男装騎士は王太子のお気に入り

吉桜美貴

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1巻

1-2

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 ノイセンはさらに、真北からやってくるヴァリス人、東からはコラガム人の侵攻におびやかされていた。もしいずれかと戦になれば、機に乗じてインゴル公に攻め込まれるのは目に見えている。
 病に倒れたルートヴィヒに代わり、ジークハルトは四方ににらみをきかせながら、綱渡りのような外交をしていた。
 さて、城門を出た二人は城下町リウシュタットを抜け、ケムエルツの町をひと息に走破そうはする。
 いくつかの小さな集落を抜け、昼過ぎには教会領とのさかいまできていた。
 教会領といっても鬱蒼うっそうとした森が広がる未開の地だ。野犬やおおかみや熊が出るので一般市民は近づかないが、インゴル公領へは森を抜けるのが近道になる。
 街道とは名ばかりで、獣道並みの悪路にアリーセが四苦八苦していると、前方のジークハルトが歩調を緩め、ひらりと黒馬から降りた。うしろからアリーセが近づいていくと、ジークハルトは森の奥をにらんだまま、すっと腕を真横に伸ばす。
 止まれ、という意味らしい。アリーセは黙って馬をとめ、地に降りた。

「どうかし……」

 たんですか?
 言い終わらないうちに、ジークハルトはこちらをにらみ、人差し指を唇に当てた。
 黙ってろ、という意味らしい。
 ジークハルトは周囲にじっと耳を澄ませている。
 アリーセはきょろきょろと辺りを見回した。深い森の中は薄暗く、当然ながら人気ひとけもなく、高く生い茂った下草のところどころに残雪が光る。
 突然、ジークハルトにものすごい力で突き飛ばされた。

「……っ!?」

 アリーセの体が、ぐらりとうしろに傾く。
 すると、すぐ目と鼻の先を、ヒュンヒュンヒュンッ、と数本の矢が掠めた。
 どさっと尻もちをつき、あっけにとられ、そこの大木に突き刺さった矢を見つめる。
 ……あ、し、死んでた。今、突き飛ばされてなかったら、私、死んでた……

「来るぞ」

 鋭く言いながら、ジークハルトは外套がいとうを脱ぎ捨て、すらりと抜刀ばっとうした。
 慌ててアリーセも立ち上がり、短剣を抜くと、頭上から黒い影が次々と襲い掛かってくる。

「……っ!!」

 アリーセは素早く反応した。瞬時に地を蹴り、うしろへ飛びすさる。
 敵の刃が空を切ると同時に、ジークハルトがひと息にそいつの首を一刀両断した。
 にぶい音を立て、生首が草むらに落ちる。
 その冷酷な太刀筋たちすじにゾッとしながら、アリーセは短剣を構えた。気づくと二人は囲まれている。
 敵の数は七……いや、八人。黒装束くろしょうぞくに身を包み、目深まぶかにフードを被り、長剣を構えていた。
 どうやら、話し合う気はまったくなさそうだ。
 アリーセが右サイドへ短剣を投げるのと、ジークハルトが左サイドへ斬りかかるのは同時だった。
 アリーセは二歩で一気に間合いを詰め、襲い掛かる刃を身をひねってかわす。
 それはジークハルトの剣に比べたら、冗談みたいに遅かった。
 落ち着いて、一人目の心臓に短剣を深く刺す。次いで、二人目が振り下ろしてきた刃を短剣で受けとめ、反対の手で三人目の喉笛のどぶえ目がけて短剣を投げた。
 攻撃は見事命中し、刺客は膝を折るように倒れる。
 二人目とつばぜり合いして素早く身を引き、敵がよろめいた隙に背後に回り、延髄えんずいを一突き。
 刃先が皮膚を裂き、神経組織に食い込む、嫌な感触。

