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兆し

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無我夢中で走っていたシエルは、気がつくと教室の入り口に立っていた。
全くの無意識だったが、鳥の帰巣本能のようにここまで戻ってきたらしい。
ただ事じゃない親友の様子に気づいたセレンは、慌てて駆け寄って肩を掴む。

「シエル?シエル?どうしたの?」

肩で息をしながら呆然としているシエルの体を揺さぶる。
するとようやく彼女は目の前にいる友達を視界に入れて、か細い声で名前を呼んだ。

「セ、レン…」
「大丈夫?何かあったの?」

心配そうなセレンの顔は見えているのに、どこか遠くにあるような心地がする。
声もすぐ傍でかけられているのに自分に対してではないような気もしていた。

「お弁当を持ってないってことは、ちゃんと渡せたのよね?」
(お弁当…)

セレンの言葉が風のように耳の中を通り抜けていく。
A級棟での出来事がショックすぎて、シエルはここに来るまでの間だけ一時的に記憶が飛んでいた。
だが「お弁当」という単語に、忘れたままでいたかった記憶は簡単に呼び戻されてしまう。
正気を取り戻したシエルの目から、涙が溢れ出した。

「ちょっ…?!一体どうしたのよ?!シエル?」

声も上げずに泣きはじめたシエルに、セレンも、それを見ていた同級生達もぎょっとした。
ここにいるのはまずいと感じたセレンは、労るように背中を撫でながらシエルを座席まで促す。
座らせることには成功したものの、静かに涙を流す姿にこれ以上どう声をかけていいかわからず見守ることしかできない。
シエルは彼女が困っていることに気が付いていたが、先程のことに打ちのめされてしまって今はまだ取り繕う気力が湧いてこなかった。

「…次の授業、休む?」

項垂れるシエルの頭を優しく撫でながら、セレンは尋ねる。
こんなに弱った彼女はほとんど見たことがない。

「出るの?」

ゆっくりと首を振ったシエルの意思を確認すると、彼女は無言のまま頷いた。
涙が収まりきらないまま、始業のベルが鳴る。
結局お昼ご飯を食べ損ねたが空腹は感じなかった。



翌朝、シエルはとても朝早くに家を出た。
誰とも顔を合わせたくなくて、特にベンの顔を見たくなくて逃げてきてしまった。
昨日は帰宅してすぐに夕食を用意して部屋に閉じこもったので家族の誰とも会っていない。
心配したリアが部屋を訪ねてきてくれたが、ドアの前で追い返してしまった。
申し訳ないと思うものの、気持ちの整理がつけられない。
一晩過ぎて涙は止まったものの、きっと彼の顔を見たらまた泣いてしまう気がする。
届けに行ったお弁当があの後どうなったかは知らない。
何も考えたくなかった。
誰もいない教室に足を踏み入れたシエルは、マフラーをはずし、肩にかけていた鞄を机の上に降ろした。
人の気配がなくしんと静まり返った教室には、風が窓を揺らす小さな音だけが響いている。
壁にかけられた丸時計を見ると始業時間まであと3時間近くもある。
そろそろ姉が起きて来る頃で、朝食の準備もお弁当作りもサボタージュしてしまった。

(ごめんなさい…)

シエルは冷えた教室でじっと時が過ぎるのを待った。


それから数時間後、カネルは学校に向けて家を出ていた。
「いってきます」と愛想はないが一応両親に挨拶をして僅かな石段を下りる。
歩き出して間もなく、見慣れた背中が前を歩いているのを見つけて声をかけた。

「よう、デオ」
「おう!カネルか」

名前を呼ばれた彼は振り返り、人の良さそうな笑みを浮かべた。
だがカネルは彼と同じように笑いかけることができなかった。
その視線は腫れ上がって赤黒くなりつつあるデオの右頬に向けられていた。

「…どうしたんだよ、それ…」

友達のあまりに酷い痣に、こっちが痛い気持ちになってくる。
しかし当の本人は「ああ、これか?」とさほど気にも留めていない様子で、腫れた頬を軽くペシペシと叩きながら言った。

「昨日ベンに殴られた」

穏やかではない話のはずなのに、デオはとても楽しそうに笑っている。

「は…はあ?!」
「あいつ、手加減なしにやりやがってさ。ま、そうされても仕方のねーことしたんだけど」

ハハハ、と笑い声を上げる彼の表情は清々しく、痩せ我慢をしているようには見えない。
カネルの中でデオのマゾ疑惑が浮上しそうになったが、それ以上に気になることがあった。

