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1巻

1-3

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 剣を振るうしか能のない自分にとって、それだけが生き甲斐だから、必死でしがみついて……
 そうして最後のとりでを奪われた結果、この寂しい最期なわけだ。
 視線の先には、天井の岩肌を背に海賊たちの濁った目がこちらを見下ろしている。
 その中の一人、さっきの図体のデカい海賊が巨大なこん棒を振りかぶった。
 覚悟を決め、まぶたをギュッと閉じる。
 ……ああ。最期に一目、陛下にお会いしたかったな……
 最後に脳裏をよぎったのはそんな願望だった。
 身を硬くし、死の衝撃をじっと待つ。
 図体のデカい海賊がこん棒を力任せに振り下ろし、イレーネの頭蓋骨は粉々に……なるはずだった。
 しかし、いくら待っても、その瞬間はやってこない。
 イレーネは目を閉じたままひたすら待った。いいから早く、いっそひと思いにやってくれ。
 心の中で十まで数え、さすがにおかしいと感じ、恐る恐る片目を開けてみる。
 ……ん? なんだ……? なにをしている……?
 張り詰めた空気の中、海賊たちはピタリと動きをとめ、全員が同じ方向を凝視していた。
 そちらにあるのは出入り口だ。
 どうした? そこに、なにかいるのか?
 いぶかしんでイレーネが頭を上げるのと、銀色の稲妻が視界を水平に横切るのは、ほぼ同時だった。
 稲妻に引きずられるようにして、一人の海賊の巨体が横ざまに吹っ飛ぶ。
 ギイィィィンッッッ!!
 鋭い金属の衝突音が、洞窟が震動するほど響き渡った。

「……っ!?」

 妖術かなにかかと思って目をらすと、ガランと地面に転がったそれは十尺はありそうなやりだった。
 目にもとまらぬ速さで飛んできたやりを側頭部にまともに食らった海賊は、やりごと岩壁に叩きつけられたらしい。
 ズルズルズル……と、岩肌を滑り下りる海賊の頭蓋は潰れ、即死していた。
 その場にいる誰もが息を呑む。

「クソッ! バラバがやられたっ!」

 撲殺ぼくさつされるのは私のほうだと思っていたら、まさかの逆転勝利なのか……?
 などと呑気に考えている間に、海賊たちが次々と抜刀して身構える。

「なんだなんだ? 騎士の奴らかっ?」
「なんでもいいわ。血祭りに上げてやるっ!」

 そう言い終わる前に、武装した白銀の騎士がすごい勢いで突っ込んできたと思ったら、キラッと白刃がきらめいた。
 シュィッ! という風を切る奇妙な音が耳をかすめ、耳の裏がゾクッとする。
 同時に、海賊の右腕が肩からちぎれ、ポーンと宙を舞うのが見えた。

「なんだ? ちょっと待っ……。あ……ぐ……」

 その海賊はおろおろと自分の右腕を拾い上げ、しばらく経ってから絶叫した。
 白銀の騎士は腰を低く落とし、二つの剣を交叉させて下段に構え、ひと息で間合いを詰めてきた。髭面ひげづらの海賊が立ちはだかると、白銀の騎士は間髪をれず、二つの刃をズバッと逆袈裟に斬り上げる。
 思わず目を見張った。
 ……速い。そして、重くて、鋭い。
 バツの字に斬られた髭面ひげづらの腰骨から肩口へ向かって、鮮血がほとばしる。

「ぐわあぁぁっ……」

 髭面ひげづらは仁王立ちのまま、断末魔の悲鳴を上げた。
 たぶんもう助からないだろう。肋骨ろっこつが砕かれ、刃先は恐らく心臓まで届いているはずだ。
 素晴らしい切れ味だな、と思わずうなってしまう。

「こ、こんの……っ」

 図体のデカい海賊がよろよろと前に出て、こん棒を力任せに振り下ろした。
 白銀の騎士が上半身をそらしてそれをかわすと、まばゆいブロンドの長髪が一筋、ひらめく。そのまま剣を持った右手を引いて力を溜め、デカブツの心臓を目がけ、グサッとまっすぐ刺し貫く。とても柔らかい物体に針を刺したみたいに。
 ぐるり、と肉をえぐるように刃先が回転するのが見えた。
 簡単そうに見えるが、素人しろうとには到底真似できない。こんな風に渾身こんしんの力を一点に集中させ、心臓を精確に刺し貫くには、かなりの技量がいる。

