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第3章
南の塔の秘密
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北の辺境にある要塞の南側にある塔の上には秘密があった。
何人たりとも近付くことは許されず、もしその扉に手をかけたなら、触れた指先から皮膚が灼かれて一瞬にして灰になってしまうのだという。
この地に赴いた者達は必ずその説明を受け、接近しないと魔法で誓いを立てさせられた。
「ここは戦場だ。そして君達はこの国の未来を背負う戦士だ。ただ目の前の敵に勝利することだけを考えろ。誓いを破り、無駄に命を落とすようなことのないように」
マギウスの特殊戦闘部隊を統率する第一王子は淡々とした口調で言い聞かせた。
しかしそれでも好奇心に負ける人間はいた。
こっそり塔へ忍び込み、扉の前で透過の魔法陣を展開したマギウスとエウリスの三人組は、それ以来忽然と姿を消した。
――開かずの扉の向こうには人ならざるものが棲んでいる。
戦闘員達の間で、都市伝説のような不可思議な噂が流れた。
しかしその実態は、女神のように美しい人間の女性だった。
少女の面影をなくした彼女は誰をも魅了する美貌を持ち、冷然とした紅の瞳はどこか儚げな印象を与えていた。
カッタルタとの開戦から4年と10ヶ月。
年齢を重ねて成熟した女性になったメイリスは、塔の一室に閉じこもって人知れず孤独に戦っていた。
彼女の存在を知るのはゼルキオンと一部のマギウスだけで、外出は許されず、まるで囚人のような生活を送っていた。
室内には国内全域の防衛魔法の情報が映し出された大きなモニターが設置され、異常が起きた箇所は赤く発色して警告音が鳴るように設定されている。
修復には特殊なガラスペン型の魔導具を使い、メイリスの血液と魔力を流し込んで使用する。
それ以外は他の魔法陣を扱う時と特段変わらず、液晶端末に表示されたエラー情報を遠隔操作で正常に戻す作業を繰り返していた。
どこにいても警告音が聞こえるように部屋のあちこちには通信用のスピーカーが備え付けられている。
修復はとにかく時間との勝負で、かかる時間が長ければ長いほど他の魔法陣も破壊され、無防備になった隙間から砲弾を撃ち込まれて人里に被害が及ぶ。
奇跡的に国家の存在を脅かすような打撃は受けてはいないが、一部の地域は攻撃を受け、家屋や土地が滅茶苦茶に破壊されてしまった。
住人達はシェルターに身を隠したために負傷程度で済んだものの、民間人への被害は少なからず発生していた。
このまま敵兵の侵入を許さずに優位な状況を継続できるかどうかは、メイリスの対応力にかかっていた。
そんな緊迫した状況が何年も続いていたが、ここ最近になってカッタルタの勢力は衰えを見せていた。
修復と並行して魔法陣の再構築を進めていたおかげで、全体の2/3を全く新しいものに置き換えることができたからだ。
それに比例してブレインの持つ機密情報は利用価値のないものに変わっていき、既存の防衛魔法を破られる頻度も少なくなった。
油断はできないものの勝利は目前と思われていたが、メイリスに降りかかる脅威が去ったわけではなかった。
ほんの数日前、ブレインが厳重な警備を掻い潜って彼女の前に現れたのだ。
メイリスの胸に刻まれた魔法陣には位置探知の魔法が組み込まれており、彼はそれを利用してこれまでにも何度か単身で乗り込んできたことがあった。
その度にメイリスが追い返してきたのだが、前回はまさしく間一髪というところだった。
すぐに異常に気が付いたゼルキオン達のおかげで事なきを得たが、ほんの少しでも駆け付けるのが遅ければメイリスはカッタルタに連れ去られていた。