「うしろだっ!」

 ジークハルトの鋭い声に、体が自然と反応した。振り向きざまに短剣を突き立てると、背後の刺客はどうと倒れる。
 ……しまった!
 ひやっとした時にはすでに、正面の刺客が長剣を振りかぶっていた。同時に、右斜め前から別の刺客が跳躍ちょうやくするのが目に入る。
 どちらを先にすべきか悩み、対応が一瞬、遅れた。
 その時、黒い影が疾風しっぷうの如くアリーセと刺客の間に割り込む。
 まばゆい銀髪がきらめくのが、網膜に残った。
 黒い長剣が、一閃いっせん
 刺客の右腕が、付け根から切り離される。
 ジークハルトは返す刀で、飛び掛かってきた敵の首をね飛ばした。
 赤い鮮血が、慈悲じひな王太子の白い頬を濡らす。
 アリーセは短剣を握りしめたまま、思わず見惚れた。
 すごいっ……。強くて、綺麗……
 右腕が落ちて残雪に当たるにぶい音。響く絶叫。回転しながら飛んでいく生首。
 まさに暗黒の剣だと思った。この御方は実戦では段違いだ。速さも力も切れも。
 ジークハルトはアリーセを背にかばい、視線を左右に走らせた。飛んできた矢を鮮やかにかわし、たくましい体をひるがえす。
 こちらを振り返った彼と目が合い、その冷たい瞳に恐怖した。
 ジークハルトは眉ひとつ動かさず、アリーセの喉元目がけ、まっすぐ剣先を突き出す。
 肩がビクッと震える。
 刺された、と思った。
 実際には、剣先は首筋から紙一重横にずれ、背後からアリーセを襲おうとしていた刺客の喉笛のどぶえを、串刺しにしていた。ジークハルトがそのまま剣を水平になぐと、血しぶきを上げながら刺客は絶命する。

「油断するな」

 息がかかるほど近くで、ジークハルトはつぶやいた。
 なぜか背中が震えながら、アリーセはうなずく。短剣を握り直し、やたら胸がドキドキした。
 王太子を守る護衛騎士ですって? お笑いだわ……。むしろ、守られているのは私のほうだ。
 斬りかかってきた太刀たちをひらりとかわし、アリーセは最後の一人をしっかり始末した。
 暗殺者は下草の中に沈む。
 その時、死角からアリーセの後頭部目がけ、数本の毒矢が放たれた。

「ボサッとするな!」

 ジークハルトは一喝いっかつし、空中を飛んでいる毒矢を、電光石火のごとく叩き落とす。
 アリーセは思わず目を見張った。
 ……ど、どういう動体視力してるわけ?
 うしろを振り返ると、毒矢を放った敵の姿は見えなかった。もう逃げたのかもしれない。
 追うべきかな?

「追わなくていい」

 こちらの気持ちを読んだように、ジークハルトは言った。
 暗殺者の気配は消え、周りは死屍累々ししるいるいたる有り様だ。幸いなことに二人は無傷だった。
 アリーセは安堵あんどの息を吐く。

「ありがとうございました。申し訳ございません」

 心から深々と頭を下げる。彼を護衛するどころか反対に守られてしまった。
 ジークハルトは無視し、優美に長剣を振るうと、カチリとさやに収めた。つややかな銀髪が風になびいて、サラサラと輝く。
 この御方は、本当に綺麗だなぁ……
 すっかり感心してしまった。生まれてこのかた、これほどの美男子を見たことがない。
 王族って、生まれながらにしてここまで強烈な威光があるものなのかな……
 たぶんそれは血だけじゃないと思えた。きっと彼の精神的なものが成熟しているからだ。
 人間としてもっとも完成された、精神と肉体の調和。その深みが周りを圧し、見る者に強い印象を与える。
 いつか、アリーセに剣を教えてくれた師匠がそんなことを言っていた。
 どんな風に生きれば、この御方みたいになれるのかな? 歳はそんなに変わらないのに、自分がひどく幼く思える……
 アリーセはぼんやり考えながら汗をぬぐい、革袋に入れた水を飲んだ。
 冷たく、清涼な水が渇いた喉を潤していく。
 ジークハルトは大木に寄り掛かり、きらめく銀髪を掻き上げると、アリーセの革袋を奪って唇をつけた。
 ……う、うわっ。
 急にアリーセは恥ずかしさに襲われる。自分が口をつけたものに、彼が口をつけるのが……いけないことのような気がして、急激に脈拍が速くなった。
 ……ナニコレ? なんだろ、ドキドキして……息苦しいような……
 未知の感情にアリーセは戸惑う。
 ジークハルトは飲み終えた革袋を投げて返した。おろおろするアリーセを横目で見て、怪訝けげんそうな顔をする。

「どうした?」
「い、いいえ……」

 ジークハルトはおもむろにしゃがみ、死体を調べはじめた。アリーセは意味もなくホッとする。
 ジークハルトは死体のマントを脱がし、衣服や装備を検分した。彼がふと手をとめたので、アリーセが背後から覗き込むと、マントの裏地に青いわしと王冠が刺繍ししゅうされている。
 その形状には見覚えがあった。
 こ、これって……インゴル公の紋章!?
 予想していたのか大して驚かず、ジークハルトは静かに紋章を見下ろしている。
 刺客はあきらかに、私たちをノイセンからの使者だと知って襲ってきた……?
 王国はまさに内戦の危機にあるんだと、アリーセは改めて身震いした。
 ジークハルトはすくっと立ち上がると、アリーセに目をった。アリーセの鼓動はまたもや不規則に乱れる。ジークハルトを前にするといつもどおりに振る舞えず、それがなぜなのかもわからず、落ち着かなかった。

「探せ」

 ジークハルトはそれだけ言うと、くるりと背を向けて歩き出す。
 アリーセは目を丸くした。
 ……な、なにを?
 言葉が少なすぎて悲しくなってくる。わかりやすく説明してなんて贅沢ぜいたく言わないから、せめて目的語だけは言って欲しい……
 今思えば、彼が饒舌じょうぜつだったのは初めて対面した時だけだ。あんなに長い台詞せりふをしゃべったのは奇跡かもしれない。よっぽど頭にきてたのかな……