「……ん……ぐっ……」

 デカブツは一瞬、なにが起きたのかわからないという顔で、こん棒を手にしたまま立ち尽くす。
 その間も、白銀の騎士はもう一方の剣をサァッと真一文字にぎ、別の赤ら顔の海賊の喉笛を斬り裂いていた。
 そして、デカブツのみぞおちをブーツの底で蹴り、ずるりっと刃を引きずり出す。飛び散る血飛沫しぶきの中、心臓をひと突きされたデカブツはすでに絶命していた。
 あっという間に五人やっちゃったよ。まったく大したもんだなぁ……
 イレーネは地べたに転がったまま、感心がとまらない。このときすでに、この流麗ながらも残忍な太刀筋の騎士が何者なのか、はっきりとわかっていた。
 白銀のよろいは黄金でふち取られ、外套がいとうにはハイネン家の紋章である双獅子がほどこされている。
 そう、戦友ラファエルだ。
 ラファエルはやりの名手だが、狭い場所での接近戦においては二刀流の遣い手でもあった。鍛え抜かれた肉体は、重いよろいを着けていても敏捷びんしょうな動きを可能にする。
 武力だけではない。冷静な判断力を持ち、一切の感情を交えず、作戦を完璧に遂行する男だ。
 坊主頭の海賊が大きなブッチャーナイフ――いわゆる精肉屋が解体時に用い、なたのように叩き切るナイフ――を、ラファエルの首目がけて勢いよく振り下ろす。

「うるぅぅぉぉぁぁあああっっ!」

 地獄の底から湧き出すような雄たけびに、一瞬誰がそれを発したのかわからなかった。
 すさまじい気合とともに、強烈な一閃いっせん
 ブッチャーナイフを握った腕がちぎれ飛び、ようやく咆哮ほうこうぬしがラファエルだと気づく。

「うわあっ……」

 右腕が地べたに転がるのを見て、うなだれる坊主頭。その首に容赦なく二刀流の白刃が襲いかかった。洞窟が鳴動する怒号とともに、坊主頭は倒れる。
 肩で大きく息をしたラファエルがこちらを振り返る。美しい頬は返り血で深紅しんくに染まっているが、顔色一つ変わっていない。そのたたずまいは伝説の魔神を彷彿ほうふつとさせた。自然のことわりを破り続ける人類を、裁きの名の下に殺戮さつりくしたという、いにしえの禍々まがまがしい魔神……
 このときふと、イレーネは騎士団内でささやかれているラファエルの通り名を思い出した。
 ――血塗られた大天使ブラッディ・アークエンジェル
 いつもは穏やかな男だが、一度切れると手がつけられなくなる。
 かつてクルムゲンで大きないくさがあったとき、なにをされたのかラファエルが激昂し、獅子奮迅ししふんじんの戦いぶりでおびただしい首を獲った。
 それ以来、騎士たちの間で畏怖いふの念とともにそう呼ばれている。
 剣の腕では誰もラファエルにかなわないのだ。イレーネを除いては。
 ラファエルはイレーネの猿ぐつわを解き、自身もかぶとを脱ぐと、冷ややかに言った。

「なにを考えてる? 単独でアジトに潜入するなど、軽率にもほどがある」
「悪い悪い。ここへ来る途中、アンナに会わなかったか?」

 そう聞くと、ラファエルはかすかに眉をひそめる。

「アンナ? 集落の住民か。いや、会わなかった。まさか……人質に取られていたのか?」
「察しがよくて話が早いよ。応援を呼びに戻るか迷ったが、時間がなかった。逃がすだけで四苦八苦だよ、まったく……」

 縄もほどいてもらい、ようやく手足が自由になる。

「そうか。無事に逃がせたのか?」
「あぁ、なんとか。この辺は貝がたくさん獲れるとかでウロウロしていたから、帰るよう注意したんだが……居残って拉致らちされた。まぁ、家まで送らなかった私の責任だ。代わりに人質になったまではよかったが、万策尽きてさ。来てくれて助かったよ、ほんと……」
「怪我はないか?」

