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1巻
1-1
しおりを挟む「で? 貴様は私の出した条件をどれだけ満たしているというんだ?」
体の芯まで凍る声で、銀髪の男は言った。
アイスブルーの瞳はあからさまな侮蔑に満ち、アリーセを睨みつけている。
苛立ち、怒り、嫌悪……全身から放たれる厳しい感情。すぐさま首を刎ねられてもおかしくないと思えた。
こ、こ、怖すぎるよぉっ……
アリーセはすっかり震え上がり、石床につくほど頭を垂れて答えた。
「恐れながら殿下、オーデン騎士団が私を適格とみなしたのでここにおります」
「適格だと? 人を馬鹿にするにもほどがある! オーデンの連中はそろいもそろって能無しか? 即刻、荷物をまとめてここを立ち去れ。能無し連中に伝えろ。もっとましな奴を寄越せとな」
「騎士団が適格とみなしたからには、私以上にましな者はいないということです」
冷静に言ったつもりが、恐怖で語尾が裏返った。
「貴様のどこが適格なんだ?」
どこが、という単語にすべての怒りが込められる。
「私はタフで、屈強で、殺しても死なない超一流の騎士を寄越せと言ったんだ。貴様のどこがタフで屈強なんだ?」
抑揚のない声が余計に怖い。視線だけで射殺されそうだ。
アリーセは泣きたかった。この世界にこれ以上不機嫌な男はいないというほど凶悪な顔をし、今にも剣でアリーセを八つ裂きにしそうなこの男こそ、ジークハルト・フォン・リウブルク。レーヴェ王に即位したノイセン公ルートヴィヒの嫡男にして、王太子である。
そして、アリーセの憧れの人。もっとも、憧れていたのはこの部屋に入る前までだけど……
「くそっ。よりによってこんなひ弱そうな奴を。まったく! どうなってるんだ?」
ジークハルトは王太子らしからぬ暴言を吐いた。
「推薦状をお見せしまし……」
言い終わらないうちにジークハルトは「必要ない」と鋭くさえぎった。
「あくまで満たしていると言うんだな? 私の出した条件を」
どう答えてよいのやら考えあぐねていると、「答えろっ!」と一喝され、飛び上がった。
「……し、失礼ながら、騎士団がそう判断したということです」
数歩の距離を挟んで、二人は対峙する。
アリーセはひざまずいたまま負けじと睨み返した。
冷ややかな視線に凍りつきそうだ。なのに、目が惹きつけられて離せない。
ジークハルトは怖いほど整った美貌だった。冷酷そうな、細く鋭い目。気高さの象徴のような高い鼻梁。引き結ばれた端整な唇。
これが……これが、王族なんだわ……。凄まじすぎる……
異様な緊張でアリーセは身震いする。ただ立っているだけなのに、存在感が圧力を持って迫り、体中の産毛がピリピリした。
リウブルク家の祖先は、古くはルマン族の一部族ノイセン人まで遡る。かつて、北レーヴェを支配していたノイセン人のリーダーの子孫がリウブルクであり、その代から脈々と受け継がれてきた王者の血筋だ。先代の初代レーヴェ王フランツが、諸公の中でもっとも力のあったノイセン公を王位継承者に指名した。それがルートヴィヒであり、ルートヴィヒは即位してすぐ、ジークハルトを王位継承者として指名していた。
今年二十五歳になるジークハルトは、想像よりずっと大人びていた。王族の中でもひときわ背が高く、すらりとした体はしなやかに鍛え抜かれ、絹糸より美しい銀髪がきらきらと腰までかかっている。
まさか、殿下がこんなに絶世の美男子だなんて……
なんて言ったら、兄のアルノーにまた「無礼千万だぞ!」と激怒されそうだ。いつも「おまえはおてんばが過ぎるから、大事な場ではとにかく黙って下を向いてろ」と口酸っぱく言われていた。
「受け取れ」
