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北米魔獣戦線(North America)
遣米支援軍(Imperial Army)
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―遣米支援軍(Imperial Army)―
【アメリカ合衆国 ノースダコダ州 デヴィルズ湖付近 1945年2月12日 朝】
20世紀中盤におけるノースダコダ州は、まことに牧歌的で良くも悪くも前時代的な合衆国の風景を残した地域だった。東海岸の大都市に見られる天を突くような摩天楼は存在しない。ある者は、いささか精彩を欠くと評するかもしれない。州の中央部はなだらかな平野で構成されおり、かつては合衆国の胃袋を支える一大穀倉地帯だった。その平野の縁を取り囲むように湖と森林、そして山岳部が配置されている。
1940年において、ノースダコダは合衆国の中でも人口の多さでは下から数えた方が早い規模の州だった。今でもそれは変わらない。しかしながら、ただ一つ決定的に異なることがある。男女と年齢の構成比だった。現在、ノースダコダの人口、その8割近くが20代以上の男子によって締められている。
本郷史明少佐も8割の中の一人だった。彼が臨時の営舎として接収した民家の二階の一室で起床したのは、5時だった。体内時計に叩き込まれた起床時刻だ。彼は衛兵が起床ラッパを鳴らす前に、身支度を済ませた。洗面台で顔を洗い、ひげを剃り、陸軍では少数派である長髪を整える。南国生まれ特有の浅黒い顔の右頬には大きな裂傷の跡が残っていた。かつてインドシナで彼の乗る九七式中戦車がトロールの奇襲を受けたときに負った傷だった。最後に鏡の前で服装の乱れを直すと、部屋を一回りし忘れ物がないか指さし確認を行った。
「よし」
扉から出る前に室内をもう一度見回す。かつての家主の寝室と予想された。寝台の広さと調度品から、恐らく妻に先立たれた老人のものであろうと本郷はあたりをつけていた。読書家で、ナイトテーブルの抽斗には多数の書物が収められていた。彼はここで休養を取る間、数冊拝借して楽しませてもらった。ずいぶんと好奇な趣向の方だったらしい。よもや北米の民家で阿Q正伝を読破するとは思いも寄らなかった。
「またご縁があれば、お借りします。お世話になりました」
無人の空間へ彼は一礼すると静かにドアを閉めた。
そろそろ彼の中隊の兵達も準備を整え始めている頃だ。
階下へ降りると、給仕係が食事の用意を済ませていた。かぐわしい芳香が鼻孔に行き渡り、本郷はおやと思った。
「珈琲か?」
「あ、おはようございます! ええ、昨夜アメさんからの差し入れです」
応じたのは、中村少尉だった。本郷が直率する第一小隊の先任士官だ。丸顔でやや太り気味だが、この少尉の場合、それが外見上の愛嬌として解釈される方が多かった。
「アメさん? どこの部隊だ?」
「え~っと、ああ、ほら、E中隊ですよ。以前、デヴィルズ湖から撤退したきた部隊に薬を分けてやったでしょう? その借りを返したいとかで、バーボンと煙草、それからチョコレイトももらったんですが他の隊に配っちまってもいいですか?」
「かまわないよ。僕はあまり飲まないし、煙草も吸わんからね。あ、チョコだけは一つもらえるかな。他は不公平にならぬようにしてくれ」
「承知しました。お任せを!」
少尉は近くの兵を呼ぶと、差し入れの配分を紙に書き付け、数名に分担させて持って行かせた。
今朝の献立は麦飯とコンソメスープ、そしてかりかりに焼いたベーコンに納豆だった。なんともちぐはぐな和洋折衷の献立であるが、本郷も含め、中隊全員が慣れてしまった。だいたい屋根の下で食事をとれるだけでも有り難く思わねばならない。
「それにしても、モルヒネでこんなお返しをもらえるとは驚きですね」
「それだけあの中隊長が慕われていたと言うことだろう」
本郷の部隊が救援した合衆国軍のE中隊は魔獣の群れに長期間包囲される中で、最後まで士気を維持し、戦線を支え続けていた。本郷たちが魔獣の包囲網を食い破り、E中隊と合流したとき、アメリカ兵達は弾薬でも食料でも無く、薬を要求した。それは死の間際に発つ彼等の指揮官を少しでも楽に見送りたいという彼等兵士の総意からだった。
「あの将校は有能だったんだよ。そうでなければあんな包囲下で中隊を生き残らせるなど不可能だ。本当に惜しいことをした」
「ええ……ああいうのは勘弁ですね」
「我が軍も彼等の粘り強さを見習うべきだな。私見だが、我が軍の戦車乗りはやたらと魔獣へ万歳したがる傾向があるからね」
「まあ、否定はできませんな」
中村は苦笑いで応じた。
二時間後、本郷率いる第八混成戦車中隊は、デヴィルズ湖へ向けて発った。そこは彼らが救ったE中隊が死守した街がある。今では魔獣の巣と化しており、彼らの任務は威力偵察もかねて、周辺地帯の魔獣の分布状況を観測、大隊本部へ報告することだった。もちろん会敵した場合は例外なく排除する。
本郷達が目指す街は、オベロンと呼ばれていた。初めにその名を聞いたとき、本郷は彼特有の感性から、えもいわれぬ趣を感じた。悪魔の湖の側にある街の名として、どこか妖精王を彷彿させるものがあった。もっとも、かの妖精王が登場した作品とは全く正反対の情景がその街には広がっているはずだった。ある意味、名にし負うというべきだろうか。オベロンに限らず、デヴィルズ湖周辺は魔獣に浸食され、合衆国政府から侵入禁止区域に指定されていた。本郷達にとって、そこは戦闘区域を意味する。
本郷の戦車中隊は比較的保存状態の良い部隊だった。中核の装甲戦力は三式中戦車チヌで、75ミリ戦車砲を装備している。合衆国のM4シャーマンとも互角に渡り合える日本陸軍史上初の標準的な中戦車だった。合衆国と同盟関係にある現在、チヌがM4と砲火を交える未来はなくなった。その代わり、チヌはその砲身から徹甲弾を魔獣へ向けて存分に振る舞っている。本郷の中隊は戦車3小隊(チヌ8両)、機動歩兵1小隊(一式半装軌装甲兵車ホハ4両)、その他に捜索分隊として自動二輪車3両で構成されている。当初は各車両ともに10両以上配備されていたが、戦闘による損失と長時間の稼働に故障で定数を大幅に割った状態で任務に就いていた。
