上 下
56 / 89

56.生の美しさがあった

しおりを挟む
よく見ると、まだ、二十代はじめのように見える。日に焼けて塩焼けした真っ赤な頬の女性で、つるりとした白い絹ようのな頬のパソンに気おくれしているのが見て取れた。パソンがほほ笑むと、女性は見とれたようになり、はっとした顔をして中に逃げ込もうとした。心の声が、恥ずかしい、と言っているのが嫌でも聞こえた。きれいな顔に見とれ、それに比べて自分はと思うと居てもたってもいられなくなる。

「パソン殿、ゼ大臣補佐が呼んでいるのではありませんか?」

アーヘルゼッヘはやるせなくて声をかけた。目がきらきらとした女性だった。アーヘルゼッヘにはない、生の美しさがあった。女性は、ほっとした顔で、顔をあげてアーヘルゼッヘへ感謝の視線を向けて見せた。が、その瞬間、顔が凍った。家人の一人が気がついて、慌てて駆けて来たのだが、間に合わなかった。

女性は、細く息を吸い込んで、湾中に響き渡るような悲鳴を上げた。細く甲高い悲鳴は尾を引いて、女性はそのまま声を出し続けながら卒倒した。駆けてきた家人が両手を伸ばして女性をしっかり抱きとめた。アーヘルゼッヘは震える手で自分のフードを引き上げた。それと同時に、心の耳を全開にした。湾中に恐怖のうねりが広がっていた。

崖下の小道の男は歯をくいしばるようにして道の上を見上げている。船を押しだした男達は、足が絡まるほどの動きに変わる。海辺から怒りと後悔に真っ赤に膨れ上がりそうな気配をもった男が砂利を蹴って大股で近づいてきて、アーヘルゼッヘを者も言わずに殴った。誰かが間に入る間がなかった。アーヘルゼッヘはフードの下で頬を抑えて突っ立ったまま、つぶやいた。
「御妻女に失礼をいたしました」
「何をした!」
底から湧き上がるような声に、
「何も」
「何もしなくて、これが悲鳴を上げるこたぁなかぁ!」
「本当に何も」
と言って、アーヘルゼッヘは、フードの端を静かに持ち上げた。暗がりの中、銀色の瞳が輝いていた。銀の髪が光を放って顔を白く取り巻いていた。男は唾をのんで、妻に両手を伸ばして自分で抱えた。しゃがみこみ、抱えながら、尻込みした。家の扉に背をぶつけると、
「行ってくれ。行ってくだせぇ」
と言いなおした。都会の出だったのかもしれない。ゼ大臣補佐家に知りあいがいたのかもしれない。しかし、今は、漁師で十分だ。こんな者には係わりあいにはなりたくない、と言う、心の声があたりに響き渡りそうなほどの大きさでアーヘルゼッヘへ迫っていた。パソンが、やっと正気になったと言うように、慌てて言った。

「こちらは、やさしい北の方で」
と言いかける。すると、男は、この時初めて、姫巫女がいると気が付いたらしい。男は目を見開いて、それから、首を左右に振った。それから、
「姫巫女様。お願いです。行ってください。そして、チウ閣下の敵をとってきてください」
「従兄上さまが亡くなったと決まったわけではありません」
「なら、亡骸を確かめて、我らの恨みを晴らしてください」
と言った。そして、深く息を吸うと、
「あの方がおったおかげで、我らは北の蛮人から身を守れたのです。あの方がおられるからこそ、我らは人間としての威厳を保つことができたのです。何があっても、あの方を貶めるものを許さないでいてください」
とパソンを見上げながら言うのだった。アーヘルゼッヘへ聞かせていた。

アーヘルゼッヘはフードを深くかぶりなおした。耳をさらに大きく広げた。目の前の男が息を飲んだ。女性が目を覚ました。アーヘルゼッヘへ目を向けると、両手でもがいて男の腕にしがみついた。アーヘルゼッヘは心の耳を海に広げ潮騒を聞いた。岩場で休む鳥の喉を鳴らす声を聞き、崖の上に一気に飛んで、あたりをそよぐ風の音に耳を澄ました。
「誰も気づいてはいないようです。動きはありません」
と言った瞬間、目に強烈な光を感じた。かっと見開いてそちらを見た。巨大な石造建築の石段にチウが仁王立ちしていた。

こちらを見て、石段から左を指示していた。アーヘルゼッヘが左を見るとぱっと明かりが落ちた。この心の目が、光がないくらいで見えなくなることなどないのに、一瞬にして闇になった。驚いて目を見開くと、あたりは静まり返っていた。

星明かりが煌煌と感じられるくらい明るかった。見ると、夫婦が扉の前でうずくまり頭を抱えて震えていた。その脇で、扉にしがみつくようしてしゃがみこんでいるゼ大臣補佐の家人がいた。見まわすと、船に手をかけながら海の中で尻もちついている男たちや、馬を水際まで引っ張ってきて馬ともども人形のように動きを止めてしまっている者もいた。