もしそうなっていたら今頃パレシアには敵兵がなだれ込み、彼女自身もブレインにどんな扱いを受けていたかわからない。
この件でゼルキオンは薄々疑念を抱いていた異母妹の「大丈夫」を完全に信用しなくなった。
そしてその翌日、ついに彼女の前に一人の警護員を連れてきた。
「彼はジェイデン・フォックスターだ。ここに常駐して君の専属警護をしてもらう」
「悪いけど、必要ないわ。防犯系統の魔法陣を更に強化しておいたから大丈夫よ。それに私、部屋に他人がいると落ち着かないの」
「メイリス、君も自分の立場は理解しているだろう。君がいなければ残りの魔法陣の再構築は誰がするんだ?今回の件でわかっただろうが、あれにはいま以前のような余裕がない。これまで以上に手荒くなるはずだ。万が一君があれの手に渡ることになったら、私は父親に君のことを話す」
「…笑えない冗談ね」
「毒をもって毒を制すと言うだろう。私に最悪の手段を取らせない為に、君も協力してくれ」
「その言い方はずるいわ」
「それだけ私にも余裕がないということだ。異論はないな?」
「……」
メイリスはしぶしぶ承諾した。
このジェイデンという男は先日ゼルキオンと共に駆けつけてブレインから守ってくれたマギウスのうちの一人だった。
かつてはゼルキオンと同じ軍務部隊に所属していたが、10年前に不運にも爆発事故に巻き込まれて大やけどを負ってしまった。
熱風で視力を失い、筋肉にも熱傷を負って体に後遺症が残ってしまったため退役を余儀なくされたが、彼の若さと能力を買ったゼルキオンが治療後に諜報部隊へ異動させたのだという。
鼻から上に視力補助の魔法をかけた仮面を付けているので顔付きはわからないが、見える肌は青白くて頬も痩けていて、どこか陰鬱な雰囲気の男だった。
彼がいるだけで部屋の照明がワントーン暗くなりそうだった。
「隠密が得意な男だ。他人がいると落ち着かないなら、気配がなければ問題ないだろう」
それはそれで色々問題がありそうだと思ったが、無駄なことは言わずに大人しく従った。
メイリスが何と言おうと、この男が護衛になることは決定事項だ。
初めは不満しかなかったが、彼は気配を完全に消せるようで四六時中同じ部屋にいても全く存在感を感じなかった。
あまりに空気に溶け込みすぎるので、姿を目にした時に幽霊がいるような心地がしてドキッとさせられるほどだ。
それが1日に何度もあると逆に落ち着かなくて、メイリスはほんの少しだけ、驚かない程度には気配を出しておいて欲しいと要望を出してみた。
できないのなら解任する理由にしようと思ったのだが、彼は期待通りの絶妙な存在感を醸し出すようになった。
無理難題をふっかけた自覚はあったので、メイリスは感心した。
ゼルキオンが優秀だと言っていたのは本当だったらしい。
彼は気道にも熱傷を受けた影響で声を出すことができず、メイリスの質問には筆談で返答した。
表情がほとんど動かないので何を考えているのかわからず、感情がないのではないかと思っていたが、ある日その考えを改めた。
着替えの最中にタイミング悪く警告音が鳴り、メイリスは仕方なくトップレスで修復処理をしたことがあった。
その時彼は気まずそうにメイリスから顔を背けた。
頬もほんのりと赤らんでいたような気がする。
「あなたも人並みに照れることがあるのね?」
「……」
下は履いているが上は伸びた髪で胸を隠しただけの姿で対峙するメイリスを彼がどう思ったのかは、手書きの返答がなかったのでわからなかった。
それからメイリスはジェイデンの反応を試すようになった。
わざと服を着ず、下着のパンツとカップインキャミソールだけの格好で室内を歩き回る。
服を着ろと要求してきたらそれを理由に解任してやろうと思ったが、彼は何も言ってこなかった。