いきなり目の前に長剣が飛んできて、反射的にキャッチする。それは実戦用の諸刃の剣だった。
「貴様が殺しても死なないかどうか、試させてもらう。私はそういう人間を寄越せと言ったんだからな」
「しかし、王族に刃を向けるなんてとても……」
「王太子命令だ」
ジークハルトは有無を言わさぬ口調で命じ、寒気がするほど冷たく笑った。
「それとも、私と勝負する度胸もないか?」
その挑発に胸の奥がすっと冷え、思考の歯車が回りはじめる。
ここで応じないとまずい。たぶん、私の顔つきと体型だけ見て非力な子供だと思っている。今の状況はむしろ好都合かもしれない。そうやって見くびって油断すればするほど、こちらが有利になるし。
「そういうことでしたら」
言いながらアリーセは、膝丈まである上衣の内ポケットから、短剣を抜き出す。
「私の武器はこれで充分です」
「珍しいな。いいだろう。それにしても華奢だな。本当に騎士か?」
返事の代わりに立ち上がり、短剣を左手で構えた。
王族に刃を向けるのは騎士道精神に反するけれど、同時に王族の命令は絶対だ。認めてもらうにはやるしかなさそうだし。
ジークハルトはアリーセの爪先から頭の先まで眺め回し、頬の辺りで視線をとめ、目を凝らした。
「貴様、女みたいな顔してるな」
……女、なんですけどね。
アリーセが女であることは誰も知らない。もともと女にしては長身だし、男装は完璧だ。肩に丸めた布を入れ、コルセットで胸を潰し、腰の下まであった金髪は短く切り込んでいる。傍目にはほっそりした男にしか見えない。長身といっても、ジークハルトのほうが見上げるほど高いけれども。
絶対、ここで帰るわけにはいかないんだから。兄のためにも。
「万が一、死んでもオーデンを恨めよ」
ジークハルトは、すっと腕を伸ばし長剣を構えた。
鋭い切っ先から銀髪の一本一本まで研ぎ澄まされ、空気は殺気を帯びる。
アリーセは嫌な予感で首のうしろがぞわりとした。
……この人、できる。これまで戦ったことがない強さかも。
アリーセは素早く辺りに視線を走らせる。今いるここ、騎士の間はすべて石造りで天井が低く、整列した五十人がゆうに入れる広さだ。ガランとして中央に簡素な木製のテーブルと丸椅子があるだけだった。
これほどの傑物を相手に、どう戦う?
こうしていると、眼力だけで完全に気圧される。シルエットは細身なのに、まるで大岩と対峙しているようだった。
思わず、集中が途切れそうになる。
……弱気になっちゃダメ! ちゃんと私が戦えることを証明しなくちゃ!
ジークハルトがこちらの不安を読んだように、薄く冷笑した。
「来いよ」
残忍な唇がささやく。
その声に弾かれたように、アリーセは動いた。
アリーセは腰を落とし、ひと息でジークハルトの懐深く踏み込む。視線を上げ、逆手に握った短剣で首を狙った。
次の瞬間。
まばたきする間もなく、アリーセは背中から石壁に叩きつけられていた。
「ぐぅぇっ……」
強打の衝撃にうめく。
肩が当たったせいで壁際に飾られていた甲冑が倒れ、けたたましい音を立てた。
目視できない速さで、薙ぎ払われたのだ。まるでうるさい蝿を払うみたいに。
ジークハルトはまったく動じず、薄笑いのまま悠然と立っている。
……こ、このっ!!
アリーセは体勢を立て直すと、両膝をバネのように使い、ジークハルトの斜め背後へ跳躍した。
同時に、上衣から新たな短剣を抜き出し、銀髪の頭部目がけて振り投げる。
手加減する余裕はなかった。本気で殺しにかからないと、確実に殺される!
ギィンッ!
ジークハルトは鬱陶しそうに払いのけた。短剣は飛んでいった時の倍の速度で弾き返され、床に落ちる。
その隙にアリーセは間合いを詰め、さらに短剣を抜き出し、二刀流で躍りかかった。
シュッッ!!
