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しおりを挟む「ピキッ」
自分の中から音が聞こえた。
小さな音だった。でもたしかに聞こえた。
正確には音が聞こえた「気がした」だ。
俺の体の中にそんな発音機関はないから。
これはたぶん、折れた音だ。
意外だった。折れるときは、大きな音が鳴るもんだと思ってた。
実際には、凍った水溜りを踏んだような、軽くて薄くて、弱々しい音だった。
でも、なんで今日なんだ?
今日は「良い日」だったはずなのに。
昨晩はギリ終電に乗れた。ベッドに入ったのは2時過ぎだった。
体がクタクタで軋んでいたのはいつもどおり。そのくせ、なかなか寝つけないのもいつもどおり。
寝たのか寝てないのかわからないまま朝を迎え、8時に店に来て掃除した。
床をはいているとき、唐突に眩暈がしたけど、別に珍しいことじゃない。
朝から聞くエリアマネージャーの怒声は脳にガンガン響いた。でも平気だったはずだ。慣れてるから。怒鳴られない日の方が珍しいくらいだから。
早番の一人が急遽休みになったから、一人で店開けて、昼前に来た粘着クレーマーの相手をして、なんやかんやで昼飯を食い損ねた。
別に問題ない。もともと食欲なんてない。
そのあと、ベテランバイトからシフトのことで文句を言われて…あれ?これは今日じゃなくて昨日だったっけ?
まあいいか。
とにかく、今日は良い日なはずなんだ。
「2番線、電車が通過します」
回送電車のアナウンスが聞こえた。
線路がやけに近い。いや、俺がいつもより近づいているんだ。
あと三歩進めば、何も見えなくなる。
折れるときは、大きなきっかけがあるもんだと思ってた。
例えばそう…なんだろう、思いつかないや。
あと二歩進めば、考える必要もなくなるか。
なんで今日なんだ?今日は良い日なはずなのに?
なにせ、閉店前に帰れたんだ。
ホームにはまばらながらも人影がある。
線路向こうのラーメン屋はまだ開いている。
家に帰れば、久々に湯船に浸かる時間がある。
だから今日は「良い日」なはずだ。
なのに、どうして、今日に限って、全部終わらせたくなるんだ?
あと一歩進めば、明日は来ない。
そもそも、理由なんてどうでもいいか。
どうせ、もう終わるんだから。
「死ぬなら、一発ヤッてからにしたら?」
「え?」
背後から聞こえた声に、思わず振り向く。
同時に「プアー」だか「ファーン」だかの汽笛が聞こえた。
そして、生暖かい風と共に電車が通り過ぎた。
振り向いた先には、ベンチに座っている女子高生がいた。
白に近い銀髪、ムラのない褐色肌、ワイシャツにだらしなく垂れ下がった青いリボン、限界まで折ったであろう紺のスカート。
そんな絵に描いたようなギャルが、足を組みながら、俺をまっすぐに見据えいた。
「いま、なんて?」
「ヤルことヤッてから死ねばって言ったの」
「相手がいない」
「アタシが相手してやろっか?」
「君と?」
「そう、ついでにご飯も奢ってよ、食べ放じゃない焼肉がいいな」
「そのあとホテルにでも寄って一発ヤルと?」
「一発と言わず何発でも。一晩中付き合ってあげるよ。貰うもんは貰うけどさ」
「つまり援交…いや今はパパ活っていうんだっけか…要するに女子高生を金で買えと?」
俺の質問に、無表情だったギャルはうっすらと笑った。
「だから何?どうせ死ぬのに法律とかドートクとかが気になるわけ?」
たしかに、おかしな話だ。もっとも自殺未遂した男に、パパ活を薦めるこの子だって、十分おかしい。
改めて彼女を見てみた。
ギャルらしい派手なメイクだか、元がそもそも派手な顔をしていそうだ。メイクを落としてもさぞ美人なんだろう。
白いシャツは見事な双丘にはち切れそうになっていて、いかにも男ウケしそうな体つきをしている。
