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太平洋の嵐(Pacific storm)
我々は神では無く(God only knows) 3
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儀堂はベッドにゆっくりと腰掛けた。
「なぜ、あの子の側に居てやらない?」
疲労感から、声に力が入らない。それが普段よりも穏やかな印象を与えていた。艦内の誰もが今の彼を見たら、驚くだろう。全く海軍軍人らしからぬ表情だった。緊張というものがはぎ取られている。
「御調少尉は嫌いか?」
ネシスはしばらく押し黙っていたが、呟くように言った。
「あの女官のことなど、気にもとめておらぬ。あやつは妾らの扱いに長けておるし、あやつに任せるに越したことはなかろう」
「そうか」
儀堂が短く答えると、再び沈黙が訪れた。耐えきれなかったのは、ネシスの方だった。
「お主こそ……もっと聞きたいことがあるのだろう。なぜ妾に何も尋ねないのじゃ?」
「なんのことだ?」
「たばかるな。妾が思い出したこと、あの月のこと、そしてお主らが救った妾の同胞ことの子細を知りたいのではないのか? 聞くべきこと、聞かねばならぬことがあるだろうに――」
「君は話すと言っただろう」
「……」
「あれは聞き間違いか?」
「いいや……」
「ならば、オレが出来るのは待つだけだ」
それまで背を向けていたネシスは、そっと首だけ儀堂の方へ向けた。驚いているようだった。
「妾のことを信じておるのか?」
「信じる、信じないの問題ではない。それが、あるべき道理だからだ。君がオレに約束し、オレが同意したのだ。あとは君次第だろう」
ネシスは少し拍子抜けしたように「左様か」とだけ言った。
「しかし、妾がこの先ずっと話さぬやもしれぬぞ」
「そのつもりなのかい?」
「……いいや」
「ならば何も問題ないな」
儀堂は立ち上がろうとした。ネシスは咄嗟に振り向いた。
「思い出せないのじゃ……」
儀堂は少しだけ目を見張った。目前の鬼が取り乱していたからだった。
「どういうことだ?」
「妾は、あの童子の名を思い出すことが出来ぬ」
童子とは、オアフBMから救出した月鬼のことだろう。
「それは……」
本当かと言いかけて、儀堂は止めた。嘘を言っているわけではないらしい。そこには怪しげな術を使い、異常な怪力を持つ妖魔の姿はなかった。
思い詰めた少女がいた。
「しかし、お前はあの月で、あの子と言葉を交わしていただろう。あの子はお前のことを姉と――」
「そうじゃ……。あの童子、妾を姉と呼びおった。どうやら妾と血を分けた同胞らしい。なのに、妾は一切覚えがないのじゃ。あのとき妾はただただ不憫に思い、あのものを受け入れたのだ。しかし今となっては果たして、それでよかったのかと思い始めておる。妾はあのものを謀ってしまったのだ。ギドー、妾はどうすればよい……」
ネシスは肩を落とし、うつむいた。
「一緒におれば何か思い出すやもと思ったが、何も思い出せぬ。妾は怖いのじゃ。あの童子が目を開けたときのことを思うと、妾はあの場に居られなくなったのじゃ」
塩分を含んだ水滴が落ちていくのがわかった。
「あの童子は妾に助けを求めておった。月に犯され、身体が朽ち果てながらも妾の名を呼び続けておったのだ。あのものが頼れるものは、きっと妾しからおらなんだ。妾を信じておった。それなのに妾は――」
ネシスは言葉を詰まらせてしまった。儀堂はしばらくその様子を無言で見守っていた。
この世には、足掻いても取り替えしがつかないものが存在する。5年前、彼はその真理を心の奥深くに刻んだ。それは後悔という言葉だけでは贖いきれないものだ。敢えて言うならば、呪いに等しい。彼は呪いを解く術こそ知らなかったが、付き合い方は知っていた。
そっと小さな肩に手を置く。
「仮に時間が巻戻ったとして、他の選択肢をお前は思いつくのか? 仮にお前があの子に『お前のことなど知らない』と言ったとして、その先に何がある」
「わからぬよ。ただ、お主が言ったようなことはしたくない。あのものを突き放すことなど妾はできぬ」
「なぜだ?」
「わからぬのか! 何も救われぬからだ! そんなことをして何の意味があるのだ!?」
ネシスは激昂し、儀堂の襟をつかんだ。その赤い瞳が燃えるように輝いていた。儀堂は、焼き付けるような視線から一切目を逸らさずに続けた。
「答えは出ているじゃないか」
「……なんだと」
「お前は心から最大限の努力をやった。その上での結果だ。オレ達は神様じゃない。全てを見通すことなど不可能だ。仮に出来たとしてもやれることは限られている。ならば、その場の一瞬において全力を尽くすしかないだろう。なによりも――」
儀堂は耐えられずに目を閉じた。ああ、全く嫌になる。気づいたぞ。オレはこいつを出しに自己弁護をしているだけなのだ。
「お前の妹は、まだ生きているだろう」
首元を締める力が緩まっていくのがわかった。
「すまぬ……。許すが良い」
再び目を開けると、ネシスは視線を逸らしていた。瞳に後悔の色が見えた。
「気にするな。とにかく、今はあの子の側に居てやれ。要らぬ後悔をもう一つ背負うことになるぞ。記憶は無くとも、あの子の姉なのだろう? 正直に言うか、あるいは嘘を貫き通すかは目覚めた後に自分で決めることだ。ただ、一つだけオレが断言してやる」
「なんじゃ」
「いずれにしろ茨の道だが、君とあの子が生きる限り手遅れにはならない。赦しは生者からしか得られないのだ」
「そうじゃな……。お主の言う通りじゃ」