「それ冗談だろ?」
「いや? 本気でベンにやられた」
「まさか……ベンが人殴るなんて信じらんねえ」
「まあなー。あいつはあんまし他人に本心見せねえからな。俺もあんな感情的になった顔は久しぶりに見た!」

デオにはベンを恨む感情は欠片もないようで、むしろ可笑しそうに話すものだから益々不信感が大きくなる。
カネルの知るベン・エイバスは、非常に理性的な男だ。
魔法の才能もさることながら生まれ持っての魔力量も平均以上で見目もいいとなれば、否が応にも人目を引いた。
ただあまり有名でない家柄の子どもとあって、嫉妬から上級生に何かと絡まれることも多かったし同級生からも羨望の目を向けられていた。
しかしどんなに中傷されても、彼は顔色ひとつ変えなかった。
幼い頃のことはわからないが、カネルと出会ってからの彼は常に冷静沈着で感情に飲まれてしまうことはない。
強面の男に凄まれても胸倉を掴み上げられても眉一つ動かさず、殴られても悪態のひとつも吐かない。
そんな彼が友達を思いきり殴り飛ばしたなど、冗談だとしか思えない。
もし本当なのだとしたら、一体何が彼をそうさせたのだろう?

「なあ…ベンに何したんだよ?」
「んー?別に大したことじゃねーよ…ってこんな言い方したらあいつに悪いな」

あいつが誰だか知らないが、言葉を濁すデオの様子からして聞かない方がいいことなのだろう。
だがあの恐ろしく不愛想なベンが表情を変えるようなことが何だったのか、カネルはどうしても知りたくてたまらなかった。

「教えてくれよ。なんで殴られたんだ?」

言い渋るデオにしつこく尋ねるうちに、彼はついに根負けした。
「怒んなよ?」と前置きをされるが、カネルには何のことだか思い当たらない。
だが彼はデオが危惧した通り、真実を知った途端にその顔に激しい憤りを滲ませた。

「俺がレメに…シエルにキスしたんだよ。あいつの目の前で」
「……は?」
「ディープまではいかなかったけど、不意打ちで無理矢理したからな。それでなくとも激怒もんなのに、レメのあんな顔見たら我慢きかなかったんだろ…」

がしがしと頭を掻くデオは、彼女にしたことを後悔しているようだった。

「とにかく早くレメに謝らねーと…。あいつ初めてそうだったし…」

逃げるように去っていった姿を思い出して肩を落とすデオの表情も言葉も、怒りに支配されたカネルには届かなかった。
シエルの名前を聞くと、わけもわからず暴力的な気持ちが湧きあがってくる。

「はあ?なんであいつが出てくるんだよ?あの女がお前とキスしようが何しようが、ベンは何とも思わねえよ!」

感情に任せて怒鳴り散らすカネルを、デオが(やっぱりな…)といった顔で見つめる。
可哀想なものを見る目で見られていることに気が付いた彼は、今度はデオに噛みついた。

「お前ホントにベンの友達か?ベンのこと何にもわかってねえのな!!」

自分よりも友達付き合いの浅い人間に嘲笑われて、流石に気分を害されたデオは表情を曇らせる。

「わかってねーのはお前だよ。この間のことといい、何でそこまで否定するのか俺にはわからねーけどな。ベンはレメが絡んだ時だけ、ポーカーフェイスが崩れるんだよ」

デオがいくら確信を持って告げたところで、認めたくないカネルが納得するはずはなかった。
シエルがベンに恋しているのは知っているが、ベンもシエルに気があるなどと絶対に認めたくはない。
シエルはカネルの恋のライバルで、蹴落としたい相手で、憎しみを抱くほどに嫌いな女だった。
人が人を嫌いになったり憎んだりする多くの原因は、大抵自分の中にある。
だから他人からみると非常にささやかなことでも、本人が真の原因を自覚するまでその大小に気付かない。
彼もまさにそのうちの1人で、シエルをここまで嫌悪するのにも理由があった。
またしてもベンとシエルが接点を持ったことに、カネルはいつかにも似た強い憎しみを抱いた。

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