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71.あなたは誰です?

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丘の中をくまなく探している時には、姿が見えなかった。そのチウが、さも当たり前のように樽の脇に立ちつくしていた。白いローブに美しいビーズの刺繍の細い帯を付けている。肩には幅広の白地に金糸の花の刺繍の布を掛け、足には美しい布の靴を履いている。匂いがきつすぎるらしい。

アーヘルゼッヘへ近寄ろうと、樽に半歩近寄って顔をしかめて、半歩下がった。動きが滑らかで、杖が必要なようには見えない。それどころか、初めて町であったときと違って肌が若く、髪がつややかで滑らかだった。その姿は、服装はもちろん、顔立ちも、まるでチウと違っていた。

「チウ。あなたは誰です?」
チウは考え込みながら、まじめに答えた。
「私は陛下の命令で贄になってしまいました。ですから、生きてはいないのですよ」
と言った。もちろん、アーヘルゼッヘの目の前に立っているのは、血肉のある体であり、生きている。

「ふいごを作って滝の水を流していると聞きました」
「どこにふいごがありますか? もう見て知っているのでしょう」
と樽の向こうの岩壁を見ながら言った。

その岩の向こうに平原があり砂漠があって町がある。チウは、アーヘルゼッヘへ視線を戻すと、ほほ笑んだ。温かい笑みだった。しかし、町で見た時のように、ほっとすることもなければ、穏やかな気持ちになることもなかった。目の前にいるのは、チウだった。しかし、アーヘルゼッヘの目にはもう一人の男、人々を岩の上へ突き落し続けた、テンネの姿にも見えた。

その心の動きが見えたらしい、温かい表情のチウから、冷たいおもざしのテンネの顔に悠然と変化する。まるで、アーヘルゼッヘの心を移しているかのように顔が変わった。テンネは言った。

「やっと視線があって来ましたな。で、どうでした? あなたの大人の判断は」
「判断、とは」
と思わず真面目に聴き返していた。テンネはため息をついて分かりの悪い子供に見せるように首を左右に振った。
「わざわざ、後宮にまで連れて来て、あの皇帝の様子を見せて差し上げたのですよ。これが、われわれ北の者と約定をした人間の姿です」
「平和を望む強い心が、年とともに姿を変えて…」
「十年前からああですよ。もともと、あの親もああだった。そして、その親も似たようなものだった。代々続いたあの家系が、我らの一人を陥れたせいで、あの大戦ははじまったのです」
「人間に北の者を捕まえる力などない」
と固い声で言うと、
「いっしょに見たではありませんか。神殿の地下で。私の弟がいたでしょ? 親にすがる子のように近づいて、思い通りにならないならば、何もかも、弟のせいだと言いだしたのです。人間を生み育てたおまえが悪い、と言いながら。この平原で、大量の人間を餓死させようとしたのですよ。あの人間は、この乾いた大地で、絶壁で海に出て漁ができないようにして、水がない、木がない、食料がない、として、それこそ自分の意にそまない人間達を、ここから出れないように、囲い初めて、時を待った」

アーヘルゼッヘは喉が渇いて来た。老人のどんよりした眼が、二つ四つと増えてアーヘルゼッヘを囲んでいるような錯覚を感じた。

「はるか昔、弟は、人間の為に水を引いてやったのです。それだけです。人間は、再び期待していたのかもしれません。しかし、強引に水を引く河を作ったりはできない。ですから、弟は大地の間に身を横たえて、隙間を作って願ったのですよ。今少し、自分のために水を運んでくれまいか、と。大地は己を褥にする弟に同調して、水を僅かに割いたのです。おかげで地下水脈が生まれ、井戸が掘られて町ができた」

テンネともチウともつかない顔で、年老いた幹のような表情を見せてつぶやく。

「人間なぞすべて消えてしまえばいい。そう思ったのは随分昔だったかもしれない。消そうとしはじめ猛烈な反発にあい、北の者も反発をした。あの北の主は烈火の如くたけり狂った。弟は心を閉じてあの帝都から出なくなる。出ればいい。出れば人間の都が一つ消えてしまう。それが何だ? それくらい、弟が起きて話すようになる事に比べたら、なんてことない事だと思うのに。弟は耐えられないと言うのだよ。それをいいことに、人間は、弟に命じるために、神殿を積み上げて、人の命を贄にして、思うままの力を手に入れようとした」

アーヘルゼッヘに向けた顔は乾いていた。

「あんな姿を誰にも見せたくはなかった」
そう呟いた。そして、
「あんな姿になっても人間を大事に思う弟の気持ちには逆らえなかった」
彼が、自分が始めた大戦なのに、自分の力で人間を救いつづけることになる。そんな話をつぶやいた。皮肉さに笑ってしまうと言いながら、目はどこか宙を見つめていた。そして、彼は再び言った。

「成人したものの眼で見て、あの皇帝はどうだ? おまえも守りたいと思うだろうか?」
とアーヘルゼッヘへ問いかけた。
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