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第3章
越えてはならない境界線
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意識を取り戻した時、メイリスはソファに座りながらジェイデンの肩にもたれかかっていた。
うたた寝をしていたメイリスがうなされ始めたので起こそうと近づいたら、服を掴まれて身動きが取れなくなってしまったらしい。
彼女が掴んでいたと思われる箇所は皺くちゃに捩れていた。
無意識のうちにまた彼に縋ってしまったのだとわかって、なんだか照れ臭い。
「あなたが傍にいると嫌な夢が早く終わるみたい。料理だけじゃなくて寝かしつけも上手だなんて、優秀なシッターね」
冗談めかして言うと、ジェイデンが次に書いた文字に目を丸くした。
《添い寝しましょうか?》
「えっ…」
少し反応を待ってみたが、彼が意思を撤回しようとする気配はなかった。
この男からそんな提案をされるとは思わず、メイリスは正直驚いた。
純朴そうではあるし、女性として見られてもいなさそうなので裏はないと思うが、一応彼も大人の男性だ。
何もないと確信を持てる相手だとしても、恋人でもない異性と同衾するのはどうなのかと躊躇いが生まれる。
しかし悪夢を悪夢と思わなくなったのは彼のおかげでもあって、肌が触れても嫌だと感じないのも確かだった。
逡巡した結果、メイリスは頷いた。
「そうね…お願いしてみようかしら」
《ではさっそく今晩から》
「ええ…よろしくね」
返事をしてから、彼女は自分でも驚くほど彼に心を許していることに気が付いた。
しかし不思議と反発心は生まれなかった。
添い寝をしてもらうと決めたはいいものの、実際にどうするかまでは考えが至らなかった。
いざその時になって気が付き、ベッドの前に二人並んで立ち尽くす。
メイリスは初めてのことへの緊張と不安から、ドキドキと胸を高鳴らせていた。
シャワーを浴びて綺麗さっぱりしたはずが、早くも脇が汗ばんできている。
(ここからどうすればいいの…?)
困惑顔でジェイデンにちらりと視線を送ると、彼は既に文字を書き始めていた。
《先に寝ていてください》
《あなたが眠ってから私も横になります》
彼の意図を知ったメイリスは少しだけ気が楽になった。
眠った後であればかなりハードルが下がった気がする。
大人しく毛布をかぶると、彼はメイリスに背を向けてベッドの縁に腰を下ろした。
(私が眠らないと彼は休めないのよね…)
ジェイデンの背中を眺めながら、彼のためにも早めに眠りにつこうと自主的に瞼を下ろす。
こんなふうに自ら睡眠を取ろうとするのはとても久しぶりのような気がした。
宣告していた通り、ジェイデンはメイリスが眠りに落ちた後で彼女の隣に横になった。
いかがわしいことをしようとする素振りは全くなく、本当にただ寄り添って眠るだけだった。
その日のメイリスの寝相によって、背中から抱きしめられるような格好の時もあれば正面から抱きかかえられるような時もあった。
添い寝の効果はすぐに現れた。
大体決まった時間にベッドに入るようになったことで睡眠のリズムができ、朝の目覚めも良くなった。
相変わらずブレインに夢を見せられることもあったが、何かあってもジェイデンが傍にいてくれていると思うと心を強く保てた。
体調が良いと感じることが増え、心なしか作業効率も向上した。
人肌のあたたかさや心地良さを思い出したことで、メイリスの冷え切っていた心も溶かされ始めた。
(全部終わったら一度村に帰ろう…お父さんとお母さんのことも気になるし)
ここを離れた後のことも前向きに考えられるようになっていった。
メイリスとジェイデンが添い寝を始めた頃、カッタルタでは軍内部で混乱が生じ始めていた。
統率者のブレインが度々指揮を放り出し、自室に閉じこもってしまうのだ。
