上 下
2 / 5

2話

しおりを挟む
 エルフの女性は、本当に何もしなかった。目の前に椅子があっても座ろうとせず、目の前に食事があっても食べようとせず、時々排泄をし、トイレがあっても腰掛ける事もない。
 彼女の世話は彼の想像以上に大変だった。だが彼にとって彼女の世話は、ナイフや鈍器が飛んで来るといった、いつも以上に大変なものではなかった。

「口を開けて」

 彼がエルフの女性に話しかける。
 エルフの女性は、簡単な内容なら辛うじて聞き取る事が出来るのか、わずかに口を開けた。
 彼がスプーンで救った食事を彼女の口に運ぶ。口に食事が入ると、彼女は口に入った食べ物を軽く噛んで飲み込んだ。
 彼女の両手を握って話しかける。

「僕の声は聞こえる?」

 彼女は反応しない。
 目の前で手を振っても、それに合わせて瞬きをする事すらない。

「食事を食べてみてくれないか?」

 彼女は反応しない。
 まるで食事が見えていないかの様だ。

「立ってみて欲しいんだが」

 彼女は反応しない。
 微動だにしない。
 彼は大きなため息を吐いた。

「……これは、時間が掛かりそうだ」

 彼は、彼女の頭をでる。
 こんな隣人であっても、だが彼にとって、家に人がいないよりも、それはずっとマシであった。

「名前が無いと不便かな。そうだな……エヴィなんてどうだろう?」

 彼女の顔色を伺う。
 殆ど変わらない表情だが、彼の目にはさっきよりも少しだけ柔らかくなった様に見えた。

「決まりだな。エヴィだから、あだ名はヴィーでいいかな」

 彼がにこやかに笑う。
 彼女は変わらず、焦点の合わない虚空こくうを見つめている。

 エヴィは今日も話さない。




 彼は、毎日彼女を風呂に入れ、彼女の体を拭き、食事を食べさせた。
 その甲斐あってか、ガリガリだった彼女の体には、少しずつ肉が付き初めていた。
 
 髪を洗って、丁寧に乾かし、服を着せると、エヴィは想像以上に美しくなった。
 切り揃えられたアイボリーの長い髪と、若菜色の瞳、ピンと横に伸びた長い耳に、整った顔。
 だが、椅子に腰掛けたエヴィの表情は、変わらず無表情のままだった。彼女はみずから動く事も、話す事もない。
 彼はエヴィの両手を握ると、優しく語りかけた。

「妻が昔よく着ていた服だが、よく似合っている。大分顔色が良くなってきたね。ほっとしているよ、ヴィー。君は本当に綺麗だ。そうしていると、よく出来たビスクドールみたいだ。だいぶ食事も食べられる様になってきたから、今度は少し動いた方がいいね」

 実際は、食べられる様になってきたというよりも、彼が食べさせるのが上手くなってきたという表現が正しく、エヴィは口に入ってきた物を軽く咀嚼して飲み込んでいるだけだった。

 今日も人形エルフは話さない。
 だが彼は、エヴィを少しずつ、自分の娘の様に思い始めた。

「もうすぐ仕事も始まる。でもその前に、気分転換に外に出よう。エルフという種族は、森の中で息をする種族だと聞くから、明日は近くの森に、森林浴に行こう」

 彼が、エヴィの髪を撫でる。
 彼女は嫌がる事もなく、喜ぶ事もない。
 ただ虚空こくうを見つめている。
 彼女の表情は変わらない。

「もう眠ろう。ヴィー」

 彼が彼女を立たせ、彼女の手を引く。
 ふらふらとよろめきながらも、彼女は彼の手に引かれるままに歩く。
 彼はエヴィをベットまで連れて行くと、彼女を横たえ、彼女の目をそっと閉じさせた。

 エヴィは今日も話さない。




 その日彼は、エヴィを連れて森林公園を訪れた。
 マリーやエヴィの世話で長らく公園なんて来ていなかったなと、彼はふと思う。
 エヴィと共に木陰に腰掛けた彼は、昔話を始めた。
 
「よくマリーと一緒にデートに来ていたんだ。マリーは、昔はそれはそれは美人で、理発で、快活な女性だった」

 エヴィの方を見る。
 彼女の表情は変わらない。

「時々思うんだ。僕が彼女をああしてしまったのかもしれない。元の様に彼女と一緒に生きたいという僕のエゴで、彼女を苦しめてしまったのかもしれない。僕は、彼女を愛してはいけなかったのかもしれない」

 彼の瞳から涙が溢れ落ちる。
 彼は自分の涙を手の甲で拭うと、持ってきたサンドイッチを取り出した。

「湿っぽい話になってしまった。ヴィーの方が辛い過去を持っていそうなのに。サンドイッチでも食べよう」

 彼がサンドイッチを小さく千切り、エヴィに向ける。
 彼は気がついた。
 エヴィは涙を流していた。

「ヴィー?」

 彼は、エヴィの涙をそっと拭う。

「ヴィー、手を動かせる?」

 エヴィは反応しない。
 彼女の手はピクリとも動かなかった。

「ヴィー、私の声が聞こえる?」

 エヴィは反応しない。
 風が通り過ぎていく時と同じ位静かだ。

「ヴィー……。いや、なんでもない」

 彼は諦めて手元のサンドイッチを食べると、彼女の手を取った。

「今日は、もう帰ろう」

 彼女は動かない。
 静かに涙を流し、そこにたたずむ。

 エヴィは今日も話さない。




 奴隷商人から人を買ってしまったという罪悪感があり、人としての矜持きょうじを捨てたくなかった彼は、着替えや風呂などを手伝いなどはするが、頭を撫でる以上の事を決してエヴィにしなかった。

 仕事も始まり、エヴィの世話と仕事を上手に両立させていた彼だったが、その日は酔いが回っていた。嫌な事があって、いつもより疲れていて、気が塞いでいた。魔が差したなどと言うにはもう随分遅いが、おそらく魔が差したのだろう。

 月明かりを受けて、ただそこにたたずむ生気のない女性。
 さらさらと風に揺れる真っ直ぐに伸びたアイボリーの髪。物憂げに床を見つめる光を失った大きな瞳。人並みに肉が付き、音の無い神秘性をたたえる女性。月の女神の様な美しさのそれに触れるのを、彼は時に恐れ多くさえ感じていた。

「だが、今だけ。私の人形だ」

 ゴツゴツとした大きい手が、彼女の髪をかき上げる。
 疲れてクマの出来た目を閉じる。
 彼女の薄い唇に口付けをする。
 ゆっくりと顔を離す。
 今日もきっと、彼女は動かない。

 そう、思っていた。

「えっ」

 人形だったそれは、こぼれそうな程大きく瞳を見開いて、彼を見つめていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

大人な軍人の許嫁に、抱き上げられています

真風月花
恋愛
大正浪漫の恋物語。婚約者に子ども扱いされてしまうわたしは、大人びた格好で彼との逢引きに出かけました。今日こそは、手を繋ぐのだと固い決意を胸に。

獣人専門弁護士の憂鬱

豆丸
恋愛
獣人と弁護士、よくある番ものの話。  ムーンライト様で日刊総合2位になりました。

雇われ妻の求めるものは

中田カナ
恋愛
若き雇われ妻は領地繁栄のため今日も奮闘する。(全7話) ※小説家になろう/カクヨムでも投稿しています。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

彼氏が完璧すぎるから別れたい

しおだだ
恋愛
月奈(ユエナ)は恋人と別れたいと思っている。 なぜなら彼はイケメンでやさしくて有能だから。そんな相手は荷が重い。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

処理中です...