本郷はオベロンに続く328号線を時速30キロほどで西進していた。周囲には島国育ちのものにとり、呆れるほどの原野が続いている。とにかく北米は気の遠くなるほど広く、そして圧倒的だった。遣米支援軍(通称:遣米軍)として派遣されて1年以上経つが、こんなヤツラ相手に戦争しかけるなど、正気の沙汰では無かったと幾度となく思い知らされた。
出発して1時間ほど経過したときだった。先行させた自動二輪の捜索隊から無線が入った。
『マキリ3よりアズマ1へ、台場へ着いた。視界は良好。送れ』
「こちらアズマ1。マキリ3、オベロンの状況を求む。送れ」
『こちらマキリ3、敵獣多数認む。中隊規模の混合群体。構成はグール大よそ200、トロール10。送れ』
「了解。現位置にて観測を継続せよ。接敵の可能性があれば撤退を可とす。以上、終わり」
『こちらマキリ、了解。可能な限り観測す。終わり』
どうやらオベロンを占拠している敵戦力に変化はないらしい。本郷がE中隊を救援した後、合衆国の陸軍航空隊により、大爆撃を受け、オベロンの魔獣群はかなりの数を撃ち減らしたと報告を受けている。
「アズマ1より、全車へこれよりオベロンへ進出。敵獣を駆除する。戦車前進」
我に続けの後、本郷の率いる鉄の猛獣は一酸化炭素の息を吐き出しながら、オベロンへ迫った。
30分も経たず、廃墟と化した街並みが見えてくる。同時にその建物の隙間や影から、異形の化け物の群れがこちらへ向けて迫ってくるのも目に入る。
『マキリ3よりアズマ1へ、敵獣は集結しつつあり。新たなグールの群れも確認した。敵勢力増大中、警戒されたし。送れ』
本郷は己の判断の甘さを認識した。敵勢力の増大規模が予想以上だった場合は撤退もあり得る。
「アズマ1、了解。我が意思に変更無し。送れ」
『マキリ3、了解。心ゆくまで万歳されたし』
本郷は苦笑した。突撃? 冗談ではない。僕が行うのは蹂躙のみだ。圧倒的な優勢を確保の後、踏みつぶす。ただ、それだけだ。
本郷は敵との距離が2000を切ったところで中隊の装甲戦力を横隊展開させた。同時に後方に控えている機動歩兵を降車させ各車両の間に展開させる。近接戦に備えさせるためだった。ちょうど魔獣を遠巻きに半包囲するようなかたちになりつつあった。本郷は展望塔から上半身を乗り出すと、各車両間が離れすぎないように位置を調整した。
双眼鏡で街の入り口付近を見る。ちょうど敵の第一波が姿を現わした。全高10メートル近いトロールが8体、石槌を手に突進してきている。そして後に続くグールの群れも見えた。
――やはりな。
接眼レンズには合衆国兵の姿をしたグールの群れが映っていた。彼等はかつてこの街を守っていたE中隊の兵員だ。本郷の救援からこぼれ落ちた者達だった。他には街の住民と思しき者も含まれている。老若男女が差別無く、動く屍の兵となり、こちらへ向ってきている。グール、リビングデッド、ゾンビ、屍人、呼び方は様々だ。元は合衆国国民として生を謳歌していたはずの者達だが、今は見る影もない。五体は腐りはて、あるものは臓物を垂らしながら、またある者はほとんど骨と皮と化してながら、蠢いている。彼等は人型をした人外であり、息吹と共に理性を失い、獣へと堕とされた存在だった。
「アズマ1より全車へ。現位置にて待機。射撃待て」
魔獣の群れは本郷の小隊へ向ってきていた。それは敢えて本郷が彼等から見えやすい高地に陣取っていたからだった。ヒロイズムに駆られていたのではない。彼はなるべく速やかにグールを処分しておきたかった。いくら慣れたとは言え、その姿は彼の中隊の兵士に精神的な悪影響を及ぼす存在だった。
やがて、敵の群れは自ら十字砲火地点へ出向いてくれた。彼我の距離は1500メートルを切っている。本郷は敵に知性がないことに心から感謝すると、車内へ身を収めた。展望塔の天蓋を閉じ、射撃の段取りに移った。
「第一、第二小隊は徹甲弾を装填。目標トロール」
本郷は車両ごとに目標を指示すると、残る第三小隊にはグールの処分を任せることにした。
「第三小隊は榴弾装填。目標グール群の中央部。射撃開始」
第一小隊所属の2両と、第二小隊所属の3両より鉄の楔がトロールへ打ち込まれた。
命中3発。
内2発は最前列のトロールへ損害を与えた。左肩を吹き飛ばし、腹に大穴を空ける。残りは1発は、その後方にいるトロールの片足を吹き飛ばし、歩行不能にさせた。並みの生き物ならば、致命傷と言ってよい。しかし、奴らは魔獣だった。トロールは魔獣の中でも耐久力に優れた種族だった。その身体は鉱物によって組成されており、誠に厄介なことに痛覚がないものと推定されていた。2体のトロールは咆哮した。どうやら戦意に不足はないらしい。壊れたネジ巻人形のごとく、奇怪な動きを行いながら前進を試みている。
本郷は眉一つ動かさず、小隊の三号車を呼びだし、腹に穴を空けたトロールへ射撃を継続させた。片足を喪った個体は戦闘不能と判定して良い。残りの車両は撃ち漏らしたトロールへ砲口向けさせる。有り難いことにトロールは飛び道具を用いない。近接戦闘にならない限り、格好の射撃目標だった。
本郷が脅威と判定していたのはグールの方だった。的が小さいうえに、機銃掃射をものとせずに突っ込んでくる。当たり前だが、死体なので彼等にも痛覚は無かった。
本郷は自車の砲手に射撃の自由を与えると、キューポラから半身を乗り出した。おもむろに双眼鏡を構える。グールの群れが一心不乱に向ってきている。彼等の歩行速度はまちまちだった。腐敗の進んでいない者は駆けてくるが、骨と化した者は早歩き程度だ。先頭集団はすでに1000メートルを切っている。突如、その一角で派手な爆発が生じる。榴弾の直撃を受け、五体が千切れ飛ぶのが見えた。10体以上は処分できただろうが、本郷は土煙の向こうに新たなグールの集団を確認していた。思わず奥歯に力が入る。多すぎる。200どころの話ではない。恐らく倍以上は街に隠れ潜んでいたのだろう。
