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1巻

1-2

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 ほんの一瞬、視線が交差し、ドキリとする。
 とても慈悲深い、憐れむような表情をしていたから。
 それだけじゃなく、どこか切なそうに、ひどく苦しそうにも見えたのだ。
 熱した焼きゴテを、ジュッと心に押されたみたいに印象に残る。彼はこの戦いを望んでいない。そのことだけはよくわかった。
 だが、ラファエル。ここは戦いの場だ。悪いが、勝たせてもらうっ……
 勢いで馬上の彼が少しのけぞる、好機到来。両手でやりをぐっと引き、あぶみで踏ん張って立つと、すべての力を結集し、彼の喉元一点を狙って突き出した。

「おらあぁぁーっ!」

 しかし、彼は瞬時に体勢を立て直し、鋭くこちらを睨む。
 ああ、これもまた避けられてしまうのか……と絶望した、そのとき。
 なぜか、穂先が吸い込まれるように彼のほうへ向かっていき、ドスッと鎖骨の間に命中する。
 あれっ? と目を丸くしている間に、彼の体はぐらりと傾ぎ、地面にどすんと落下した。小さな砂埃すなぼこりが立ち、あとには静寂が残る。

「……えっ?」

 戸惑うイレーネを尻目に、紋章官が高らかに宣言した。

「勝者、イレーネ・ローゼン!」

 ワアアアーッ! という大歓声が巻き起こる。ランドルフが笑顔で立ち上がって手を叩き、ジークハルトが満足そうにうなずくのが、視界の端に映った。
 今のは……気のせいか? たしかに手ごたえがあるにはあったが……
 ラファエルのうめき声が聞こえ、慌てて駆け寄り、立ち上がるのに手を貸す。

「ラファエル、大丈夫か?」

 彼は立ち上がって身なりを整えると、小さくうなずいた。

「ああ、完敗だ。おまえの勝ちだ、イレーネ」

 ふたたび会場が拍手喝采かっさいに包まれる。最後の立ち回りが気にはなったが、勝ちは勝ちだ。今は感謝と尊敬を持って勝利を受け入れようと、聴衆に向かって手を振る。
 試合でなにが起きたとしても、それはラファエルが選んだこと。そして、イレーネが選んだことだ。自分はいつだって手加減せずに本気を出すし、結果はすべて受け入れる。天から与えられた使命をまっとうするまでだ。
 この場で騎士としての決意を新たにする。
 こうしてイレーネは見事段位第一位を勝ち取った。
 そして、イレーネの戦いを高く評価したジークハルトが勅命を下し、イレーネをハインスラント隊の隊長に任命したのだった。


   ◇ ◇ ◇


 段位認定試合から、二年後の夏。
 ハインスラント辺境伯領内の北の果て、ノルデン海に面したところにミンレヒトの集落がある。
 ミンレヒトは漁業が盛んで、住民の多くは漁師である。水産加工品もたくさん作られ、特にニシンの酢漬けは美味おいしくて日持ちもすると有名で、大勢の人が遠路はるばる買いに来るほどだ。
 雄大なノルデン海に漁船がただよう情景は素晴らしく、観光地としても注目を集めつつある。
 しかし、北方民族ヴァリス人たちが海を越えて侵攻してくれば、真っ先に戦場となってしまう。
 王国にはようやく平和が訪れたが、ここのところヴァリス人の動きが活発になっていた。徒党を組んで海賊となり、沿岸の集落で破壊と略奪を繰り返している。
 異民族であるヴァリス人は、異教徒でもあり、王国のチャリス教徒を憎悪している。北方の海賊の残忍さは常軌を逸し、哀れなミンレヒトの住民たちは震え上がっていた。
 ハインスラント隊の隊長であるイレーネは、そこに海賊のアジトがあるという情報を得、小隊をひきいて捕縛におもむいていた。
 沿岸は複雑な地形の入り江になっており、無数の洞窟がある。石灰岩が地下水に浸食されてできたもので、中は入り組んで危険なため、一般市民は立ち入り禁止だ。それをいいことに、海賊たちの格好の根城となっていた。
 迷路のような洞窟内を集団で動くのは敵に見つかりやすく、機動力も落ちる。イレーネはいったん隊を散開させ、まずは個々で捜索に当たらせた。アジトの痕跡を見つけたら戻って報告し、隊を整えて総力戦で制圧する手はずだ。
 イレーネ自身も捜索に加わった。あと一歩で追い詰められる手応えがあったし、できれば日没前に決着をつけたい。
 洞窟に足を踏み入れると、内部は意外と明るかった。岩壁や天井に開いた無数の穴から、外の光が入ってくる。だが、日が落ちたら真っ暗になるだろう。
 足音を忍ばせて慎重に進んでいくと、視線の先に人影が現れた。素早く剣をさやから抜こうとし、踏みとどまる。
 ……えっ、ご婦人?
 漁業用のかごを手に持った、ふくよかな中年女性だ。見たことのある顔だと思ったら、ミンレヒトの集落に住んでいる漁師の妻、アンナだった。