ただでさえパレシアの防衛魔法が改新されていて劣勢を強いられているというのに、大将の彼が不在になると途端に指揮系統が崩れてしまう。
「アレキウス様!どうか今すぐ軍司令部にお戻りください!パレシアのジェネラルアタックです!このままでは一中隊が全滅してしまいます!」
「またか?君達も懲りないな。あれほどトラップには気を付けろと言っただろう」
部屋に駆け込んできた部下に振り返りもせず、ブレインはデスクに向かいながら淡々と答えた。
カッタルタはブレインが開発した光線銃型の魔導具から解除魔法を乱射し、パレシアを防護する無数の魔法陣を破壊していた。
しかし修復された魔法陣にはランダムに反射攻撃の罠が仕込まれていて、そうと知らずに攻撃すれば上空から魔法の全体攻撃が雨のように降り注ぐようになっていた。
ブレインでも一瞬見紛うほど巧妙なので、いくらパターンを教えても付け焼刃のカッタルタ人だけでそれを見極めろというのは無理難題に等しかった。
「トラップかどうかを判断できるのはアレキウス様だけです!我々だけではあれほどの魔法攻撃に対処できません!どうかお戻りになって我々をお助け下さい!」
「仕方がないんじゃないか?」
「えっ…」
「侵攻中のパレシア兵ならともかく、君達が相手にしているのはメイリスだ。彼女の魔法は強力で容赦がないからね。防ぎきるにも労力がいるんだよ。俺には今そんなことに時間を費やしている暇はない。トラップだと見抜けなかった自分達の責任だと思って諦めるんだな」
「そんな…!ではどのようにすれば良いのです?!このままではパレシアに敗れてしまいます!」
「君達に残された道は二つある。一つは、反撃を恐れず魔法陣を壊しまくってパレシア本土への攻撃を継続する。もう一つは…」
期待に目を輝かせたカッタルタ兵を振り返って、ブレインはにこやかな笑みを浮かべた。
「彼女を手に入れるまで俺の邪魔をしないことだ」
ブレインは左手の小指に嵌めた指輪から魔法陣を展開した。
頭に魔法を打ち込まれた兵士は、衝撃で足元をふらつかせながら扉の外へと退出する。
その様子を冷めた目で見送りながら、ブレインは苛立ちを露わにデスクに向き直った。
ジェイデンの存在を知らないはずの彼は、ゲイルで埋め尽くされていたメイリスの心の隙間に自分以外の男が侵入したことを鋭敏に嗅ぎ取っていた。
パレシアから密かに持ち出した国家機密の魔導書を開き、焦燥感を滲ませながら思案する。
(これまでのような生ぬるいやり方はやめだ。もっと強烈な方法で俺の必要性を刻み付けてやらないと。魔法陣がある限り俺からは逃れられないってことを思い知らせてやるよ、メイリス…)
ブレインは目を血走らせ、悪魔のような笑みを浮かべた。
ようやくメイリスを体で落とすことが難しいと学習した彼は、次の手段に身体的苦痛を選んだ。
この系統の魔法陣が拷問の用途でも使用されていると知っていたメイリスにとって想定の範疇ではあったが、どんなに覚悟はできていても痛みには対処できなかった。
初めに魔法陣に激痛が走り、その後全身に広がっていく。
無数の針で肌を突き刺されるような強い痛みや頭が割れるほどの痛みに襲われ、メイリスはほとんど毎晩のようにベッドの上でのた打ち回った。
抵抗できない苦痛に呻き声を上げ、必死に酸素を取り込もうと口をはくはくさせる。
シーツは大量の汗で湿り、生理的な涙が頬を伝ってジェイデンの胸元を濡らした。
「痛みから解放されたければ俺のものになれ」と言いたいのだろうが、彼女はどんなに苦しくてもブレインに屈服しようとは思わなかった。
こんな卑劣な真似をする人間に負けを認めるのは、彼女のプライドが許さなかった。
夢を見せられているわけではないので、ブレインが手を止めるまでメイリス本人にもジェイデンにも成す術がない。
彼は見守ることしかできない贖罪からか、今までより一層メイリスの世話を焼くようになった。
痛みで気を失った彼女の体を濡れたタオルで拭き、寝間着と寝具を取り換え、少しでも気持ちよく目覚められるようにと気を遣ってくれた。
彼はできるだけ肌を見ないようにしたと言っていたが、裸を見られることよりも純粋に自分のことを思ってしてくれたその気持ちが嬉しかった。
苦痛に苛まれている最中に手を握ってくれたり、背中をさすったりしてくれるだけで、彼女の心は随分と励まされていた。
吐き気がする程の頭痛から解放されたメイリスは、いつかのようにジェイデンの膝の上に抱えられて目が覚めた。
宥めるように頭を撫でてくれる手のひらが心地良くて、彼の体に全身を預けながら呼吸を整える。
早くどいてあげなければとは思うが、まだ手足が痺れていて上手く動かせない。
お礼だけでも先に伝えようとゆっくり顔を上げると、ぼんやりした視界の中に自分を見下ろす仮面が現れた。
いつからかはわからないが、ジェイデンはメイリスの意識が戻ったことに気が付いていたようだった。
(いつのまにか絆されてしまったわね…)
ゼルキオンが彼を連れてきた時は部屋の中にいるのも忌々しく思っていたのに、今はいることが普通で、ありがたいとさえ思う。
「彼以上の適任者はいない」と言っていた彼の言葉を証明することになり、少し悔しい気もした。
同じベッドで眠ってはいてもこれほど近くで顔を見たことがなく、ついまじまじと観察してしまう。
貧相に感じていた頬骨は少し肉付きがよくなって、逆三角形のシャープな顎にも健康的な丸みが出てきたように思う。
仮面に隠れていない肌は見たところ火傷の痕がなく、髭の剃り残しもなくて綺麗だった。
耳にかかる髪は癖もなくさらさらな印象で、生まれつきうねりのある自分の髪質と比べると少しだけ羨ましく思った。
視覚補助を付けなければ何も見えないのだから仕方がないと思いながらも、瞳の色が見られないのは残念だった。
年齢を聞いたことはないが、見たところ自分と同じくらいの歳のように思えるものの、これまでの言動を思い返すといくらか年上のような気がした。
10年前の爆発事故はきっと彼にとってひどく恐ろしい出来事だっただろうと思いを巡らせる。
やりたい仕事に就いて充実していたであろう時期に、将来の目標や希望を失った。
命が助かったのは幸いだったが、視力を奪われ、肌を焼かれて、そうでなくても辛いのに年若かった彼が絶望しないわけがない。
これほど他人に尽くせるのは過去に痛ましい経験をしてきたからなのかも知れないと思うと、メイリスは初めて彼に同情心のようなものを抱いた。
それと同時に自分にはない強さを感じて尊敬の念も湧き上がってくる。
(あなたはすごい人ね…。こうしてしっかり生きて、他人を思いやることもできるなんて…。私も見習わないといけないわね…)
ジェイデンと出会うまで、メイリスは人生を半分諦めかけていた。
ゼルキオンが「保証する」と言ってはくれても、そうまでして生きて楽しいと思えるのか疑問だった。
かといってブレインや父親に自由を奪われるのも嫌で、どんな気持ちで未来を見据えればいいのかわからなかった。
見通しのない深い霧の中にいた彼女を導いたのは、紛れもなく彼だった。
(こんな戦場でもあなたのような人に出会えたんだから、これからもきっといろんな人と繋がりができていくのよね。そう考えたら、まだまだ人生も捨てたものじゃないわね)
そんなことを考えながらくすりと頬を緩めると、彼の顔が近づいてくるのがわかった。
何をされるのかわかって少しだけ驚いたものの、メイリスは自然に瞼を下ろした。
唇に柔らかくてあたたかいものが触れる。
薄目を開けると、ジェイデンの仮面はまだそこにあった。
二人はもう一度、今度はしっかりと唇を重ねた。
「ン…」
メイリスはどんどん深くなるジェイデンのキスに応えた。
ときめきに鼓動が早くなる。
熱い舌の感触がひどく心地良くて、何度も絡ませてはお互いの唾液を飲み込んだ。
まるでこうなることが決まっていたかのように違和感がなく、気持ち良かった。
「ふ…、ン…ふ、ぅ…」
