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本編

第6話

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今日はホテルには泊まらず家に帰ると言うので、俺は希未の家に一晩お邪魔することにした。
玄関に足を踏み入れてすぐ、目に入る所にあった香山の靴や私物を全てごみ袋に入れた。
断捨離をしているうちに『妻になる人』の欄が空欄のままの婚姻届も発見したのでビリビリに破いた。
こんなものまで用意していたくせに、香山が希未の言葉であっさり引き下がったのはいい意味で予想外だった。
これで無事に希未を香山の手から救い出せたのだと思うと、俺の胸は喜びに満ち溢れた。
窓を開けて空気を入れ替えて、掃除機をかける。
奴の臭いが残っていそうなものには消臭スプレーをかけたり取り換えられそうなものは新しいものに取り換えた。
二人で部屋を一通り片付け終えると、希未がコーヒーを淹れてくれた。

「水城…本当にありがとう…」

カップを手渡される時に震えた声でかけられた言葉に目を見開く。
ぽろぽろと涙を零しはじめた彼女をソファに座るように促して、肩を寄せて抱きしめた。
いつから泣くのを我慢していたんだろう。
今まで気が付けなかった自分が情けない。
体勢を変えて正面から抱き込むと、希未は次第に声を上げて泣きだした。

(このまま涙と一緒に嫌な記憶も全部流してしまえ)

希未の髪に鼻先を埋めて何度も頭を撫でてやる。
俺が傍にいることで辛い気持ちが少しでも和らげばいいと思った。

彼女を抱きしめながら、俺はこれからのことを考えた。
俺は大学を卒業後、広告代理店に営業職で入社した。
数年前に主任の役職に就いて、それなりに忙しいけど給料はいいし今回のように有休も比較的取りやすい。
かといってこれ以上休むことは難しいから明後日には出社しなければならないのだが、希未をここに残していくつもりはなかった。
彼女の手を離したらこのまま二度と会えなくなるような気がして怖いからだ。
きっと希未はまだ俺のことを心の底から信頼してはいない。
少なくとも昨日のプロポーズは気の迷いだと思われたままだ。
もう一度しっかり気持ちを伝えて、希未に結婚を頷かせる。
その前にまずは彼女にこのマンションを引き払って俺の家に引っ越すように説得しなければならない。
明日から同棲という形をとって、欲を言えば再来月の希未の誕生日には入籍したい。
俺は早速希未と過ごす未来に向けて計画を組み立てた。

翌朝、希未に二人分の特急券を見せながらついてきて欲しいことを告げると、案の定彼女は動揺していた。
やっぱりお前はこのまま俺と縁を切るつもりでいたんだな。

「結婚しようって言ったこと、俺は本気だよ」
「水城…」
「だけど俺は希未の気持ちを無視したくない。希未にも俺を好きになって欲しいし、望んで俺と結婚したいと思ってくれたらいいって期待してる。そのための時間が必要なんだ」
「でも…」
「この家はお前にとって楽しい記憶もあるだろうけど、それだけじゃないだろ。今は俺がいるけど、きっと一人になったら部屋の中であいつの気配を思い出して辛くなるはずだ。だからしっかり心を癒すためにも、俺と一緒に来てくれたら嬉しい。一時的でも構わないから」

逃がすつもりなんて全くないくせに、一時的でも…なんてすらすら嘘を言えてしまう俺は詐欺師の才能があるかも知れない。
こういう言い方をすれば希未が頷くだろうとわかって言っている。
希未はそんな俺の腹黒いところなんて知らないから、あっさりと俺が掘った穴に落ちてくれた。
物理的に拘束までするつもりはないけど、たぶん軟禁に近いことにはなるだろうなとほくそ笑む。
そうして俺は予定通りに希未と同棲することになった。


金曜日から半休を取って火曜日まで休んでいたから、休み明けはちょっとした地獄を見た。
一日中溜まったメールの処理に追われ、代理で対応してくれた上司や先輩に頭を下げて仕事を引き継いだ。
外出の予定もあったから昼食はゼリー飲料とコンビニのカフェラテで済ませた。
定時を過ぎていることにも気が付かないくらい集中してキーボードを打ち込んでいると、デスクに冷たい缶コーヒーが置かれて顔を上げる。