言わない代わりに毎朝メイリスの枕元に服を用意するようになった。
悲壮感漂う見た目に反して、ジェイデンは思いのほか世話焼きだった。
メイリスが作業に集中していると、数時間おきに飲み物を淹れ直したり食事や休憩を促したりしてくる。
そのタイミングが言い表せないほど絶妙で、気になった彼女は怪訝な視線を送った。
「あなた本当にただのSP?諜報員って人の心も読めるものなの?」
《読めません》
《人の世話をすることに慣れているだけです》
「そうだとしても気が利きすぎて逆に不自然だわ。気味が悪くなるくらい」
《ご不快にさせて申し訳ありません》
《女性に囲まれた環境で育ったせいか自然とわかってしまうようです》
「どういうこと?」
《女兄弟が多かったんです》
「ふうん…。お姉さん?妹さん?」
《どちらもです》
《姉が2人、妹が3人います》
《幼い頃に父親を亡くしてからは、母と祖母、叔母と9人で暮らしていました》
「お父様の他に男性はいなかったの?」
《祖父と叔父は生きています》
《今の私と同じような仕事をしていましたので、ほとんど家を空けていました》
「……」
どうやら彼は見事な女所帯に男一人の環境で生きてきたらしい。
これほどの気遣いができるのは8人の女家族達に鍛え上げられたからかとメイリスは半分納得した。
しかしその半分ではまだ彼を疑っていた。
警戒心の強い彼女は、彼の言葉をそのまま鵜呑みにはしなかった。
ブレインがメイリスに埋め込んだ魔法陣の効果は追跡だけではなかった。
彼女の神経伝達に干渉して体の自由を奪い、時折悪夢を見せた。
夢は大抵ゲイルとミーアが仲睦まじく過ごす光景を目の前でひたすら見せられるという内容だった。
ただデートをしたりいちゃついたりしている映像ならば耐えられたが、二人の性行為を見せられた時は流石に堪えた。
二度と見たくないと思ったメイリスの感情が伝わったのか、ブレインは度々似たような夢を見せるようになった。
メイリスは次第に睡眠を拒むようになったが、今夜のように強制的に眠らされることもあった。
『アッアッ…ゲイルッ…気持ちいいのっ…』
『ハァ…ミーア、愛してる…ック、キモチイイ…!』
ゲイルがベッドの上で夢中で腰を振っている。
その下にいるのは肌を紅潮させて汗ばむミーアだ。
『アンッ!や、だぁ、激しっ…!あぁん…!』
『ハァ、ハァッ…!キモチヨすぎて腰止まんない…ッ、このまま、出すな…!』
『いいよっ…!私もっ、ゲイルの赤ちゃん欲しいっ…!』
『ミーアッ!愛してる…ッ!ハァ、ッう…!』
二人は絶頂を迎えて、愛おしげに見つめ合っては口付けを繰り返す。
目を背けて逃げたいのにそうできないのは、ブレインに金縛りのような状態にさせられ、更に後ろから羽交い締めにされているからだ。
彼はメイリスの肩に顎を乗せて、彼女の耳元で殊更に甘く囁やく。
「見てご覧…メイリス。ゲイルはいま他の女性とベッドで気持ちよくなってる。愛してるって何度も言っているね…君は言われたことある?」
「…悪趣味ね。こんなものを見せても私はあなたを好きにはならない」
「それはまだ君がゲイルを諦めきれていないからだよ。自分を捨てた男の姿をよく見るんだ。あんなに熱心に他の女を抱いて、愛を囁いているんだよ。あいつは二度と君の元へは戻らない」
「わかっているわよ、そんなこと。それでもあなたのものにはならない。天地がひっくり返ってもありえないわ」
「往生際が悪いな、メイリス。そんなことじゃまだまだ君を楽にはさせてあげられない。もっともっとゲイルに苦しめられろ。俺はあいつとは違って君に永遠の愛を与えられることを忘れないで」
「……」
目の前の二人が再び睦み合って行為を再開する。
これが彼の魔法による幻覚だということはわかっているが、やけに鮮明で夢と現実の区別がつかない。
ゲイルが幸せそうなのはよかったと思う反面、どうして自分ではないのだろうと胸が苦しくなる。
(やめて。もうやめて…)
メイリスの目から熱い雫が零れ落ちる。
ブレインのものになると言えばこの苦しみから解放されるのに、どうしても言う気にはなれない。
(だれか、わたしをころして。このまま死なせて欲しい…)
彼女が心の中で吐露すると、体を揺すぶられる感覚でメイリスは目を覚ました。
ぼんやりと目を開けると、涙の向こうに黒い仮面があった。
退出させたはずのジェイデンに起こされたのだとわかると、メイリスは深い溜め息を吐いた。
虚ろな瞳で天井を見上げる。
深夜帯は敵兵も休息に入るので夜明けまで警護はいらないと彼を自室に下がらせたのに、いつの間に戻ってきたのだろう。
(こんなみっともない姿、誰にも見せたくなかったのに…)
泣いていた痕跡を早く隠さなければと思うのに、全身を襲うひどい倦怠感から腕を動かせない。
しばらくメイリスの静かな呼吸の音だけが部屋に響いていた。
ジェイデンは会話用の小さなスケッチブックに何も書くことはなく、自然にその場から離れた。
立ち去っていく後ろ姿をぼんやり見送って、メイリスはゆっくりと起き上がる。
ベッドの上で膝を抱え、嵌め込みの窓から外を見下ろした。
月明かりが眩しく、星の綺麗な夜だった。
メイリスはあの日のように嗚咽を堪えきれなかった。
(ゲイル…もうあなたのこと忘れられたらいいのに…早く忘れたい……)
付き合った時間の倍は過ぎても友達でいた時間が長すぎて、たった4、5年くらいではゲイルのことを忘れられなかった。
子どものようにしゃくりあげて泣く自分が滑稽だと思ってはいても、涙が溢れて止まらない。
ここには傍に寄り添って共に泣いてくれる心優しい義姉はいない。
今のメイリスには隣で慰めてくれる人が誰もいなかった。
しばらく一人で傷心に浸り、涙も止まって呼吸も落ち着いてきた頃だった。
部屋へ戻ったと思われていたジェイデンが湯気の立つカップを持ってメイリスの元へ戻ってきた。
ラベンダーの花の香りが鼻腔をくすぐる。
膝に埋めていた顔を少しだけ動かして彼の顔を見上げると、カップをすっと前に差し出された。
「…あなたが淹れてくれたの?」
まるで女性のような気遣いをする男に驚いて尋ねると、彼は僅かに首を縦に動かした。
こんな時に男性が飲むには珍しいハーブティーを選ぶなんて、女性の世話を焼くのに慣れているというのは本当なのかも知れない。
ジェイデンは泣いていた理由を追求することもせず、ただその場にいるだけだった。
メイリスはこの男の距離感に心地良さを覚えている自分に気が付いた。
(不思議な人ね…)
警護員らしからぬことばかりするこの男に、興味が湧いた瞬間だった。
「恥ずかしいところを見せてしまったわね。ありがとう。もういいから、戻って休んで」
目元を緩ませて微笑むと、彼は紙にペンを走らせた。
《もう少し眠られては?》
「いいえ、今夜はもういいわ。見ていてわかったでしょ?眠ると嫌な夢を見るから、本当は眠りたくないの」
《私が傍にいます》
次に続いた言葉を見て、メイリスはヒュッと息を呑んだ。
彼の真意がわからず怪訝な顔をすると、彼は再び文字を綴り始めた。
《うなされていたら起こします》
「それって私が寝ている間もずっと起きてここにいるということ?そんなことまでしなくていいわ」
《これも仕事のうちですから》
「そんなわけないじゃない。もしかしてあなたの上司にそうしろって言われているの?」
《そうではありません》
《もっと私を利用してください》
「あなた…その、そういう嗜好がある人なの…?」
《違います》
《ただあなたに頼られたい》
「……」
《いつでも肩を貸します》
「……結構よ」
メイリスはジェイデンから視線を逸らした。