 膝の屈伸運動をし、腕を伸ばして肩をぐるぐる回してみた。

「うん、大丈夫だ。肋骨ろっこつも腕も脚も折れてない。内出血がひどいけど、これぐらいならすぐに治るだろ」

 さすがローゼン家は代々骨が丈夫だと言われるだけある。
 落ちていた自身の長剣を拾い上げてカチリとさやに収め、辺りを見回す。血生ぐさい臭いが立ち込め、死屍累々ししるいるいたる有り様だ。かろうじて生きている奴らも、めいめい傷ついた腕や足を押さえ、うずくまっている。

「あ~あ。まったく派手にやってくれたなぁ。なるべく生け捕りにしたかったのに」

 歩きながら死体を数え、あれ? となる。もう一度慎重に数え直し、嫌な予感でドキリとした。
 ……一人足りない。
 振り向きざま、視界に生き残りの首領をとらえる。そいつはブッチャーナイフを大きく振りかぶり、ラファエルの背中を狙っている。

「ラファエルッ!」

 反射的に体が動いた。
 思いきり地面を蹴り、ワンステップで間合いを詰め、長剣をすらりと抜く。細く息を吸い、低く脇構えしたまま、二人の間に素早く体を滑り込ませた。

「死ねえええっ!」

 首領が叫ぶのと同時に、刃先に意識を集中し、その喉仏を狙って渾身こんしんの力で斜めに斬り上げる……!
 ズバッ、と刃先が肉を深くえぐり、頚椎けいついを砕く手応えを感じた。

「ぐあああっ……」

 苦悶くもんの叫びが聞こえ、生温かい飛沫しぶきが顔にかかる。
 ガランッ、とブッチャーナイフが地面に落ちた。首領は仰向けに倒れ、口から鮮血を吐く。
 ひと呼吸置いてから、長剣を握り直し、しっかりとトドメを刺した。
 ハア、ハアッ、というイレーネの呼吸音だけが、静かな洞窟内に響く。

「……お見事」

 剣のつかに手をやり、抜刀しようとする姿勢のまま、ラファエルはつぶやいた。
 首領が絶命したのを確認し、ため息を吐く。

「無事でよかった。これで七人全員だ。あー、しまったな。首領だけは生け捕りにしようと思ってたのに、勢い余ってやってしまった……」

 ぼやきつつ剣を振って血を払い、さやに収める。
 ラファエルがまだ息のある海賊たちを手際よく縛り上げた。

「まぁ、やってしまったものはしょうがない。応援を呼びに戻ろうか」

 声をかけると、ラファエルは気まずそうに視線を逸らし、ぐるりとこちらへ背中を向けた。

「どうした? ラファエル」

 覗き込むと、彼はさらにバッと顔を逸らす。

「ん……なんだ? おまえ、耳から首まで真っ赤だぞ。酔ってるのか?」

 ラファエルは「違うっ!」とさえぎり、視線を逸らしたままボソボソ言った。

「そんな格好でウロウロするな」
「ああ、これ?」

 言われて自分の体を見下ろす。海賊に身ぐるみがされたせいで、ほぼ全裸だった。残っているのは革のブーツだけだ。
 肌にはミミズれのような傷痕が無数に刻まれている。戦場で敵の刃を受けてきたあかしだ。
 一番大きいのは右胸から下腹部まで斜めに入った傷で、かつてクルムゲンで激戦の最中、ラファエルをかばって受けた名誉の傷である。

「こんなの、おまえは見慣れているだろう? 女の体ごときでいちいち赤くなるな」

 わざと見せつけるように、両手を腰に当て胸を張ってみせる。
 すると、ラファエルは壁のほうを向いてしまった。まるで太陽を極度に怖がるヴァンパイアみたいに。

「失礼な男だな。そんなに嫌がることもないだろ? こんなの、腐るほど見てるくせに」

 ブツブツ文句を言っても、ラファエルは頑なに壁を向いたままだ。背中はかすかに震え、怒っているのかおびえているのか、よくわからない。
 ラファエルはハインスラント隊でもっともモテる男だと断言できる。令嬢や貴婦人たちは、武勇のほまれ高く容姿端麗な彼を見た瞬間、たちまち恋に落ちてしまうのだという。
 ラファエルはそんな女性たちをかえりみず、自由気ままな独身生活を楽しんでいるとかいないとか。
 ……と、これらはあくまで噂ではあるが、あながち間違っていない気がする。
 ゆえに「女慣れしている、経験豊富な男」といえば、一番に思い浮かぶのがラファエルだった。

