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「女房との離婚が昨日決まったんだ」
カウンターだけのこじんまりとしたショットバーで、互いに気取った酒を頼み、互いのグラスを合わせ、互いに一口飲んだところで、相澤は唐突に切り出した。
客は俺らと席五つほど離れた先に座る、中年の夫婦あるいはカップルしかいない。カウンター越しに立つ、まだ若そうなバーテンは、さりげなく流し台の方に移動し、俺たちから距離をとった。
「理由を聞いてもいいか?」
「聞いて驚け、なんと不倫だよ。しかも俺じゃなくあいつの方がだ」
離婚事由そのものは珍しいモノじゃない。だが、不倫したのが相澤の奥さんであるという事実は、確かに驚くべきことだった。
「確かなのか?」
「真っ最中に出くわしたんだ、証拠もクソもあるか」
「し、信じられないな、だってお前の奥さんは…その…」
なんて言うべきかわからず、言葉に詰まる。
相澤の奥さんは、かつて俺たちが勤める店に乗り込んできたあの地雷系女子なのだ。当時、バックヤードで見ざる聞かざるを決め込んでたのがこの相澤だ。
あのあと、なんやかんやで復縁し、なんやかんやでまた別れ、そしてまた復縁し、最終的に結婚までいったことは知っていた。だが結婚生活がどんなものだったのかは、詳しく知らない。奥さんとも、あのカチコミ以来顔を合わせたことはない。
「はは、はっきり言えよ、あんなに浮気を疑って、人のこと束縛しまくっといて、自分が不倫するなんて…最低だよ」
相澤は額に手をやり、また「ははは」と乾いた笑いを漏らし、ポツポツと話し続けた。
「仕事終わりはまっすぐ帰れ…残業の時は会社の電話から一時間おきに連絡しろ…どうしても行かなきゃならない酒の席は参加者全員が映った写真を送れ…それでもしょっちゅうスマホを見せろとせがまれたな、おかげで息抜きのエロ動画ひとつ保存できなかったよ」
結婚すればさすがに多少は落ち着くかと思ったが、どうやら彼女のメンタルヘルスは相変わらずだったらしい。
「一つ残らず律儀に守って日々頑張ってたのによ、ある日たまたま体調悪くして早引けして、家に戻って、寝室のドアを開けたら…」
ここまで言ったところで、相澤は言葉を切り、ロックグラスの酒を一気に煽る。そして「ダン!」と大きな音を立ててグラスを置いた。
「しかもあいつさ、責め立てる俺になんて返したと思う?」
「ふつうは、とにかく謝るだろうけど…」
「まさかの『だって寂しかったんだもん!』だぜ?それすらも俺のせいなんだってよ、ほんと、笑えるよ」
「意外と図太いところもあったんだな」
「言ってもいいんだぞ?」
「なにを?」
「それ見たことか、ってな。あんな女と結婚して、上手くいくわけないってお前も思ってただろ?」
「まあたしかに、円満な家庭を築く未来予想図は描けなかったな」
「だろ?素直に笑っていいぞ、その方が気が楽だ」
「笑わないよ…絶対に笑ったりしない…」
結婚すると聞いた時は、正直なところ、心のどこかで「バカなやつだ」と冷笑していた部分はあったかもしれない。いや、間違いなくあった。
だが今の俺は、こいつ以上にバカなことをしている。こっちとら、ちょっとエロい目で見るだけでも法に小指がひっかかるような恋をしているんだ。
バカさ加減もイカれ具合も、俺の方がだんぜん上だ。
「そうか、ありがとよ」
思いの外マジなトーンで返した俺の言葉を受け、相澤は一段とボリュームを絞った声で。ボソリつぶやいた。
今なら理解できる。こいつはこいつで、なんだかんだで、奥さんに惚れていたんだ。
べつにやろうと思えば浮気も不倫もできただろう。そもそも女に不自由するタイプじゃない。
なのに律儀に尽くした。これだけ縛り付けられても、周りからバカだと思われているとわかってても、それでもずっと一緒にいたかったんだ。
俺も、相澤も、なんならこいつの奥さんも、結局は愛だの恋だのに振り回される。
いくつになってもそこだけは変わらず、きっとこの先もそこに関してだけは賢くなれないのかもしれない。
重たい沈黙が俺たちの間におりる。でも不思議と、居心地が悪いわけじゃなかった。
話が途切れたタイミングで、バーテンがまたさりげなく俺たちの方に来る、ちょうど俺も相澤もグラスが空になったところだ。さっきもチラッと思ったが、仕事のできるバーテンだ。
俺たちは互いに同じ酒を注文し、また小さく乾杯した。
そして今度は俺のターンだと言わんばかりに、相澤がブッ込んできた。
「それで?お前はどうなんだ?」
「どうって?」
「惚けんなって、俺の目はごまかせないぞ」
「なんの話だか」
「髪型もファションも急に垢抜けた。若い頃からそのへんテキトーだったお前がだ」
「ただの心機一転さ」
「今日もしょっちゅうスマホをチラ見してただろ?」
「し、仕事で急な連絡が来るかもだし」
「店はもう閉まってるし、直属の上司が目の前にいるってのに、どんな急用があるってんだ?」
「それは…あははは」
相澤は見た目からは想像つかないほど人のことよく見ている。昔からそうだった。
「笑ってごまかすじゃねえよ。なんならもっと飲めよ、そうすりゃ口も軽くなるだろ?よしわかった、正直に言わなきゃボーナス半分カットな」
流れるようなアルハラとパワハラ発言で猛攻をしかけてくる上司に、俺はひたすら苦笑で応戦した。どれだけ凹んでようが、いつまでも暗い雰囲気を引きずらないのも、昔から変わらない。
それと、これも昔から思ってたことだが、やはりあの奥さんに相澤はもったいない。本人に言ったことはないし、これからだって口が裂けても言わないけどな。
カウンターだけのこじんまりとしたショットバーで、互いに気取った酒を頼み、互いのグラスを合わせ、互いに一口飲んだところで、相澤は唐突に切り出した。
客は俺らと席五つほど離れた先に座る、中年の夫婦あるいはカップルしかいない。カウンター越しに立つ、まだ若そうなバーテンは、さりげなく流し台の方に移動し、俺たちから距離をとった。
「理由を聞いてもいいか?」
「聞いて驚け、なんと不倫だよ。しかも俺じゃなくあいつの方がだ」
離婚事由そのものは珍しいモノじゃない。だが、不倫したのが相澤の奥さんであるという事実は、確かに驚くべきことだった。
「確かなのか?」
「真っ最中に出くわしたんだ、証拠もクソもあるか」
「し、信じられないな、だってお前の奥さんは…その…」
なんて言うべきかわからず、言葉に詰まる。
相澤の奥さんは、かつて俺たちが勤める店に乗り込んできたあの地雷系女子なのだ。当時、バックヤードで見ざる聞かざるを決め込んでたのがこの相澤だ。
あのあと、なんやかんやで復縁し、なんやかんやでまた別れ、そしてまた復縁し、最終的に結婚までいったことは知っていた。だが結婚生活がどんなものだったのかは、詳しく知らない。奥さんとも、あのカチコミ以来顔を合わせたことはない。
「はは、はっきり言えよ、あんなに浮気を疑って、人のこと束縛しまくっといて、自分が不倫するなんて…最低だよ」
相澤は額に手をやり、また「ははは」と乾いた笑いを漏らし、ポツポツと話し続けた。
「仕事終わりはまっすぐ帰れ…残業の時は会社の電話から一時間おきに連絡しろ…どうしても行かなきゃならない酒の席は参加者全員が映った写真を送れ…それでもしょっちゅうスマホを見せろとせがまれたな、おかげで息抜きのエロ動画ひとつ保存できなかったよ」