目にも留まらぬ速さで、ジークハルトの長剣が首を目がけて飛んでくる。
先に予測していたアリーセは頭を下げ、紙一重でなんとか避けた。
それでも、刃がブロンドの毛先をサッと切る。
じわりと湧きあがる、魂が凍りつくような恐怖。
もう一度、同じ攻撃を避けろと言われても、たぶん無理だ。その時は間違いなく首が飛ぶ。
アリーセは上体をぐいっと起こし、右手で短剣をまっすぐ突き出す。
しかし、長剣がそれを阻む。
さらに、左手で胴を払おうとするも、刃先が腰に到達する前に弾かれてしまった。
カンッ! カンッ! キィィンッ!
右、左、右、左……アリーセは全速力で交互に短剣を振るう。ジークハルトは、やすやすとそれらを長剣で受けとめていった。
アリーセは踏み込んだり離れたりと忙しいのに、彼はほとんど動いていない。必要最低限の力で防御しているだけだった。
アリーセの息遣いと、刀身のぶつかる乾いた音だけが室内に響く。
……な、なに、これ……?
高速で動きながら、アリーセは奇妙な高揚を感じはじめていた。
アリーセが渾身の力で斬りかかる。すると、待っていたかのようにジークハルトがそれを受けとめる。
次第に彼は楽しそうになってきて、それがアリーセにも伝わってきて、彼に同調して興奮が高まっていくのだ。
思いきり力を出せる、解放感。それが危険域に達しない、安心感。
激しく息を切らし、汗を飛ばしながら、どんどん運動量が上がり、高揚も加速していく。
必死で剣を交わしながらアリーセは、これまで気づかなかった己の潜在能力が引きずり出されていくのを感じた。
す、すごいっ……! すごい、すごいや!
こんなにも俊敏に動ける自分に驚く。まるで無敵の力みたいだ。
それはどこか性的な興奮にも似た、途方もない快感で……
時を忘れ、我を忘れ、夢中で一心に剣を振るった。
すると、ジークハルトが微かに笑うのが、視界の隅に映る。お遊びはここまでだぞ、というように。
アリーセが左からのフェイントを入れ、右から短剣で斬り上げると、腕が吹っ飛びそうな勢いで跳ね返された。
太腿を狙った左の短剣は空を切り、瞬速の蹴りが飛んでくる。ジークハルトの鋼鉄みたいな脚が、アリーセの柔らかい腹にめり込み、すくい投げられた。
ぐはぁっ……
アリーセは大きく目を剥き、体ごと吹っ飛ばされた。
胃の内容物が逆流し、とっさに受け身を取るも、全身が木のテーブルに叩きつけられる。丸椅子が倒れて転がり、壁に激突してやかましく響いた。
アリーセは咳き込みながら勢いよく立ち上がり、素早く短剣を構え直す。
「はっ、はっ、はぁっ、はぁっ……」
アリーセの呼吸だけが静寂に響く。
二人はテーブルを挟んで対峙した。
汗びっしょりのアリーセは肩で息をしているというのに、ジークハルトは音楽鑑賞でもしているように涼しげだ。
い、一撃が……信じられないほど速くて、重いよ……
フル装備の重装歩兵が、弓騎兵級の速さで突撃してくるみたいだ。
アリーセだって腐っても騎士団の一員。しかも、養成所では成績優秀だったし、若手精鋭の一翼を担うと評価されている。屈強な男たちとも剣を交えてきたけど、ここまで圧倒的な実力差を見せつけられたのは初めてだった。
ジークハルトは唇の端を上げたまま、気怠そうに長剣を肩に担ぐ。
「……どうした? もう終わりか?」
尋常じゃない軍事訓練を重ねてきたんだわ、とアリーセは推察した。じゃないと、ここまで超人的な身体能力が身につくはずない。あとは実戦かもしれない。ジークハルトは十一歳から何度も大きな戦役に従軍している。
病に臥せっている現国王に代わり、政を取り仕切るのはジークハルトだった。現在の実質的な国王と言っても過言ではない。戦では総司令官として自ら剣を振るうから、その能力は計り知れない。きっと非凡な才能と並外れた努力の人なんだろう。
黒き閃光。
それは、戦における一騎当千の無双っぷりを称えてつけられた、ジークハルトの二つ名だ。芸術品のように美麗な風貌で、稲妻のように容赦なく敵の首を落とし、まとった甲冑が返り血で黒光りするのだという。
そっか。あれは、ただの噂や誇張じゃなかったんだ……
アリーセはそう納得した。これは閃光というより、死神かもしれない。
ジークハルトの太刀筋には禍々しさがあった。形にのっとった、行儀のよい騎士道の剣ではない。実戦で鍛え上げられた、殺戮に忠実な暗黒の剣。
ふつふつと闘志が湧いてくる。
そういえば、兄にいつも『おまえはほんとに男勝りで負けず嫌いだな』と言われていた。
絶対に負けられない。ここで話が終わってなるものか!
