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心からの笑顔

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慶一は墓場まで持っていく覚悟でいた事実を陽和に伝えた。
父親の暘一(よういち)は社長に就任後、20代前半で独身の女性秘書と不倫関係になった。
不倫相手がわざわざ関係を匂わせる内容を社内メールで送りつけたことで、母親はその事実を知った。
その女性は悪びれた様子もなく家を訪ねては「暘一さんの忘れ物です」と言って父親の私物を届け、郵便受けには不倫の証拠写真を仕込んでいった。
母親は1年間苦しみながら離婚はせずに耐えていたが、ある日衝動的に死を選んだ。
当初は不慮の事故だと思われていたが、後になって彼女の日記が見つかり、精神的に追い詰められていた状態だったことがわかった。
日記から偶然事実を知った時、慶一も礼奈もこのことは絶対に陽和には秘密にしようと決めた。
父親に口止めもして、「陽和のことを本当の娘と思って大切にしたいなら不倫相手との関係を切れ」と怒りをぶつけた。
しかし父親はその女性と別れるとは言わず、彼女と再婚するとまで言い始めた。
図に乗った女性は何食わぬ顔をして慶一や礼奈の前に現れた。
「私のことは結美(ゆうみ)さんって呼んでください」「仲良くしたいです」「はやく暘一さんのお家で慶一君や礼奈ちゃんと一緒に暮らしたいです」などと言い、時には慶一に色目を使うこともあった。
もちろんふたりは再婚には断固反対だった。
未だ養子縁組したままの陽和がいたからだ。
解消してしまえば彼女の存在に苦しめられることはないが、解消すると身寄りのない陽和は一人ぼっちになってしまう。
当然財産相続の権利もなくなり、彼女にとっての6年間がただ母親を失っただけで何も得るもののなかった時間に成り下がる。
陽和に事実は話せない。
そうなると陽和と彼女を接触させないように、彼女の存在自体を知られないように力を尽くすしかなかった。
ああ見えて子煩悩なところのある父親は、実の息子と娘が揃って「再婚したら絶縁する」と言うと一時は思い留まった。
だがいつまた「再婚する」「あの家に住まわせる」などと言い出すかわからない。
それまでの間になんとかして陽和に自ら家を出ていってもらおうと、居心地の悪い家になるように努めた。
ふたりにとってはもう大切な家族になっている陽和を強引に追い出すような真似はしたくなかった。
そうして4年が経ち、予想通り父親がまた「彼女と再婚する」と言い出した。
だが今回は父親の意思が思っていた以上に固く、慶一達の反対を押し切る勢いだった。
不倫相手は妊娠していた。
1年以内に籍を入れ、家に越してくると決定事項を告げられた彼らは焦った。
なんとかして真実を伝えずに陽和をこの家から遠ざける方法はないかと考え、最後の手段で出て行くように強く促すしかないと心を鬼にした。

「本当の父親のように慕ってくれていた娘のたった一人の肉親を永遠に奪った挙句、そうなる原因を作った女性を継母に据えようとするなんて…狂気だろ。俺の父親だが…頭がおかしいとしか思えない」

慶一は文字通り頭を抱えて嘆いた。
陽和は告げられた話の内容が彼の作り話であるとは到底思えなかった。

(お母さんが悩んでいたなんて知らなかった。そんなに苦しんでいたなんて気が付かなかった。私のことを慶一さんと礼奈ちゃんがずっと守ってくれていた。私はふたりに嫌われていたわけじゃなかった…)

気が付けば陽和の頬には雫が伝っていた。
そのことに気が付いた慶一は席を立って彼女の肩に手を添える。
言葉では形容しきれない様々な感情が込み上げてきて、彼女は涙を堪えきれずに両手のひらで顔を覆い隠した。


