21 / 51
21
しおりを挟む
「はあ」
ラーメン屋から出た杏子は、がっかりした表情で、ため息をついた。
「美味しかったじゃないか」
「そうだけんどさー」
と振り向き、さっき出たばかりのラーメン屋を見た。
そこには、それなりの行列ができている。どうやら、俺たちはたまたまピークになる直前に来ただけで、実際には隠れた名店だったわけだ。
「食べた瞬間はキタコレ超穴場発見!?…って思ったのに」
「ははは、すぐに怒涛の勢いで席が埋まりはじめたもんなあ」
街中は、仕事終わりと思しきスーツ姿の男性や、フォーマルな装いの女性などで満ちている。
そろそろ、俺たちもお開きかな。なんだかあっという間だった。
「チッ」
隣から盛大な舌打ちが聞こえ、ギョッとなって彼女を見た。
杏子はスマホの画面を見ながら、険しい顔をしている。スマホは着信を知らせながら、急かすように振動していた。
出るでも拒否するでもなく、震えたまま、杏子は鞄にしまった。
そういえば、この前もひっきりなしに着信がきてたな。
「出なくていいの?」
「いいのいいの」
杏子はそれ以上は何も言わなかった。何も聞くなと醸し出す空気で主張していた。
ひょっとしたら、パパからの着信なのかもしれないな。
出会ったばかりの頃、いまはフリーだと言っていたが、杏子なら一日あれば新しいパパくらい簡単に見つけるだろう。
だから、なんだって話だけど。
きっと俺と違って、仕事も金も時間にも余裕のある男なんだろう。
大手企業の部長クラスか、ノリにノッてるベンチャー社長か、芸能関係なんてのもありそうだ。
だから、なんだって、話だけど。
そのとき、ピキッという音がした。
「え?」
立ち止まり、思わず声をあげた俺。
杏子はそれに反応して、振り向いた。
「え!?泣いてんの!?」
「泣いてる?俺が?」
「だって…」
彼女は俺の頬を指さす、指で触れるとたしかに濡れていた。
同時に、ポタンポタンと街路樹の葉が、音を立てた。
頭のてっぺんに雫が落ちる感覚もした。
「ああ」
と彼女は、雨の降り始めた空を見上げる。
雨音はやがてバラバラと大きな音をたてはじめる。
「うわ!?いきなり!?」
俺は呆然と立ち尽くし、慌てる彼女をぼんやりと眺める。
「なにポケッとしてんの!せっかく買った服が濡れちゃうじゃん!」
杏子は俺の手をとり、少し先にあるコンビニまで小走りで向かった。
俺はあのピキッという音が、また俺の中で鳴ったことについて考えていた。
もちろん、折れた音なんかじゃない。
でも、それなら、あれは…
「やみそうにないね」
コンビニの屋根の下、空を見上げながら、彼女は物憂げに呟く。
雨粒は、アスファルトや木の葉の上を、踊るように跳ねていた。
細かく、激しく、外界を叩く音は、ザーっという伸びやかな単音に聞こえ、一周回って静けさを演出していた。
俺の胸や頭の内も、似たような感じだった。
激しく回りすぎて、止まっているかのようだった。
「もったいないけど、傘買うか」と俺は言う。でもその俺は、渦巻く意識に囚われた俺とは別個体に思えた。
俺たちは、一本しか買えなかった傘をシェアし、駅までの道を歩いた。身長差のため、傘を持っているのは杏子の方なのが、なんとも締まらない。
雨は一向にやむ気配がない。
「さっきはびっくりしたよ、急に泣きはじめたのかと思っちゃった」
「はは、まさか」
「どーだか」
彼女は傘の柄から顔を覗かせ、俺を見おろしながら、柔和に笑った。
「岩城さん、泣き虫だからなあ」
もうダメだ。これ以上は誤魔化せない。
思い当たる節なんて、いくらでもあった。
今日、出かける前、クローゼットの服を引っ張り出して、延々と悩んだー結局バッサリと切り捨てられたが。
昨日だって、セクシー系の動画サイトを漁っていたとき、なぜかギャル系の女優の作品ばかりが気になった。
そのくせ、それを観る気にはなれず、全然雰囲気の違う女優の作品を観たんだっけか。
彼女からの直接的な誘惑を断ってきたのは、杏子が良い子だからってだけじゃない。
彼女にとって数多くいるパパの中に、含まれたくなかったからだ。
なのに、そんなパパの存在が匂うだけで、情けなく、折れるような音をたて、心の表面がひび割れたのだ。
こんな矛盾だらけの情動を連れてくるものなんて、一つしかないだろう。
「岩城さん?さっきからなんか変だよ?」
「へ、変って?」
「なんか変な顔してる」
「元からだよ」
「それもそっかw」
「おいおい」
「うそだよ、今の岩城さんはけっこーいい線いってる」
「アタシのおかげでね」と彼女は、イタズラっぽく、誇らしげに、笑った。
ほらな。杏子が笑えば、全部がどうでもよくなる自分がいる。
もう認めるしかない。
俺は、杏子のことが好きなんだな。
ラーメン屋から出た杏子は、がっかりした表情で、ため息をついた。
「美味しかったじゃないか」
