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70.水の種の意味

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側近の指示を受けた近衛が、近くの兵士に鋭い声をかけて階段を駆け下りてくる。アーヘルゼッヘは緞帳の下をくぐりぬけ暗い廊下へ踏み込んだ。謁見の間の柱の脇で、兵士が歯を食いしばって中二階を睨んでいた。従者の脇で肩を支える。彼の視界にアーヘルゼッヘはいなかった。近衛の声が聞えると、するどい反発の声が上がった。

アーヘルゼッヘが聞いていたのはそこまでだった。暗闇を暗闇のまま、廊下の壁よりもなお暗い輪郭と、四方にこだまする足音で廊下を感じて、駆けだしていた。

アーヘルゼッヘは、わからなかった。彼らが何におびえて、あの老人の指示に従っているのか、どうしてもわからなかった。いやなら断れるはずだった。全員がいやだと言えば、あの老人の力ではきっと何もできないだろう。

従者を引き上げた時の、側近達の心のうちは空だった。腕を動かし所定の位置まで重さを運んで落としただけで、怒りもなければ恐れもない。あるものと言えば、面倒くさい仕事を終わらせたい一心で動き回った、というものだった。

なのに、仲間が落ちたとたん、恐怖にのどがせり上がり、動きがとまった。それなら、はじめから断っていればいいものを、彼らは自分たちがやったことの恐ろしさではなく、自分たちの皇帝の恐ろしさとして反芻していた。

皇帝の心は単純だった。アーヘルゼッヘでなくても分かったかもしれない。もしかしたら、アーヘルゼッヘが北も者だと思って、心の内で語りつづけていたかもしれない。そのくらいはっきりしていた。

「北の方なら、この者を助けてみよ。さすれば、広大な領地と民と権力をくれてやろう。世界を動かす力をやろう。北の方だと証明してみせるがいい」

と心の声を大にして語っていた。その奥には、北の力に対する欲と、北大陸との有利な駆け引きに対する期待と、北の者だって権力欲で動くだろうと言う周囲にいるお追従を言っている人間達と変わらないと言う嘲笑とが渦巻いていた。

別に力を使ってもよかったのだ。とアーヘルゼッヘは思った。殺めるわけでも戦うわけでもない。人を助けるために力を使うだけだ。北の主がそれで引け目を思うこともなければ、停戦の約定での駆け引きになるわけでもなかった。なのに、アーヘルゼッヘはできなかった。

人間がそんなことをするはずがない、という思いの裏で、老人の皺だらけの手が自分に絡みつこうとしているのが見えて、動けなくなっていたのだ。

アーヘルゼッヘは立ち止まって、思い切りよく額を壁に打ち付けた。目の奥で火花が飛びそうな痛さだった。あの従者の頭には生暖かい血が滴っていた。あの従者は、落ちる前に中二階に押し戻されていたらあんな顔にはならなかった。あんな風に、一歩先の未来も信じられなくなって動けなくなるようなことはなかったはずだ。

アーヘルゼッヘは目を見開いた。暗い視線の先で、ここではない場所の、宴会の間がはっきり見えた。暗殺者の逃亡を許したと言う説明で、兵士と従者が近衛達に囲まれていた。その後から別の兵士が出てくる。二人の兵士が緞帳にある入口に立ち、槍を交差させて立ちつくす。残りの二人が剣を抜くと、ゆっくりと余裕のある顔で廊下に踏み込んできた。壁のランプに火を灯し、待ち伏せを警戒してか、削った岩と床しかない殺風景の岩の廊下で、上や下に明かりを向けて、踏み込んで来る。

アーヘルゼッヘは目をとじた。丘の中、四方へ広がる空間を肌で感じた。地上にあるのと同じように、何層にもなった洞窟の部屋がある。天井から明かりを入れた屋敷もあれば、廊下の明かりだけが頼りで、四角い入口がある扉さえない使用人部屋まであった。会議用の大広間は地上に近くに、厨房は細い天窓のある中腹の洞窟の中に、宮殿の本当の入口は、丘のふもとにあった。

正面に延びるまっすぐな道から丘の岩肌に取り付けられた巨大な門を抜けると、広大なドームがあった。そこが、全ての入口であり、そして、全てのたまり場となっていた。

東部区域の人々はそこに集まっていた。窮状を訴えることはやめていた。それどころか、東部を囲んだ敵兵の話を聞かされて、飛び出していこうとするのを強引に押しとどめられていた。森をくぐった兵士たちはいつの間にか姿を隠し、心の目で探しても見当たらなかった。

森から街へ逃げたのか、もとの兵士の姿に戻ったのか、アーヘルゼッヘには分からなかった。滝を作る人間達はいなかった。丘の中はもちろん、地中深くを見つめてみたが、ふいごを漕ぐ民の姿は見当たらなかった。細い川が見つかっただけだった。

地中を流れる澄み切った透明の流れは、丘のふもとで四方へ流れて散っていた。豊な流れで、渇水を抱えているようには見えなかった。細い川は平原の下を通り、丘へ来る。平原に来る前は、大陸の下を、何層もの大地の層の下をくぐりながら、砂漠の下をかいくぐってくる。大山脈から流れてくる。水は脈々と流れ、大山脈から大陸中に、それこそ、四方へ散っている。丘に来ている水は、その流れの一筋にすぎない。

アーヘルゼッヘが、砂漠の中で見た町は巨木を祭る町だった。遠く、この帝都から見つめると、大樹の根が、地中の層を突き破り、水の層への道を作って、町に水が噴き出していた。

あの小さな町の外れの森に、今は大きな池ができ始めていた。木が生長し、水の層に根を突き刺して、大陸の層に穴をあけ、町に水を吹き上がらせていた。それが、巨木になって、二層目の水脈の水が湧き出し始めたらしい。

アーヘルゼッヘは、ここまで来てやっと、水の種の意味を知った。木の根こそが水の種だったのだ。その昔、あの砂漠に奇跡の大樹が芽吹いて、根で水をくみ出すと、森ができた。町で水が使われて、森でも水が使われて、果樹園でも水が使われて、そのうち水が枯渇しだす。

まずはじめに影響を受けたのが、この帝都。あの町も、もう数百年で砂漠に返るはずだった。帝都の渇水は、あの町の繁栄の為にあった。そして、人の幸せを喜ぶ心が、大樹の根を地下へ伸ばして、大地に次の大穴をあけて、大陸の層を突き破って水脈に行きついて、水が湧き出し、人々が潤いだした。

アーヘルゼッヘは水の流れが豊かになった町の空気を味わった。そして、そこから流れる、細い面のように広がって砂漠の下をうねりくる水の流れを肌で感じた。
「水の種」
大地を割った巨木の根っこが、水の層を膨らませ、帝都へ続く水の層を豊にしだす。
「結局、あの大祭で巨木ができた時に、全ては解決していたのか」
アーヘルゼッヘはつぶやいた。アーヘルゼッヘは貯蔵庫に立っていた。廊下は、樽が四方に積み上げられた小さな倉庫に続いていた。行き止まりで、醗酵した果物の香りが充満していた。
「すべてとは、どの全てです?」
と言う声に振りかえると、チウがそこに立っていた。
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