卯月ゆう莉は罪つくり

Hatton

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本編1

プロローグは出来レースから始まる

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人にトラウマが刻まれる瞬間を見たことがあるだろうか?

それも、馬でも虎でもなく、ホッキョクグマのーつまり地上最大の肉食獣のー爪と牙で八つ裂きにされるがごとくの、メンタル的スプラッタな光景を見たことがあるだろうか?

幸か不幸か、そんな瞬間を神崎造かんざきつくるは目にしてしまった。

それは2年生のクラスが立ち並ぶ、2階の廊下でのことだった。

たまたま職員室に赴き、用を済ませた帰りの道すがら、職員室からもっとも近い教室である2年A組付近の廊下に、放課後だというのにやけに賑やかな人だかりがあったので、造は興味本位で近づいてみた。

平均よりも少しだけ背の高い彼は、一番後ろからでもその人だかりの中心部がうかがえた。

そこには日に焼けた肌の男子生徒がいた。名前は椎名、2年A組の生徒である。ついこのあいだ陸上部のキャプテンとなったばかりで、体育祭では選抜リレーのアンカーを務め、声援をおくる女子生徒たちに手を振りながら走り、その上で先頭走者を抜きさりゴールした。まあつまり、そういう人間だ。

彼の正面にいるのは小柄な黒髪ミディアムボブの女子生徒、彼女もおなじくA組だ。造の方からは後ろ姿しか見えず、その表情はうかがい知れない。

「がんばれー」

「男を見せろー」

などという声援があちらこちらから発せられていた。二人は同級生たちに囲まれ、その内の何人かはスマホで動画を撮影していて、造の前に立つ女子生徒は後ろ手にクラッカーを隠している。誕生日のサプライズかもしれないが、それなら「がんばる」必要も「男を見せる」必要もあまりないだろう。

まあつまり、そういうことだ。

椎名は一歩前にでて、照れ臭そうに頭をかきながら言った。

「えーっと、同じクラスになって、初めて話した時から気になってて、そんで仲良くなって、外でも遊んだりするようになって、メッセージとかもやりとりするようになって、その…好きになりました!」

周囲から「フゥー」という野次と声援の中間のようなリアクションが入った。あまり緊張感はない。とうの椎名にも不安げな様子はない。

それは当然のことといえた。こんな大掛かりな告白を一か八かでやるやつはいない。すでに内々で合意が取れているけれど、形式的な意味で契約書を交わすみたいなことなのだ。

そして彼は契約書を差しだした。もちろん比喩的な意味で。

「残りの高校生活も、そんでできればその先も、一緒にいたいと思ってます!俺と付き合ってください!」と叫ぶように言い、頭を下げ手を差し出した。

流石にここでは周囲も囃し立てることはなく、グッと沈黙している。造の目の前にいる女子生徒は、すでにクラッカーを構えている。

告白を受けた彼女が、契約書にハンを押すもとい椎名の手をとり、照れ臭そうに「よろしくお願いします」と言い、盛大な拍手と指笛と共に、クラッカーの破裂音が鳴り響くまでが、一連の出来レースのゴールなのだ。

そう、これは出来レースであり、番狂わせなど起こりようがない…はずだった。

しかし彼女はガバッと頭を下げ、はっきりと告げた。

「ごめんなさい」

「パン」

ややフライング気味に紐が引かれたクラッカーの音が、虚しく廊下に響いた。そして雲に隠れていた太陽が顔を出したのか、9月の西日がいきなり窓から差し込み、二人を照らした。

彼の茶色がかった髪は赤みがさし、彼女の黒髪は艶やかな光沢を帯びる。もしも、予定通りにことが進んだのなら、この光は祝福を示唆し、小さな奇跡とさえ言えただろう。

ところが、いまこの廊下は氷点下の世界と化している。よって祝福の光は、ホッキョクグマによる無残な爪痕を、鮮明に浮き上がらせるだけだった。天の上の誰かさんの采配とするなら、かの御神はよほどの早とちりさんか、そうでないならたいそうな皮肉屋だ。

閑話休題。そんなこんなで、永遠とも思える5秒間の沈黙が続いたものの、なんとか巻き返そうと一縷の望みをかけた椎名が口を開いた。

「そ、そういうのいいから!俺マジで言ってんだって!」椎名が引きつった笑みを浮かべながら言う。

「うん、だから私も真面目に答えてる。ほんとにごめんね」少女は頭を下げたまま、ふたたび謝った。

「な、なあ、この空気どうすんだって、なあ!」

泣き出しそうな声の椎名に、周囲は何も言えず、ひたすらに同情的な視線を送っている。ただ動画撮影用のスマホカメラはいまだに二人を収めたままである。

すると少女は顔を上げ、一歩前に出た。

するとなぜか椎名は後ずさった。恐ろしい何かを目にしたかのように。

彼女は手を後ろでくみ、小さく左右に揺れつつ首をわずかに傾けた。

そしていくぶん笑みを含ませた声で、は告げる。

「ねえ、いまどんな気持ち?」

決して大きな声ではないものの、静まり返っているため、しっかりとその声は全員に行き届いた。

そして全員が、声にならない悲鳴を漏らしたのだった。

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