まるで、錆びた歯車のようにゆっくりと動き出したのはゼ大臣補佐だった。浜辺からゆっくりと振り返ってアーヘルゼッヘへ向かってくる。一歩足をあげて、二歩足をあげる。そうしなければ、別の方へ足が動いてしまうのだ、とでも言いたいような、手を足に添えながらの動きだった。
「北の方ですから」
と言ったのは、青ざめてはいたが、他の人間たちよりずっとリラックスした様子のパソンだった。ゼ大臣補佐は無言でうなずいた。うなずきながら、ぎくしゃくした自分の動きに舌打ちをした。それでも辛抱強く体を動かし、アーヘルゼッヘの前に立つと、
「何をなさったのですか?」
としわがれ声で聞いた。急に何十歳も老けこんだかのような声だった。
「あたりを見回してみたのです」
アーヘルゼッヘは答えた。ゼ大臣補佐は周囲に見せているほど年をとっていなかったのだ、と妙な事を考えた。ゼ大臣補佐の顔を見ながら、
「婦人の声で追手が近くまできているかどうか探ったのです」
「それで、いかがでしたか?」
「誰も。追ってはおろか、海には船もなく、驚いている鳥もおりませんでした」
「そうですか。見てくださったのですか」
「ええ」
「それだけですか? あなたは真昼のように発光していた。ここは昼よりの明るい光に包まれていたのですが、北の方が遠見をなさる時に、そこまで力を使われるとは思えません」
もしかしたら、戦場で何度か見たのかもしれない。アーヘルゼッヘは首を左右に振って否定した。

「私は使っていません。チウ殿です」
「やっぱり生きておられるのですか?!」
とゼ大臣補佐が初めて子供のような声を上げた。パソンが目を見開いて、信じたい、でも信じていいのかが怖すぎる、と言う恐怖を響きを伝えてきた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妹しか愛していない母親への仕返しに「わたくしはお母様が男に無理矢理に犯されてできた子」だと言ってやった。

ラララキヲ
ファンタジー
「貴女は次期当主なのだから」  そう言われて長女のアリーチェは育った。どれだけ寂しくてもどれだけツラくても、自分がこのエルカダ侯爵家を継がなければいけないのだからと我慢して頑張った。  長女と違って次女のルナリアは自由に育てられた。両親に愛され、勉強だって無理してしなくてもいいと甘やかされていた。  アリーチェはそれを羨ましいと思ったが、自分が長女で次期当主だから仕方がないと納得していて我慢した。  しかしアリーチェが18歳の時。  アリーチェの婚約者と恋仲になったルナリアを、両親は許し、二人を祝福しながら『次期当主をルナリアにする』と言い出したのだ。  それにはもうアリーチェは我慢ができなかった。  父は元々自分たち(子供)には無関心で、アリーチェに厳し過ぎる教育をしてきたのは母親だった。『次期当主だから』とあんなに言ってきた癖に、それを簡単に覆した母親をアリーチェは許せなかった。  そして両親はアリーチェを次期当主から下ろしておいて、アリーチェをルナリアの補佐に付けようとした。  そのどこまてもアリーチェの人格を否定する考え方にアリーチェの心は死んだ。  ──自分を愛してくれないならこちらもあなたたちを愛さない──  アリーチェは行動を起こした。  もうあなたたちに情はない。   ───── ◇これは『ざまぁ』の話です。 ◇テンプレ [妹贔屓母] ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾もあるかも。 ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング〔2位〕(4/19)☆ファンタジーランキング〔1位〕☆入り、ありがとうございます!!

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

公爵令嬢は逃げ出すことにした【完結済】

佐原香奈
恋愛
公爵家の跡取りとして厳しい教育を受けるエリー。 異母妹のアリーはエリーとは逆に甘やかされて育てられていた。 幼い頃からの婚約者であるヘンリーはアリーに惚れている。 その事実を1番隣でいつも見ていた。 一度目の人生と同じ光景をまた繰り返す。 25歳の冬、たった1人で終わらせた人生の繰り返しに嫌気がさし、エリーは逃げ出すことにした。 これからもずっと続く苦痛を知っているのに、耐えることはできなかった。 何も持たず公爵家の門をくぐるエリーが向かった先にいたのは… 完結済ですが、気が向いた時に話を追加しています。

ロリっ子がおじさんに種付けされる話

オニオン太郎
大衆娯楽
なろうにも投稿した奴です

【二章開始】『事務員はいらない』と実家からも騎士団からも追放された書記は『命名』で生み出した最強家族とのんびり暮らしたい

斑目 ごたく
ファンタジー
 「この騎士団に、事務員はいらない。ユーリ、お前はクビだ」リグリア王国最強の騎士団と呼ばれた黒葬騎士団。そこで自らのスキル「書記」を生かして事務仕事に勤しんでいたユーリは、そう言われ騎士団を追放される。  さらに彼は「四大貴族」と呼ばれるほどの名門貴族であった実家からも勘当されたのだった。  失意のまま乗合馬車に飛び乗ったユーリが辿り着いたのは、最果ての街キッパゲルラ。  彼はそこで自らのスキル「書記」を生かすことで、無自覚なまま成功を手にする。  そして彼のスキル「書記」には、新たな能力「命名」が目覚めていた。  彼はその能力「命名」で二人の獣耳美少女、「ネロ」と「プティ」を生み出す。  そして彼女達が見つけ出した伝説の聖剣「エクスカリバー」を「命名」したユーリはその三人の家族と共に賑やかに暮らしていく。    やがて事務員としての仕事欲しさから領主に雇われた彼は、大好きな事務仕事に全力に勤しんでいた。それがとんでもない騒動を巻き起こすとは知らずに。  これは事務仕事が大好きな余りそのチートスキルで無自覚に無双するユーリと、彼が生み出した最強の家族が世界を「書き換えて」いく物語。  火・木・土曜日20:10、定期更新中。  この作品は「小説家になろう」様にも投稿されています。

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

処理中です...