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カッコ悪い大人にだけはならないと、あの頃は本気で思ってたんだけどな。
でっぷりとした腹をスラックスに乗せ、満員電車に揺られ、疲れを滲ませた顔を引っさげ、何をするでもなく目を閉じて、険しい顔をしてつっ立っている中年オヤジを見て、学生時代の俺はいつも辟易していた。
出ても出なくても大して変わらんような大学で、大して勉強も努力もせず、漫然と生きていたくせに、大人をコケにすることだけは一丁前だった。
若さゆえの無知、いや、若さのせいばかりにすんのもアレか…
感傷に浸っていると、スマホから鳴り響くアラーム音が、左耳から刺さって無抵抗に右耳を通り抜けた。
何時間も見つめていた白い天井は、カーテンから漏れる朝日に、清潔に照らされている。
きっと窓の外は快晴なんだろう。皮肉なもんだ。
アラームを止め、セミダブルのベッドから足を下ろして、クローゼットを開け、シャツとスーツの上下に着替え、寝室をでた。
8畳のリビングにあるソファには、脱ぎっぱなしのワイシャツと靴下が雑然と積まれている
まとめて洗濯しようと思いながら、もう二週間は経っただろうか。
使用済みの靴下の中から、なんとなくマシそうなやつをとり、かまわず足を通した。
キッチンに目をやると、燃えるゴミの袋が四つまとまっていた。
「しまった」
つい独り言が漏れてしまった。昨日が燃えるゴミの日だったことを思い出したからだ。
次でいいかと後回しにし続けて、やはり二週間も放置している。
廊下の途中にある洗面所に行き、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくり、顔を洗う。
洗面台の白い電球に照らされた顔が、鏡面に映った。
その光は落ち窪んだ目の周囲に黒々とした影を落とし、肌のザラザラとした質感を惨めに際立たせた。
どうやら清潔な光は、人の不健全な様相を引き立てるらしい。おかしなもんだ。
洗顔と歯磨きを済ませ、ジャケットを羽織り直し、廊下の壁にかけてあるカバンを手にとった。
バクン、バクン
心臓が叫ぶように鼓動した。
ドアポストからわずかに陽光が漏れているだけの薄暗い廊下に、俺は立ち往生した。
かすかに荒くなった呼吸と、腹底からせりあがる何かを必死に落ち着かせようとした。
「大丈夫、大丈夫だ」
まじないのように唱えながら、ドアのほうに足を進めた。
「ああ」
また独り言が漏れた。昨日が燃えるゴミの日なら、今日は空き缶の日であることを思い出したのだ。
また来週にしようかと思ったが、さすがに放置しすぎなゴミの山を思うと憚られれる。
リビングに戻り、冷蔵庫そばにある棚のゴミ袋を引っ張り出し、ソファの前のテーブルに足をはこんだ。
栄養ドリンクと、ビールと酎ハイの缶が、まるでドミノのように敷き詰められているテーブルを見て、我ながら酷いもんだと呆れかえってしまう。
ゴミ袋にぜんぶ放り込んでしまおうと身をかがめた瞬間、世界がグラリと揺れた。
実際に揺れたのは、俺の視界であり、足だった。
倒れそうになる体を、グッと押し留めた拍子に、膝がテーブルの端にぶつかる。
缶のドミノが崩れ、ガラガラと床に散らばった。
まだ僅かに残っていた酒が、そうでなくともシミだらけだったグレーのラグに溢れ、沁み込んだ。
今度は世界が滲んだ。実際に滲んだのは俺の網膜だ。
気の抜けた炭酸と、アルコールの匂いがした。なんて惨めで、鬱々とした匂いなんだろうか。
腹底からせりあがっていた何かが、とうとう喉元までやってきた。
俺はトイレに駆け込み、便器の前でうずくまり、嗚咽した。
「うえ!うええええ!」
酷い二日酔いの朝みたいだ。昨晩は一滴も飲んでないというのに。
口からは、無色透明で粘り気のある液体しか出てこない。
当然か。昨日は結局、杏子が頼んだポテトを数本齧っただけで、ほぼ何も食べていないのだから。
「はは、ははは、情けない、情けない、情けない…」
笑いたいのか泣きたいのか、自分でももうわからなかった。
ズブズブと足元がぬかるみ、沈み込んでいくような感覚がした。そのまま泥になって溶けていくんじゃないかとさえ思った。いっそそうなって欲しいとさえ思った。
でも早鐘を打つ心臓が、そんなのは妄想だと告げ、どうしようもなく生きていることを主張した。
すると、唐突に、心臓の真上が微かに震えた。
ブルッ、ブルッ、とまるで宥めるような柔らかな振動だ。