「…ハ、」
興奮しているのか、僅かに息を上げたジェイデンの指先が胸の膨らみにかかる。
唇を重ねながら胸を手のひらで掬い上げられた、その時。
メイリスの脳裏に、忘れたはずのゲイルの顔が浮かび上がった。
自分の体に触れている手がゲイルのものではないと認識した途端、彼女はほとんど無意識にジェイデンの体を押しのけていた。
何故今更になって彼を思い出してしまうのかわからず、混乱してしまう。
彼はもう二度と戻っては来ないのに、戻って来させるつもりもないのに、それでもまだメイリスの中では彼が一番で、大切な人だった。
そのことに気が付いた彼女は、胸の痛みをやり過ごすためにジェイデンの膝から立ち上がった。
涙で潤んだ目元を見せたくなくて、拒絶するように腕を組んで背を向けた。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「ジェイデン、あなたを解任するわ。警護はもう結構。直ちにここから出て行って」
「…!」
これまで一度も表情を崩したことのなかったジェイデンは、この時明らかに動揺を見せた。
メイリスの服の袖を掴み、何か言いたげに口をむぐつかせる彼を振り返って、メイリスは寂し気に微笑む。
「何事にも越えてはならない境界線があるのよ。私はそれを越えてしまって、過去にひどい失敗をしたの。もうあんな後悔をするのは嫌なのよ…」
「……」
「これ以上してしまったら、仕事の範疇ではなくなるわ。警護対象に手を出したなんて知れたらあなたのためにもならない」
「……」
「添い寝をさせていた時点で手遅れかもしれないけれど、今ならまだ間に合うわ。さっきのキスは忘れるわね。これまで色々我儘を聞いてくれてありがとう。次にあなたが護る主人は添い寝なんて希望しない、もっと愛嬌のある人だといいわね?」
わざと明るく振舞って笑顔を見せると、ジェイデンは開いていた唇を引き結んだ。
それでもしばらくは躊躇っていたが、メイリスが譲らないとわかると最後には納得して部屋を出て行った。
いつしか逞しいと感じるようになっていた背中から哀愁を感じて、メイリスは目を背けることで込み上げる喪失感を抑え込んだ。
(ごめんなさい、ジェイデン…。私やっぱり彼のことを忘れられないみたい…)
あんなに忘れたいと思って、忘れられたと思ったのに、過去の優しかったゲイルが心の中に居座って出ていってくれない。
あの日から5年以上経ってはいても、その倍以上の時間を共に過ごした彼への想いは全く色褪せていなかった。
(ゲイル…私いつまであなたに囚われなければいけないのかしら…?もう忘れてしまいたいのに…)
ジェイデンとのキスによって仕舞い込もうとしていた感情を掘り起こされたメイリスは、かつての恋人を恋しく思って涙をこぼした。
メイリスに追い出された格好になったジェイデンは、肩を落としながらもしっかりとした足取りである場所へ向かっていた。
南の塔から転移魔法陣で要塞の中心部へと移動し、司令室で戦況を見守る上官の姿を見留めて近づく。
彼も人の気配に気が付いたようで、それが妹の専属警護員だとわかると眉を顰めた。
目配せをしてその場を離れ、司令室横の仮眠室にジェイデンを誘導する。
人目がなくなったところで、ゼルキオンが口を開いた。
「…どうしてお前がここにいる?メイリスはどうした?」
「申し訳ありません…解任されてしまいました」
覇気のない声だったが、ジェイデンは確かに灼けたはずの声帯を震わせ、ハッキリと発言した。
報告を受けたゼルキオンは大きく目を見開き、すぐに表情を険しいものに変えた。
「どういうことか説明してみろ」
「はい…実は…」
ジェイデンが先程のメイリスとのやりとりを包み隠さず説明すると、ゼルキオンは目の前の部下に呆れた視線を向けた。
「いい大人がそこまでいって進展しないとは。これまでの経緯を考えると無理もないが…情けないな、ゲイル・ラーバント」
「…弁明のしようもありません」
ゼルキオンに違う名前で呼ばれたにもかかわらず、彼は名前を間違えていると訴えることも、否定もしなかった。
うたた寝をしていたメイリスがうなされ始めたので起こそうと近づいたら、服を掴まれて身動きが取れなくなってしまったらしい。
彼女が掴んでいたと思われる箇所は皺くちゃに捩れていた。
無意識のうちにまた彼に縋ってしまったのだとわかって、なんだか照れ臭い。
「あなたが傍にいると嫌な夢が早く終わるみたい。料理だけじゃなくて寝かしつけも上手だなんて、優秀なシッターね」
冗談めかして言うと、ジェイデンが次に書いた文字に目を丸くした。
《添い寝しましょうか?》
「えっ…」
少し反応を待ってみたが、彼が意思を撤回しようとする気配はなかった。
この男からそんな提案をされるとは思わず、メイリスは正直驚いた。
純朴そうではあるし、女性として見られてもいなさそうなので裏はないと思うが、一応彼も大人の男性だ。
何もないと確信を持てる相手だとしても、恋人でもない異性と同衾するのはどうなのかと躊躇いが生まれる。
しかし悪夢を悪夢と思わなくなったのは彼のおかげでもあって、肌が触れても嫌だと感じないのも確かだった。
逡巡した結果、メイリスは頷いた。
「そうね…お願いしてみようかしら」
《ではさっそく今晩から》
「ええ…よろしくね」
返事をしてから、彼女は自分でも驚くほど彼に心を許していることに気が付いた。
しかし不思議と反発心は生まれなかった。
添い寝をしてもらうと決めたはいいものの、実際にどうするかまでは考えが至らなかった。
いざその時になって気が付き、ベッドの前に二人並んで立ち尽くす。
メイリスは初めてのことへの緊張と不安から、ドキドキと胸を高鳴らせていた。
シャワーを浴びて綺麗さっぱりしたはずが、早くも脇が汗ばんできている。
(ここからどうすればいいの…?)
困惑顔でジェイデンにちらりと視線を送ると、彼は既に文字を書き始めていた。
《先に寝ていてください》
《あなたが眠ってから私も横になります》
彼の意図を知ったメイリスは少しだけ気が楽になった。
眠った後であればかなりハードルが下がった気がする。
大人しく毛布をかぶると、彼はメイリスに背を向けてベッドの縁に腰を下ろした。
(私が眠らないと彼は休めないのよね…)
ジェイデンの背中を眺めながら、彼のためにも早めに眠りにつこうと自主的に瞼を下ろす。
こんなふうに自ら睡眠を取ろうとするのはとても久しぶりのような気がした。
宣告していた通り、ジェイデンはメイリスが眠りに落ちた後で彼女の隣に横になった。
いかがわしいことをしようとする素振りは全くなく、本当にただ寄り添って眠るだけだった。
その日のメイリスの寝相によって、背中から抱きしめられるような格好の時もあれば正面から抱きかかえられるような時もあった。
添い寝の効果はすぐに現れた。
大体決まった時間にベッドに入るようになったことで睡眠のリズムができ、朝の目覚めも良くなった。
相変わらずブレインに夢を見せられることもあったが、何かあってもジェイデンが傍にいてくれていると思うと心を強く保てた。
体調が良いと感じることが増え、心なしか作業効率も向上した。
人肌のあたたかさや心地良さを思い出したことで、メイリスの冷え切っていた心も溶かされ始めた。
(全部終わったら一度村に帰ろう…お父さんとお母さんのことも気になるし)
ここを離れた後のことも前向きに考えられるようになっていった。
メイリスとジェイデンが添い寝を始めた頃、カッタルタでは軍内部で混乱が生じ始めていた。
統率者のブレインが度々指揮を放り出し、自室に閉じこもってしまうのだ。
ただでさえパレシアの防衛魔法が改新されていて劣勢を強いられているというのに、大将の彼が不在になると途端に指揮系統が崩れてしまう。
「アレキウス様!どうか今すぐ軍司令部にお戻りください!パレシアのジェネラルアタックです!このままでは一中隊が全滅してしまいます!」
「またか?君達も懲りないな。あれほどトラップには気を付けろと言っただろう」
部屋に駆け込んできた部下に振り返りもせず、ブレインはデスクに向かいながら淡々と答えた。
カッタルタはブレインが開発した光線銃型の魔導具から解除魔法を乱射し、パレシアを防護する無数の魔法陣を破壊していた。
しかし修復された魔法陣にはランダムに反射攻撃の罠が仕込まれていて、そうと知らずに攻撃すれば上空から魔法の全体攻撃が雨のように降り注ぐようになっていた。
ブレインでも一瞬見紛うほど巧妙なので、いくらパターンを教えても付け焼刃のカッタルタ人だけでそれを見極めろというのは無理難題に等しかった。
「トラップかどうかを判断できるのはアレキウス様だけです!我々だけではあれほどの魔法攻撃に対処できません!どうかお戻りになって我々をお助け下さい!」
「仕方がないんじゃないか?」
「えっ…」
「侵攻中のパレシア兵ならともかく、君達が相手にしているのはメイリスだ。彼女の魔法は強力で容赦がないからね。防ぎきるにも労力がいるんだよ。俺には今そんなことに時間を費やしている暇はない。トラップだと見抜けなかった自分達の責任だと思って諦めるんだな」
「そんな…!ではどのようにすれば良いのです?!このままではパレシアに敗れてしまいます!」
「君達に残された道は二つある。一つは、反撃を恐れず魔法陣を壊しまくってパレシア本土への攻撃を継続する。もう一つは…」
期待に目を輝かせたカッタルタ兵を振り返って、ブレインはにこやかな笑みを浮かべた。
「彼女を手に入れるまで俺の邪魔をしないことだ」
ブレインは左手の小指に嵌めた指輪から魔法陣を展開した。
頭に魔法を打ち込まれた兵士は、衝撃で足元をふらつかせながら扉の外へと退出する。
その様子を冷めた目で見送りながら、ブレインは苛立ちを露わにデスクに向き直った。
ジェイデンの存在を知らないはずの彼は、ゲイルで埋め尽くされていたメイリスの心の隙間に自分以外の男が侵入したことを鋭敏に嗅ぎ取っていた。
パレシアから密かに持ち出した国家機密の魔導書を開き、焦燥感を滲ませながら思案する。
(これまでのような生ぬるいやり方はやめだ。もっと強烈な方法で俺の必要性を刻み付けてやらないと。魔法陣がある限り俺からは逃れられないってことを思い知らせてやるよ、メイリス…)
ブレインは目を血走らせ、悪魔のような笑みを浮かべた。
ようやくメイリスを体で落とすことが難しいと学習した彼は、次の手段に身体的苦痛を選んだ。
この系統の魔法陣が拷問の用途でも使用されていると知っていたメイリスにとって想定の範疇ではあったが、どんなに覚悟はできていても痛みには対処できなかった。
初めに魔法陣に激痛が走り、その後全身に広がっていく。
無数の針で肌を突き刺されるような強い痛みや頭が割れるほどの痛みに襲われ、メイリスはほとんど毎晩のようにベッドの上でのた打ち回った。
抵抗できない苦痛に呻き声を上げ、必死に酸素を取り込もうと口をはくはくさせる。
シーツは大量の汗で湿り、生理的な涙が頬を伝ってジェイデンの胸元を濡らした。
「痛みから解放されたければ俺のものになれ」と言いたいのだろうが、彼女はどんなに苦しくてもブレインに屈服しようとは思わなかった。
こんな卑劣な真似をする人間に負けを認めるのは、彼女のプライドが許さなかった。
夢を見せられているわけではないので、ブレインが手を止めるまでメイリス本人にもジェイデンにも成す術がない。
彼は見守ることしかできない贖罪からか、今までより一層メイリスの世話を焼くようになった。
痛みで気を失った彼女の体を濡れたタオルで拭き、寝間着と寝具を取り換え、少しでも気持ちよく目覚められるようにと気を遣ってくれた。
彼はできるだけ肌を見ないようにしたと言っていたが、裸を見られることよりも純粋に自分のことを思ってしてくれたその気持ちが嬉しかった。