「ねえ、いいじゃん、死ぬ前にいい思いしとけって」と言いながら、彼女は組んでいた足を解いた。
スカートの隙間から、豹柄のパンツが覗く。
いまどきのギャルも、アニマル柄の下着を好むんだな。
そういえば、高校時代のクラスメートだったギャルもこんな感じの履いてた。
ついに卒業まで一言も話さなかったけど、日々オカズを提供してくれるありがたい存在だったな…
そんな思い出がよぎったとき、下腹部に熱が集まってきているのを感じた。
長いあいだ、少用のときしか反応しなかった息子が、ムクリと起き上がりかけていた。
俺は半勃起していた。ギャルのパンツを見て、欲情したのだ。
そして、猛烈なおかしさが込み上げた。
「ふふ」と笑い声が漏れた。
やがて「くくく」という抑えきれない笑いが肩を揺らし、最後は「ンフフフフ」と気持ち悪すぎる笑いが止まらなくなった。
「流石に感じ悪くね?」
棘のある声が聞こえた。俺は笑いながら答えた。
「ごめんw君を笑ったんじゃないんだw」
滲む涙を拭いながら、俺はようやく彼女の目を見た。
「なんていうか、自分の馬鹿さ加減がおかしくてさ」
「確かにバカかもね」
「ああ、まったく」
「そんで?ヤルの?死ぬの?」
「やめとくよ」
「どっちを?」
「両方ともだよ」
俺の答えを聞いた黒ギャルは、まつ毛バシバシの大きな目を三日月のように細めた。
「なーんだ、いろいろ絞りとってやろーと思ったのに」
彼女は軽く握った拳を細かく上下に揺らし、品のないジェスチャーをしながら、ペロリと舌を出した。
「アタシって命の恩人?」
黒ギャルはまた足を組みなおしつつ、俺に聞いた。
その際、俺の視線は名残り惜しむように、スカートの隙間に吸いよせられた。
「見過ぎじゃね?」
「ご、ごめん!」
「で?どうなの?」
「間違いなく、恩人だよ」
俺の返事を聞き、彼女はようやく年相応のあどけない笑顔を見せた。
「じゃあさ、ご飯奢ってもらうくらいの権利はあるくね?」
俺もらつられて笑った。
「確かに、そうだね。好きなもの奢るよ」
「きまり!」
黒ギャルは勢いよく立ち上がり、俺の正面に立った。
思わずのけぞってしまった。
165センチというやや低めの身長である俺だが、それでも女性から見下ろされる経験は初めてだったらからだ。
「いま、デカいって思ったっしょ?」
「いや!そんなことは!」
「いいよべつに、177センチは事実デカいし」
それなら、女性はおろか大概の男よりも大きいということだ。
なんていうか…いろいろなとこが日本人離れしてるな。
視線がつい、ボタンを弾き飛ばさんがごとく主張している双丘に吸い寄せられた。
「ほんとにヤらんでいいの?」
「…重ね重ね申し訳ない、でも遠慮しとくよ」
「ま、とにかく腹減ったわ。なに食べる?」
「君へのお礼なんだから好きなものを…」
「杏子」
「杏子?流石にそんなマイナーな果物が食べられる店はこの辺には…」
キョトンとした俺の返事に彼女は吹き出した。
「ぶっwちげーってw名前だよ名前w君じゃなくて名前で呼んでってこと」
「あ、ああ、じゃあ杏子ちゃんで」
「ちゃんづけとかやめて、なんかキモい。アタシの方がずっと年下なんだから呼び捨てでいいでしょ」
「わかった、そうするよ」
「おじさんの名前は?」
「岩城です」
「じゃあ岩城さん、行こ!」
杏子は俺の手を引いて、駅の階段に向かった。
そのときちょうど、俺が乗るはずの電車がやってきて、プシューっと音を鳴らして扉が開いた。
扉に背を向けて、彼女に手を引かれ、俺は階段を登った。
ここは職場の最寄り駅だ。ただ来た道を引き返しているだけだ。
なのに、まるで新しい世界に踏み出そうとしているかのように、胸が高鳴った。
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