「こんなところでなにをしている? ここは立ち入り禁止だろう」

 声をかけると、アンナは「わっ」と驚いて、ばつの悪そうな顔をする。

「騎士様! あらら、見つかっちゃった……。すみませんね、立ち入り禁止なのは知ってたんですけど……。ここの潮だまり、たくさん貝が獲れるんですよ。ほら、こんなに~」

 かごの中には貝がたくさん入っている。

「こんなに~、じゃない! この辺は海賊がいて危ないから、中に入ってはダメだと言っただろう? 少しの貝と自分の命と、どっちが大切なんだ?」

 語気を強めて言うと、アンナは肩をすくめた。

「そう言われてもねぇ。子供が五人もいるとね、生活が苦しくて大変なんですよ! それにあたし、海賊なんかよりこの辺りにゃ詳しいし。子供の頃から庭みたいに出入りしてますから」
「詳しい詳しくないの問題ではない。海賊はもうすぐ捕縛するから、貝を獲るのはそのあとにしなさい。さ、こちらへ。送っていこう」

 手を取ろうとすると、アンナは「いりません!」とイレーネの手をねのけた。

「一人で帰れます。そこの出口を出てすぐのところですから。慣れてるんで結構です」

 アンナはぷんぷんして、さっさと出口に向かって歩き出す。

「頼むから、王国騎士団からの御布令おふれは守ってくれ。君たちのためなんだから」
「はいはい。ったく、うるさいんだから……」

 ブツブツ言うアンナの背中を、やれやれという気分で見送った。危機意識が低くて困る。なにかあってからでは遅いのに。
 だが、アンナの不満も理解できる。昨今の海賊騒ぎのせいで、満足に漁に出られない日が続いている。一刻も早く海賊を捕縛し、住民たちが安心して漁に出られるようにしないと。
 それから、四半時ほど洞窟内をさまよっただろうか。
 通路と呼べるものはなく、横穴も縦穴も無数にある。進んでいるつもりが元の場所に戻ったり、帰るルートを見失いそうになったり、奥へ進むほど狭く複雑になる。
 まったく、これじゃ天然の迷宮じゃないか。隊の奴らは大丈夫だろうか。
 心配しながら、イレーネはさらに奥深くへ慎重に進んでいった。
 しばらくすると……

「ぎゃあああっ!」

 悲鳴が耳をつんざく。女性の声だ。
 ……近い。ここから四十歩か、五十歩か、それぐらいだ。
 なるべく気配を消し、足音を立てないよう、悲鳴が聞こえたほうへ速やかに移動する。
 間もなくひらけた場所に出ると、数人の人だかりが見えた。岩陰に身を隠して目をらすと、武装したガタイのいい男たちばかりだ。ひそひそ、ボソボソ……話し合いをしている。
 ……海賊だ。あの顔は見覚えがあるぞ。
 粗末なテーブルの上には、魚の骨や肉片などが食べ散らかされていた。その脇には酒瓶が転がり、武器が雑然と置かれ、火をおこした跡もある。あちこちにかがり火が配されているのを見る限り、どうやらここがアジトらしい。
 海賊たちは一か所に集まり、中心にいる誰かを見下ろしていた。ジタバタ暴れているらしく、海賊の一人が押さえ込んでいる。
 それが誰なのかわかったとき、イレーネは思わず声を上げそうになった。
 ……おいっ。アンナじゃないか! 帰ったんじゃなかったのか?
 嫌な感じで鼓動が胸を打つ。洞窟を出るフリをし、別の場所に回って貝を獲り続けたのか。そこで海賊に見つかったんだろう。
 ああ、くそっ……。家の中までしっかり送ればよかった……!
 今さら後悔しても遅い。いくら緊急事態だと宣言しても、平気で出歩く人は出歩く。強制的に住民全員を家に閉じ込めることはできない。しかし、今回は無理やりにでもそうすべきだった。