ダンッ、ダンッッ!
アリーセは階段を上る要領で、倒れた椅子からテーブルへ駆け上がった。強くテーブルを蹴り、高く跳躍する。
ほんの刹那、鋭く睨みあげるジークハルトの視線と、上空から見下ろすアリーセの視線が、火花を散らした。
アリーセは六本の短剣を抜き出し、空中からそれらを振り投げる。
六本の刃が、まっすぐジークハルトへ向かっていって……
しかし、ジークハルトはすでに、足元の椅子を蹴り上げていた。
ぶわっ、と浮き上がった椅子に短剣が三本刺さり、残り三本はジークハルトがひと息に薙ぎ払う。
アリーセは変則的な動きに賭けた。
正直、力も技量も体力もはるかに劣っている。唯一、彼に勝るもの……勝らずとも、かろうじて互角まで持っていけそうなもの……それは、速さだった。
上空から、手にした最後の短剣を振りかぶり、銀髪目がけて振り下ろす。
が、ジークハルトはすかさずうしろへ足を運び、攻撃をかわした。
やった! やっと、足を動かしてやったわ!
情けなく感動するアリーセが着地すると同時に、ジークハルトの長剣が鋭く肩口を狙ってきた。
ここまでは読めていた。上体を思い切り反らし、うなる刀身をギリギリでかわす。
刀が空気を切り裂き、顎先に風圧がかかった。
そのまま上体を背面にぐいと倒し、床に片手をついて軽業師のごとく側転を決める。
ジークハルトは、チョロチョロ逃げ回るのが気に入らぬと舌打ちし、巨体をぐるりと半回転させ、斜めうしろに回ったアリーセ目がけ、鋭く斬りつけた。
しかし、その動きもちゃんと予測済みだった。
へばりそうになる己を叱咤し、もう一度床を蹴って跳躍し、さっとジークハルトの背後へ回りこんだ。
……もらったっ!!
騎士が背後を取るのは、もっとも卑怯な行為だと言われている。けど、暗黒剣の使い手に正攻法など通用しない。現実の戦場は命の奪い合いなのだ。アリーセは本音と建前を使い分けるぐらいの経験は積んでいた。
ジークハルトの広い背中に飛び掛かり、短剣の刃先を頸動脈に当てようとした、瞬間。
視界がぐるりと一回転する。あれっ? と思ったら、もう仰向けに投げ倒されていた。
とっさに受け身を取るも、強い打撃で息が止まる。
鋭い剣先が喉元に突きつけられ、チクッと痛みが走った。
ぐりり。
みぞおちを足で踏みつけられ、後頭部に硬い石床の感触。
わずかな時間で信じられない運動量だ。空気を求めて肺が破裂しそうだった。胸に巻いたコルセットがきつい……
こちらを見下ろす青い瞳は、冬の湖より冷たく静かだ。
ひ、人を殺す瞬間もこんなに無表情なの……?