『アズマ1へ、こちらアズマ2』
二号車の中村少尉だった。恐らく本郷と同じ懸念を抱いているのだろう。
「こちらアズマ1、送れ」
『少佐、数が多すぎます。このままでは取りつかれます』
「君の見解は正しいと思う」
『では、そろそろ?』
「いや、まだだ。早すぎる。準備が整うまで現位置を固守する」
『いっそ、突っ込んで地ならししますか?』
「中村少尉、君の提案は魅力的だがトロールを排除し切れていない。今、我々が突っ込んだら、あの石の巨人と四つに組むことになる。僕としては御免被る」
ちょうどそのときだった。本郷車へ機動歩兵の小隊長から準備が出来たと、無線が入る。本郷は機動歩兵が装甲兵車に乗車したことを確かめると、全車に後退を命じた。
「アズマ1より、全車へ。射撃停止、後退せよ。中隊全ての火器の使用を禁ず」
三式中戦車のギアボックスで変化が生じ、歯車が駆動し始める。20トンの鉄塊が後退を開始した。本郷は機銃掃射を命じた。すでにグールの集団は双眼鏡を要さぬほど至近に迫っている。本郷はわずかに眉間に皺を寄せた。グールの中に少年の姿があった。いや少年だったものの姿だった。自分の息子と変わらぬ年頃に見える。本郷は、その物体に対する解釈をそこで止めた。
グールの集団はすがるように本郷の中隊を追いかけてきた。三式中戦車は200メートルほど後退すると、全車停止した。彼我の距離が400を切ったときだった。本郷中隊は全火力を吐き出した。
「全車、射撃開始。全武器の使用を自由とする」
三式中戦車だけではなく、機動歩兵の一式半装軌装甲兵車に装備された機銃も含め、全車両が一斉に火線を展開する。それらはある一点へ向けて集約され、次の瞬間、大爆発炎上を引き起こした。爆発は連鎖的に巻き起こり、本郷中隊の前方300メートルに炎の防壁を展開した。
『アズマ1より全車へ作戦成功。各車、掃討を開始せよ』
炎の壁をくぐりぬけたグールは火だるまとなっていた。燃焼によって脆くなった肉体へ鉛の嵐が見舞われれ、四散する。
本郷はオベロンに着いた直後に、機動歩兵へ命じて、ドラム缶に積んだガソリンを後方へばら撒いていた。それらは本郷中隊のために用意された予備の燃料だった。本郷は惜しみなく、それらを使い、野外火葬場を作り上げ、タイミングを計って全車へ後退を命じたのである。
いかなグールが不死身で、痛覚を感じぬ存在であっても、所詮は肉の塊だった。炎の前には無防備だった。300体以上いたグールの大半が業火に巻かれ、機銃掃射の餌食となった。
本郷の懸念は炎によって焼き払われた。しかし、全てが終わったわけでは無かった。
「全車へ。そろそろ本命が来るぞ。さあ鬼ごっこの準備だ」
消し炭と化したグールの山を越えて、トロールの巨体が炎の揺らめきの中から現われた。
残るトロールは6体だった。彼我の距離は300メートルを切っている。本郷は機動歩兵小隊を退避させた。仕上げにかかるためだった。
「集中射用意。目標、先頭トロール。射撃開始」
直後八発の75ミリ徹甲弾が巨獣へ突き刺さる。いかに相手が岩の巨人でも8発の砲弾は5体を砕くに必要十分な量だった。続けて、本郷は二体目への集中射撃を命じる。3発はずれるも、5発をもって左半身を粉砕し、岩の塊に返る。続けて二体を屠ったところで、彼我の距離は150メートルを切っていた。
「散開せよ! さあ鬼さんこちら!」
本郷は部隊を二手に分けた。直率する第一小隊3両が右翼へ、残る第二、第三5両は左翼へ全速で移動させる。トロールは一瞬戸惑ったような動きを見せると、第一小隊へ進路を変えた。数が少ない方を選んだ。脳みそはないくせに、頭は回るらしい。
三式中戦車は整備された状態で最高時速38キロを発揮できる。それに対し、トロールはせいぜい15~20キロほどだった。本郷は彼我の距離を開いたところで停止し、再び集中射撃を浴びせるつもりだった。彼はこれまでの戦闘経験から走行間射撃の命中率が絶望的であることを知っていた。これは彼の中隊の技量が劣っているからではない。よほどの至近距離であれば話は別だが、500メートル以上離れた状態で走りながら命中弾を出すのは困難を極めた。スタビライザーと射撃装置の電子的な改良が施されるまで、走行間射撃はエース級の戦車兵のみ許された神業だった。聞けば独逸軍には、やすやすとそれを行う神様が何人もいるらしい。しかし残念ながら本郷の中隊には、彼自身も含めて、神はいなかった。
本郷は左翼へ移動中の第二、第三中隊を無線で呼び戻すことにした。万が一、本郷達が仕留め損ねたときに始末してもらうためだった。彼が無線機を手にしたときだった。緊迫した声が耳当てに木霊した。
『こちらアズマ2! 機関停止!』
飛び跳ねるように本郷は展望塔から身を乗り出した。中村少尉の車両から白い煙が上がり、停止していた。同時に2体のトロールの関心が二号車へ向けられたのがわかった。
本郷の決心は早かった。
「アズマ2、脱出しろ。アズマ3は現位置にて、我を援護せよ」
本郷はトロールへ向けて、全速で旋回を命じた。履帯が泥を跳ね上げ、三式中戦車の砲より75ミリの鉄針が発射される。命中はしなかったが、トロールに本郷の存在を知らせるには十分だった。
『アズマ3、了解。現位置にて射撃開始』
本郷の左方向より援護射撃が展開される。アズマ3の射撃は本郷に迫るトロールの肩へ命中した。しかし、その前進を止めることはできなかった。本郷は走行間射撃を続けさせた。彼我の距離は50メートルを切っている。神で無くとも、命中を許される距離だった。
「射ェ!」
本郷の戦車が放った砲弾はトロールの右大腿部を吹き飛ばした。咆哮と共に崩れ落ちるトロールの背後から、もう一体現われる。そいつは右手に持った石鎚をゆっくりと振り上げた。距離は20メートルほど、例え振り下ろしたところ届くはず……いや違った!
「全速前進! 突撃!」
トロールは腕を振り下ろす刹那、手から石鎚を離した。それは石弾となり、展望塔へ直撃した。正面から思い切り頭部をぶん殴られたような衝撃が襲ってくる。
あまりの衝撃に本郷は僅かの間だが放心してしまった。徐々に精神の平衡を取り戻すにつれ、鋭い痛みが頭部に生じる。額を何かが伝う感覚が生じる。まずは車内を見渡し、本郷は乗員の無事を確認した。そのうち一人、砲手が恐る恐る額を指さした。そこでようやく自身の頭部から大量の血液が漏れていると気がついた。彼は傷口を押さえながら、正面へ目を向けた。やけに見渡しがよくなっていた。展望塔の一部が破損し、外の景色を覗けるようになっていた。本郷は衝撃で歪んだ天蓋をこじ開け、外を確認した。
目前に転がる物体を凝視する。下半身を三式中戦車で砕かれたトロールだった。本郷の戦車はトロールへ見事な突貫を行っていた。
トロールは壊れた人形のようにあがき、奇妙な咆哮を上げながら本郷をにらみつけていた。彼は一切目をそらすこと無く、砲手へ自分の意思を伝えた。
「撃て」
石の塊が生成された。
――今回の戦闘記録を大隊本部へ提出すべきだな
少なくともトロールが投擲攻撃を行った事例はこれまでなかったはずだ。今後はもっと注意して戦わなければ……。
額から尋常ならざる出血を流しながら、本郷はそんなことを考えていた。遠くでエンジン音が木霊している。第二と第三と小隊が救援に駆けつけつつあった。耳当てから何事か叫ぶ声が聞こえるが、徐々によく聞き取れなくなり、代わりにじりじりと耳鳴りが酷くなっていく。視界が赤くぼやけつつあった。彼はほとんど無意識のうちに、中隊に帰還を命じると、車長席から崩れ落ちた。
【アメリカ合衆国 ノースダコダ州 ハービー 1945年2月12日 深夜】
本郷が意識を回復したとき、視界に入ったのは真っ白な天井だった。混乱と不安が心中を巡り、反射的に起き上がろうとする。上半身を浮き上がらせたところで、制止の声が小さくかかった。
「大丈夫です」
本郷の肩にそっとたおやかな手が置かれる。米国人の女性看護師だった。年の頃は20そこそこに見えた。赤毛で、美人と言うよりも可愛らしさの要素が強い顔立ちだった。頬のそばかすによるものだろうが、実年齢よりも幼く取られそうだ。本郷は、米国のとある児童小説のヒロインを思い返した。
「ここはどこですか?」
日本人的な英語の発音で、本郷は問うた。
「ハービーの仮設病院です」
「ハービー?」
本郷はぼやけた頭に地図を広げた。オベロンの西方80キロに該当する地名があったような気がする。そんなところまで後退したのか? いや、それよりも確かめるべきことがある。
「僕の部隊は? 他の兵は?」
「安心してください。皆さん、すぐ外の駐車場であなたの回復を祈っています。ここまで兵隊さんが、あなたを運んできたんです」
赤毛の看護師は落ち着かせるように言い聞かせた。
「そうですか……」
本郷は半ば浮き上がらせた上半身を、再びベッドへ委ねた。
「ご気分はどうですか? 痛いところは?」
「痛みは大したことはありません。ただ、少し頭がぼやけています」
「失血性のものでしょう。あなたは慕われているのですね。輸血を募ったら、兵士のみなさんが我先にと手を上げましたよ」
「それは……有り難いことです」
本郷は恥じ入るように看護師から目をそらした。それが照れによるものだと看護師は気がついた。
「暫く安静にしてください。傷口が開いてしまいますから。また何かあったら、呼び鈴を鳴らしてくださいね。ミスタータイチョウ」
「ミスタータイチョウ?」
耳慣れぬ呼称に首をかしげる。
「あなたのお名前ではありませんの? 兵士の皆さんがしきりにあなたのことをタイチョー、タイチョーと呼んでいたので――」
本郷は思わず失笑した。あいつら、ここに来て一年も経つのに碌な英語を話せぬとはどういうことなのだ。これは教育が必要だな。
「いいえ、違います。タイチョーは役職の呼称です。本郷が僕の名です」
「あら、ごめんなさい。日本語はよくわからなくて、私ったら恥ずかしいわ」
「無理もないでしょう。僕だって、一昔前までロサンゼルスがどこかなんて知りませんでしたから」
「ふふ、それではおあいこですね」
赤毛の看護師は顔を綻ばした。あどけなさが故郷に残した17の娘を思い出させた。
「そのようですね。ミス?」
「アンナ。アンナ・フィールズです。アナで良いですわ」
アナは本郷を寝かしつけると、病床から去っていた。改めて首を回し、周囲を確かめる。本郷の他にも数名の合衆国軍の将兵が、その身を横たえている。時折うめきとも悲鳴とも着かぬ声が木霊する。本郷は急にある疑念に囚われた。ふと実は夢を見ているのではないかと思った。あるいはすでに自分は死んでいて、北米の原野、鉄の棺桶でその身を腐らせているのではないか――。
ひそかに本郷は額の包帯に手を当てた。鈍い痛みをわずかに感じ、ほっと安堵した。
二日後、退院した本郷は去り際にアナヘ自分の持っていたチョコレイトを手渡した。世話になった礼のつもりだった。アナは少し驚いた様子で、頬を染めながら受け取った。チョコレイトは貴重品だが、高級品というわけではない。本郷が所持していたものは、ロサンゼルスの食品店でも入手可能なものだった。にも関わらず、なぜかえらくアナは喜んだようだった。
彼が2月14日に殉教した聖人について知るのは、しばらく後のことだった。
【アメリカ合衆国 ノースダコダ州 デヴィルズ湖付近 1945年2月12日 朝】
20世紀中盤におけるノースダコダ州は、まことに牧歌的で良くも悪くも前時代的な合衆国の風景を残した地域だった。東海岸の大都市に見られる天を突くような摩天楼は存在しない。ある者は、いささか精彩を欠くと評するかもしれない。州の中央部はなだらかな平野で構成されおり、かつては合衆国の胃袋を支える一大穀倉地帯だった。その平野の縁を取り囲むように湖と森林、そして山岳部が配置されている。
1940年において、ノースダコダは合衆国の中でも人口の多さでは下から数えた方が早い規模の州だった。今でもそれは変わらない。しかしながら、ただ一つ決定的に異なることがある。男女と年齢の構成比だった。現在、ノースダコダの人口、その8割近くが20代以上の男子によって締められている。
本郷史明少佐も8割の中の一人だった。彼が臨時の営舎として接収した民家の二階の一室で起床したのは、5時だった。体内時計に叩き込まれた起床時刻だ。彼は衛兵が起床ラッパを鳴らす前に、身支度を済ませた。洗面台で顔を洗い、ひげを剃り、陸軍では少数派である長髪を整える。南国生まれ特有の浅黒い顔の右頬には大きな裂傷の跡が残っていた。かつてインドシナで彼の乗る九七式中戦車がトロールの奇襲を受けたときに負った傷だった。最後に鏡の前で服装の乱れを直すと、部屋を一回りし忘れ物がないか指さし確認を行った。
「よし」
扉から出る前に室内をもう一度見回す。かつての家主の寝室と予想された。寝台の広さと調度品から、恐らく妻に先立たれた老人のものであろうと本郷はあたりをつけていた。読書家で、ナイトテーブルの抽斗には多数の書物が収められていた。彼はここで休養を取る間、数冊拝借して楽しませてもらった。ずいぶんと好奇な趣向の方だったらしい。よもや北米の民家で阿Q正伝を読破するとは思いも寄らなかった。
「またご縁があれば、お借りします。お世話になりました」
無人の空間へ彼は一礼すると静かにドアを閉めた。
そろそろ彼の中隊の兵達も準備を整え始めている頃だ。
階下へ降りると、給仕係が食事の用意を済ませていた。かぐわしい芳香が鼻孔に行き渡り、本郷はおやと思った。
「珈琲か?」
「あ、おはようございます! ええ、昨夜アメさんからの差し入れです」
応じたのは、中村少尉だった。本郷が直率する第一小隊の先任士官だ。丸顔でやや太り気味だが、この少尉の場合、それが外見上の愛嬌として解釈される方が多かった。
「アメさん? どこの部隊だ?」
「え~っと、ああ、ほら、E中隊ですよ。以前、デヴィルズ湖から撤退したきた部隊に薬を分けてやったでしょう? その借りを返したいとかで、バーボンと煙草、それからチョコレイトももらったんですが他の隊に配っちまってもいいですか?」
「かまわないよ。僕はあまり飲まないし、煙草も吸わんからね。あ、チョコだけは一つもらえるかな。他は不公平にならぬようにしてくれ」
「承知しました。お任せを!」
少尉は近くの兵を呼ぶと、差し入れの配分を紙に書き付け、数名に分担させて持って行かせた。
今朝の献立は麦飯とコンソメスープ、そしてかりかりに焼いたベーコンに納豆だった。なんともちぐはぐな和洋折衷の献立であるが、本郷も含め、中隊全員が慣れてしまった。だいたい屋根の下で食事をとれるだけでも有り難く思わねばならない。
「それにしても、モルヒネでこんなお返しをもらえるとは驚きですね」
「それだけあの中隊長が慕われていたと言うことだろう」
本郷の部隊が救援した合衆国軍のE中隊は魔獣の群れに長期間包囲される中で、最後まで士気を維持し、戦線を支え続けていた。本郷たちが魔獣の包囲網を食い破り、E中隊と合流したとき、アメリカ兵達は弾薬でも食料でも無く、薬を要求した。それは死の間際に発つ彼等の指揮官を少しでも楽に見送りたいという彼等兵士の総意からだった。
「あの将校は有能だったんだよ。そうでなければあんな包囲下で中隊を生き残らせるなど不可能だ。本当に惜しいことをした」
「ええ……ああいうのは勘弁ですね」
「我が軍も彼等の粘り強さを見習うべきだな。私見だが、我が軍の戦車乗りはやたらと魔獣へ万歳したがる傾向があるからね」
「まあ、否定はできませんな」
中村は苦笑いで応じた。
二時間後、本郷率いる第八混成戦車中隊は、デヴィルズ湖へ向けて発った。そこは彼らが救ったE中隊が死守した街がある。今では魔獣の巣と化しており、彼らの任務は威力偵察もかねて、周辺地帯の魔獣の分布状況を観測、大隊本部へ報告することだった。もちろん会敵した場合は例外なく排除する。
本郷達が目指す街は、オベロンと呼ばれていた。初めにその名を聞いたとき、本郷は彼特有の感性から、えもいわれぬ趣を感じた。悪魔の湖の側にある街の名として、どこか妖精王を彷彿させるものがあった。もっとも、かの妖精王が登場した作品とは全く正反対の情景がその街には広がっているはずだった。ある意味、名にし負うというべきだろうか。オベロンに限らず、デヴィルズ湖周辺は魔獣に浸食され、合衆国政府から侵入禁止区域に指定されていた。本郷達にとって、そこは戦闘区域を意味する。
本郷の戦車中隊は比較的保存状態の良い部隊だった。中核の装甲戦力は三式中戦車チヌで、75ミリ戦車砲を装備している。合衆国のM4シャーマンとも互角に渡り合える日本陸軍史上初の標準的な中戦車だった。合衆国と同盟関係にある現在、チヌがM4と砲火を交える未来はなくなった。その代わり、チヌはその砲身から徹甲弾を魔獣へ向けて存分に振る舞っている。本郷の中隊は戦車3小隊(チヌ8両)、機動歩兵1小隊(一式半装軌装甲兵車ホハ4両)、その他に捜索分隊として自動二輪車3両で構成されている。当初は各車両ともに10両以上配備されていたが、戦闘による損失と長時間の稼働に故障で定数を大幅に割った状態で任務に就いていた。
本郷はオベロンに続く328号線を時速30キロほどで西進していた。周囲には島国育ちのものにとり、呆れるほどの原野が続いている。とにかく北米は気の遠くなるほど広く、そして圧倒的だった。遣米支援軍(通称:遣米軍)として派遣されて1年以上経つが、こんなヤツラ相手に戦争しかけるなど、正気の沙汰では無かったと幾度となく思い知らされた。
出発して1時間ほど経過したときだった。先行させた自動二輪の捜索隊から無線が入った。
『マキリ3よりアズマ1へ、台場へ着いた。視界は良好。送れ』
「こちらアズマ1。マキリ3、オベロンの状況を求む。送れ」
『こちらマキリ3、敵獣多数認む。中隊規模の混合群体。構成はグール大よそ200、トロール10。送れ』
「了解。現位置にて観測を継続せよ。接敵の可能性があれば撤退を可とす。以上、終わり」
『こちらマキリ、了解。可能な限り観測す。終わり』
どうやらオベロンを占拠している敵戦力に変化はないらしい。本郷がE中隊を救援した後、合衆国の陸軍航空隊により、大爆撃を受け、オベロンの魔獣群はかなりの数を撃ち減らしたと報告を受けている。
「アズマ1より、全車へこれよりオベロンへ進出。敵獣を駆除する。戦車前進」
我に続けの後、本郷の率いる鉄の猛獣は一酸化炭素の息を吐き出しながら、オベロンへ迫った。
30分も経たず、廃墟と化した街並みが見えてくる。同時にその建物の隙間や影から、異形の化け物の群れがこちらへ向けて迫ってくるのも目に入る。
『マキリ3よりアズマ1へ、敵獣は集結しつつあり。新たなグールの群れも確認した。敵勢力増大中、警戒されたし。送れ』
本郷は己の判断の甘さを認識した。敵勢力の増大規模が予想以上だった場合は撤退もあり得る。
「アズマ1、了解。我が意思に変更無し。送れ」
『マキリ3、了解。心ゆくまで万歳されたし』
本郷は苦笑した。突撃? 冗談ではない。僕が行うのは蹂躙のみだ。圧倒的な優勢を確保の後、踏みつぶす。ただ、それだけだ。
本郷は敵との距離が2000を切ったところで中隊の装甲戦力を横隊展開させた。同時に後方に控えている機動歩兵を降車させ各車両の間に展開させる。近接戦に備えさせるためだった。ちょうど魔獣を遠巻きに半包囲するようなかたちになりつつあった。本郷は展望塔から上半身を乗り出すと、各車両間が離れすぎないように位置を調整した。
双眼鏡で街の入り口付近を見る。ちょうど敵の第一波が姿を現わした。全高10メートル近いトロールが8体、石槌を手に突進してきている。そして後に続くグールの群れも見えた。
――やはりな。
接眼レンズには合衆国兵の姿をしたグールの群れが映っていた。彼等はかつてこの街を守っていたE中隊の兵員だ。本郷の救援からこぼれ落ちた者達だった。他には街の住民と思しき者も含まれている。老若男女が差別無く、動く屍の兵となり、こちらへ向ってきている。グール、リビングデッド、ゾンビ、屍人、呼び方は様々だ。元は合衆国国民として生を謳歌していたはずの者達だが、今は見る影もない。五体は腐りはて、あるものは臓物を垂らしながら、またある者はほとんど骨と皮と化してながら、蠢いている。彼等は人型をした人外であり、息吹と共に理性を失い、獣へと堕とされた存在だった。
「アズマ1より全車へ。現位置にて待機。射撃待て」
魔獣の群れは本郷の小隊へ向ってきていた。それは敢えて本郷が彼等から見えやすい高地に陣取っていたからだった。ヒロイズムに駆られていたのではない。彼はなるべく速やかにグールを処分しておきたかった。いくら慣れたとは言え、その姿は彼の中隊の兵士に精神的な悪影響を及ぼす存在だった。
やがて、敵の群れは自ら十字砲火地点へ出向いてくれた。彼我の距離は1500メートルを切っている。本郷は敵に知性がないことに心から感謝すると、車内へ身を収めた。展望塔の天蓋を閉じ、射撃の段取りに移った。
「第一、第二小隊は徹甲弾を装填。目標トロール」
本郷は車両ごとに目標を指示すると、残る第三小隊にはグールの処分を任せることにした。
「第三小隊は榴弾装填。目標グール群の中央部。射撃開始」
第一小隊所属の2両と、第二小隊所属の3両より鉄の楔がトロールへ打ち込まれた。
命中3発。
内2発は最前列のトロールへ損害を与えた。左肩を吹き飛ばし、腹に大穴を空ける。残りは1発は、その後方にいるトロールの片足を吹き飛ばし、歩行不能にさせた。並みの生き物ならば、致命傷と言ってよい。しかし、奴らは魔獣だった。トロールは魔獣の中でも耐久力に優れた種族だった。その身体は鉱物によって組成されており、誠に厄介なことに痛覚がないものと推定されていた。2体のトロールは咆哮した。どうやら戦意に不足はないらしい。壊れたネジ巻人形のごとく、奇怪な動きを行いながら前進を試みている。
本郷は眉一つ動かさず、小隊の三号車を呼びだし、腹に穴を空けたトロールへ射撃を継続させた。片足を喪った個体は戦闘不能と判定して良い。残りの車両は撃ち漏らしたトロールへ砲口向けさせる。有り難いことにトロールは飛び道具を用いない。近接戦闘にならない限り、格好の射撃目標だった。
本郷が脅威と判定していたのはグールの方だった。的が小さいうえに、機銃掃射をものとせずに突っ込んでくる。当たり前だが、死体なので彼等にも痛覚は無かった。
本郷は自車の砲手に射撃の自由を与えると、キューポラから半身を乗り出した。おもむろに双眼鏡を構える。グールの群れが一心不乱に向ってきている。彼等の歩行速度はまちまちだった。腐敗の進んでいない者は駆けてくるが、骨と化した者は早歩き程度だ。先頭集団はすでに1000メートルを切っている。突如、その一角で派手な爆発が生じる。榴弾の直撃を受け、五体が千切れ飛ぶのが見えた。10体以上は処分できただろうが、本郷は土煙の向こうに新たなグールの集団を確認していた。思わず奥歯に力が入る。多すぎる。200どころの話ではない。恐らく倍以上は街に隠れ潜んでいたのだろう。
『アズマ1へ、こちらアズマ2』