「お、お許しください。貝はすべて差し上げます、どうか、お慈ひんぐっ……!」

 海賊がアンナの口を手で塞ぐ。

「うるせぇな。少し黙れ」

 難易度が急上昇した。人質がいるなら総力戦での制圧は無理だ。作戦を変更しなければ……
 地形を把握し、退路を確認し、敵の数を数える。
 首領が一人。下っ端が五人。奥のほうは暗くて見えないが、他にもいそうな気配がする。騒ぎになれば出てくるだろう。
 ……どうする? せめて人質の役を自分が替われればいいが、交渉したところで話の通じる相手じゃない。急襲してもイレーネ一人の力で瞬殺できるのは、運がよくて三人。アンナは解放されず、イレーネまで捕まるのがオチだ。こちらにもう少し手勢がいれば……
 妙計は思い浮かばない。嫌な感じは強くなる。今、間違いなく一つの命が生か死かの岐路きろに立たされている。応援を呼びにいったん戻るべきか?

「こいつどうすんだ? 縛るんか?」
「いらん。とっとと犯しちまおうぜ」
「オレに最初にやらせろや」

 ガヤガヤとわめき立てるダミ声が静かな洞窟内に反響する。癖のあるなまりはヴァリス人特有のものだ。

「ジタバタしやがる」
「おい、手足を切っちまえ」
「バカか、血が出て面倒だろうが」

 北方の海賊は捕らえた獲物の頭を叩いて潰し、死ぬまでの間に犯すのだ、と噂で聞いたことがある。
 海賊たちの会話に耳を澄ませ、イレーネは方針を決めた。いや、決めざるを得なかった、と言うべきか。
 もう考えている余裕はなかった。深い呼吸に切り替え、精神を統一する。吸う深さを保ったまま、吐く間隔を短くしていく……
 ……死を恐れるな。失敗を恐れるな。やるべきことは一つ。ただそれだけに集中する……
 前傾姿勢で、そっと足を一歩踏み出す。
 極限まで足音を忍ばせ、二歩目、三歩目、だんだんスピードを上げる。
 七歩目、八歩目、両腕を大きく振り、かかとで力強く地を蹴り、全速力で目標めがけて疾走する。

「あ、なんだべ? なんか音がしねが?」

 十歩目で、一人が異変に気づく。

「ああ? なんだっ、おめーはっ?」

 十五歩目で、別の一人がこちらを見た。
 二十歩目、目標地点に到達。海賊たちの脚の間から、おびえて目をくアンナが目に入る。
 低い姿勢のまま、低中高、三点の位置を素早く目視し、剣のつかに手をやる。

「ぃやぁっ!」

 剣を抜きざま、低から斜め上に振り上げ、三点を正確にぎ払った。刃先は一人目の両脚のアキレス腱を断ち、二人目の首を斬り裂き、三人目の両目を掻き切る。三人とも粗末な格好をしていたのが幸いだった。
 手応え充分。
 少し遅れ、悲鳴が上がる。

「ぎゃーっ! 斬られたっ……」
「ぐあああっ、足があぁっ!」

 そのまま勢いを殺さず、体を小さく丸めてクルリと前転し、輪の中心に転がり込む。両足がそろって着地するタイミングで立ち上がり、アンナの状態を確認しつつ、両手で剣を握り直して大きく振りかぶる。