「そんなに目を逸らすほど汚いか? なら、このまわしい裸体を他の奴らにも見せてやるか。よし、私はこのまま隊に戻るぞ」

 これは半分冗談だったが、半分ヤケクソでもあった。
 出口に向かってスタスタ歩き出すと、背後から「待て」と呼びとめられる。
 ラファエルは黙って外套がいとうを脱ぐと、ふわりとイレーネの肩にかけてくれた。
 素肌がぬくもりに包まれ、不器用な優しさを感じる。

「あぁ、ありがとう……」

 素直に礼を言うと、両肩に置かれた大きな手が名残惜しそうに離れる。
 このとき、なぜか亡くなった父を思い出した。
 ゴットフリートは厳しい軍人だったが、幼かったイレーネには時折優しい一面も見せてくれた。よくゴットフリートに抱えられ、大好きな馬に乗せてもらった。
 あの頃のゴットフリートの愛情と、ラファエルの優しさが、自分の中で不思議とつながる。
 外套がいとうを体に巻きつけ、革の剣帯で腰を縛ったら、それなりに見られる格好になった。

「生け捕りにしなかったことは気にするな。住民が平和に暮らせるなら、それでいい」

 ラファエルがつぶやく。

「あぁ。ミンレヒトの惨状を見れば、悪くない判断だと思ってる」

 ラファエルはうなずくと、イレーネを護るように辺りを警戒しながら先行してくれる。
 それを頼もしく感じつつ、彼のあとに従った。


   ◇ ◇ ◇


 海賊討伐から帰還したイレーネは、怪我の検査のため二日ほど入院することになった。
 ひどかった肩と太腿の打撲は十日ほどで完治するだろう、というのが医者の見立てだ。全身くまなく診察してもらった結果、骨は折れておらず、大丈夫だとお墨付きをもらった。
 気づかなかったのが膝の裂傷で、知らない間に海賊が振り回した刃物にやられたのだろうか、医者いわくここが一番の重傷らしい。数針い、消毒の膏薬こうやくを塗り、包帯を巻かれ、化膿どめの薬草を処方された。
 痛みどめの薬も飲むよう勧められたが、痛みには慣れているからと断った。肩も腕も脚もあざだらけだったが、いつでも全身傷だらけの人生だし、あまり薬には頼りたくない。

「あら、思ったより元気そうじゃない。心配して損しちゃった」

 入院中に訪ねてきた親友のデボラは明るく言うと、つかつかと室内に入ってきて椅子に腰掛けた。馬のしっぽのように髪を一本に縛り、めくり上げたズボンの裾からはふくらはぎが覗いて、男みたいな出で立ちだ。
 イレーネはベッドから上半身を起こし、微笑んでみせた。

「見ての通り、元気だよ。打撲とり傷ぐらいで大したことない」
「賊にやられたって聞いて、びっくりしちゃった。ま、あなたなら殺しても死ななそうだけど!」

 デボラはカラカラと笑う。
 イレーネが入院しているのは、ハインシュヴァイクの町はずれにある、聖グラール病院だ。
 ハインシュヴァイクはハインスラント辺境伯領最大の都市である。肥沃ひよくな土地に恵まれ、農業が盛んで、商工業も発展している。大きな街道があるため交通の要衝ようしょうでもある。
 病室の窓からはランドルフの居城である、ハイネシュタイン城の尖塔せんとうが見えた。

「デボラ、今日は仕事は? 大丈夫なの?」

 そう聞くと、デボラは「全然大丈夫じゃない」と首を横に振った。

「工房は大忙しだけど、あなたが怪我したって聞いてさ。わざわざ抜け出してきたのよ」
「そうなんだ、ありがとう。なんか悪いな」
「いいのいいの。どうせ仕事なんて永遠に終わらないんだから」

 デボラはハインシュヴァイク一の規模を誇る皮革工房の女将おかみさんなのだ。

「けど、大手柄だったわねぇ! 海賊をやっつけたんでしょ? いや~胸がスカッとしたわー! これでしばらくは安心して暮らせるって、集落の人たちは大喜びらしいわよ」
「あぁ、私の手柄ではないんだが。喜んでいるなら、よかった」
「いーのいーの、誰の手柄かなんて関係ないから。平和な暮らしがあれば万事めでたしめでたしよ。で、海賊騒ぎも一段落したし、傷病休暇ってわけ? あなた、ずっと仕事漬けだったからちょうどいいじゃない」

