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34.異郷にいたのだ

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もしかしたら、アゼルは周囲の反対を押し切って、アーヘルゼッヘを連れて来たのかもしれない。また、パソンは、アーヘルゼッヘの力を止める役目を負っていると思いつめて馬車に乗っていたのかもしれない。

アーヘルゼッヘは、自分が異郷にいたのだと忘れていた。周囲との軋轢を食い止めたからこそ、こんなに穏やかになれた。なのに、まったく気付かなかった。自分は鈍くなったのだろうかと思った。心の声を聞く自分が、こんなに周囲の声を聞かずに過ごすとはありえないはずだった。北を離れたせいで耳が悪くなったのだろうか、と不安に思った。

がしかし、不安を追いかける間もなく、
「わたくしとても嬉しかったのです」
とパソンに言われて意識が今に戻った。何がだろう、とアーヘルゼッヘの顔に書いてあったのだろう。
「だって、わたくしに願う人々は大勢いますけど、わたくしの願いを聞いてくださる方はめったにいませんもの」
とにっこり笑った。どこか、小悪魔めいていた。そう言いながらも、どこででも「お願い!」の一言が通じるのではないだろうかと思わせる笑顔だった。アーヘルゼッヘはタオルを掴んでどっとクッションに倒れこんだ。そして笑った。力が抜けると笑いが沸いた。なんだかバカバカしくなった。

「何もなくてよかったです。誰かを傷つけていたら、きっと後悔していたでしょう。パソン殿のおかげです。ありがとう」
「ですから、わたくしがお礼をいいたいのであって、お礼を言われたいのではありませんわ!」
「どっちでも、いいではありませんか」
「いいえ。わたくし、こう言ったことに、なあなあはよくないと思っていますの。だってね、いつもそうやって、お礼を言われるばかりでは、わたくしの中のお礼は貯まる一方ですもの」
「貯まる一方って、別に量の問題ではないでしょう」
「いいえ。わたくしも、たくさんお礼をいいたのですよ。なのに、わたくしはされて当然の立場ですもの。お礼を言うと、失礼になってしまいますのよ」
「どうしてですか? 言いたいのなら、いくらでも、ありがとうと言ってしまえばいいでしょう」
「いいえ。言わない時には不満があるのだろうか、とみなが思うようになってしまいます。わたくしにお礼を言われるために仕事をなさる方もでてきてしまいます」
「別に構わないのではありませんか? 本当にうれしい時に言っているのだとすぐに気付きますよ」
「わたくしは神殿に努めております。わたくしは巫女です。わたくしになされることはすべて、わたくしのためではなく神々のためなのです。わたくしごときがお礼を言うべきではないのです。ましてや、人々がわたくしのために尽くしはじめるなど、間違ってもあってはならないことなのです。でも、わたくしもお礼をいいたくなるのですわ」
「それなら、神様にお礼をお渡しすれば、貯まりませんよ」
と神への感覚もろくに知らないくせに、アーヘルゼッヘは軽くいった。

巫女姫として尽くされているけれども自分へではないと言う毎日は、よほどフラストレーションが貯まるのだろうと思ったのだ。だから、こんなささやかなお礼程度の話に力説するのだろうと。

すると、パソンは口を尖らせた。文句を言おうとしたらしい。そんな失礼なことはできないとか、神々は知っているのだから自分がわざわざ言うのはそれこそ余計なお節介になってしまうとか。何か、言おうとしたのらしい。が、すぐに、にっこり微笑んで、
「素晴らしい考えですわ。わたくし神々へお伝えすることにいたします」
「よかったですね」
と再びアーヘルゼッヘは軽く流した。重々しく思っていないのに、そんな顔はできなかった。が、目の前のパソンは、満ち足りた笑顔になった。こんなに人を満足させる神と言う存在はどういう存在なのだろう、とアーヘルゼッヘは不思議に思った。

もしも本当にいるのなら、一度会ってみたいものだ、とも思った。それこそが、神を信じる人々に対しては不遜な思いだったのだが、もちろんアーヘルゼッヘは気付かない。それどころか、パソンが、
「わたくしお礼を言われるのも好きですけど、お礼を言いたくなる人々がたくさんわたくしの周りにいるって感じることも大好きですの。きっと神々も同じように思われます」
と言うと、アーヘルゼッヘは、
「人は、神を人に模して造ったと言うのは本当ですね」
と言っていた。パソンが一瞬表情を固めた。
「神々はおられますのよ。人が造ったりはできません」
「そうでした。人の信念の中にいらっしゃるのですよね」
「違います。この世界に存在しておられるのです」
「神と言う意識があるのですよね」
「意識ではなく、存在です」
「どこにでしょう?」
「ここにです」
とパソンは両手を広げて見せた。世界中のあらゆるところに神がおられる、と言う言葉を具現する仕草だった。が、アーヘルゼッヘには分からなかった。それで仕方なく、
「見えません」
と静かに答えた。パソンはうなずき、
「それが普通です。神々は人の目からは隠れておられます。でも、おられるのです。人は忘れてはいけないのですよ。どこにでも神々がおられ、どこででも我らの言葉を聞いている、と言う事実を」

アーヘルゼッヘは、まるで、北の主の存在のようだ、と感じた。

南大陸のことは、太陽の反射があって初めてわかるとおっしゃっておられたけれど、北大陸のことで分からないことはないのではないだろうかと考えた。しかし、言うのは止めた。

パソンから伝わる空気はまっすぐでゆがみがない。穏やかでブレがなく、わずか足りとも神の存在を疑ってはいない。神々に思いを伝えるために焼身しようとしたほどだ。疑っているはずがなかった。それを全く分かっていない自分が神について語っても、心の行き違いにしかならない。ただ、疑問は疑問だったので、思わず聞いた。

「すべてご存知ならば、お伝えしなくてもご存じではありませんか?」
「知っているから言わなくてもいいのだ、と言うのは人間のおごりです。伝えたいと思うことは、相手が知っていたとしても伝えるからこそ価値があるのです。言葉にして初めて、相手に心の機微が通じるように、言葉にして初めて神々はわたくしたちの喜びを感じともに喜んでくださるのです」
何となく、アーヘルゼッヘには分かった。

知識として知っていても、喜びにあふれた波動を感じた方が本当に喜んでいるのだと実感できる。神々にもそう言った実体験を渡してあげたい、と言うようなものなのだろうと思ったのだ。言うと、それは違うと言われそうだが、アーヘルゼッヘはアーヘルゼッヘなりに理解した。

とにかく、ストレス発散の方法が見つかったのだ、よかったよかった、と簡単にまとめてしまった。相手が大事にしている考えをもっと大事にしたいとか、真剣に考えようと言った考えがアーヘルゼッヘにはなかった。

人は人、自分は自分。それこそ、必要になったら、相手は言ってくるだろう、と言う風にしか思わない。それこそが北の者の特徴だったのだが、そんな心の動きが、常に人々と向き合いつづける巫女姫に気づかれないはずがない。

パソンは、アーヘルゼッヘが気持を切り替えて、ベットを出ようと着替えを始めた姿を見て、どことなくさびしい表情を浮かべた。巫女姫としてではなく人間として扱ってくれるアーヘルゼッヘが、神々の気まぐれのように、簡単に心が離れて行ってしまったからだ。しかし、アーヘルゼッヘは気付かない。それこそ、どうして、心の声が聞こえなくなったのだろうと、考えるチャンスだったのだが、気づくことさえできなくなっていた。

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