「いだい、いだいよぉぉぉぉ!」
「おぉいっ、敵襲ーっ!」

 気合とともに渾身こんしんの力で振り下ろす。橈骨とうこつと上腕をつなぐ、肘関節の一点を狙う。
 アンナの口を塞いでいた手が前腕ごと吹っ飛んだ。

「ぎゃああああっ! 手っ、手が、オレのっ、腕っ……!」

 両手でしっかりとつかを握り直し、深く息を吸い込む。
 次の一太刀にすべての力を結集させる……っ!
 力強く踏み込み、アンナの正面に立つ海賊を狙って、下から斜め上へズバッと斬り上げた。
 白刃は海賊の首を断ち、血飛沫しぶきとともに空中へ抜け出る。
 ボトッ、と生首が地に落ち、ゴロリと転がった。
 シン……と場が静まり返り、海賊たちの視線が生首に集まる。ヤバイ奴が来た、という緊張と恐怖に縛られ生じる、一瞬の隙。
 アンナから出口までの動線に邪魔者はもういない。イレーネはすかさず絶叫した。

「アンナッ、逃げろ! 今すぐ立ち上がれ! 走るんだっ! 早くっ!」
「えっ? あっ……。え……え……?」

 アンナはへたり込んだまま、目を丸くして呆然としている。
 腕を斬られた男は自らの前腕を拾い上げ、おろおろしていた。アンナを取り囲んでいた海賊たちも驚きに包まれている。
 よし、海賊たちの注意がアンナから逸れた。
 目に力を込めてアンナを睨みつけ、声の限りに一喝する。

「立てっ! 走れっ! おまえの帰りを子供たちが待ってるぞ! こんなところで死んでいいのか? 逃げろっ!」

 子供たち、という言葉を聞いた瞬間、アンナの目の色が変わった。すべきことを理解したらしい。
 早く、海賊たちが攻撃に転じる前に、早く……っ!
 アンナは座ったままジリジリと後ずさると、よろよろと立ち上がった。そして、出口に向かって転がるように走り出す。
 彼女を背にかばう形で、イレーネは剣を正眼に構え直し、海賊たちと対峙たいじした。

「バカがっ! させるかっ!」

 しまった、と思ったときはすでに遅かった。
 背後から海賊にがっちり羽交い締めにされ、振り上げようとした長剣は封じられてしまう。

「うぉいっ! そっちの女も逃がすな! 追えっ!」

 よたよたと走るアンナを、足の速そうな下っ端の一人が追いかけていく。
 ダメだ。まずい……っ!
 とっさにかかとを前に振り出し、勢いをつけて後ろの海賊のすねを蹴った。さらに反対のすねも、交互に何度も。

「ぐわっ……こいつ……っ!」

 羽交い締めが緩まる。しかし、下っ端の手は今にもアンナを捕らえそうだ。
 肩が砕けそうなほど振りかぶり、投げやりの要領で剣を投げつける。長剣は一直線に飛んでいき、グサッと下っ端の背中に突き刺さった。
 周りの海賊たちが息を呑む。
 下っ端はピタリと立ちどまり、崩れ落ちるようにガクッと両膝をついた。

「あ……え……ぐっ……」

 下っ端がゆっくりと地面に倒れ伏す。
 肝臓の辺りを狙ったから、うまくいけば立ち上がれないはずだ。
 すぐさま別の一人が追いすがろうとするのを、大声で引き留めた。

「そこの者、待てっ! あの女を逃がし、私を人質にすれば、巨万の富が思いのままだぞっ!」

 追いすがろうとした奴が足をとめ、「あぁ?」とイレーネを振り返る。

「私は騎士団でも上位の銀騎士だ。ハインスラント段位も第一位だぞ。私を人質にしたほうが破格の身代金を取れる。しかも、あの女より若くて美しいぞ。悪い条件じゃないだろう?」