胸ポケットから取り出したスマホを開くと、杏子からの着信だった。
でっぷりとした腹をスラックスに乗せ、満員電車に揺られ、疲れを滲ませた顔を引っさげ、何をするでもなく目を閉じて、険しい顔をしてつっ立っている中年オヤジを見て、学生時代の俺はいつも辟易していた。
出ても出なくても大して変わらんような大学で、大して勉強も努力もせず、漫然と生きていたくせに、大人をコケにすることだけは一丁前だった。
若さゆえの無知、いや、若さのせいばかりにすんのもアレか…
感傷に浸っていると、スマホから鳴り響くアラーム音が、左耳から刺さって無抵抗に右耳を通り抜けた。
何時間も見つめていた白い天井は、カーテンから漏れる朝日に、清潔に照らされている。
きっと窓の外は快晴なんだろう。皮肉なもんだ。
アラームを止め、セミダブルのベッドから足を下ろして、クローゼットを開け、シャツとスーツの上下に着替え、寝室をでた。
8畳のリビングにあるソファには、脱ぎっぱなしのワイシャツと靴下が雑然と積まれている
まとめて洗濯しようと思いながら、もう二週間は経っただろうか。
使用済みの靴下の中から、なんとなくマシそうなやつをとり、かまわず足を通した。
キッチンに目をやると、燃えるゴミの袋が四つまとまっていた。
「しまった」
つい独り言が漏れてしまった。昨日が燃えるゴミの日だったことを思い出したからだ。
次でいいかと後回しにし続けて、やはり二週間も放置している。
廊下の途中にある洗面所に行き、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくり、顔を洗う。
洗面台の白い電球に照らされた顔が、鏡面に映った。
その光は落ち窪んだ目の周囲に黒々とした影を落とし、肌のザラザラとした質感を惨めに際立たせた。
どうやら清潔な光は、人の不健全な様相を引き立てるらしい。おかしなもんだ。
洗顔と歯磨きを済ませ、ジャケットを羽織り直し、廊下の壁にかけてあるカバンを手にとった。
バクン、バクン
心臓が叫ぶように鼓動した。
ドアポストからわずかに陽光が漏れているだけの薄暗い廊下に、俺は立ち往生した。
かすかに荒くなった呼吸と、腹底からせりあがる何かを必死に落ち着かせようとした。
「大丈夫、大丈夫だ」
まじないのように唱えながら、ドアのほうに足を進めた。
「ああ」
また独り言が漏れた。昨日が燃えるゴミの日なら、今日は空き缶の日であることを思い出したのだ。
また来週にしようかと思ったが、さすがに放置しすぎなゴミの山を思うと憚られれる。
リビングに戻り、冷蔵庫そばにある棚のゴミ袋を引っ張り出し、ソファの前のテーブルに足をはこんだ。
栄養ドリンクと、ビールと酎ハイの缶が、まるでドミノのように敷き詰められているテーブルを見て、我ながら酷いもんだと呆れかえってしまう。
ゴミ袋にぜんぶ放り込んでしまおうと身をかがめた瞬間、世界がグラリと揺れた。
実際に揺れたのは、俺の視界であり、足だった。
倒れそうになる体を、グッと押し留めた拍子に、膝がテーブルの端にぶつかる。
缶のドミノが崩れ、ガラガラと床に散らばった。
まだ僅かに残っていた酒が、そうでなくともシミだらけだったグレーのラグに溢れ、沁み込んだ。
今度は世界が滲んだ。実際に滲んだのは俺の網膜だ。
気の抜けた炭酸と、アルコールの匂いがした。なんて惨めで、鬱々とした匂いなんだろうか。
腹底からせりあがっていた何かが、とうとう喉元までやってきた。
俺はトイレに駆け込み、便器の前でうずくまり、嗚咽した。
「うえ!うええええ!」
酷い二日酔いの朝みたいだ。昨晩は一滴も飲んでないというのに。
口からは、無色透明で粘り気のある液体しか出てこない。
当然か。昨日は結局、杏子が頼んだポテトを数本齧っただけで、ほぼ何も食べていないのだから。
「はは、ははは、情けない、情けない、情けない…」
笑いたいのか泣きたいのか、自分でももうわからなかった。
ズブズブと足元がぬかるみ、沈み込んでいくような感覚がした。そのまま泥になって溶けていくんじゃないかとさえ思った。いっそそうなって欲しいとさえ思った。
でも早鐘を打つ心臓が、そんなのは妄想だと告げ、どうしようもなく生きていることを主張した。
すると、唐突に、心臓の真上が微かに震えた。
ブルッ、ブルッ、とまるで宥めるような柔らかな振動だ。
胸ポケットから取り出したスマホを開くと、杏子からの着信だった。
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