二号車の中村少尉だった。恐らく本郷と同じ懸念を抱いているのだろう。
「こちらアズマ1、送れ」
『少佐、数が多すぎます。このままでは取りつかれます』
「君の見解は正しいと思う」
『では、そろそろ?』
「いや、まだだ。早すぎる。準備が整うまで現位置を固守する」
『いっそ、突っ込んで地ならししますか?』
「中村少尉、君の提案は魅力的だがトロールを排除し切れていない。今、我々が突っ込んだら、あの石の巨人と四つに組むことになる。僕としては御免被る」
ちょうどそのときだった。本郷車へ機動歩兵の小隊長から準備が出来たと、無線が入る。本郷は機動歩兵が装甲兵車に乗車したことを確かめると、全車に後退を命じた。
「アズマ1より、全車へ。射撃停止、後退せよ。中隊全ての火器の使用を禁ず」
三式中戦車のギアボックスで変化が生じ、歯車が駆動し始める。20トンの鉄塊が後退を開始した。本郷は機銃掃射を命じた。すでにグールの集団は双眼鏡を要さぬほど至近に迫っている。本郷はわずかに眉間に皺を寄せた。グールの中に少年の姿があった。いや少年だったものの姿だった。自分の息子と変わらぬ年頃に見える。本郷は、その物体に対する解釈をそこで止めた。
グールの集団はすがるように本郷の中隊を追いかけてきた。三式中戦車は200メートルほど後退すると、全車停止した。彼我の距離が400を切ったときだった。本郷中隊は全火力を吐き出した。
「全車、射撃開始。全武器の使用を自由とする」
三式中戦車だけではなく、機動歩兵の一式半装軌装甲兵車に装備された機銃も含め、全車両が一斉に火線を展開する。それらはある一点へ向けて集約され、次の瞬間、大爆発炎上を引き起こした。爆発は連鎖的に巻き起こり、本郷中隊の前方300メートルに炎の防壁を展開した。
『アズマ1より全車へ作戦成功。各車、掃討を開始せよ』
炎の壁をくぐりぬけたグールは火だるまとなっていた。燃焼によって脆くなった肉体へ鉛の嵐が見舞われれ、四散する。
本郷はオベロンに着いた直後に、機動歩兵へ命じて、ドラム缶に積んだガソリンを後方へばら撒いていた。それらは本郷中隊のために用意された予備の燃料だった。本郷は惜しみなく、それらを使い、野外火葬場を作り上げ、タイミングを計って全車へ後退を命じたのである。
いかなグールが不死身で、痛覚を感じぬ存在であっても、所詮は肉の塊だった。炎の前には無防備だった。300体以上いたグールの大半が業火に巻かれ、機銃掃射の餌食となった。
本郷の懸念は炎によって焼き払われた。しかし、全てが終わったわけでは無かった。
「全車へ。そろそろ本命が来るぞ。さあ鬼ごっこの準備だ」
消し炭と化したグールの山を越えて、トロールの巨体が炎の揺らめきの中から現われた。
残るトロールは6体だった。彼我の距離は300メートルを切っている。本郷は機動歩兵小隊を退避させた。仕上げにかかるためだった。
「集中射用意。目標、先頭トロール。射撃開始」
直後八発の75ミリ徹甲弾が巨獣へ突き刺さる。いかに相手が岩の巨人でも8発の砲弾は5体を砕くに必要十分な量だった。続けて、本郷は二体目への集中射撃を命じる。3発はずれるも、5発をもって左半身を粉砕し、岩の塊に返る。続けて二体を屠ったところで、彼我の距離は150メートルを切っていた。
「散開せよ! さあ鬼さんこちら!」
本郷は部隊を二手に分けた。直率する第一小隊3両が右翼へ、残る第二、第三5両は左翼へ全速で移動させる。トロールは一瞬戸惑ったような動きを見せると、第一小隊へ進路を変えた。数が少ない方を選んだ。脳みそはないくせに、頭は回るらしい。
三式中戦車は整備された状態で最高時速38キロを発揮できる。それに対し、トロールはせいぜい15~20キロほどだった。本郷は彼我の距離を開いたところで停止し、再び集中射撃を浴びせるつもりだった。彼はこれまでの戦闘経験から走行間射撃の命中率が絶望的であることを知っていた。これは彼の中隊の技量が劣っているからではない。よほどの至近距離であれば話は別だが、500メートル以上離れた状態で走りながら命中弾を出すのは困難を極めた。スタビライザーと射撃装置の電子的な改良が施されるまで、走行間射撃はエース級の戦車兵のみ許された神業だった。聞けば独逸軍には、やすやすとそれを行う神様が何人もいるらしい。しかし残念ながら本郷の中隊には、彼自身も含めて、神はいなかった。
本郷は左翼へ移動中の第二、第三中隊を無線で呼び戻すことにした。万が一、本郷達が仕留め損ねたときに始末してもらうためだった。彼が無線機を手にしたときだった。緊迫した声が耳当てに木霊した。
『こちらアズマ2! 機関停止!』
飛び跳ねるように本郷は展望塔から身を乗り出した。中村少尉の車両から白い煙が上がり、停止していた。同時に2体のトロールの関心が二号車へ向けられたのがわかった。
本郷の決心は早かった。
「アズマ2、脱出しろ。アズマ3は現位置にて、我を援護せよ」
本郷はトロールへ向けて、全速で旋回を命じた。履帯が泥を跳ね上げ、三式中戦車の砲より75ミリの鉄針が発射される。命中はしなかったが、トロールに本郷の存在を知らせるには十分だった。
『アズマ3、了解。現位置にて射撃開始』
本郷の左方向より援護射撃が展開される。アズマ3の射撃は本郷に迫るトロールの肩へ命中した。しかし、その前進を止めることはできなかった。本郷は走行間射撃を続けさせた。彼我の距離は50メートルを切っている。神で無くとも、命中を許される距離だった。
「射ェ!」
本郷の戦車が放った砲弾はトロールの右大腿部を吹き飛ばした。咆哮と共に崩れ落ちるトロールの背後から、もう一体現われる。そいつは右手に持った石鎚をゆっくりと振り上げた。距離は20メートルほど、例え振り下ろしたところ届くはず……いや違った!