文字からひたむきな優しさが伝わってきて、なんだか気恥ずかしかった。
何人たりとも近付くことは許されず、もしその扉に手をかけたなら、触れた指先から皮膚が灼かれて一瞬にして灰になってしまうのだという。
この地に赴いた者達は必ずその説明を受け、接近しないと魔法で誓いを立てさせられた。
「ここは戦場だ。そして君達はこの国の未来を背負う戦士だ。ただ目の前の敵に勝利することだけを考えろ。誓いを破り、無駄に命を落とすようなことのないように」
マギウスの特殊戦闘部隊を統率する第一王子は淡々とした口調で言い聞かせた。
しかしそれでも好奇心に負ける人間はいた。
こっそり塔へ忍び込み、扉の前で透過の魔法陣を展開したマギウスとエウリスの三人組は、それ以来忽然と姿を消した。
――開かずの扉の向こうには人ならざるものが棲んでいる。
戦闘員達の間で、都市伝説のような不可思議な噂が流れた。
しかしその実態は、女神のように美しい人間の女性だった。
少女の面影をなくした彼女は誰をも魅了する美貌を持ち、冷然とした紅の瞳はどこか儚げな印象を与えていた。
カッタルタとの開戦から4年と10ヶ月。
年齢を重ねて成熟した女性になったメイリスは、塔の一室に閉じこもって人知れず孤独に戦っていた。
彼女の存在を知るのはゼルキオンと一部のマギウスだけで、外出は許されず、まるで囚人のような生活を送っていた。
室内には国内全域の防衛魔法の情報が映し出された大きなモニターが設置され、異常が起きた箇所は赤く発色して警告音が鳴るように設定されている。
修復には特殊なガラスペン型の魔導具を使い、メイリスの血液と魔力を流し込んで使用する。
それ以外は他の魔法陣を扱う時と特段変わらず、液晶端末に表示されたエラー情報を遠隔操作で正常に戻す作業を繰り返していた。
どこにいても警告音が聞こえるように部屋のあちこちには通信用のスピーカーが備え付けられている。
修復はとにかく時間との勝負で、かかる時間が長ければ長いほど他の魔法陣も破壊され、無防備になった隙間から砲弾を撃ち込まれて人里に被害が及ぶ。
奇跡的に国家の存在を脅かすような打撃は受けてはいないが、一部の地域は攻撃を受け、家屋や土地が滅茶苦茶に破壊されてしまった。
住人達はシェルターに身を隠したために負傷程度で済んだものの、民間人への被害は少なからず発生していた。
このまま敵兵の侵入を許さずに優位な状況を継続できるかどうかは、メイリスの対応力にかかっていた。
そんな緊迫した状況が何年も続いていたが、ここ最近になってカッタルタの勢力は衰えを見せていた。
修復と並行して魔法陣の再構築を進めていたおかげで、全体の2/3を全く新しいものに置き換えることができたからだ。
それに比例してブレインの持つ機密情報は利用価値のないものに変わっていき、既存の防衛魔法を破られる頻度も少なくなった。
油断はできないものの勝利は目前と思われていたが、メイリスに降りかかる脅威が去ったわけではなかった。
ほんの数日前、ブレインが厳重な警備を掻い潜って彼女の前に現れたのだ。
メイリスの胸に刻まれた魔法陣には位置探知の魔法が組み込まれており、彼はそれを利用してこれまでにも何度か単身で乗り込んできたことがあった。
その度にメイリスが追い返してきたのだが、前回はまさしく間一髪というところだった。
すぐに異常に気が付いたゼルキオン達のおかげで事なきを得たが、ほんの少しでも駆け付けるのが遅ければメイリスはカッタルタに連れ去られていた。
もしそうなっていたら今頃パレシアには敵兵がなだれ込み、彼女自身もブレインにどんな扱いを受けていたかわからない。
この件でゼルキオンは薄々疑念を抱いていた異母妹の「大丈夫」を完全に信用しなくなった。