電話が鳴った。儀堂はネシスに少し待つように言うと、受話器を取った。
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次回1/29(火)投稿予定
「なぜ、あの子の側に居てやらない?」
疲労感から、声に力が入らない。それが普段よりも穏やかな印象を与えていた。艦内の誰もが今の彼を見たら、驚くだろう。全く海軍軍人らしからぬ表情だった。緊張というものがはぎ取られている。
「御調少尉は嫌いか?」
ネシスはしばらく押し黙っていたが、呟くように言った。
「あの女官のことなど、気にもとめておらぬ。あやつは妾らの扱いに長けておるし、あやつに任せるに越したことはなかろう」
「そうか」
儀堂が短く答えると、再び沈黙が訪れた。耐えきれなかったのは、ネシスの方だった。
「お主こそ……もっと聞きたいことがあるのだろう。なぜ妾に何も尋ねないのじゃ?」
「なんのことだ?」
「たばかるな。妾が思い出したこと、あの月のこと、そしてお主らが救った妾の同胞ことの子細を知りたいのではないのか? 聞くべきこと、聞かねばならぬことがあるだろうに――」
「君は話すと言っただろう」
「……」
「あれは聞き間違いか?」
「いいや……」
「ならば、オレが出来るのは待つだけだ」
それまで背を向けていたネシスは、そっと首だけ儀堂の方へ向けた。驚いているようだった。
「妾のことを信じておるのか?」
「信じる、信じないの問題ではない。それが、あるべき道理だからだ。君がオレに約束し、オレが同意したのだ。あとは君次第だろう」
ネシスは少し拍子抜けしたように「左様か」とだけ言った。
「しかし、妾がこの先ずっと話さぬやもしれぬぞ」
「そのつもりなのかい?」
「……いいや」
「ならば何も問題ないな」
儀堂は立ち上がろうとした。ネシスは咄嗟に振り向いた。
「思い出せないのじゃ……」
儀堂は少しだけ目を見張った。目前の鬼が取り乱していたからだった。
「どういうことだ?」
「妾は、あの童子の名を思い出すことが出来ぬ」
童子とは、オアフBMから救出した月鬼のことだろう。
「それは……」
本当かと言いかけて、儀堂は止めた。嘘を言っているわけではないらしい。そこには怪しげな術を使い、異常な怪力を持つ妖魔の姿はなかった。
思い詰めた少女がいた。
「しかし、お前はあの月で、あの子と言葉を交わしていただろう。あの子はお前のことを姉と――」
「そうじゃ……。あの童子、妾を姉と呼びおった。どうやら妾と血を分けた同胞らしい。なのに、妾は一切覚えがないのじゃ。あのとき妾はただただ不憫に思い、あのものを受け入れたのだ。しかし今となっては果たして、それでよかったのかと思い始めておる。妾はあのものを謀ってしまったのだ。ギドー、妾はどうすればよい……」
ネシスは肩を落とし、うつむいた。
「一緒におれば何か思い出すやもと思ったが、何も思い出せぬ。妾は怖いのじゃ。あの童子が目を開けたときのことを思うと、妾はあの場に居られなくなったのじゃ」
塩分を含んだ水滴が落ちていくのがわかった。
「あの童子は妾に助けを求めておった。月に犯され、身体が朽ち果てながらも妾の名を呼び続けておったのだ。あのものが頼れるものは、きっと妾しからおらなんだ。妾を信じておった。それなのに妾は――」
ネシスは言葉を詰まらせてしまった。儀堂はしばらくその様子を無言で見守っていた。
この世には、足掻いても取り替えしがつかないものが存在する。5年前、彼はその真理を心の奥深くに刻んだ。それは後悔という言葉だけでは贖いきれないものだ。敢えて言うならば、呪いに等しい。彼は呪いを解く術こそ知らなかったが、付き合い方は知っていた。
そっと小さな肩に手を置く。
「仮に時間が巻戻ったとして、他の選択肢をお前は思いつくのか? 仮にお前があの子に『お前のことなど知らない』と言ったとして、その先に何がある」
「わからぬよ。ただ、お主が言ったようなことはしたくない。あのものを突き放すことなど妾はできぬ」
「なぜだ?」
「わからぬのか! 何も救われぬからだ! そんなことをして何の意味があるのだ!?」
ネシスは激昂し、儀堂の襟をつかんだ。その赤い瞳が燃えるように輝いていた。儀堂は、焼き付けるような視線から一切目を逸らさずに続けた。
「答えは出ているじゃないか」
「……なんだと」
「お前は心から最大限の努力をやった。その上での結果だ。オレ達は神様じゃない。全てを見通すことなど不可能だ。仮に出来たとしてもやれることは限られている。ならば、その場の一瞬において全力を尽くすしかないだろう。なによりも――」
儀堂は耐えられずに目を閉じた。ああ、全く嫌になる。気づいたぞ。オレはこいつを出しに自己弁護をしているだけなのだ。
「お前の妹は、まだ生きているだろう」
首元を締める力が緩まっていくのがわかった。
「すまぬ……。許すが良い」
再び目を開けると、ネシスは視線を逸らしていた。瞳に後悔の色が見えた。
「気にするな。とにかく、今はあの子の側に居てやれ。要らぬ後悔をもう一つ背負うことになるぞ。記憶は無くとも、あの子の姉なのだろう? 正直に言うか、あるいは嘘を貫き通すかは目覚めた後に自分で決めることだ。ただ、一つだけオレが断言してやる」
「なんじゃ」
「いずれにしろ茨の道だが、君とあの子が生きる限り手遅れにはならない。赦しは生者からしか得られないのだ」
「そうじゃな……。お主の言う通りじゃ」
電話が鳴った。儀堂はネシスに少し待つように言うと、受話器を取った。
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