 美しい、はさすがに盛ったが、嘘も方便である。今は緊急事態なのだ。

「段位一位ってなんだ? すげーのか?」

 ひと際図体のデカい鈍そうな男が首を傾げた。

「そうだ。段位はランキングだ。第一位は一番強いということだ。どうだ? 私にしておかないか?」

 ふふん、と笑ってみせると、海賊どもが激怒して口々に叫ぶ。

「こ、こいつっ、ふざけやがって!」
「おい、ひっとらえろ!」
「クソが! 舐めやがって!」

 一連のやり取りをしている間に、アンナの姿はすでに消えていた。彼女ならここの構造に詳しいから、大丈夫だろう。
 なんとか逃げおおせたか……? よかった……
 内心崩れ落ちるぐらい安堵あんどしたが、悟られないよう平静を保った。
 別の海賊の腕が腰に巻きつき、低く突進してきたもう一人に両脚をすくわれる。そのすさまじい勢いに、成すすべもなくイレーネは仰向けに倒れ込む。ゴツゴツした岩肌に後頭部をしたたか打ち、目から火花が散った。

「……痛ぅっ!」

 周りを取り囲む海賊たちの鼻息がより一層荒くなる。

「ぎゃーははっ! バカが!」
「自分で武器をぶん投げて、丸腰になりがやった!」

 無数の毛むくじゃらの腕が伸びてくる。
 イレーネにできることはここまでだ。アンナを逃がすことができただけでも奇跡に近い。状況は最悪だが、よかったという安堵あんど感のほうが大きかった。

「おいっ、かなりの上玉だぞ! 嘘じゃねぇな」
「いいな。こりゃしばらく楽しめそうだぜ」
「見ろよ、双獅子の紋章だ。位が高いのも本当だぞ。俺知ってんだ。紋章つけてる奴は偉いって」

 触るなっ!
 大声を出そうとした口に、グイッと猿ぐつわを噛まされてしまう。
 海賊たちは手際よくイレーネを後ろ手に縛り、さらにそれを、縛った両脚に結びつけた。
 情けないことに、芋虫のように地べたに転がされてしまう。

「……むむっ! ぐんんっ、ぐんむーっ!」

 必死で声を出そうとすればするほど、海賊たちは愉快そうに笑った。豚のように潰れた鼻。知性のない濁った目。黄ばんだ乱ぐい歯と、太ってむっちりした図体。手配書で見た通りだ。最近、この辺りを荒らし回っている海賊で間違いない。動きはのろく、攻撃はすべて力任せなので奇襲が成功しやすい。
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 海賊のぶよぶよした手に、肋骨ろっこつを痛いほど押さえつけられても、頭の中は冷静だった。
 こいつらが私にかまけている間、そこそこ時間が稼げるな……
 眼球だけ動かし、辺りを確認する。海賊は無力化した奴を除き、騒ぎを聞きつけ出てきた奴らを含め、残り七人。おでこの広い小男が首領だ。
 海賊たちは半裸のイレーネを取り囲み、よだれを垂らす勢いで見下ろしている。今なら効率よく一網打尽にできそうだ。
 小隊には精鋭しかいない。イレーネの異変に気づき、ここへ踏み込んでくるのも時間の問題だ。
 しかし、それまで私は何人相手にしなきゃいけないんだ……?
 想像するだけで気は重いが、仕方ない。そういうものなのだ。
 騎士として叙任されたときから、レーヴェ王国を背負って立つジークハルトに、身も心も捧げている。任務のためならすべてをなげうつ覚悟はできていた。
 ――勇ましく、礼儀正しく、そして忠実であれ。
 叙任式のとき、当時王太子のジークハルトの御前にひざまずき、たまわった言葉だ。
 揺るぎない忠誠と軍事奉仕。それらと引き換えに、騎士は領主から保護、扶養され、チャリス教会からは魂の救済を約束される。異教徒との戦いで死ねば天国に行けるから、死ぬのは怖くない。
 騎士になってから数多あまた戦禍せんかをくぐり抜けてきた。戦友たちの無残な死も目にしてきたし、虐殺や略奪を前に成すすべなく撤退した夜もある。
 惨状をこの目に焼きつけながら、いつも心のどこかで覚悟していた。
 いつか自分の番が回ってくる、と。
 自分で言うのもなんだが、イレーネはあまりいい人間ではなかった。戦場で敵を殺してきたし、お世辞にも心優しき善人とは言いがたい。ここで死んだら死んだで、それも運命だろう。
 海賊のアジトに乗り込んで民間人を助け、果敢に戦い、殉職じゅんしょくしたなら聞こえは悪くない。騎士として名誉の死を遂げれば誰にも迷惑はかからず、ハインスラント隊の、さらにはローゼン家の名も上がるというもの。
 どうせいずれ戦場で散る身だ。今散るのと数年先に散るのと、なにが違うんだろう?
 もし私が死んだら、悲しんでくれる人はいるだろうか……?
 そんなことを考え、弟のギルベルトの顔が浮かぶ。
 四歳年下のギルベルトだけが唯一の肉親だ。母親はギルベルトを産んで間もなく亡くなり、父親のゴットフリートも今から十年以上前、戦地で名誉の死を遂げている。
 イレーネは長らく親代わりとなり、子供だったギルベルトを養ってきた。騎士になったのは、父の意向とギルベルトを養育するためもある。
 そんな生活を苦に思ったことはない。聡明で器量のいいギルベルトは自慢の弟だったし、ローゼン家を立派に継いでほしかった。
 この国では、爵位を相続できるのは基本的に長男だけ。次男三男たちは騎士になって戦争に行き、戦利品を得て家を支える。娘たちの多くは家臣に嫁ぎ、領主との結びつきをより強固にする。
 昨今では、名誉騎士であるアリーセ王妃に憧れ、騎士になる女性が急増している。戦果を挙げれば一攫千金いっかくせんきんも夢じゃないし、農業や手仕事をするよりはるかに稼げるので、女性の社会進出のよき手段となっていた。
 私が殉職じゅんしょくしたら、陛下は私の名を憶えてくださるだろうか? 陛下の命で海賊討伐に向かった、この私のことを……
 このに及んで、まだどうにかしてジークハルトの心に爪痕を残そうと足掻あがいている自分がひどく哀れだ。
 感傷にひたる間もなく、海賊の膝に髪を踏みつけられ、あまりの痛さに「ぐぇっ!」とうめく。伸ばしっぱなしで手入れもしていない髪だから大事にしているわけじゃないが……