苦痛に苛まれている最中に手を握ってくれたり、背中をさすったりしてくれるだけで、彼女の心は随分と励まされていた。
吐き気がする程の頭痛から解放されたメイリスは、いつかのようにジェイデンの膝の上に抱えられて目が覚めた。
宥めるように頭を撫でてくれる手のひらが心地良くて、彼の体に全身を預けながら呼吸を整える。
早くどいてあげなければとは思うが、まだ手足が痺れていて上手く動かせない。
お礼だけでも先に伝えようとゆっくり顔を上げると、ぼんやりした視界の中に自分を見下ろす仮面が現れた。
いつからかはわからないが、ジェイデンはメイリスの意識が戻ったことに気が付いていたようだった。
(いつのまにか絆されてしまったわね…)
ゼルキオンが彼を連れてきた時は部屋の中にいるのも忌々しく思っていたのに、今はいることが普通で、ありがたいとさえ思う。
「彼以上の適任者はいない」と言っていた彼の言葉を証明することになり、少し悔しい気もした。
同じベッドで眠ってはいてもこれほど近くで顔を見たことがなく、ついまじまじと観察してしまう。
貧相に感じていた頬骨は少し肉付きがよくなって、逆三角形のシャープな顎にも健康的な丸みが出てきたように思う。
仮面に隠れていない肌は見たところ火傷の痕がなく、髭の剃り残しもなくて綺麗だった。
耳にかかる髪は癖もなくさらさらな印象で、生まれつきうねりのある自分の髪質と比べると少しだけ羨ましく思った。
視覚補助を付けなければ何も見えないのだから仕方がないと思いながらも、瞳の色が見られないのは残念だった。
年齢を聞いたことはないが、見たところ自分と同じくらいの歳のように思えるものの、これまでの言動を思い返すといくらか年上のような気がした。
10年前の爆発事故はきっと彼にとってひどく恐ろしい出来事だっただろうと思いを巡らせる。
やりたい仕事に就いて充実していたであろう時期に、将来の目標や希望を失った。
命が助かったのは幸いだったが、視力を奪われ、肌を焼かれて、そうでなくても辛いのに年若かった彼が絶望しないわけがない。
これほど他人に尽くせるのは過去に痛ましい経験をしてきたからなのかも知れないと思うと、メイリスは初めて彼に同情心のようなものを抱いた。
それと同時に自分にはない強さを感じて尊敬の念も湧き上がってくる。
(あなたはすごい人ね…。こうしてしっかり生きて、他人を思いやることもできるなんて…。私も見習わないといけないわね…)
ジェイデンと出会うまで、メイリスは人生を半分諦めかけていた。
ゼルキオンが「保証する」と言ってはくれても、そうまでして生きて楽しいと思えるのか疑問だった。
かといってブレインや父親に自由を奪われるのも嫌で、どんな気持ちで未来を見据えればいいのかわからなかった。
見通しのない深い霧の中にいた彼女を導いたのは、紛れもなく彼だった。
(こんな戦場でもあなたのような人に出会えたんだから、これからもきっといろんな人と繋がりができていくのよね。そう考えたら、まだまだ人生も捨てたものじゃないわね)
そんなことを考えながらくすりと頬を緩めると、彼の顔が近づいてくるのがわかった。
何をされるのかわかって少しだけ驚いたものの、メイリスは自然に瞼を下ろした。
唇に柔らかくてあたたかいものが触れる。
薄目を開けると、ジェイデンの仮面はまだそこにあった。
二人はもう一度、今度はしっかりと唇を重ねた。
「ン…」
メイリスはどんどん深くなるジェイデンのキスに応えた。
ときめきに鼓動が早くなる。
熱い舌の感触がひどく心地良くて、何度も絡ませてはお互いの唾液を飲み込んだ。
まるでこうなることが決まっていたかのように違和感がなく、気持ち良かった。
「ふ…、ン…ふ、ぅ…」
「…ハ、」
興奮しているのか、僅かに息を上げたジェイデンの指先が胸の膨らみにかかる。
唇を重ねながら胸を手のひらで掬い上げられた、その時。
メイリスの脳裏に、忘れたはずのゲイルの顔が浮かび上がった。