どうでもいい感想が頭をよぎる。首筋に浮いた汗の雫が、喉元に突きつけられた刃先を濡らした。
あああ……。私の人生、ここで終わったかも……
アリーセは観念し、まぶたを閉じた。
◇ ◇ ◇
ジークハルトは傲然と新参騎士を見下ろす。
正直、驚いた。こんなにチビで華奢で女みたいな奴が、ここまでやるとは。
速さだけじゃない。真に恐ろしいのはその柔軟性だった。あらゆる関節がぐにゃぐにゃ曲がり、ありえない体勢で攻撃をかわしていた。
自分が不利だと悟ると即座に騎士道を捨て、野性の剣に切り替えた判断も悪くなかった。
騎士道とはただ規則を守ればいいという、上っ面のものではない。背後を取るのが卑劣だと知りながら、あえてそれを選び取る……ただ邪道を歩む者と、自覚しながらあえて選び取る者はまったく違う。体力と力と技量は雑魚並みだが、その精神は嫌いじゃなかった。
ジークハルトは剣先を突きつけたまま、新参騎士の顔をつぶさに眺める。
輝くブロンドヘアに、陶器のような白い肌。長いまつ毛は無防備に閉じ合わされている。まだ変声期前なのか、喉仏の凹凸がほとんどなかった。ほっそりした首の、つるりとした白さを見ていると、臍の辺りが疼く感じがする。
このまま肋骨を砕いてやってもよかったが、急にその気が失せた。
長剣を放り投げ、みぞおちを踏んでいた足も外す。
気のせいか、足の裏が感じたそれは、普通の男よりぐにゃりとしていた。
仰向けに寝た新参騎士は、ぱっちり目を開けた。ダークゴールドの大きな瞳を感情豊かにきらめかせ、驚き、懸念、安心、と表情を変えてから、彼は身を起こした。
そう、この目だ。
さっき、短剣を構えた時のこの目。こちらを睨む、強い意志を湛えた瞳。それを見た瞬間、目を逸らせなくなった。
「名は?」
そう問うと、新参騎士はぼそぼそ答える。
「……アルノー、です」
アルノーは立ち上がり一礼すると、短剣を上衣の内ポケットにしまい、恭しくひざまずいた。
うつむいたアルノーの頬は青白く、緊張した面持ちだ。さっき本気で叩きつけたのに、怪我はなさそうだから、見かけによらず頑強なんだろう。
「状況は知ってるな?」
さらに問うと、アルノーはおずおずと聞いた。
「あの、負けたのに……いいんですか?」
質問に即答しない者は嫌いだ。
鬱陶しくて眉をひそめると、こちらの意を察したのか、アルノーはすまなそうな顔で答えた。
「陛下のご即位に不服のある、インゴル公とアーベン公に不穏な動きがあるとか……。インゴル公に密書を届ける使者を、護衛する任務だと聞きました」
ちゃんとわかってるじゃないか。
軽くうなずき、「私が同行する」と告げると、アルノーははっと顔を上げ、大きな目をますます見開いた。
「殿下自ら、ですか?」
きょとんとした表情は、いたいけな子リスをほうふつさせる。
「忍びでだ」
そう言うと、アルノーはびっくりしすぎて声も出ない、という様子だった。
さもありなん。まさか、一国の王太子が敵陣の懐深くに単身乗り込むとは、想像もつかないだろう。しかも、それを護衛するのはアルノー自身なのだ。
「あ、与えられた任務の重さに、身のすくむ思いです……」
アルノーは桃色の唇を震わせた。
いじらしくて可愛らしい、という形容がぴったりだ。くりくりした瞳に見つめられると、庇護欲を掻き立てられ、思わず抱き上げてヨシヨシしてやりたくなる。
いったいこいつはなんなんだよ……
「顔を上げろ」
そう命じて身を屈め、アルノーのおとがいを指で捕らえると、ゆっくりと顔を近づけた。
金髪の隙間からのぞく瞳は、黒みがかったゴールドに輝き、多彩な色がちりばめられた虹彩が美しい。
アルノーは、ぎょっとした表情で石のように固まっている。
なんだかおもしろい奴だ。ついからかいたくなり、まつ毛が触れるほど近くまで迫ってみた。
……ん?