「忙しそうだね、水城」

差し入れを持って声をかけてきたのは、高校・大学の同級生で同期の捺月だった。
高校時代に付き合っていた相手でもある。
一度は男女の関係になったこともあるのに不思議と気まずい関係にはならなくて、今でも交友が続いていた。

「2日間も休んでどうしたの?貴士たかし君と何かあった?」
「いや…あいつは関係ないよ。コーヒーありがとう」
「どういたしまして。結婚式どうだった?」
「凄く良かった。国原も奥さんも幸せそうで、こっちまで幸せになれたな」
「結婚式って、幸せのおすそ分けだよね」

ふふ、と笑う捺月の顔には陰がない。
最近になってわかってきたことだが、独身の女性は他人の結婚話に敏感だ。
関係の深さに関わらず結婚していない現状と比較して焦ったり嫉妬したりする女性社員は意外に多い。
だけど捺月にそういう素振りはなくて、そんな風に考えられるのは彼女の好ましいところだなと思った。

「その通りだな。俺も結婚したくなった」
「したくなったって…ふふ、可笑しい。相手がいないと結婚はできないよ?」
「相手はいるよ」
「え…」

さっきまで笑っていた捺月が幽霊でも見たような顔をした。
あまり見たことのない顔が面白くてつい笑ってしまう。

「驚きすぎだろ」
「だって……え?彼女いたの?」
「いたっていうか、できた。やっと会えたんだよ、希未に」
「あ……希未って、工藤さん?」
「そう。すごく可愛くなってて、手放したくなくて連れてきた。あいつが頷けばすぐにでも結婚したい」

希未が俺の家にいる姿を想像しただけで嬉しすぎて顔がにやける。
色々あって疲れているだろうに、今朝は俺と一緒に起きてパンを焼いてくれて玄関で見送りまでしてくれた。
ふと今どうしているのか気になってスマホを手に取る。
残業中だとメッセージを送ると、すぐに気遣う返事が返ってきてこそばゆい気持ちになる。

(嫌がられてはいないよな…)

異性として、そもそも友達としても好かれているのか微妙だが、嫌いだったら一緒に暮らそうとはしていないだろう。
抱きしめても拒否されないし、調子に乗って「いってきます」と頬にキスをしてみたら赤くなっていた。
捺月には彼女だと言ったけど、俺達は付き合っているわけじゃない。
付き合うよりも先にプロポーズをして返事を待っている状況で、この関係を他人に何と言ったらいいのかわからない。
俺と希未だからできる特殊なケースだから、誰に説明してもわかってもらえないような気がする。
これからめちゃくちゃに甘やかして、恋人のようなこともたくさんして、希未が俺を好きになるように仕向けていくつもりだ。
結婚すると言うまでじゃなく結婚してからも、一生をかけて。

「…じゃあ、今工藤さんと一緒に住んでるの?」
「ああ。ちょうど希未が仕事を退職したタイミングだったからトントン拍子に話が進んで、昨日一緒に帰ってきた。住んでいたところは次の休みに解約の手続きしに行く予定だよ」
「そ、そうなんだ…。よかったね、水城。あれからずっと工藤さんのこと気にしてたもんね」
「気付いてたのか?」
「もちろん気付くよ!水城ってたまに、遊んでても寂しそうな顔する時あったから…」
「そうだったか?ごめん。それは気を遣わせてたな」

言われてみれば確かにふとした時に希未を思い出して胸が苦しくなる時はよくあった。
誰にも話したことはなかったけど、まさか捺月に気付かれていたとは思わなくて苦笑する。

「大丈夫、水城に気を遣ったことはないから!」
「おいっ」

軽口を叩いてバシッと肩に一撃を食らわせてきた捺月は屈託なく笑っていた。
なんとなく元気がなくなったような気がしたけど、本当に気のせいだったらしい。
俺がコーヒーの空き缶を軽く振って「ご馳走様」と言うと、彼女はそのまま帰っていった。
家で待っている希未のためにも早く仕事を終わらせて、俺も帰ろう。

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