「そうだけんどさー」
と振り向き、さっき出たばかりのラーメン屋を見た。
そこには、それなりの行列ができている。どうやら、俺たちはたまたまピークになる直前に来ただけで、実際には隠れた名店だったわけだ。
「食べた瞬間はキタコレ超穴場発見!?…って思ったのに」
「ははは、すぐに怒涛の勢いで席が埋まりはじめたもんなあ」
街中は、仕事終わりと思しきスーツ姿の男性や、フォーマルな装いの女性などで満ちている。
そろそろ、俺たちもお開きかな。なんだかあっという間だった。
「チッ」
隣から盛大な舌打ちが聞こえ、ギョッとなって彼女を見た。
杏子はスマホの画面を見ながら、険しい顔をしている。スマホは着信を知らせながら、急かすように振動していた。
出るでも拒否するでもなく、震えたまま、杏子は鞄にしまった。
そういえば、この前もひっきりなしに着信がきてたな。
「出なくていいの?」
「いいのいいの」
杏子はそれ以上は何も言わなかった。何も聞くなと醸し出す空気で主張していた。
ひょっとしたら、パパからの着信なのかもしれないな。
出会ったばかりの頃、いまはフリーだと言っていたが、杏子なら一日あれば新しいパパくらい簡単に見つけるだろう。
だから、なんだって話だけど。
きっと俺と違って、仕事も金も時間にも余裕のある男なんだろう。
大手企業の部長クラスか、ノリにノッてるベンチャー社長か、芸能関係なんてのもありそうだ。
だから、なんだって、話だけど。
そのとき、ピキッという音がした。
「え?」
立ち止まり、思わず声をあげた俺。
杏子はそれに反応して、振り向いた。
「え!?泣いてんの!?」
「泣いてる?俺が?」
「だって…」
彼女は俺の頬を指さす、指で触れるとたしかに濡れていた。
同時に、ポタンポタンと街路樹の葉が、音を立てた。
頭のてっぺんに雫が落ちる感覚もした。
「ああ」
と彼女は、雨の降り始めた空を見上げる。
雨音はやがてバラバラと大きな音をたてはじめる。
「うわ!?いきなり!?」
俺は呆然と立ち尽くし、慌てる彼女をぼんやりと眺める。
「なにポケッとしてんの!せっかく買った服が濡れちゃうじゃん!」
杏子は俺の手をとり、少し先にあるコンビニまで小走りで向かった。
俺はあのピキッという音が、また俺の中で鳴ったことについて考えていた。
もちろん、折れた音なんかじゃない。
でも、それなら、あれは…
「やみそうにないね」
コンビニの屋根の下、空を見上げながら、彼女は物憂げに呟く。
雨粒は、アスファルトや木の葉の上を、踊るように跳ねていた。
細かく、激しく、外界を叩く音は、ザーっという伸びやかな単音に聞こえ、一周回って静けさを演出していた。
俺の胸や頭の内も、似たような感じだった。
激しく回りすぎて、止まっているかのようだった。
「もったいないけど、傘買うか」と俺は言う。でもその俺は、渦巻く意識に囚われた俺とは別個体に思えた。
俺たちは、一本しか買えなかった傘をシェアし、駅までの道を歩いた。身長差のため、傘を持っているのは杏子の方なのが、なんとも締まらない。
雨は一向にやむ気配がない。
「さっきはびっくりしたよ、急に泣きはじめたのかと思っちゃった」
「はは、まさか」
「どーだか」
彼女は傘の柄から顔を覗かせ、俺を見おろしながら、柔和に笑った。
「岩城さん、泣き虫だからなあ」
もうダメだ。これ以上は誤魔化せない。
思い当たる節なんて、いくらでもあった。
今日、出かける前、クローゼットの服を引っ張り出して、延々と悩んだー結局バッサリと切り捨てられたが。
昨日だって、セクシー系の動画サイトを漁っていたとき、なぜかギャル系の女優の作品ばかりが気になった。
そのくせ、それを観る気にはなれず、全然雰囲気の違う女優の作品を観たんだっけか。
彼女からの直接的な誘惑を断ってきたのは、杏子が良い子だからってだけじゃない。
彼女にとって数多くいるパパの中に、含まれたくなかったからだ。
なのに、そんなパパの存在が匂うだけで、情けなく、折れるような音をたて、心の表面がひび割れたのだ。
こんな矛盾だらけの情動を連れてくるものなんて、一つしかないだろう。
「岩城さん?さっきからなんか変だよ?」
「へ、変って?」
「なんか変な顔してる」
「元からだよ」
「それもそっかw」
「おいおい」
「うそだよ、今の岩城さんはけっこーいい線いってる」
「アタシのおかげでね」と彼女は、イタズラっぽく、誇らしげに、笑った。
ほらな。杏子が笑えば、全部がどうでもよくなる自分がいる。
もう認めるしかない。
俺は、杏子のことが好きなんだな。
0
お気に入りに追加
34
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。


百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる