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31.世界のあり方
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「懐かしい場所だからだと言って、巫女姫の立場をお忘れになられては困る」
とアゼルが言う。パソンが、
「わたくしは忘れてなど」
「なら! 我らの前で、巫女姫がいなくてもよい世界などと言わないことです。我らの中にはそれだけを救いに生きているものもいるのですぞ」
馬も馬車も広い通りを粛々と、威容な建物へ向かって進んでいた。庁舎だと言う。役所に関係する建物や、商人の取引所などが増え、庶民の建物が少なくなっていた。周囲を囲む人々は、木立の向こうで顔が見えない。
「パソン殿。どんな世界を望むにしろ、巫女姫が望むべき世界をお望みください。神々に仕えるものがいなくなる世界など、ぞっとする」
「でも、人がいてもいなくてもどうせ神はおられるのですから」
「パソン!」
とアゼルが声を上げた。それは、帝都の巫女姫に対する声ではなかった。慣れ親しんだ友人を諭すような声だった。
「わかっております。わたくしが行った場所は、神々に使える者が必要な世界です。その世界を維持することで平和になる。実際、穏やかな世界を願っているのですから」
「なら、それ以外があるなどと言わないことです」
「でも、アゼル…」
「巫女姫が世界のあり方を疑っていると、思いたい人間はほとんどいない」
「そうね」
パソンはそう呟いて黙ってしまった。アーヘルゼッヘは、
「信じていないことは、いくら言っても真実になどならない。思っていないのなら、思っているとは言わないことです」
アゼルが苦い声で答えた。
「北の方。あなたには関係ないことだ」
「巫女姫がいない世界の方がいいのなら、そう話せばいい」
「あなたは人間社会を知らないから、そんなことが言えるんだ」
「もちろん、学んだことしか知りません。しかし、別に巫女姫がいない大陸だってあるですから」
「もちろん。偏狭な人間の支配する大陸もあるにはある」
「素晴らしい文化をもった大陸です」
アゼルがいらだったように続ける。
「あなたたちにしたら、人間はみな似たり寄ったりなのでしょう」
「いいえ。みな変化に富んで、われわれの想像を超えた存在です」
「なら、よく分からないと言うことです。口を挟まないでいただきたい」
「そうですね。もちろんです。ただ、パソンは、巫女姫じゃない声で、あなたに話しているように見えたのです。心をつぶした人間は、心のパワーが消えていきます。もし、あなたが本当に巫女姫を大事に思うなら、パソンの本心をつぶさないことです」
アゼルは、もくもくと馬を借りながらアーヘルゼッヘを見た。アーヘルゼッヘはまっすぐ、背の高い思慮深い表情の男を見ながら、
「人のパワーは、我々にはない世界を揺るがす力です。その力を調整する大事な巫女姫だからこそ、人々はこれほど大事にしているのではありませんか? だからこそ、巫女姫を大事に思うのならばこそ、彼女の本心の吐露を受け止める人間が必要でしょう? あなたは、あのパソンの空気を感じていても普通に話しかけられる人間のように見えます。数少ない、貴重な人間なのではありませんか?」
「あなたには関係ないことだ」
と再びいった。が、今度は力が全く入っていなかった。
「あの。いいのです。わたくしを叱っても心がいたまない貴重な人間は、アゼルくらいですから。彼は昔から、幼い私に対してきついのですわ」
「パソン」
と言う、何とも言えない表情のアゼルを無視して、
「わたくしは、チウ従兄上の大事な従妹です。かけがえのない従妹です。無二の親友でありたいアゼルにとっては、私は生まれた時から邪魔者なのですわ」
とつんとした顔で言った。アーヘルゼッヘが思わず笑った。すると、アゼルはむかっとした顔で、
「何を子供じみたことを言っているんだ。おまえは昔っから何もかも分ったような顔で、その実何もわかっていない」
「あら、じゃあなんでいつも、わたくしに意地悪をおっしゃるの?!」
「言うのは意地悪じゃなくて、指導だ! 自分勝手にわがままばかりの小娘に対して、少しでもチウの価値を下げないようにだな」
「まあ、やっぱりチウ従兄上のために、わたくしに難癖を付けていらっしゃったのではありませんか!」