「全速前進! 突撃!」
トロールは腕を振り下ろす刹那、手から石鎚を離した。それは石弾となり、展望塔へ直撃した。正面から思い切り頭部をぶん殴られたような衝撃が襲ってくる。
あまりの衝撃に本郷は僅かの間だが放心してしまった。徐々に精神の平衡を取り戻すにつれ、鋭い痛みが頭部に生じる。額を何かが伝う感覚が生じる。まずは車内を見渡し、本郷は乗員の無事を確認した。そのうち一人、砲手が恐る恐る額を指さした。そこでようやく自身の頭部から大量の血液が漏れていると気がついた。彼は傷口を押さえながら、正面へ目を向けた。やけに見渡しがよくなっていた。展望塔の一部が破損し、外の景色を覗けるようになっていた。本郷は衝撃で歪んだ天蓋をこじ開け、外を確認した。
目前に転がる物体を凝視する。下半身を三式中戦車で砕かれたトロールだった。本郷の戦車はトロールへ見事な突貫を行っていた。
トロールは壊れた人形のようにあがき、奇妙な咆哮を上げながら本郷をにらみつけていた。彼は一切目をそらすこと無く、砲手へ自分の意思を伝えた。
「撃て」
石の塊が生成された。
――今回の戦闘記録を大隊本部へ提出すべきだな
少なくともトロールが投擲攻撃を行った事例はこれまでなかったはずだ。今後はもっと注意して戦わなければ……。
額から尋常ならざる出血を流しながら、本郷はそんなことを考えていた。遠くでエンジン音が木霊している。第二と第三と小隊が救援に駆けつけつつあった。耳当てから何事か叫ぶ声が聞こえるが、徐々によく聞き取れなくなり、代わりにじりじりと耳鳴りが酷くなっていく。視界が赤くぼやけつつあった。彼はほとんど無意識のうちに、中隊に帰還を命じると、車長席から崩れ落ちた。
【アメリカ合衆国 ノースダコダ州 ハービー 1945年2月12日 深夜】
本郷が意識を回復したとき、視界に入ったのは真っ白な天井だった。混乱と不安が心中を巡り、反射的に起き上がろうとする。上半身を浮き上がらせたところで、制止の声が小さくかかった。
「大丈夫です」
本郷の肩にそっとたおやかな手が置かれる。米国人の女性看護師だった。年の頃は20そこそこに見えた。赤毛で、美人と言うよりも可愛らしさの要素が強い顔立ちだった。頬のそばかすによるものだろうが、実年齢よりも幼く取られそうだ。本郷は、米国のとある児童小説のヒロインを思い返した。
「ここはどこですか?」
日本人的な英語の発音で、本郷は問うた。
「ハービーの仮設病院です」
「ハービー?」
本郷はぼやけた頭に地図を広げた。オベロンの西方80キロに該当する地名があったような気がする。そんなところまで後退したのか? いや、それよりも確かめるべきことがある。
「僕の部隊は? 他の兵は?」
「安心してください。皆さん、すぐ外の駐車場であなたの回復を祈っています。ここまで兵隊さんが、あなたを運んできたんです」
赤毛の看護師は落ち着かせるように言い聞かせた。
「そうですか……」
本郷は半ば浮き上がらせた上半身を、再びベッドへ委ねた。
「ご気分はどうですか? 痛いところは?」
「痛みは大したことはありません。ただ、少し頭がぼやけています」
「失血性のものでしょう。あなたは慕われているのですね。輸血を募ったら、兵士のみなさんが我先にと手を上げましたよ」
「それは……有り難いことです」
本郷は恥じ入るように看護師から目をそらした。それが照れによるものだと看護師は気がついた。
「暫く安静にしてください。傷口が開いてしまいますから。また何かあったら、呼び鈴を鳴らしてくださいね。ミスタータイチョウ」
「ミスタータイチョウ?」
耳慣れぬ呼称に首をかしげる。
「あなたのお名前ではありませんの? 兵士の皆さんがしきりにあなたのことをタイチョー、タイチョーと呼んでいたので――」
本郷は思わず失笑した。あいつら、ここに来て一年も経つのに碌な英語を話せぬとはどういうことなのだ。これは教育が必要だな。
「いいえ、違います。タイチョーは役職の呼称です。本郷が僕の名です」
「あら、ごめんなさい。日本語はよくわからなくて、私ったら恥ずかしいわ」
「無理もないでしょう。僕だって、一昔前までロサンゼルスがどこかなんて知りませんでしたから」
「ふふ、それではおあいこですね」
赤毛の看護師は顔を綻ばした。あどけなさが故郷に残した17の娘を思い出させた。
「そのようですね。ミス?」
「アンナ。アンナ・フィールズです。アナで良いですわ」
アナは本郷を寝かしつけると、病床から去っていた。改めて首を回し、周囲を確かめる。本郷の他にも数名の合衆国軍の将兵が、その身を横たえている。時折うめきとも悲鳴とも着かぬ声が木霊する。本郷は急にある疑念に囚われた。ふと実は夢を見ているのではないかと思った。あるいはすでに自分は死んでいて、北米の原野、鉄の棺桶でその身を腐らせているのではないか――。
ひそかに本郷は額の包帯に手を当てた。鈍い痛みをわずかに感じ、ほっと安堵した。
二日後、退院した本郷は去り際にアナヘ自分の持っていたチョコレイトを手渡した。世話になった礼のつもりだった。アナは少し驚いた様子で、頬を染めながら受け取った。チョコレイトは貴重品だが、高級品というわけではない。本郷が所持していたものは、ロサンゼルスの食品店でも入手可能なものだった。にも関わらず、なぜかえらくアナは喜んだようだった。
彼が2月14日に殉教した聖人について知るのは、しばらく後のことだった。
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