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本編

第9話

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「――出張ですか?」

翌週の日曜日、上司の桜木課長から珍しく電話がかかってきた。
地方へ5日間出張に行って欲しいという話だった。

「新しく支社を構えるに当たって準備を進めていたんだが、新人研修の講師役だった営業部長がウイルス性胃腸炎になったらしくてな。急で申し訳ないが、彼の代役として藤本君に行ってもらいたいんだ」
「部長の代わりですか…。声をかけていただけたことは有難いですが、私に務まるか心配です」
「大丈夫だよ。君は日頃から主任として後輩の教育も頑張っているじゃないか。今回の件は部長クラスでなければならない決まりもない。私も係長も声がかかったがどうしても抜けられなくてね。君に行って欲しいんだ」
「わかりました」

明日から急遽出張になったことを希未に伝えると、彼女は驚いた顔をしながらも当たり前のように準備を手伝ってくれた。
シャワーを浴びているうちにいつの間にかスーツケースを出してくれていて、着替えやタオルなど必要なものを丁寧に詰めてくれていた。
それがもの凄く嬉しくて、背中から覆いかぶさるように抱きしめながら何度もありがとうと言ったらいつも以上に真っ赤になっていた。
彼女に好きになってもらわなければいけないのに、希未の仕草がいちいち可愛いくて、俺の方がどんどん好きになっている気がする。

「一人で行くの?」
「そう聞いてる。研修は土曜日までだから日曜日に帰ってくるよ。それまで一人にさせるけど…終わったらすぐ帰って来るから」

離れ難くてぎゅうと抱きしめると、彼女もそっと抱きしめ返してくれて胸がときめいた。
ここのところ帰りが遅くなっているせいで2人の時間も減っているから余計に名残惜しい。
その夜は希未を抱きぐるみのようにして眠った。

翌日一度出社して時間ギリギリまで仕事をし、空港に向かおうとタクシーを呼ぶと、何故か捺月もスーツケースを持ってエントランスにやってきた。

「捺月?お前も出張なのか?」

珍しいと思いながら傍まで歩いて来るのを待っていると、彼女は何故か拗ねた様子で文句を言ってきた。

「桜木課長に『藤本主任に同行させて欲しい』って私からお願いしたの。サポートが必要かと思って。それに一週間も私一人で物騒な夜道を帰らせるつもりだったの?」

まさかの事態にぎょっとしたタイミングでタクシーが到着して、捺月が我先にと乗り込んだ。
飛行機の時間を考えると、ここで言い争っている余裕はない。
俺は溜息を吐いて、仕方なく隣の座席に乗り込んだ。
希未には「一人で行く」と言ってしまった。
なのに女性社員と二人で行くことになったと知れたらどう思うだろう。
いくら目的が仕事で飛行機の座席も泊まる部屋も別々とはいえ、相手は捺月だ。
これまで何度か捺月絡みのことで嘘を吐いてしまっているから、尚のこと報告し辛かった。

(仕方ない…。希未も捺月もお互いの連絡先を知らないだろうし、俺が黙っていればバレることはないよな…)

この時の判断がある意味一つの分岐点だった。
俺はこの後取り返しのつかない後悔をすることになるのだが、この時は想像もしていなかった。


5日間の研修は無事に終わった。
希未とは最初の2日間は電話でもメッセージでも連絡を取り合っていたが、3日目から何故か夜になると眠気がひどくて起きていられず、おやすみのメッセージも送れない状況だった。
昼間に電話をかけてみたけど繋がらなくて、朝になって折り返しの着信に気が付くことが最終日まで続いてしまった。
早く希未会って抱きしめたくて、捺月とは現地で別れて翌日の朝一番の飛行機に乗った。

「ただいま。希未、帰ったよ」

希未と一緒に暮らしてもう数ヶ月になる。
玄関でまず帰ってきたよの挨拶はもう習慣になっていた。
でも今日は返事がなくて、この時から俺は妙な違和感を感じていた。
リビングに入って希未を呼んだけど、返事も人の気配もない。
可笑しいことに気が付いたのは、洗面所で手を洗っていた時だった。
希未の歯ブラシと歯磨き用のコップがなくなっている。
嫌な予感に数秒間思考が停止した。

(まさか…)

一気に血の気が引いた俺は、ドアというドアを開けて希未を探した。
人が入れないとわかっているのにクローゼットやタンスの引き出しまで開けた。

希未がどこにもいない。

本人どころか、彼女の服も使っていた箸も食器もタオルもなにもかもがなくなっている。
先程から動悸と冷や汗が止まらない。
じっとしていられなくて、俺は意味もなく右往左往しながら働かない頭で必死に考えた。
希未が連絡もなしに突然いなくなるなんて信じられない。
スマホを確認してみたが着信も通知もなかった。
事件か事故を疑って、警察に電話しようとした時にようやくダイニングテーブルの上の書置きに気が付いた。

『ありがとう』

その一言がすべてを物語っていた。
きっと彼女は俺のついた嘘に気付いた。

どの嘘だ?