 ニコニコするデボラに、イレーネは「いやー」と困り顔をしてみせる。

「急に休めと言われても……。どう過ごしていいかわからないよ」

 ランドルフから直々に、「大事を取って、しばらく静養せよ」と命じられた。
 ミンレヒトの治安はひとまず落ち着いたし、隊長に就任して以来ほとんど休んでいないイレーネに対する配慮だろう。
 また、ミンレヒトの住民たちがハインスラント隊を「平和をもたらした英雄」として絶賛し、大いに感謝していることから、隊の騎士たちにも褒美と休暇が与えられた。
 騎士団といえども住民たちの声は無視できないのだ。
 なにはともあれ、集落を荒らしていた海賊は壊滅した。いつかまた新たな海賊が海を越えてやってくるだろうが、しばらくは平穏無事に暮らしていける。

「そんなことより、イレーネ……」

 デボラはにじり寄ってきて、小声でささやく。

「賊に襲われたんでしょ? あなた、大丈夫なの? ひどいこと、されなかった?」

 つまり強姦されなかったか? という質問らしい。

「もちろん、無理して言わなくていいよ。あたしはほら寡婦かふだし、もう二人も子供産んでるしさ、それなりの経験と備えがあるから。もし悩んでいるようだったら、頼ってほしいのよ」

 デボラは皮革職人の親方だった夫と五年前に死別した。それ以来工房を継いで、大勢の職人と徒弟を従え、子供を育てながら女将おかみとして立派にやっている。社交術や商才にもけ、工房は今やハインスラントで一、二を争う生産量を誇る。騎士団の防具や馬具の多くはデボラの工房で作られていた。
 デボラはやり手経営者ではあるけれど、情け深い性格なのは間違いない。今日だって誰よりも早く見舞いに駆けつけてくれた。
 デボラは平民、イレーネは男爵家と身分の差はあるが、付き合いは長い。デボラは身分問わず顔が利き、町の治安に関しては騎士団にとっても重要なご意見番であるため、誰からも一目置かれていた。デボラはイレーネの四歳年上だが、お互い女だてらに仕事に生きている共通点もあり、気の置けない関係なのだ。

「心配ありがとう。けど、そういうのはないんだ。ありがたいことに、怪我だけで……」

 デボラは疑わしそうに「本当に?」と目を細める。

「うん、本当だよ。一応そうなりそうな展開にはなったんだが、ギリギリのところでラファエルに助けられた」
「きゃー、ラファエル様! 素敵! さすが副隊長様ね! うるわしいお顔立ちだけでなく、抜群に頼りになるわ~」

 デボラは乙女のように両手を組み、うっとりと頬を染めている。ラファエルは市井しせいの女性たちにも人気だ。

「実は海賊の件にも関連して、デボラに改めて相談があるんだが……」

 イレーネが居住まいを正すと、デボラは警戒するように「なに?」と片眉を上げた。

「前からずっと相談しようと思ってたんだが、なかなか機会がなくて。さすがに弟には言えないし、赤の他人なんて論外だし、やはりデボラに相談するのが一番かなって」
「なによ、奥歯にモノが挟まったような言い方ね。はっきり言いなさいな」

 しかし、いざ言う段になると、猛烈な恥ずかしさが込み上げる。

「その……私の今後の身の振り方については、これまでも何度か相談したと思うんだけど」

 デボラはじっとこちらを見つめ、片眉を上げたまま答えた。

「……相談と言うより、あなたの決意表明かしら。隊長を辞し、遊歴の騎士になって単身旅に出るって話でしょ?」

 うなずくと、デボラが中空を睨む。

「諸国をめぐり、悪を打ち破り、騎士として正義を示す……そういうの、美徳って言うの? あたしにはさっぱりわからないけど。ま、とめはしないわ。ガラじゃないしね」
「実はちょっと違う。名目上は正義のため、ということにするんだが……ちょっと生き方を見直したいと思っていて」

 こんなことを言うのは情けないけれど、イレーネは頑張って言葉を続けた。

「恥ずかしい話なんだが、この歳になって初めて迷いが生じた。今まではハインスラントのため、王国のため、陛下のためって、喜んで身を犠牲にしてきた。平穏な生活を捨て、女として生きる道をあきらめ、騎士として率先して過酷な戦場に身を投じてきたつもりだ。それが正しいんだって、固く信じていたから……」