自分の体に触れている手がゲイルのものではないと認識した途端、彼女はほとんど無意識にジェイデンの体を押しのけていた。
何故今更になって彼を思い出してしまうのかわからず、混乱してしまう。
彼はもう二度と戻っては来ないのに、戻って来させるつもりもないのに、それでもまだメイリスの中では彼が一番で、大切な人だった。
そのことに気が付いた彼女は、胸の痛みをやり過ごすためにジェイデンの膝から立ち上がった。
涙で潤んだ目元を見せたくなくて、拒絶するように腕を組んで背を向けた。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「ジェイデン、あなたを解任するわ。警護はもう結構。直ちにここから出て行って」
「…!」
これまで一度も表情を崩したことのなかったジェイデンは、この時明らかに動揺を見せた。
メイリスの服の袖を掴み、何か言いたげに口をむぐつかせる彼を振り返って、メイリスは寂し気に微笑む。
「何事にも越えてはならない境界線があるのよ。私はそれを越えてしまって、過去にひどい失敗をしたの。もうあんな後悔をするのは嫌なのよ…」
「……」
「これ以上してしまったら、仕事の範疇ではなくなるわ。警護対象に手を出したなんて知れたらあなたのためにもならない」
「……」
「添い寝をさせていた時点で手遅れかもしれないけれど、今ならまだ間に合うわ。さっきのキスは忘れるわね。これまで色々我儘を聞いてくれてありがとう。次にあなたが護る主人は添い寝なんて希望しない、もっと愛嬌のある人だといいわね?」
わざと明るく振舞って笑顔を見せると、ジェイデンは開いていた唇を引き結んだ。
それでもしばらくは躊躇っていたが、メイリスが譲らないとわかると最後には納得して部屋を出て行った。
いつしか逞しいと感じるようになっていた背中から哀愁を感じて、メイリスは目を背けることで込み上げる喪失感を抑え込んだ。
(ごめんなさい、ジェイデン…。私やっぱり彼のことを忘れられないみたい…)
あんなに忘れたいと思って、忘れられたと思ったのに、過去の優しかったゲイルが心の中に居座って出ていってくれない。
あの日から5年以上経ってはいても、その倍以上の時間を共に過ごした彼への想いは全く色褪せていなかった。
(ゲイル…私いつまであなたに囚われなければいけないのかしら…?もう忘れてしまいたいのに…)
ジェイデンとのキスによって仕舞い込もうとしていた感情を掘り起こされたメイリスは、かつての恋人を恋しく思って涙をこぼした。
メイリスに追い出された格好になったジェイデンは、肩を落としながらもしっかりとした足取りである場所へ向かっていた。
南の塔から転移魔法陣で要塞の中心部へと移動し、司令室で戦況を見守る上官の姿を見留めて近づく。
彼も人の気配に気が付いたようで、それが妹の専属警護員だとわかると眉を顰めた。
目配せをしてその場を離れ、司令室横の仮眠室にジェイデンを誘導する。
人目がなくなったところで、ゼルキオンが口を開いた。
「…どうしてお前がここにいる?メイリスはどうした?」
「申し訳ありません…解任されてしまいました」
覇気のない声だったが、ジェイデンは確かに灼けたはずの声帯を震わせ、ハッキリと発言した。
報告を受けたゼルキオンは大きく目を見開き、すぐに表情を険しいものに変えた。
「どういうことか説明してみろ」
「はい…実は…」
ジェイデンが先程のメイリスとのやりとりを包み隠さず説明すると、ゼルキオンは目の前の部下に呆れた視線を向けた。
「いい大人がそこまでいって進展しないとは。これまでの経緯を考えると無理もないが…情けないな、ゲイル・ラーバント」
「…弁明のしようもありません」
ゼルキオンに違う名前で呼ばれたにもかかわらず、彼は名前を間違えていると訴えることも、否定もしなかった。
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