一人で出張に行くと行っていたのに捺月も一緒だったこと?
社内に泊まると言って本当は捺月の家で一夜を明かしたこと?
本当は捺月を家まで送るために帰りが遅くなっていたこと?
もしその全てを希未が知っていて、捺月との関係を疑って家を出たのだとしたら納得はできた。
でも証明できるものがないから正直に話す以外の方法がわからない。
真摯に事情を話したら希未はわかってくれるだろうか。
俺は希未の信頼を一度裏切っている。
そんな俺を希未にまた信じてもらえる自信がない。

(…考えていたって仕方ない。電話しよう。希未と話をしないと…)

しばらくソファで頭を抱えていた俺は、怒られる覚悟で電話をかけた。
希未の反応は予想していたよりずっと悪かった。

《水城?出張から帰ってきたの?お疲れさま》

彼女は全く怒っていなかった。

「希未?希未か?いまどこにいる?帰ってくるよな?迎えに行く」
《気にしないで。そんなことより水城、おめでとう》
「…おめでとうって?」
《捺月さんとよりを戻せたんでしょう?よかったね》

やけにのんびりした声で話す希未に絶句する。

「は…?」
《水城とお似合いだったもの。こうなるってわかってたよ》
「違う…誤解だ。希未、俺はお前に黙っていたことがある。今からちゃんと話したい。誤解されたままなのは嫌だ」
《誤解してないよ。だから気にしないで。全部わかってるから…》
「いや、わかってないよ。とりあえず話をしよう。今すぐ会いたい。会って話そう」
《……私は、会いたくない》
「希未…」

俺は希未の態度に何度目かの違和感を覚えた。
出張へ行く前は特に変わった様子はなかった。
家を出ていく素振りなんてなかったし、「いってらっしゃい」と笑って送り出してくれた。
なのに突然話も聞かずに一方的に会いたくないなんて言い出すのはおかしい。

(出張へ行っている間に何かあったのか…?)

俺が捺月と復縁したと信じ込んでいることも気にかかる。
とりあえずその誤解だけは解いておきたくて、直接話したい気持ちは一旦脇に置くことにした。

「…わかった。じゃあこのまま聞いてくれ。俺はお前に嘘を吐いてたんだ。本人に言うなと言われてたから今まで話せなかったが、仕事で帰りが遅くなるって話をした頃から捺月がストーカー被害に遭ってて――」
《もういいよ》

話は途中で遮られてしまった。
でもここで止めたくなかった。

「希未、最後まで聞いて。俺は捺月に頼まれて家の前まで送っていってたんだ。同じ会社だから国原よりも都合がいいからって。でも全然捕まらなくて、会社に泊まるって言った日は前日に郵便受けに悪戯されてて、それで――」
《もういいよ!やめて、水城…》
「希未…。どうした?俺がいない間に何かあったのか?」

抑えようとしているようだが明らかに感情的になっている。
やっぱり希未の様子がおかしい。
確信を持った俺はこのままじゃいけないと思い直して電話を繋いだまま車のキーを取りに行った。

「やっぱり会って話そう。どこにいる?教えて」
《…教えない。あのね、水城。私…》
「うん」
《今はきっとどんな話を聞いても信じられないと思うの。ごめんね…。みずきのこと、すごく好きなのに。おかしいよね…》

こんな時に希未の気持ちを聞けるなんて思わなくて、俺は一瞬耳を疑った。
そして泣いているような希未の声に胸が締め付けられる。
俺は今まで何をしていたんだろう。
好きになってもらえるように努力しようと思うばかりで、彼女のことをちゃんと見ていなかった。
彼女を癒しているつもりでいながらこうやって傷つけて、泣かせている。
今彼女の隣にいられないことが情けなくてもどかしい。

《わたし…みずきには幸せになってほしい。わたしのことでいつまでも後悔してほしくないの…》
「俺に幸せになって欲しいって本気で思ってるんなら、帰ってきて。顔が見たい。抱きしめたい。まだお前におかえりって言ってもらってない」
《それは…できません…》
「っ…、俺が好きなのはお前だよ。希未が好きだって、ずっと言ってただろ?」
《みずきはわかってないよ……水城が私を好きだって思うのはね、罪悪感があるからだよ。ただ罪滅ぼしがしたいって気持ちを本当に好きだって勘違いしてるの。前にも話したけど私はあのことで水城を恨んだこと一度もないし気にしてないよ。だから水城ももう自分を責めなくていいから。もう自分に正直になってよ!》
「正直になってるよ!俺は確かに嘘は吐いたけどお前への気持ちは嘘でも勘違いでもない。本当にお前が好きで――」
《やめて!もうやめて!!》

電話口で希未は泣きながら絶叫した。
圧倒されてしまった俺は、何故か息切れしてしまって言葉が出てこない。
何か言わなきゃいけないのに涙ばかりが溢れてくる。

《おねがい。わたしのことは忘れて…》

プツリと電話がきれた。
それと同時に希未と繋がっていた糸も切れた気がして、頭が真っ白になった。
あれだけ言葉を重ねても全く伝わらなかった。
その事実が俺を打ちのめして、もう電話をかけ直す勇気も気力も出てこなかった。

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