そしてその翌日、ついに彼女の前に一人の警護員を連れてきた。
「彼はジェイデン・フォックスターだ。ここに常駐して君の専属警護をしてもらう」
「悪いけど、必要ないわ。防犯系統の魔法陣を更に強化しておいたから大丈夫よ。それに私、部屋に他人がいると落ち着かないの」
「メイリス、君も自分の立場は理解しているだろう。君がいなければ残りの魔法陣の再構築は誰がするんだ?今回の件でわかっただろうが、あれにはいま以前のような余裕がない。これまで以上に手荒くなるはずだ。万が一君があれの手に渡ることになったら、私は父親に君のことを話す」
「…笑えない冗談ね」
「毒をもって毒を制すと言うだろう。私に最悪の手段を取らせない為に、君も協力してくれ」
「その言い方はずるいわ」
「それだけ私にも余裕がないということだ。異論はないな?」
「……」
メイリスはしぶしぶ承諾した。
このジェイデンという男は先日ゼルキオンと共に駆けつけてブレインから守ってくれたマギウスのうちの一人だった。
かつてはゼルキオンと同じ軍務部隊に所属していたが、10年前に不運にも爆発事故に巻き込まれて大やけどを負ってしまった。
熱風で視力を失い、筋肉にも熱傷を負って体に後遺症が残ってしまったため退役を余儀なくされたが、彼の若さと能力を買ったゼルキオンが治療後に諜報部隊へ異動させたのだという。
鼻から上に視力補助の魔法をかけた仮面を付けているので顔付きはわからないが、見える肌は青白くて頬も痩けていて、どこか陰鬱な雰囲気の男だった。
彼がいるだけで部屋の照明がワントーン暗くなりそうだった。
「隠密が得意な男だ。他人がいると落ち着かないなら、気配がなければ問題ないだろう」
それはそれで色々問題がありそうだと思ったが、無駄なことは言わずに大人しく従った。
メイリスが何と言おうと、この男が護衛になることは決定事項だ。
初めは不満しかなかったが、彼は気配を完全に消せるようで四六時中同じ部屋にいても全く存在感を感じなかった。
あまりに空気に溶け込みすぎるので、姿を目にした時に幽霊がいるような心地がしてドキッとさせられるほどだ。
それが1日に何度もあると逆に落ち着かなくて、メイリスはほんの少しだけ、驚かない程度には気配を出しておいて欲しいと要望を出してみた。
できないのなら解任する理由にしようと思ったのだが、彼は期待通りの絶妙な存在感を醸し出すようになった。
無理難題をふっかけた自覚はあったので、メイリスは感心した。
ゼルキオンが優秀だと言っていたのは本当だったらしい。
彼は気道にも熱傷を受けた影響で声を出すことができず、メイリスの質問には筆談で返答した。
表情がほとんど動かないので何を考えているのかわからず、感情がないのではないかと思っていたが、ある日その考えを改めた。
着替えの最中にタイミング悪く警告音が鳴り、メイリスは仕方なくトップレスで修復処理をしたことがあった。
その時彼は気まずそうにメイリスから顔を背けた。
頬もほんのりと赤らんでいたような気がする。
「あなたも人並みに照れることがあるのね?」
「……」
下は履いているが上は伸びた髪で胸を隠しただけの姿で対峙するメイリスを彼がどう思ったのかは、手書きの返答がなかったのでわからなかった。
それからメイリスはジェイデンの反応を試すようになった。
わざと服を着ず、下着のパンツとカップインキャミソールだけの格好で室内を歩き回る。
服を着ろと要求してきたらそれを理由に解任してやろうと思ったが、彼は何も言ってこなかった。
言わない代わりに毎朝メイリスの枕元に服を用意するようになった。
悲壮感漂う見た目に反して、ジェイデンは思いのほか世話焼きだった。
メイリスが作業に集中していると、数時間おきに飲み物を淹れ直したり食事や休憩を促したりしてくる。