結婚すればさすがに多少は落ち着くかと思ったが、どうやら彼女のメンタルヘルスは相変わらずだったらしい。
「一つ残らず律儀に守って日々頑張ってたのによ、ある日たまたま体調悪くして早引けして、家に戻って、寝室のドアを開けたら…」
ここまで言ったところで、相澤は言葉を切り、ロックグラスの酒を一気に煽る。そして「ダン!」と大きな音を立ててグラスを置いた。
「しかもあいつさ、責め立てる俺になんて返したと思う?」
「ふつうは、とにかく謝るだろうけど…」
「まさかの『だって寂しかったんだもん!』だぜ?それすらも俺のせいなんだってよ、ほんと、笑えるよ」
「意外と図太いところもあったんだな」
「言ってもいいんだぞ?」
「なにを?」
「それ見たことか、ってな。あんな女と結婚して、上手くいくわけないってお前も思ってただろ?」
「まあたしかに、円満な家庭を築く未来予想図は描けなかったな」
「だろ?素直に笑っていいぞ、その方が気が楽だ」
「笑わないよ…絶対に笑ったりしない…」
結婚すると聞いた時は、正直なところ、心のどこかで「バカなやつだ」と冷笑していた部分はあったかもしれない。いや、間違いなくあった。
だが今の俺は、こいつ以上にバカなことをしている。こっちとら、ちょっとエロい目で見るだけでも法に小指がひっかかるような恋をしているんだ。
バカさ加減もイカれ具合も、俺の方がだんぜん上だ。
「そうか、ありがとよ」
思いの外マジなトーンで返した俺の言葉を受け、相澤は一段とボリュームを絞った声で。ボソリつぶやいた。
今なら理解できる。こいつはこいつで、なんだかんだで、奥さんに惚れていたんだ。
べつにやろうと思えば浮気も不倫もできただろう。そもそも女に不自由するタイプじゃない。
なのに律儀に尽くした。これだけ縛り付けられても、周りからバカだと思われているとわかってても、それでもずっと一緒にいたかったんだ。
俺も、相澤も、なんならこいつの奥さんも、結局は愛だの恋だのに振り回される。
いくつになってもそこだけは変わらず、きっとこの先もそこに関してだけは賢くなれないのかもしれない。
重たい沈黙が俺たちの間におりる。でも不思議と、居心地が悪いわけじゃなかった。
話が途切れたタイミングで、バーテンがまたさりげなく俺たちの方に来る、ちょうど俺も相澤もグラスが空になったところだ。さっきもチラッと思ったが、仕事のできるバーテンだ。
俺たちは互いに同じ酒を注文し、また小さく乾杯した。
そして今度は俺のターンだと言わんばかりに、相澤がブッ込んできた。
「それで?お前はどうなんだ?」
「どうって?」
「惚けんなって、俺の目はごまかせないぞ」
「なんの話だか」
「髪型もファションも急に垢抜けた。若い頃からそのへんテキトーだったお前がだ」
「ただの心機一転さ」
「今日もしょっちゅうスマホをチラ見してただろ?」
「し、仕事で急な連絡が来るかもだし」
「店はもう閉まってるし、直属の上司が目の前にいるってのに、どんな急用があるってんだ?」
「それは…あははは」
相澤は見た目からは想像つかないほど人のことよく見ている。昔からそうだった。
「笑ってごまかすじゃねえよ。なんならもっと飲めよ、そうすりゃ口も軽くなるだろ?よしわかった、正直に言わなきゃボーナス半分カットな」
流れるようなアルハラとパワハラ発言で猛攻をしかけてくる上司に、俺はひたすら苦笑で応戦した。どれだけ凹んでようが、いつまでも暗い雰囲気を引きずらないのも、昔から変わらない。
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