その夜、陽和は3週間ぶりに10年間住んだ家を訪れた。
礼奈は泣き腫らした目を更に赤くして陽和を抱きしめ、「ごめんなさい」と何度も繰り返し謝った。
すべての蟠りが解けて、3人は母親が亡くなる以前のような仲睦まじい関係に戻った。
一緒に夕食を摂り、離れ難そうにする礼奈におやすみを言って部屋に入るのを見送る。
陽和も自分の使っていた部屋に向かおうとしたが、階下から「ちょっといいか」と慶一に呼び止められてリビングへ戻った。

「父親と話をして、陽和との養子縁組を解消するように言った。あいつはお前がいいならそうすると言っている。解消してもいいな?」
「もちろんです。本当ならもっと早くにするべきでしたのに甘えてしまって…すみません」
「謝らなくていい。早由利さんが亡くなった途端にお前とすぐに縁を切るなんて薄情なこと、もししようとしていたとしても俺がさせていない。…それじゃあ父親にはそう伝えておく。その内書類が届くはずだ」
「はい。ありがとうございます」
「俺も礼奈も近い内にここから引っ越すつもりだ。あの女と同居なんて想像しただけで胸が悪くなる。実はもうマンションも買ってあるんだ。勤め先まで徒歩5分の新築だ。お前の好きな時にいつでも来てくれて構わない」
「礼奈ちゃんと一緒に住むんですか?」
「いいや、俺一人だよ。礼奈は彼氏と同棲するかしないかで少し揉めているみたいだ。あいつは結婚前の同棲には反対派だからな。意外と現実を見ているよ」
「お兄さんは安心ですね」
「揶揄っているのか?」

彼はふっと目を細めると、彼女の唇にそっと自分のものを重ねた。
ふたりの愛情を確かめ合うように優しく触れ合わせると、白いリボンのついた紺色のケースを差し出した。

「お前ともまた明日からしばらく離れ離れになる。だからこれをつけていて欲しい。箱を開けてくれないか?」
「…はい」

彼女は言われた通りにリボンを解き、長方形をしたビロードの箱の蓋を開けた。
心臓の音が隣にいる彼に聞こえてしまいそうなほどに高鳴っている。

「陽和。俺と結婚してくれ」

ケースの台座には、デザインも大きさも異なる3本のプラチナリングが並んでいる。
1本はダイヤモンドと陽和の誕生石が嵌め込まれたエンゲージリング。
もう2本はそれぞれの左手薬指に収まるマリッジリングだった。

「縁組解消ができたら、お前がいいタイミングで婚姻届を出したい。折角一人暮らしを始めて嬉しそうなお前の邪魔はしたくないからな。恋人として時間を過ごして、いずれ俺の奥さんになってくれたら嬉しい。これからもずっと陽和の傍にいたいし、陽和に傍にいて欲しい」
「…本当に私でいいんですか?もし、その…これまでの責任を取るとかって考えているんなら…」
「俺が結婚したいと思った女性は陽和だけだ。俺は陽和といたい。責任を取ろうなんて考えたことはないな。お前に経験がないと知った時、他の誰にも渡すものかと思った。無理やりになってしまったことは反省している」
「あれは本当に酷いです。初めてはもっと…お互いに幸せな雰囲気でしたかったです…」
「すまない…悪かった、本当に。あの日は俺も焦っていて…冷静じゃなかったんだ。本当にすまない…」
「わかっています。私、慶一さんのことずっと好きでしたから…許します」
「陽和…」
「慶一さん。私をあなたの奥さんにしてくださいますか?」

陽和が姿勢を正して向き直り、蓋の開いたリングケースを差し出しながら自分が言われたのと同じ言葉を口にする。
彼はきょとんとしていたが、逆プロポーズされたのだとわかると珍しく頬を薔薇色に染めた。

「喜んで」

そして照れくさそうに破顔して、彼女の額にキスをした。
ふたりはお互いの指輪を薬指に嵌め合い、心からの笑顔を交わし合った。

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