ふわり、といい香りが鼻孔を掠める。バニラか焼き菓子のような、甘ったるい香り……
なにを勘違いしているのか、アルノーがぎゅっと目を閉じた。
至近距離にぷるんとした艶やかな唇がある。上唇が少し突き出し、男の癖に可愛らしい形をしていた。
鼻先を、アルノーの顎の辺りでぴたりととめ、スンスン、と匂いを嗅ぐ。
「……菓子でも食べたのか?」
アルノーはまぶたを開き「へ?」と間抜けな声を出す。
「甘い匂いがする」
そう言って顔を離すと、アルノーはほっと息をついた。
「た、食べておりません……」
恥ずかしそうに頬を染めるアルノーが無垢な乙女のようで、こいつ大丈夫か? と一抹の不安がよぎる。
「まあ、いい。旅支度は終わっているな?」
「はい」
「明朝、出立する」
それだけ告げて踵を返した。
「承知しました」
アルノーの声を背中で聞きながら、騎士の間をあとにする。
ジークハルトは考えていた。長引く内乱で騎士団も疲弊している。精鋭の騎士はなるべく戦力として温存したい。アルノーは超一流とまではいかないが、まあまあ有望だろう。実戦で鍛えながら使っていけばいい。まだ若いからいくらでものびしろはあるだろうし。
これまで三度、密書の使者を出したが、誰一人戻らなかった。危険な任務だ。だが、是が非でも成功させねばならない。
戦を避けるため、インゴル公に思い知らせるのだ。どちらが真の王者なのかを。
レーヴェ王国の統一。これが、リウブルク家の血を引いた者の宿命であり、悲願だった。
ジークハルトは挑むように、己の行く手を睨みすえた。
◇ ◇ ◇
翌日、まだ日の昇らない暗い頃、誰にも見送られずに二人は出立した。
朝もやの中、立派な黒馬にまたがってジークハルトが現れた時、アリーセは敬礼するのも忘れ、感嘆のため息が出てしまう。
うわあああ……。格好いいなぁ!
ジークハルトは体をすっぽり覆う、漆黒の外套をまとっていた。リウブルク家の紋章である、聖杯と獅子が赤糸で刺繍されている。「忍びで」という言葉どおり、城塞騎士の旅装となに一つ変わらないけど、にじみ出る王族の気高さは隠しきれていなかった。
銀髪を一本結びにして黒馬にまたがる雄姿は、ほれぼれするほど凛々しい。黒衣に黒馬と眼光の鋭さが、やはり死神をほうふつさせ、神話の軍神のような威容を誇っていた。
ジークハルトはアリーセの目の前で馬をとめると、尊大に一瞥をくれる。巨体の黒馬は頻繁にいななき、かなり気性が荒そうだった。
「遅れるな」
ジークハルトは無表情でそれだけ言うと、手綱を握り、やにわに走り出す。
アリーセは慌ててあぶみに足を掛け、馬に飛び乗ってあとを追った。
季節はちょうど冬の終わり。吐く息は白くなり、城の庭園はびっしり霜に覆われている。
アリーセは重大な任務に加え、それを男装してやりおおせなければならない緊張で、昨晩はほとんど眠れなかった。
エポルー大陸の北に位置するレーヴェ王国は、南北に長く伸び、東側はギザギザに突き出ている。
北から順に、最初の尖った部分にあるのが、リウブルク家のノイセン公領。
そこから南のくびれた部分は、教会領。
さらに南の尖った部分が、今回の目的地でもある、インゴル公領。
インゴル公領は、西にあるアーベン公領に隣接していた。インゴル公領とアーベン公領に抱え込まれた形で、フランバッハ公領がポツンとある。フランバッハは先王のフランツを輩出しており、フランツがジークハルトの父であるルートヴィヒを、王位継承者に指名したのだ。
そのことに、インゴル公とアーベン公は腸が煮えくり返っていた。ルートヴィヒを国王と認めない意志を表明しており、戦も辞さない態度だ。
インゴルは弱小だが、アーベンは精鋭の大部隊がそろっており、二公連合軍となればノイセンはかなり苦戦を強いられるに違いない。
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