「どうする? もうヤっていいか?」
「ああ、とっととヤろうぜ」

 ビリビリッ、と肌着まで引き裂かれ、イレーネの裸体を目にした海賊たちが「おおおっ! すげぇ!」と、興奮でどよめいた。
 いや。やっぱり嫌だな、このまま慰みものにされるのは。なんとか脱出できないか……?
 そう我に返り、気合を入れ直す。無理だとはわかっていたが、最後の抵抗を試みた。

「いってぇっ! なんだこいつっ、頭突きしてきやがったっ!」
「いだだだっ! なにすんだっ!」
「なんちゅー石頭だ。こっ、こんのアマ……ッ!」

 ドカッ! と、思いきり胴体を蹴り上げられ、あまりの衝撃に息がとまる。

「んぐふっ……!」

 胃の内容物が逆流してきて、吐き出しそうになるのをかろうじてこらえた。
 海賊たちは一斉に色めき立つ。

「こいつ、半殺しにしてからヤらねぇとダメだ!」
「でないと、俺たちの頭をカチ割られちまうぜ」
「そうだな。おい、そっちを押さえつけろっ!」

 瀕死の獣をさばくときのように、地べたに押さえつけられた。
 はぁ……。海賊に犯される最期になるなら、普段から準備しておけばよかったなぁ……
 二十八歳にもなって男性経験がないことが悔やまれる。
 十七歳で叙任を受け、正騎士となってから毎日戦いに明け暮れてきた。女だからと舐められたくなかったし、男顔負けで数多あまたの勲章を手にした結果、言い寄ってくる男はいなくなった。
 そもそも心はジークハルトに捧げていたから、そんな気持ちにもなれない。
 ふと、親友のデボラに言われたことを思い出す。
 ――あなた、真面目すぎるのよ。一つのことに囚われがちな依存体質ってこと。思い詰めて自分で自分の首を絞めないよう、注意なさい。
 そうなのかもしれない。ジークハルトを想うあまり、長らくその気持ちに囚われてきた。


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