「探せって、何を探せばいいんですか?」

 仕方なく彼に追いすがって、そう尋ねた。
 ジークハルトは忌々いまいましげににらみつけ、そんなこともわからないのか、おまえは馬鹿か、と軽蔑をあらわにしてから「遺体をだ」と言った。
 ……遺体?
 あっ、とようやく思い当たった。
 たぶん、使者たちの遺体を探せという意味だ。これまで、密書をたずさえ、インゴル公領に向かった三人の使者たちは戻らなかったという。
 もし、彼らもこの辺りで襲われたなら、どこかに遺体があるはずだ。
 それから二人は、長い時間を掛けて付近を捜索した。街道かられた森の奥はまだ雪深く、捜索は骨を折った。
 短剣で下草を刈り、雪を飛ばしながら見て回る。
 だんだん影が伸びてきて日没近くなり、そろそろあきらめようかと思いはじめた頃、ジークハルトが男の亡骸を抱えるようにして姿を現した。
 アリーセは思わず手をとめ、言葉もなく見入る。
 ジークハルトはたとえようもなくくらい顔をしていた。
 その瞳は亡者の如く光が消え、いつもの人を見下したような傲慢さも、刺すような冷酷さも消えていた。伏せられたまぶたと、高くとおった鼻筋が夕日に照らされ、その立ち姿は美しい。
 けど、彼からは人間味というものが消失していた。
 ……虚無感。
 不意にそんな言葉が浮かぶ。
 ジークハルトは丁重に男を地面に横たえさせた。ところどころ傷んでいるけど、連日冷え込んでいたせいか、遺体はほぼ状態を保っている。
 リウブルク家の外套がいとうを着た黒髪の若い騎士。心臓を背中まで刺し貫かれ、たぶん即死だろう。
 まもなくもう一体、首のない遺体が見つかった。こちらは日数が経ちすぎたのか、白骨化が進んでいる。
 もう一体あるはずの遺体は見つからなかった。別の場所で殺されたか、獣に食われたのか……。いずれにしろある程度の人員を集め、大規模な捜索が必要だろう。
 ジークハルトは二体を並べて横たえると、遺体の剣を抜き、穴を掘りはじめた。アリーセもそれを手伝う。
 凍った地表へ、力任せにジークハルトは剣を突き立てた。
 ……怒ってるみたい。すごく。
 すぐそばで作業するアリーセは、彼の中で激しい憎悪ぞうお憤怒ふんぬが渦巻くのをひしひしと感じた。暗殺者への怒り。インゴル公への怒り。それとたぶん、己への怒り。
 彼は叩きつけるように、繰り返し剣を振るった。
 アリーセも穴を掘りつつ、なぐさめか励ましの言葉を考えたけど、結局どれもふさわしくない気がしてやめた。
 一介の護衛騎士の私に、できることはなにもないんだ……
 ただ、どうにかして王太子の力になりたいと思いはじめていた。
 埋葬し終えると、ジークハルトはひざまずいてこうべを垂れ、チャリス教式の祈りを捧げた。
 一歩下がって、アリーセもひざまずいて同じように祈る。
 生前の騎士たちは、まさか死後に王太子自ら埋葬し、祈ってくれるとは想像もしなかったろう。
 辺りは冷たい静寂に包まれ、時折、遠くでカラスが鳴いた。
 そっと様子をうかがうと、ジークハルトの横顔には決意と覚悟のようなものがみなぎっている。
 この御方はいつも、こんな風に悲しむんだろうか……?
 アリーセに悲しみはなかった。使者たちと面識はないし、自分も騎士だから、いずれどこぞで戦死するだろうと覚悟している。使者のたどった残酷な運命は明日の我が身で、無常感はあるけど、悲しみはない。悲しくないから、怒りもない。
 怒りと悲しみは光と影のようなものだと思う。悲しみの影が深ければ深いほど、怒りの光は強く苛烈かれつだ。激しい怒りは、その裏側に底知れぬ悲しみがあることを示唆しさする。
 彼は死者が一人増えるたび、深く悲しみ、激しく怒り、こうして王国統一の決意を新たにするのかもしれない。その若い双肩そうけんに掛けられた重圧は、想像を絶するものがあった。
 アリーセはもどかしさに襲われる。どうにかしてあげたいのに、なにもしてあげられない、この無力感。
 そろそろ完全に日が沈む。ジークハルトは森の奥まで歩いていくと、開けた場所に生えた巨木の根元に荷を下ろし、小枝を拾い集めはじめた。
 今夜はここで野営するらしい。アリーセもそれにならい、燃えそうな枯葉や枝を集めた。
 火をおこした頃には、とっぷり日は暮れていた。
 ジークハルトはこの辺の地理に詳しいらしく、野営できる絶好の地点を知っていた。その小さな一角は雪も積もらず、洞穴のような巨木のウロは眠るのに最適だ。
 アリーセは干し肉とパンを少し口にした。長距離の乗馬と昼間の戦闘で、疲労がじわじわと全身をむしばむ。
 例年、この季節はもう暖かいはずなのに、異常気象のせいで急に冷え込んでいた。
 二人は無言で燃え上がる炎を見つめる。
 ……なに考えてるんだろ?
 アリーセは無性にジークハルトが気になった。炎に照らされた端整な横顔からは、なんの感情も読み取れない。
 とても綺麗な御方だけど、すごく厳しくて冷たい人だ。ルートヴィヒ国王陛下はもっと温厚で柔らかい雰囲気だった。実の息子なのに、全然違う。貴族だって、同世代の騎士なら気楽な雑談ぐらいするのに、それもない。誰とも馴れ合わず、親しみやすさもなく、プライドも非常に高そうだ。
 父王が病に倒れ、若くしてすべての重責じゅうせきを背負っているせいかもしれない。
 アリーセは疲労で頭がしびれ、目もしょぼしょぼしているのに、ジークハルトは涼しい顔をしている。そんなタフさがうらやましかった。
 随分遠くまで来たなぁ……
 アリーセは夜空を見上げ、オーデン修道院に残してきた双子の兄、アルノーに思いを馳せた。
 寒さが厳しいけど、大丈夫かな。修道士が面倒をみてくれているはずだけど。まったく、護衛騎士が男子限定じゃなければ、こんな苦労せずに済んだのに……
 そんなに急ぐ必要はない。兄が患った流行り病は症状も軽く、悪化するのにとても長い年数が掛かるからだ。
 しかし、特効薬があまりに高価すぎて、とてもじゃないけど騎士の日給で買える額ではない。この任務を無事に終えることができれば、高額の報酬が手に入るから、それでアルノーの薬を買おうと思っていた。
 高額報酬の任務の募集はそうそう頻繁ひんぱんにかからないし、アリーセにとって今回の任務は千載一遇せんざいいちぐうの好機というわけだ。
 結局、ジークハルトとの会話は一切ないまま、火が燃え尽きる頃にはそれぞれ眠りについていた。
 アリーセは外套がいとうにくるまり、乾いた枯草の上に身を横たえる。
 ……寒い。
 外套がいとうは裏地に毛皮を縫いつけてあり、普段なら充分な温かさを確保できるが、今夜の冷え込みは格別だった。地べたから耐え難い冷気が這い上がってくる。
 アリーセの体は震え、奥歯はカチカチ鳴った。
 こんなに寒いんじゃ、全然眠れないよ……
 疲労と寒さで限界が近かった。疲れきっているから非常に眠いのに、眠ろうとすると寒さで目が覚めてしまう。体温のみならず、生命力までゴリゴリ削られていく心地がした。
 こんな状態で明日も強行軍か……と思うと、憂鬱ゆううつだった。
 突然、外套がいとうを引きがされ、刺すような冷気が全身を襲う。

