本屋の中の喫茶店

Hatton

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静かな手と騒がしい何か

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この喫茶店の一番の売りは「静けさ」だった。

もっとも、それは僕が勝手に思ってるだけだ。実際には、サイフォン式で丁寧に落とされたコーヒーとか、今どき珍しいフルサービスであるとかで差別化しているんだろう。

大きな書店の中で営業しているためか、僕も含めて、一人で本を開いている客が多い。でも当然ながら、それだけじゃない。ショッピング中と思しき親子。パソコンを開いて、大事なことを、あるいはどうでもいいことを、打ち合わせしている会社員の男女などもいる。

しかし不思議なことに、二人で来ているはずの彼ら彼女らも、一人で本を読んでいる僕と変わらないくらい静かだった。

会話はしていても、それは意図的に抑えられた音量であり、囁きあっていると言ってもいいくらいだ。全員が人に聞かせるのを憚られる内容の話をしている可能性もあるが、たぶん違うだろう。

本屋の中にあるというだけで、ここは会話のための場所ではないという、謎の不文律が生まれるらしかった。

一番騒がしいのは、店員のかけ声や、食器同士がぶつかるカチャカチャ音だが、それが耳障りというわけではもちろんない。そんな音が際立ってしまうほど、静かな空間だということだ。

「お待たせしました」

店員さんが、ハヤシライスを運んで来た。小さなスタンドメニューだけが置いてあるミニマムなテーブルに、白い楕円の器がそっと置かれる。

コトンと、木製のテーブルが軽い音を立て、デミグラスソースの香ばしい匂いがした。

「食後にコーヒーをお持ちしますので」

と一言告げる店員さんに目礼を返し、早速ハヤシライスにスプーンをつけた。

そのハヤシライスは、誰もが想像するハヤシライスの味から一ミリもズレない味わいだった。要は、この上なく普通のハヤシライスということ。

別にそれでいい。ここは本屋の中の喫茶店なのだ。もしフラッと入ったこの店で、想像を遥かに凌ぐ芳醇な香りと味わいのハヤシライスがでてきたら、かえって気後れしてしまうというもの。

ものの十分程度でたいらげた僕は「もう下げてもいいですよ」と声をかける代わりに、テーブルの端っこに空になった皿を追いやる。

そして再び本を開く。「コーヒーをお持ちしますね」と言いながら皿を下げる店員さんに、また目礼を返し、視線を本に戻した。

谷崎潤一郎の耽美な世界にズブズブと沈み込みそうになった意識が……一瞬で引っ張り出された

「お待たせしました。アイスコーヒーでございます」

さっきまでとは別の店員さんが、僕のコーヒーを運んできた。

フッと顔を上げると、彼女は目だけでうっすら笑った。口も笑っているのかもしれなが、マスクをしているのでわからない。

まずコースターを敷き、その上にアイスコーヒーのグラスをそっと置いた。その間に僅かな音も立てなかった。

「ミルクとガムシロップはお使いになられますか?」

「えっと…い、いらないです」

いつもは間違いなく使うはずのガムシロミルクを僕は断った。

「ごゆっくりどうぞ」

フワリと瞳を細めた笑顔を残し、彼女は立ち去った。

心なしか騒がしくなった気がする。本にも今ひとつ集中できない。店内に人が増えたわけでも、ここの不文律を解さない客がやってきたわけでもない。



さっきの店員さんがまたこちらに来た。僕の隣にいた客がいつの間にか帰っていて、その片付けにきたらしい。

そっと丁寧に、コーヒーカップとソーサーを手にとり、ケーキか何かが載っていたであろう小皿を手にとり、最後にスタンドメニューをそっと倒していった。

でもすぐに戻ってきた。今度は手に布巾を持っている。なるほど、倒されたスタンドメニューは「まだ拭いてないよ」という合図だったらしい。

そしてゆっくりと、右の角から丁寧に、彼女はテーブルを拭いた。そしてやっぱりその手は、音ひとつ立てなかった。

「ふう」僕はため息をついた

彼女がコーヒーを持ってきてから、テーブルの掃除が終わって立ち去っていくまでの間、手の中にある小説は一ページたりとも進んでいなかった。

読書を諦めて、伝票を掴んで立ち上がろうとした。でも浮き上がった腰を、また椅子に沈めた。レジで別の客が会計してたからだ。

その客の会計が終わっても、しばらく待った。その間にもう一組が会計を終えた。

やがてレジ付近にいた男性の店員さんが客に呼ばれ、入れ替わるように彼女がレジ付近に立った。

僕は今度こそ伝票を掴んで立ち上がった。腰が角にぶつかった際に僅かにテーブルが動き、「ズッ!」という不快な音を鳴らせてせてしまった。

そしてそれが合図かのように、店員さんがレジに入る。僕は若干目を伏せながらレジ前にたどりつき、伝票を台に置いた。

彼女は伝票を手にとり、それと画面を見比べながら何かを打ち込み、再び視線が伝票と画面を行き来した。

彼女は何をするにしても、丁寧で静かだった。

「お会計1,050円でございます」

「…PayPayでお願いします」

「かしこまりました」

彼女は再び画面を操作し、スキャナを手に持った。

「ではバーコードをご提示ください」

僕はスマホの画面を差し出す。彼女がスキャナを近づける。さっきこっそりと観察していた手が、さっきよりもずっと近くにあった。

短く切られているものの、しっかり手入れされた爪はツヤりと光り、指は長くてほっそりしていた。そして手首から指先に至るまで、バニラアイスのような白さと滑らかな質感を持っていた。

「ピッ」という無機質な音と共に、その手は離れていった。そして彼女は姿勢を正し、僕の顔をしっかり見据えた。

「いつもありがとうございます」と笑顔で言った。

その瞬間、すべての音が消えた。ほんの少しだけ、足の底がフワッと浮いた。その浮力につられるように、僕の口が僅かに開く。

「あの」

「はい?」

「……いえ、ごちそうさまです」

「ありがとうございました」

ガクリと項垂れそうになる首を、精一杯の理性でキープし、店を後にした。

まっすぐ帰る気になれないので、もう少し本屋をウロつくことに。

あらゆる音が無数の紙に吸収されるはずの空間でも、まだ僕の中の何かがドクンドクンと騒がしかった。





















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