 ひと呼吸置き、考えをまとめる。胸の内を正直に打ち明けたい。

「だが……ふと、わからなくなった。本当にそうするのが正しいんだろうかって」

 デボラは引き込まれるように身を乗り出し、熱心に聞き入っている。

「つまり、王国のためにと自分を殺し、欲しいものも望みも全部あきらめ、我慢に我慢を重ね、私はやがて戦場で独り死ぬわけだが……それが本当に誰かのためになるんだろうか? だとしたら、それはどうやって証明されるんだろう? ……と、疑問に思ってしまって」

 王国の誰かのために犠牲になり、その誰かは幸せになり……ならば、私はどうなるんだろう?
 私の幸せはどこにある?
 ……幸せって、なに?

「急に自分の人生や幸せについて、真剣に考えてしまって……。けど、こういうのは騎士としてあるまじき迷いだって自分でもわかってる。だから、隊にはもういられない」

 そこまで話すと突然、ガシッと手を強く握られ、イレーネは飛び上がるほどびっくりした。
 デボラは鼻息荒く言う。

「よかった! ほんっとうによかったわ! あなたがそのことに気づいてくれて! あたしはもう、何年も何年もずぅーっと心配し続けてきたの。一切自分をかえりみず、国のため陛下のためって、まるで自殺するみたく最前線に行って、ボロッボロになって帰ってくるあなたを見るたび、どんだけ心配したか……」
「そうだな、たしかに……。デボラは随分前から口酸っぱく繰り返してたな。自分の幸せについて考えろ、って」
「そうよそうよ! ようやくあたしの声が届いたのね!」

 デボラは無邪気に万歳して喜んでいる。
 そこまで心配させていたなんて、申し訳なくなってきた……
 デボラはふたたびイレーネの手を握ると、少し落ち着いたトーンで語った。

「騎士を辞めろって言ってるんじゃないの。結婚だけが女の幸せだと言うつもりもない。ただ、あなたは……あなたならではの、あなただけの幸せを見つけてほしい。いえ、見つけなくてもいい。考えてほしいの、幸せについて」

 考えてほしい、か……
 言われた通り考え込んでいると、デボラは優しく微笑んだ。

「あたしだってあなたと同じように、子供のため、職人たちのため、工房のためって自分を犠牲にしている部分もある。それとこれ、なにが違うのか、説明するのはとても難しいんだけど……。どうか、王国騎士団の操り人形にならないでほしいの。操られてるフリをしながら、うまく幸せを見つけてほしい。幸せについて考えてほしい。そう思ってるのよ、ずっと……」
「デボラ……」

 心配そうな瞳を見ていたら、とうの昔に亡くなった母親を思い出した。もし母親が生きていたら、こんな感じなんだろうか。
 デボラは実の母以上に心配してくれる。それがかけがえのないことに思え、ありがたくて。

「なんだかしんみりしちゃったわね。いいじゃない、遊歴の騎士。じゃんじゃん旅に出ちゃいなさい! 諸方の修道院や城じゃ、騎士はえらく歓迎されるらしいじゃない。手厚くもてなされて、美味おいしいご馳走食べ放題よぉ~」

 デボラは明るく笑っている。彼女はハインスラントきっての情報通だ。商工組合を取り仕切る彼女のところには、騎士や商人や農夫たちの情報が集まる。

「危険はあるだろうけど、あなたなら相当腕は立つし、死にゃしないでしょ。けど、ちょっともったいない気もするわね。せっかく隊長まで上り詰めたのに、安定した俸禄ほうろくを手放すのは」
「だろうね。けど、もう私が隊長の席にしがみつく理由はないんだ」

 今までしがみついてきたのはギルベルトのため、そしてジークハルトを心の支えにしていたからだ。
 大人しい性格でぐずぐずしがちだったギルベルトも、良縁に恵まれ、見違えるようにたくましくなった。今のギルベルトにとって一番大切なのは妻であり、二人の子供だ。そんなギルベルトの成長を姉として見届けられて幸いだった。
 正直、今のローゼン家は居心地が悪い。弟夫婦はいつでも歓迎してくれるけれど、もうあの家はギルベルトの、その子供たちのものであり、イレーネの帰る場所ではなかった。
 口うるさい姉はいないほうがいいだろうし、ギルベルトはローゼン男爵としてしっかり自分の道を歩んでいる。自分はある意味、役目を終えたんだと思う。


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