「え!?」

 襲撃かと思ってとっさに起き上がり、短剣の柄に手をやると、なんてことはない。ジークハルトが冷たい目でこちらを見下ろしていた。
 な……なに? 何事……?
 ジークハルトはアリーセの外套がいとうを奪うと、自分の外套がいとうと合わせて重ね、それをそのまま自らの体に巻きつけ、さっさと横たわる。
 え……。私の外套がいとう……。まさか、横取り!?
 あまりにひどい仕打ちに唖然あぜんとするしかなかった。
 横になったジークハルトがこちらへ顔を向け、イライラしたように言う。

「何してる?」
「は?」

 すっとんきょうな声で聞き返すと、ジークハルトは語気を荒らげた。

「来い!」
「へ?」

 ジークハルトは外套がいとうをめくり、一人分入れる空間を作ると、「こっちへ来い」と命じた。
 ……えっ? えっ?
 突然のことにおろおろしていると、ジークハルトは険悪な顔で一喝いっかつする。

「とっとと来い! 凍死したいのか!」
「あっ、いえ。はっ、はいっ!!」

 慌てて這っていき、恐る恐るジークハルトの腕の中に入った。
 近くで見ると、彼の体が思ったより大きくてドキドキする。小さく丸まって、そっと身を寄せると、ジークハルトは思いきり侮蔑ぶべつの眼差しをよこした。

「貴様は馬鹿か?」
「あっ。えっ?」

 ジークハルトは憎々しげに舌打ちすると、「向こうを向け。気色悪い」と吐き捨てた。

「あっ……。すっ、すみません!!」

 急いで体を回転させ、ジークハルトに背中を向ける。
 そ、そうだよね。向かい合うなんておかしいよね。男同士なんだからさ……

「もっとこっちへ来い」

 耳元でささやかれ、背筋がぞくっとした。
 背後からたくましい腕がお腹に回ってきて、ぎゅっと引き寄せられる。
 脚と脚を絡められ、背中にぴったり寄り添われ、彼の体熱たいねつを生々しく感じた。
 ふわり、と二人の体を外套がいとうが覆う。ホッとするような温かさが身を包んだ。
 こっ、これは……。男装がバレる鉄板的展開っ……!
 内心そう焦りつつ、胸部に手を遣り、密かにコルセットの存在を確認する。
 実はアリーセには悩みがあった。それは、普通の女子に比べ、胸が大きすぎること。腕や足はどんなに鍛えてもひ弱なのに、胸だけがやたら大きく育ち、剣術の時かなり邪魔だった。
 ゆえに、こうしてコルセットで潰すのもひと苦労なんだけど……
 大丈夫だった。触って確認したところ、コルセットはずれていない。ちゃんと胸は潰れている。よっぽどのことがなければ大丈夫だ。たぶん……

「……寒くないか?」

 ひどく優しい声に、ドキッとした。たとえていうなら、兄が弟に話しかけるような声色……
 なぜか胸がきゅんと苦しくなり、やっとの思いで「はい」とつぶやく。
 王太子殿下に背中から抱きしめられ、体をぴったり寄せているという有り得ない状況に、頭の中は大混乱だった。
 いやいやいや、王太子だって人間だし。寒さをしのぐために旅人同士が抱き合うとか、よくあるし。兄さんと抱き合って寝たことだって、何度もあったし。普通よ普通……
 頭ではそうわかっているのに、心臓が口から飛び出しそうだ。
 な、なんなの、これ? ずっと心臓がおかしいんだけど。脈が変に乱れるっていうか……
 ジークハルトを前にすると、なにもかもがおかしくなる。ふわふわするような、恥ずかしいような、自分が自分じゃなくなる感じがした。
 次々と湧き上がる未知の感覚にひたすら困惑し続けている。この任務が始まってから、ずっとだ。
 ……けど。あったかいな……
 心臓をバクバクさせながら、アリーセはぎゅっと目を閉じた。