「だから、そうじゃなくて」
と、まるで子供の言い合いだった。そのさなか、御者席から遠慮がちな空咳が聞こえた。三人がはっと前を見ると、アーチ型の門を馬車がくぐろうとしていた。
威容を誇る町の庁舎は、四角い中庭を囲むように建っている。大通りから、外壁のような建物に向い、アーチ型のくりぬかれたような建物の下をくぐり、鉄柵で止まる。トンネルのようなアーチ型の建物の真下が、庁舎の入口、玄関そのものだった。
人の腰丈ほどの鉄柵の向こうに、広場が見えた。広場は薄暗くひんやりしている。山育ちのアーヘルゼッヘにとって、町の空気は乾いていて鼻の中が痛いほどだ。それが、ここではみずみずしい。痛いほどの日差しが消え、広場の向こうのアーチが見える。
光の差す遠いアーチから風が吹くと、緑の香りに包まれる。静かな葉擦れの音が湧き上がる。気がつくと、中央の、大きな広場の真ん中に、一本の木があった。木は太く、ともすれば大きすぎて視界からそれ、そこにあるとは気付かない。濃い樹液の滴る古い木の壁があると錯覚してしまうほどだった。見上げると、蔦の絡まる巨木は上へ行くほど枝を広げて四方へ大きく膨らんで、広場の屋根になっていた。木漏れ日が光のつぶのようにみえた。
「すごい」
アーヘルゼッヘのつぶやきに、アゼルが答えた。
「大陸の誕生とともにある木だ」
誇らしかった。が、アーヘルゼッヘは、
「それは嘘です。大陸ができた時には、木はいまだ存在しなかった」
「あなたは、人の気持ちを踏みにじるのが好きなのか?」
「いえ。そうではありません。そんなつもりで言ったのではなかった。ただ、そう。これは、そんな歴史を作らなくても、十分これだけで素晴らしい。本当に素晴らしい」
と言って木を見たまま動かなかった。アゼルは、そんなアーヘルゼッヘに嫌な気はしなかったようだ。目が穏やかになった。アーヘルゼッヘが、
「大気の全てがここから外へ広がっている。水の生気を大地から吸い上げて人の世へとささげている。人に愛されている木だ。そして、人を愛している木だ」
と宙を見ながら言うと、アゼルは、
「ご神木だからな」
と軽く言った。アーヘルゼッヘは、そんな人間の定義の問題じゃなくて、と言おうとして振り返った。
とアゼルが言う。パソンが、
「わたくしは忘れてなど」
「なら! 我らの前で、巫女姫がいなくてもよい世界などと言わないことです。我らの中にはそれだけを救いに生きているものもいるのですぞ」
馬も馬車も広い通りを粛々と、威容な建物へ向かって進んでいた。庁舎だと言う。役所に関係する建物や、商人の取引所などが増え、庶民の建物が少なくなっていた。周囲を囲む人々は、木立の向こうで顔が見えない。
「パソン殿。どんな世界を望むにしろ、巫女姫が望むべき世界をお望みください。神々に仕えるものがいなくなる世界など、ぞっとする」
「でも、人がいてもいなくてもどうせ神はおられるのですから」
「パソン!」
とアゼルが声を上げた。それは、帝都の巫女姫に対する声ではなかった。慣れ親しんだ友人を諭すような声だった。
「わかっております。わたくしが行った場所は、神々に使える者が必要な世界です。その世界を維持することで平和になる。実際、穏やかな世界を願っているのですから」
「なら、それ以外があるなどと言わないことです」
「でも、アゼル…」
「巫女姫が世界のあり方を疑っていると、思いたい人間はほとんどいない」
「そうね」
パソンはそう呟いて黙ってしまった。アーヘルゼッヘは、
「信じていないことは、いくら言っても真実になどならない。思っていないのなら、思っているとは言わないことです」
アゼルが苦い声で答えた。
「北の方。あなたには関係ないことだ」
「巫女姫がいない世界の方がいいのなら、そう話せばいい」
「あなたは人間社会を知らないから、そんなことが言えるんだ」
「もちろん、学んだことしか知りません。しかし、別に巫女姫がいない大陸だってあるですから」
「もちろん。偏狭な人間の支配する大陸もあるにはある」
「素晴らしい文化をもった大陸です」
アゼルがいらだったように続ける。
「あなたたちにしたら、人間はみな似たり寄ったりなのでしょう」
「いいえ。みな変化に富んで、われわれの想像を超えた存在です」
