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2話
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エルフの女性は、本当に何もしなかった。目の前に椅子があっても座ろうとせず、目の前に食事があっても食べようとせず、時々排泄をし、トイレがあっても腰掛ける事もない。
彼女の世話は彼の想像以上に大変だった。だが彼にとって彼女の世話は、ナイフや鈍器が飛んで来るといった、いつも以上に大変なものではなかった。
「口を開けて」
彼がエルフの女性に話しかける。
エルフの女性は、簡単な内容なら辛うじて聞き取る事が出来るのか、僅かに口を開けた。
彼がスプーンで救った食事を彼女の口に運ぶ。口に食事が入ると、彼女は口に入った食べ物を軽く噛んで飲み込んだ。
彼女の両手を握って話しかける。
「僕の声は聞こえる?」
彼女は反応しない。
目の前で手を振っても、それに合わせて瞬きをする事すらない。
「食事を食べてみてくれないか?」
彼女は反応しない。
まるで食事が見えていないかの様だ。
「立ってみて欲しいんだが」
彼女は反応しない。
微動だにしない。
彼は大きなため息を吐いた。
「……これは、時間が掛かりそうだ」
彼は、彼女の頭を撫でる。
こんな隣人であっても、だが彼にとって、家に人がいないよりも、それはずっとマシであった。
「名前が無いと不便かな。そうだな……エヴィなんてどうだろう?」
彼女の顔色を伺う。
殆ど変わらない表情だが、彼の目にはさっきよりも少しだけ柔らかくなった様に見えた。
「決まりだな。エヴィだから、あだ名はヴィーでいいかな」
彼がにこやかに笑う。
彼女は変わらず、焦点の合わない虚空を見つめている。
エヴィは今日も話さない。
彼は、毎日彼女を風呂に入れ、彼女の体を拭き、食事を食べさせた。
その甲斐あってか、ガリガリだった彼女の体には、少しずつ肉が付き初めていた。
髪を洗って、丁寧に乾かし、服を着せると、エヴィは想像以上に美しくなった。
切り揃えられたアイボリーの長い髪と、若菜色の瞳、ピンと横に伸びた長い耳に、整った顔。
だが、椅子に腰掛けたエヴィの表情は、変わらず無表情のままだった。彼女は自ら動く事も、話す事もない。
彼はエヴィの両手を握ると、優しく語りかけた。
「妻が昔よく着ていた服だが、よく似合っている。大分顔色が良くなってきたね。ほっとしているよ、ヴィー。君は本当に綺麗だ。そうしていると、よく出来たビスクドールみたいだ。だいぶ食事も食べられる様になってきたから、今度は少し動いた方がいいね」
実際は、食べられる様になってきたというよりも、彼が食べさせるのが上手くなってきたという表現が正しく、エヴィは口に入ってきた物を軽く咀嚼して飲み込んでいるだけだった。
今日も人形エルフは話さない。
だが彼は、エヴィを少しずつ、自分の娘の様に思い始めた。
「もうすぐ仕事も始まる。でもその前に、気分転換に外に出よう。エルフという種族は、森の中で息をする種族だと聞くから、明日は近くの森に、森林浴に行こう」
彼が、エヴィの髪を撫でる。
彼女は嫌がる事もなく、喜ぶ事もない。
ただ虚空を見つめている。
彼女の表情は変わらない。
「もう眠ろう。ヴィー」
彼が彼女を立たせ、彼女の手を引く。
ふらふらとよろめきながらも、彼女は彼の手に引かれるままに歩く。
彼はエヴィをベットまで連れて行くと、彼女を横たえ、彼女の目をそっと閉じさせた。
エヴィは今日も話さない。
その日彼は、エヴィを連れて森林公園を訪れた。
マリーやエヴィの世話で長らく公園なんて来ていなかったなと、彼はふと思う。
エヴィと共に木陰に腰掛けた彼は、昔話を始めた。
「よくマリーと一緒にデートに来ていたんだ。マリーは、昔はそれはそれは美人で、理発で、快活な女性だった」
エヴィの方を見る。
彼女の表情は変わらない。