そのタイミングが言い表せないほど絶妙で、気になった彼女は怪訝な視線を送った。
「あなた本当にただのSP?諜報員って人の心も読めるものなの?」
《読めません》
《人の世話をすることに慣れているだけです》
「そうだとしても気が利きすぎて逆に不自然だわ。気味が悪くなるくらい」
《ご不快にさせて申し訳ありません》
《女性に囲まれた環境で育ったせいか自然とわかってしまうようです》
「どういうこと?」
《女兄弟が多かったんです》
「ふうん…。お姉さん?妹さん?」
《どちらもです》
《姉が2人、妹が3人います》
《幼い頃に父親を亡くしてからは、母と祖母、叔母と9人で暮らしていました》
「お父様の他に男性はいなかったの?」
《祖父と叔父は生きています》
《今の私と同じような仕事をしていましたので、ほとんど家を空けていました》
「……」
どうやら彼は見事な女所帯に男一人の環境で生きてきたらしい。
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しかしその半分ではまだ彼を疑っていた。
警戒心の強い彼女は、彼の言葉をそのまま鵜呑みにはしなかった。
ブレインがメイリスに埋め込んだ魔法陣の効果は追跡だけではなかった。
彼女の神経伝達に干渉して体の自由を奪い、時折悪夢を見せた。
夢は大抵ゲイルとミーアが仲睦まじく過ごす光景を目の前でひたすら見せられるという内容だった。
ただデートをしたりいちゃついたりしている映像ならば耐えられたが、二人の性行為を見せられた時は流石に堪えた。
二度と見たくないと思ったメイリスの感情が伝わったのか、ブレインは度々似たような夢を見せるようになった。
メイリスは次第に睡眠を拒むようになったが、今夜のように強制的に眠らされることもあった。
『アッアッ…ゲイルッ…気持ちいいのっ…』
『ハァ…ミーア、愛してる…ック、キモチイイ…!』
ゲイルがベッドの上で夢中で腰を振っている。
その下にいるのは肌を紅潮させて汗ばむミーアだ。
『アンッ!や、だぁ、激しっ…!あぁん…!』
『ハァ、ハァッ…!キモチヨすぎて腰止まんない…ッ、このまま、出すな…!』
『いいよっ…!私もっ、ゲイルの赤ちゃん欲しいっ…!』
『ミーアッ!愛してる…ッ!ハァ、ッう…!』
二人は絶頂を迎えて、愛おしげに見つめ合っては口付けを繰り返す。
目を背けて逃げたいのにそうできないのは、ブレインに金縛りのような状態にさせられ、更に後ろから羽交い締めにされているからだ。
彼はメイリスの肩に顎を乗せて、彼女の耳元で殊更に甘く囁やく。
「見てご覧…メイリス。ゲイルはいま他の女性とベッドで気持ちよくなってる。愛してるって何度も言っているね…君は言われたことある?」
「…悪趣味ね。こんなものを見せても私はあなたを好きにはならない」
「それはまだ君がゲイルを諦めきれていないからだよ。自分を捨てた男の姿をよく見るんだ。あんなに熱心に他の女を抱いて、愛を囁いているんだよ。あいつは二度と君の元へは戻らない」
「わかっているわよ、そんなこと。それでもあなたのものにはならない。天地がひっくり返ってもありえないわ」
「往生際が悪いな、メイリス。そんなことじゃまだまだ君を楽にはさせてあげられない。もっともっとゲイルに苦しめられろ。俺はあいつとは違って君に永遠の愛を与えられることを忘れないで」
「……」
目の前の二人が再び睦み合って行為を再開する。
これが彼の魔法による幻覚だということはわかっているが、やけに鮮明で夢と現実の区別がつかない。
ゲイルが幸せそうなのはよかったと思う反面、どうして自分ではないのだろうと胸が苦しくなる。
(やめて。もうやめて…)
メイリスの目から熱い雫が零れ落ちる。