「なら、よく分からないと言うことです。口を挟まないでいただきたい」
「そうですね。もちろんです。ただ、パソンは、巫女姫じゃない声で、あなたに話しているように見えたのです。心をつぶした人間は、心のパワーが消えていきます。もし、あなたが本当に巫女姫を大事に思うなら、パソンの本心をつぶさないことです」
アゼルは、もくもくと馬を借りながらアーヘルゼッヘを見た。アーヘルゼッヘはまっすぐ、背の高い思慮深い表情の男を見ながら、
「人のパワーは、我々にはない世界を揺るがす力です。その力を調整する大事な巫女姫だからこそ、人々はこれほど大事にしているのではありませんか? だからこそ、巫女姫を大事に思うのならばこそ、彼女の本心の吐露を受け止める人間が必要でしょう? あなたは、あのパソンの空気を感じていても普通に話しかけられる人間のように見えます。数少ない、貴重な人間なのではありませんか?」
「あなたには関係ないことだ」
と再びいった。が、今度は力が全く入っていなかった。
「あの。いいのです。わたくしを叱っても心がいたまない貴重な人間は、アゼルくらいですから。彼は昔から、幼い私に対してきついのですわ」
「パソン」
と言う、何とも言えない表情のアゼルを無視して、
「わたくしは、チウ従兄上の大事な従妹です。かけがえのない従妹です。無二の親友でありたいアゼルにとっては、私は生まれた時から邪魔者なのですわ」
とつんとした顔で言った。アーヘルゼッヘが思わず笑った。すると、アゼルはむかっとした顔で、
「何を子供じみたことを言っているんだ。おまえは昔っから何もかも分ったような顔で、その実何もわかっていない」
「あら、じゃあなんでいつも、わたくしに意地悪をおっしゃるの?!」
「言うのは意地悪じゃなくて、指導だ! 自分勝手にわがままばかりの小娘に対して、少しでもチウの価値を下げないようにだな」
「まあ、やっぱりチウ従兄上のために、わたくしに難癖を付けていらっしゃったのではありませんか!」
「だから、そうじゃなくて」
と、まるで子供の言い合いだった。そのさなか、御者席から遠慮がちな空咳が聞こえた。三人がはっと前を見ると、アーチ型の門を馬車がくぐろうとしていた。
威容を誇る町の庁舎は、四角い中庭を囲むように建っている。大通りから、外壁のような建物に向い、アーチ型のくりぬかれたような建物の下をくぐり、鉄柵で止まる。トンネルのようなアーチ型の建物の真下が、庁舎の入口、玄関そのものだった。
人の腰丈ほどの鉄柵の向こうに、広場が見えた。広場は薄暗くひんやりしている。山育ちのアーヘルゼッヘにとって、町の空気は乾いていて鼻の中が痛いほどだ。それが、ここではみずみずしい。痛いほどの日差しが消え、広場の向こうのアーチが見える。
光の差す遠いアーチから風が吹くと、緑の香りに包まれる。静かな葉擦れの音が湧き上がる。気がつくと、中央の、大きな広場の真ん中に、一本の木があった。木は太く、ともすれば大きすぎて視界からそれ、そこにあるとは気付かない。濃い樹液の滴る古い木の壁があると錯覚してしまうほどだった。見上げると、蔦の絡まる巨木は上へ行くほど枝を広げて四方へ大きく膨らんで、広場の屋根になっていた。木漏れ日が光のつぶのようにみえた。
「すごい」
アーヘルゼッヘのつぶやきに、アゼルが答えた。
「大陸の誕生とともにある木だ」
誇らしかった。が、アーヘルゼッヘは、
「それは嘘です。大陸ができた時には、木はいまだ存在しなかった」
「あなたは、人の気持ちを踏みにじるのが好きなのか?」
「いえ。そうではありません。そんなつもりで言ったのではなかった。ただ、そう。これは、そんな歴史を作らなくても、十分これだけで素晴らしい。本当に素晴らしい」
と言って木を見たまま動かなかった。アゼルは、そんなアーヘルゼッヘに嫌な気はしなかったようだ。目が穏やかになった。アーヘルゼッヘが、
「大気の全てがここから外へ広がっている。水の生気を大地から吸い上げて人の世へとささげている。人に愛されている木だ。そして、人を愛している木だ」
と宙を見ながら言うと、アゼルは、
「ご神木だからな」
と軽く言った。アーヘルゼッヘは、そんな人間の定義の問題じゃなくて、と言おうとして振り返った。
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