふふっ」


 ここは、院内にある入浴施設の一角。

 入浴用の車椅子に乗り換え、素肌にガウン一枚羽織っただけの姿で、男は肩を揺らしながら笑っている。

「ふ、ふふ、おまえ、その格好っ、ほんとうに似合わないね」

 半袖のTシャツとハーフパンツという、自分では絶対に選ばない服装で、シロウは男の前に立っていた。

 腰まである長い髪を、手早くまとめながら、シロウは心の中で毒づく。

 誰のせいでこんな格好を、と。



 


 入院から数日が経ち、男には入浴の許可が出た。しかし、まだ一人で身体を動かすのが難しいため、スタッフの介助つきで入浴する事になったのだ。

 最初、シロウは手伝う気など更々無かった。

 だが、病室に迎えに現れたスタッフが、自分より小柄だったのを見て、少しばかり不安になったのだ。

 この筋骨隆々とした大男を、果たして風呂になど入れられるのだろうか?

 自分も身体が大きいわけではないが、日々の訓練で培った基礎体力と筋力がある。

 そして。
 ついうっかり柄にもなく『手伝いましょうか』などと口走ってしまったのである。





「そういえば教授、息子さんですか?」

 寝台型の浴槽の底に、滑り止めマットを敷いていたスタッフが、シロウと男を交互に見る。

「はは、いや、部下なんだよ」

 ひらひらと右手を振りながら、男が訂正する。そして小声でシロウに謝罪する。

「すまない。気を悪くしないでおくれ」

「もう慣れましたよ」

 国内では、ごく少数しかいない黒髪と黒い瞳。この特徴のせいで、それこそ院内の至る所で男の息子に間違われた。  

 車椅子を押してカフェに行けば『息子さんも同じ注文で?』と聞かれ。 

 売店に行けば『お父さんには、ワンサイズ大きいパジャマの方が良いよ』と言われ。

 セルジオから治療を引き継いだ主治医にまで『息子さんも病状説明聞いて行きますか』と声をかけられる。

 いちいち間違いだと言うのも面倒になって来た頃であった。




 髪や背中を洗うのを手伝い、ずっしりと重い身体をスタッフと一緒に両わきから抱え浴槽に横たえる。

 傷口は最後に消毒するとの事で、男の胸には透明な防水フィルムが巻かれている。ガーゼに染みた血液が赤く広がっていて、シロウは眉間にシワを寄せた。





「先生に声かけてきます。ゆっくり温まってくださいね!」

 スタッフがそう言って浴室を出る。


 ちゃぷん、と男の右手が湯船から出て、髪を掻き上げた。

 ふう、と数日ぶりの入浴に満足気に瞳を閉じている。

 彫りの深い顔、太い首。
 厚い胸板に、自分の二倍はあるだろう筋肉の塊の様な大腿。

 相手が目を閉じているのを良い事に、男の裸体を観察した。

 それは、シロウには備わらなかったモノに対する憧れか。

「手伝ってくれてありがとう、シロウ」

 男の穏やかな声が、浴室に響く。
 シロウは、気になっていた事を尋ねてみた。

「貴方、さっき妙な呼ばれ方をしていましたね?」

「んん?」

「教授、と」

「あぁ、時々、大学で教えているんだよ。
 あのスタッフは元生徒なんだ」

 国内唯一の、国防に特化した四年制大学。それがシロウの母校だ。

 卒業生の多くが警察や軍隊、又はその支援を担当する医療機関へと就職する。

 所属する部隊の人間も、八割ほどが同大学出身である。

「実はね、あと数年したら部隊は辞める予定なんだよ」

 男の口から発せられた言葉に、シロウは即座に反応出来なかった。

「士官の仕事は、班長達に細かく割り振ってあるんだ。だから、今も現場は滞りなく回っているはずだよ」
 

 司令塔である士官が入院しているにも関わらず、部隊の関係性から連絡が無いのはそういう訳だったようだ。

 ふと、視線を感じて目を開けた男は、立ち尽くして自分を見つめているシロウに気づいた。


「シロウ。そんな顔しないでおくれ、今すぐにと言ってるわけではないのだよ」  


「教授、入りますねー!」 

 元気の良い声が浴室に響く。続いて、主治医も姿を現した。


 男の処置が始まった事で、二人の会話は、そこで終わりになった。

 脱衣所にある鏡を盗み見て、シロウはホッとする。
 いつもの自分の顔だ。

 ……そんな顔、とは。

 自分は一体どんな表情をしていたのか。
 それも、無意識のうちに。



 やはり、この男と長くいるのは危険だ。

 シロウの胸の中で、警報のように鼓動が響く。

 早く男の要求を聞いて、こんな日々を終わりにしてしまいたい。

 誰かと一緒にいる事が、日常になってしまってはいけない。
 それはシロウにとって、とてつもなく恐ろしいことなのだ。

 シロウの袖口からは火傷の跡が目立つ右腕が、そして裾からは同じように右脚があらわになっている。

 子供の頃に、自宅の火災で親を失ってからは、なんでも自分一人でやって来た。一人でいる事で強くもいられた。

 誰かといたら弱くなってしまう。
 それは、本能的な予感でもあった。

 この心の内に、誰かを入り込ませてはいけない。







 
 
 それから、更に数日経ったある日の朝。

「外出の許可がでたんだ」  

 主治医の回診を終えた男が、シロウに告げた。

「それで、おまえに頼みたい事の説明をしたいんだが、いいかな?」


 やっと、この時が来た。
 シロウは、言われるままに着替えを手伝い。タクシーの手配をした。

 男は小型の酸素ボンベに鼻腔カニューレを接続し装着する。マスクをして寒さにも備える。 

 十二月の、どんよりと曇った寒い日だった。

 男は片手で酸素のキャリーを引き、片手でシロウの肩に掴まりながら、ゆっくりとロビーを歩く。

 外に続く自動ドアをくぐった所で、二、三度激しく咳き込んだ。
 キン、と冷えた外気に肺が刺激されたらしい。しばらく立ち止まってから、「大丈夫」と身体を起こした。

 外に待機していたタクシーに乗り込むと、男が行き先を告げた。

 その住所は、あまり治安の良くない旧市街地の物だった。










 古びたホテルや、営業している気配のないスーパー。 
 まるで人気の無い寂れた場所で、二人は降りた。

「少し歩くよ」

 点在する建物の影に隠れるようにして歩く男。シロウも肩を貸しながら、歩調を合わせて隣を歩いた。


 しばらく進むと建物の向こうから、ダンダンッとボールの弾む音が聞こえて来た。

 行く手を遮る破れたフェンスの手前で、男は立ち止まる。

「ここから見えるかな」

 その視線の先に、古びたバスケットコートで五、六人の子供達が、楽しそうに笑いながらボールを奪い合っているのが見えた。

「あそこに……私達と同じ、黒い髪の子供がいるだろう?」

 金髪や赤髪に混じって、確かに一人だけ黒髪の少年がいる。

「ハロルド」

 男は小さく呟いた。

「あの子の名前はハロルド・リー」

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