   ◇ ◇ ◇


 ふわり、と覚えのある香りに誘われ、ジークハルトは目を開けた。
 ……まただ。また、あの甘い香りがする……
 腕の中にいる若い騎士は、見た目よりずっと細かった。ぐにゃりとした触り心地で、筋肉もほとんどついていない。年齢はさほど変わらないだろうに、自分とあまりにも体格差がありすぎた。
 もしかしたら、体質に深刻な問題があるのではないか。
 ジークハルトはなんとなくそう感じていた。
 今夜は月が明るい。辺りはシンと静まりかえり、時折、夜行動物が草木を揺らすガサガサという音が聞こえた。

「……怖いか?」

 そうささやくと、向こうを向いたアルノーは小さく首を振る。

「あ、あの……すみません、昼間のこと……。私がお助けしなければならない立場なのに、かばってくださり、命を救ってくださって……」

 なんだそんなことか、と鼻で笑ってしまった。

「気にするな。騎士としては私のほうが先輩だからな。貴様はただ最善を尽くせばよい」
「はい」
「貴様みたいなひ弱な駒でもうまく使ってやるから、安心しろ」
「ありがとうございます」
「もう寝ろ。明日も早い」
「……はい」

 こうして二人で外套がいとうにすっぽり包まれていると、充分すぎるほど暖かかった。若いアルノーの体温は高く、暖房としての役割を自覚しているのか、死体のようにじっと息を殺している。
 それをいいことにアルノーを引き寄せ、さらに体を密着させた。こうして抱いていると、まるで実の弟を守ってやっているような気分だ。
 やはり、いい香りがする。
 香りの元をたどり、柔らかそうな金髪に鼻先を近づけた。アルノーのブロンドははっと目を引くほど見事で、立ち居振る舞いもどこか気品があるし、王太子である自分を前にしても一切物怖じしないから大したものだ。
 髪からは石鹸の香りがかすかにした。男にしては、いい香りすぎる気もするが……
 髪ではない、か。
 探しているのは、もっとずっと甘く、妙に気になる香りだ。
 こうなったらとことん探求したいジークハルトは、アルノーをしっかり押さえ込み、あごを下げて彼のうなじに鼻を近づけた。
 ……あ、これだな。
 うなじからは、たまらなくいい匂いがした。どうたとえたらいいんだろう? 薔薇ばらのように甘く蠱惑こわくてきで、そこに淫靡いんびなスパイスを混ぜたような……
 鼻いっぱいに吸い込むと、鋭く官能を刺激され、心拍数が急激に上がった。
 え……? ん……?
 とびきり甘い香りに頭がクラクラする。鼻先をうなじに寄せ、何度か深く吸い込んだ。
 すると、腕の中のアルノーがビクッと痙攣けいれんし、身を固くする。
 その反応がウブで可愛らしく、一瞬で全身がカッと熱くなった。誘惑するような香りと、ぐにゃぐにゃした柔らかさに欲情してしまい、自然と股間にぐぐっと力がみなぎる。
 ……う、うわっ。冗談じゃないぞっ!
 己の有り得ない反応に、頭から冷水を浴びせられた気分になった。
 ちょ、ちょ、ちょっと待て。落ち着け。こいつは男だぞ! 男相手にこんな妙な気持ちになるとは……
 内心慌てふためき、まさか、そんな、と冷や汗が噴き出した。しかし、体のほうは勝手に反応してしまい、膨らみかけた硬いものが、アルノーの尻を押そうとしている。
 これはまずい。私は完全にノーマルだっ!
 何度も何度も己にそう言い聞かせた。こいつは男だ、こいつは男なんだ、そして、私は女性が好きだ! 絶対に……
 すると、硬くなりかけた股間も次第に落ち着いてきた。
 想定外のとんでもない事態に深いため息が出てしまう。
 ……あ、危なかった。なんなんだいったい……。疲れすぎているのか……


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