「時々思うんだ。僕が彼女をああしてしまったのかもしれない。元の様に彼女と一緒に生きたいという僕のエゴで、彼女を苦しめてしまったのかもしれない。僕は、彼女を愛してはいけなかったのかもしれない」
彼の瞳から涙が溢れ落ちる。
彼は自分の涙を手の甲で拭うと、持ってきたサンドイッチを取り出した。
「湿っぽい話になってしまった。ヴィーの方が辛い過去を持っていそうなのに。サンドイッチでも食べよう」
彼がサンドイッチを小さく千切り、エヴィに向ける。
彼は気がついた。
エヴィは涙を流していた。
「ヴィー?」
彼は、エヴィの涙をそっと拭う。
「ヴィー、手を動かせる?」
エヴィは反応しない。
彼女の手はピクリとも動かなかった。
「ヴィー、私の声が聞こえる?」
エヴィは反応しない。
風が通り過ぎていく時と同じ位静かだ。
「ヴィー……。いや、なんでもない」
彼は諦めて手元のサンドイッチを食べると、彼女の手を取った。
「今日は、もう帰ろう」
彼女は動かない。
静かに涙を流し、そこに佇む。
エヴィは今日も話さない。
奴隷商人から人を買ってしまったという罪悪感があり、人としての矜持を捨てたくなかった彼は、着替えや風呂などを手伝いなどはするが、頭を撫でる以上の事を決してエヴィにしなかった。
仕事も始まり、エヴィの世話と仕事を上手に両立させていた彼だったが、その日は酔いが回っていた。嫌な事があって、いつもより疲れていて、気が塞いでいた。魔が差したなどと言うにはもう随分遅いが、おそらく魔が差したのだろう。
月明かりを受けて、ただそこに佇む生気のない女性。
さらさらと風に揺れる真っ直ぐに伸びたアイボリーの髪。物憂げに床を見つめる光を失った大きな瞳。人並みに肉が付き、音の無い神秘性を讃える女性。月の女神の様な美しさのそれに触れるのを、彼は時に恐れ多くさえ感じていた。
「だが、今だけ。私の人形だ」
ゴツゴツとした大きい手が、彼女の髪をかき上げる。
疲れてクマの出来た目を閉じる。
彼女の薄い唇に口付けをする。
ゆっくりと顔を離す。
今日もきっと、彼女は動かない。
そう、思っていた。
「えっ」
人形だったそれは、溢れそうな程大きく瞳を見開いて、彼を見つめていた。
彼女の世話は彼の想像以上に大変だった。だが彼にとって彼女の世話は、ナイフや鈍器が飛んで来るといった、いつも以上に大変なものではなかった。
「口を開けて」
彼がエルフの女性に話しかける。
エルフの女性は、簡単な内容なら辛うじて聞き取る事が出来るのか、僅かに口を開けた。
彼がスプーンで救った食事を彼女の口に運ぶ。口に食事が入ると、彼女は口に入った食べ物を軽く噛んで飲み込んだ。
彼女の両手を握って話しかける。
「僕の声は聞こえる?」
彼女は反応しない。
目の前で手を振っても、それに合わせて瞬きをする事すらない。
「食事を食べてみてくれないか?」
彼女は反応しない。
まるで食事が見えていないかの様だ。
「立ってみて欲しいんだが」
彼女は反応しない。
微動だにしない。
彼は大きなため息を吐いた。
「……これは、時間が掛かりそうだ」
彼は、彼女の頭を撫でる。
こんな隣人であっても、だが彼にとって、家に人がいないよりも、それはずっとマシであった。
「名前が無いと不便かな。そうだな……エヴィなんてどうだろう?」
彼女の顔色を伺う。
殆ど変わらない表情だが、彼の目にはさっきよりも少しだけ柔らかくなった様に見えた。
「決まりだな。エヴィだから、あだ名はヴィーでいいかな」
彼がにこやかに笑う。
彼女は変わらず、焦点の合わない虚空を見つめている。
エヴィは今日も話さない。
彼は、毎日彼女を風呂に入れ、彼女の体を拭き、食事を食べさせた。
その甲斐あってか、ガリガリだった彼女の体には、少しずつ肉が付き初めていた。
髪を洗って、丁寧に乾かし、服を着せると、エヴィは想像以上に美しくなった。
切り揃えられたアイボリーの長い髪と、若菜色の瞳、ピンと横に伸びた長い耳に、整った顔。
だが、椅子に腰掛けたエヴィの表情は、変わらず無表情のままだった。彼女は自ら動く事も、話す事もない。