ブレインのものになると言えばこの苦しみから解放されるのに、どうしても言う気にはなれない。
(だれか、わたしをころして。このまま死なせて欲しい…)
彼女が心の中で吐露すると、体を揺すぶられる感覚でメイリスは目を覚ました。
ぼんやりと目を開けると、涙の向こうに黒い仮面があった。
退出させたはずのジェイデンに起こされたのだとわかると、メイリスは深い溜め息を吐いた。
虚ろな瞳で天井を見上げる。
深夜帯は敵兵も休息に入るので夜明けまで警護はいらないと彼を自室に下がらせたのに、いつの間に戻ってきたのだろう。
(こんなみっともない姿、誰にも見せたくなかったのに…)
泣いていた痕跡を早く隠さなければと思うのに、全身を襲うひどい倦怠感から腕を動かせない。
しばらくメイリスの静かな呼吸の音だけが部屋に響いていた。
ジェイデンは会話用の小さなスケッチブックに何も書くことはなく、自然にその場から離れた。
立ち去っていく後ろ姿をぼんやり見送って、メイリスはゆっくりと起き上がる。
ベッドの上で膝を抱え、嵌め込みの窓から外を見下ろした。
月明かりが眩しく、星の綺麗な夜だった。
メイリスはあの日のように嗚咽を堪えきれなかった。
(ゲイル…もうあなたのこと忘れられたらいいのに…早く忘れたい……)
付き合った時間の倍は過ぎても友達でいた時間が長すぎて、たった4、5年くらいではゲイルのことを忘れられなかった。
子どものようにしゃくりあげて泣く自分が滑稽だと思ってはいても、涙が溢れて止まらない。
ここには傍に寄り添って共に泣いてくれる心優しい義姉はいない。
今のメイリスには隣で慰めてくれる人が誰もいなかった。
しばらく一人で傷心に浸り、涙も止まって呼吸も落ち着いてきた頃だった。
部屋へ戻ったと思われていたジェイデンが湯気の立つカップを持ってメイリスの元へ戻ってきた。
ラベンダーの花の香りが鼻腔をくすぐる。
膝に埋めていた顔を少しだけ動かして彼の顔を見上げると、カップをすっと前に差し出された。
「…あなたが淹れてくれたの?」
まるで女性のような気遣いをする男に驚いて尋ねると、彼は僅かに首を縦に動かした。
こんな時に男性が飲むには珍しいハーブティーを選ぶなんて、女性の世話を焼くのに慣れているというのは本当なのかも知れない。
ジェイデンは泣いていた理由を追求することもせず、ただその場にいるだけだった。
メイリスはこの男の距離感に心地良さを覚えている自分に気が付いた。
(不思議な人ね…)
警護員らしからぬことばかりするこの男に、興味が湧いた瞬間だった。
「恥ずかしいところを見せてしまったわね。ありがとう。もういいから、戻って休んで」
目元を緩ませて微笑むと、彼は紙にペンを走らせた。
《もう少し眠られては?》
「いいえ、今夜はもういいわ。見ていてわかったでしょ?眠ると嫌な夢を見るから、本当は眠りたくないの」
《私が傍にいます》
次に続いた言葉を見て、メイリスはヒュッと息を呑んだ。
彼の真意がわからず怪訝な顔をすると、彼は再び文字を綴り始めた。
《うなされていたら起こします》
「それって私が寝ている間もずっと起きてここにいるということ?そんなことまでしなくていいわ」
《これも仕事のうちですから》
「そんなわけないじゃない。もしかしてあなたの上司にそうしろって言われているの?」
《そうではありません》
《もっと私を利用してください》
「あなた…その、そういう嗜好がある人なの…?」
《違います》
《ただあなたに頼られたい》
「……」
《いつでも肩を貸します》
「……結構よ」
メイリスはジェイデンから視線を逸らした。
文字からひたむきな優しさが伝わってきて、なんだか気恥ずかしかった。
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