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愛おしい過去 ①
しおりを挟む「……シロウ」
穏やかで低い声が、自分の名前を読んでいる。
シロウ・フジタは病室のイスに腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。
ベッドサイドでうつむく顔に、長い髪が影を落とす。
眠っているわけではない。
ただ、自分にとってあまりに理解不能な事態に混乱している。
「シロウ、顔を上げなさい」
促されて声のする方を見る。
その男はべッドに座り、いつもと変わらず静かに微笑みながら、自分を見ている。
ただし上半身は包帯だらけで。
「おや、何か怒っているのかね?」
首をかしげる男の、緊張感のない口調。シロウは苛立ちを覚えて、睨むように大きな体を見上げる。
「何故助けたんです」
声の主は、少し困ったように眉を下げた。
「逆の立場だったら、おまえだって助けてくれただろう?」
「助けませんよ。敵の気配に気づけないなんて、特殊部隊隊員としては未熟もいいところです。私が撃たれたとしても、それは自業自得ですよ」
おやおや、と肩をすぼめる男は残念そうに呟いた。
「大きな身体が役に立ったと思ったのになぁ」
男の歳は七十近いはずだ。
しかし、鍛えられた体幹は太く厚く、『老い』などという言葉からは遠い存在に思える。
その大きな身体が肉の盾になったおかげで、シロウは無傷で済んだのだ。
それが起こったのは、依頼のあった武装勢力の解体に成功し、拠点の撤去作業をしていた時だ。
隠れていた数人の残党に、シロウは標的にされた。
自分の背後で散発的に聞こえた銃声に、瞬間的に死を覚悟した。
だが、身体から血を吹き出して倒れたのは、シロウではなかったのだ。
何を考えている、この男。
何故怒らない。何故罵らない。
内心イライラしながら前髪をかき上げる。艶のある黒髪が、サラサラと流れるように指の間を抜けていく。
「髪が」
「はい?」
男の太い指が、自身の瞳を指差す。
「髪と目の色が同じだろう?私と同じで、おまえも黒い。
親族以外で、この特徴の人間に出会ったのが初めてで。つい」
照れた様にざりざりと顎髭を掻いて、男は続けた。
「つい、いつも見ていたんだ。お前の姿を。だから、お前の背後の人影に気づいた」
私が特別に優秀なわけではないよ。と、男は付け足した。
視線を、感じていない訳ではなかった。
初めてこの男に会った日。
班長に連れられて入った士官室で、この男に出会った。
何某かの書類を読んでいた男が顔をあげ、シロウを見て驚いたように目を見開いたのも覚えている。
それからだ。
訓練中でも食事中でも、同じ空間にいる時は、確かに男の視線を感じた。
新入りの分際で長く伸ばした髪と、身体半分に残る酷いやけどの跡が、目につくのだろうと思っていたのだが。
くだらない、と思う。
国内での比率が少ないとはいえ、世界的に見れば黒髪と黒い瞳の人間など何億といるだろうに。
そんな事が理由で、私を庇ったと?
あまりにも短絡的。
ふう、と息を吐いて、男はゆっくりと身体を横たえた。
そして、包帯の上から胸をさする。
男が被弾したのは、質の悪い手製の弾で、損傷した肺の細胞は再生しないと診断された。
ジワジワと壊死が広がり、最終的に肺は機能しなくなる。
今も、きっと呼吸が苦しいのだ。
怒ってくれ。
怒鳴ってくれ。
お前のせいで人生が狂ってしまったと。
だが、男の口から出た言葉は、シロウの望むものではなかった。
「シロウ、お前が気に病む事はないんだよ」
「ご期待に添えず申し訳ありませんが、微塵も気にしていません。貴方の行動は、貴方の意思でしょう」
「では、なぜ付き添ってくれているのかね?お前が基地に帰らず、私の手術中もずっと廊下で待っていたとセルジオから聞いてるよ?」
チッ、おしゃべりな医者め。と、内心で毒付きながら、シロウはなんでもない素振りで男に言った。
「何か要求して下さい」
「ん?」
「貴方が私のせいで、一生の傷を背負う羽目になったのは事実でしょう。ですから、相応の対価を私に要求して下さい」
シロウは、男が何かとんでもない要求をしてくれたなら、と思いながら男を見つめた。
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