彼はエヴィの両手を握ると、優しく語りかけた。
「妻が昔よく着ていた服だが、よく似合っている。大分顔色が良くなってきたね。ほっとしているよ、ヴィー。君は本当に綺麗だ。そうしていると、よく出来たビスクドールみたいだ。だいぶ食事も食べられる様になってきたから、今度は少し動いた方がいいね」
実際は、食べられる様になってきたというよりも、彼が食べさせるのが上手くなってきたという表現が正しく、エヴィは口に入ってきた物を軽く咀嚼して飲み込んでいるだけだった。
今日も人形エルフは話さない。
だが彼は、エヴィを少しずつ、自分の娘の様に思い始めた。
「もうすぐ仕事も始まる。でもその前に、気分転換に外に出よう。エルフという種族は、森の中で息をする種族だと聞くから、明日は近くの森に、森林浴に行こう」
彼が、エヴィの髪を撫でる。
彼女は嫌がる事もなく、喜ぶ事もない。
ただ虚空を見つめている。
彼女の表情は変わらない。
「もう眠ろう。ヴィー」
彼が彼女を立たせ、彼女の手を引く。
ふらふらとよろめきながらも、彼女は彼の手に引かれるままに歩く。
彼はエヴィをベットまで連れて行くと、彼女を横たえ、彼女の目をそっと閉じさせた。
エヴィは今日も話さない。
その日彼は、エヴィを連れて森林公園を訪れた。
マリーやエヴィの世話で長らく公園なんて来ていなかったなと、彼はふと思う。
エヴィと共に木陰に腰掛けた彼は、昔話を始めた。
「よくマリーと一緒にデートに来ていたんだ。マリーは、昔はそれはそれは美人で、理発で、快活な女性だった」
エヴィの方を見る。
彼女の表情は変わらない。
「時々思うんだ。僕が彼女をああしてしまったのかもしれない。元の様に彼女と一緒に生きたいという僕のエゴで、彼女を苦しめてしまったのかもしれない。僕は、彼女を愛してはいけなかったのかもしれない」
彼の瞳から涙が溢れ落ちる。
彼は自分の涙を手の甲で拭うと、持ってきたサンドイッチを取り出した。
「湿っぽい話になってしまった。ヴィーの方が辛い過去を持っていそうなのに。サンドイッチでも食べよう」
彼がサンドイッチを小さく千切り、エヴィに向ける。
彼は気がついた。
エヴィは涙を流していた。
「ヴィー?」
彼は、エヴィの涙をそっと拭う。
「ヴィー、手を動かせる?」
エヴィは反応しない。
彼女の手はピクリとも動かなかった。
「ヴィー、私の声が聞こえる?」
エヴィは反応しない。
風が通り過ぎていく時と同じ位静かだ。
「ヴィー……。いや、なんでもない」
彼は諦めて手元のサンドイッチを食べると、彼女の手を取った。
「今日は、もう帰ろう」
彼女は動かない。
静かに涙を流し、そこに佇む。
エヴィは今日も話さない。
奴隷商人から人を買ってしまったという罪悪感があり、人としての矜持を捨てたくなかった彼は、着替えや風呂などを手伝いなどはするが、頭を撫でる以上の事を決してエヴィにしなかった。
仕事も始まり、エヴィの世話と仕事を上手に両立させていた彼だったが、その日は酔いが回っていた。嫌な事があって、いつもより疲れていて、気が塞いでいた。魔が差したなどと言うにはもう随分遅いが、おそらく魔が差したのだろう。
月明かりを受けて、ただそこに佇む生気のない女性。
さらさらと風に揺れる真っ直ぐに伸びたアイボリーの髪。物憂げに床を見つめる光を失った大きな瞳。人並みに肉が付き、音の無い神秘性を讃える女性。月の女神の様な美しさのそれに触れるのを、彼は時に恐れ多くさえ感じていた。
「だが、今だけ。私の人形だ」
ゴツゴツとした大きい手が、彼女の髪をかき上げる。
疲れてクマの出来た目を閉じる。
彼女の薄い唇に口付けをする。
ゆっくりと顔を離す。
今日もきっと、彼女は動かない。
そう、思っていた。
「えっ」
人形だったそれは、溢れそうな程大きく瞳を見開いて、彼を見つめていた。
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