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45. 死を克服できたもの

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 長かった冬が終わり、草木がいっせいに芽吹く春がやってきた。
 うららかな陽気のある日、一通の書簡がドラポルト邸に舞い込んだ。
 宛先にはミレーユの名が書かれており、差出人の記載はなく、狼と月をかたどった封蝋ふうろうが押されていた。
 ……これは。シャロワ家の紋章だわ……
 日光の差し込む明るいサロンのソファに座ったミレーユは、さっそく封を開けて中を取り出す。
 分厚い便箋には几帳面な文字で次のように記されていた。



 親愛なる我が妹、ミレーユへ

 ようやく、こうして筆をとることができて、僕はかつてないほど安堵している。
 おまえも大変だったと思うが、こっちはこっちでものすごく大変だった。
 詳細を書くのもはばかれるので想像に任せるが、こうして手紙を書いている僕を称えて欲しい。
 結論から言えば、爺ちゃんは……フィリップ・ド・シャロワ伯爵はおまえたちの結婚を認めたよ。
 僕はシャロワ伯爵家を代表し、おまえたちに結婚の祝辞を送るためにこうして筆をとっている。
 まずは、結婚おめでとう。
 夫婦二人で仲良く、末永くお幸せに。
 おまえを送り出したことを後悔しない日はなかったが、今はこれでよかったんだと思っている。
 愛するがゆえに、おまえの意志を尊重し、危険な場所と知りながら送り出すこと。
 愛するがゆえに、おまえの内面に干渉し、おまえのしたいことを止めさせること。
 なあ、どっちが正しいんだろうな? いまだに僕はその答えを知らないんだ。
 それでもやはり、おまえは城を出るべきだった。
 あのまま一族と共にあらゆることを我慢し、爺ちゃんの言いなりに生きていっても、そこにおまえの幸せはなかっただろう。
 ただ生存するために、ただ保身のために、ただ安全を守るためだけに生きるなんて、そんな不幸なことはないよ、ミレーユ。
 だから、兄として、一人の人間として、おまえが駆け落ちしたことを誇りに思っている。
 多くの人がおまえを自分勝手だ、ワガママだ、恩知らずだ、バカだ愚かだと言うだろう。
 実際、あのあとおまえは一族の者たちから、さんざんな言われようだったんだ。
 けどさ、当たり前だと思わないか? 本当に欲しいものは……愛だって恋だって、欲望だって夢だって、誰かと一緒に仲良しこよしで得られるわけがない。
 たった独りで、暗くて冷たいところをくぐり抜けた先に、たぶん本当に求めるものがあるんだ。
 僕はずっとそう信じてる。この話は、前もしたね。
 最後におまえの手を握ったとき、おまえは力強い目をしながら、ガタガタ震えていた。
 怖いんだとわかったよ。腐ってもおまえの兄だからな。とても怖かったんだろう。
 たった独りで、きっと死ぬ思いで、新天地に飛び降りる覚悟だったんだな。
 だが、あのときのおまえは、めちゃくちゃ格好よかったよ。
 ドラポルトなんて目じゃないぐらい男前で、自立して、凛々しく立っていた。
 それを見て、ああ大丈夫だと思ったんだ。きっとこの先なにがあっても、おまえはどうにかやっていける。おまえの持てる知力体力財力、そして運。多くの人の力を借りながら、待ち受ける困難を超えるだろうって、確信みたいなものが湧いたんだ。
 僕の予感は的中しただろう? 現におまえはドラポルト邸でうまくやっているらしいじゃないか。
 近々、シャロワ伯爵家はおまえたちの結婚を正式に発表するつもりだ。
 それから、この手紙のあとに、シャロワ伯爵家から祝いの品がいくつか届くはずだ。ささやかなものだけどね。
 爺ちゃんはおまえのことを心配しているよ。人狼であることを除けば、孫娘が大好きな老人にすぎないからな。
 いろいろなことが落ち着いたらさ、バンデネージュ城に顔を見せに帰ってきてくれ。
 一族はもう、おまえを支配したり幽閉したりしないよ。
 ドラポルト男爵夫人として、丁重におもてなしするつもりだ。
 もしかしたら、その頃には甥っ子や姪っ子に会えたりするのかな?
 おまえにそっくりなチビっこたちに、「おじさん」なんて呼ばれる日を想像するだけで、ニヤニヤが止まらないんだ。

 きっとおまえはもう、おまえの運命を受け入れているんだと思う。
 そのことがたまに、どうしようもなく哀しいんだ。
 だが、おまえが受け入れたのならば、僕も断腸の思いで受け入れようと思う。
 なあ、人間はさ……人狼も、動物も、あらゆる生き物も、なんでこんなにも無力なんだろうな?
 この世界ができて、かなりの時が流れているはずなのに、いまだかつて誰も死を克服できたものはいないんだ。
 子供の頃からずっと、おまえと代わってやりたいと思い続けてきたよ。
 だが、そんなもの、おまえにとっては詭弁に過ぎないんだろうな。
 だって、おまえの人生を代わってやることなんて、誰にもできないんだからさ。
 それでも敢えて言うよ。おまえと代わってやりたかった。
 おまえを守ってやりたかった。
 なにもしてやれなくてすまない。
 どうか、残された時間を幸せに過ごして欲しい。
 大切な人に、一回でも多く好きだと言って、一回でも多く抱きしめるんだ。
 それ以外は全部、ほんの些細ささいなことに過ぎないよ。
 この人生で、おまえと兄妹になれて、心から幸せに思う。
 おまえは可愛くて、賢くて、頑固で、優しくて、誰よりも強い、僕の誇りだった。
 ミレーユ、愛してるよ。
 ドラポルトによろしく。
   おまえの永遠の相棒、ピエール・ド・シャロワ



 途中から文字がにじんでぼやけて見えなくなり、ポタリ、と大粒の雫が便箋に落ちた。
 私が……ただの人間だったらよかったのに。ただの人間だったなら、もっと違う人生が……もっと長く、大切な人たちと一緒にいられる人生が歩めたのに。
 うれしかったし、ありがたかったし、哀しかったのだ。
 エドガール、シャロワ伯爵、ピエール……。こんなにも多くの人が自分を愛してくれ、心配してくれ、大切に思ってくれているのに、それらに報いるすべはなに一つない。
 ただ、ありがとうと言うことしかできない。
 そして、ごめんなさいと。
 ミレーユは大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせながら、そっとお腹を押さえた。
 そこには、まだ見ぬ小さな命が息づいている。
 ふと気配を感じ、視線を庭園に向けると、ちょうどエドガールが門をくぐり、帰ってきたところだった。領民から苦情が殺到していた、土地の境界のトラブルについて、現地を見に行って話し合いをしてきたらしい。
 エドガールはミレーユを発見したらしく、うれしそうに手を振った。
 彼の無邪気な笑顔は、いつ見ても少年みたいだ。
 釣られてミレーユも笑顔になり、窓辺に近寄って手を振り返す。
 ……大丈夫。まだ、今というこの瞬間、私は生きている。少なくとも、今日は生きていられる。
 未来を思うと、不安と哀しみに囚われて動けなくなってしまう。
 だから、私は今を……今だけを大切に慈しもう。
 一回でも多くエドガールに好きだと言って、一回でも多くエドガールを抱きしめるのだ。ピエールがそう教えてくれたように。
 近いうちに、バンデネージュ城に顔を出そう。エドガールを連れて。このお腹の子も一緒に。
 そう思うと少しだけ楽しい気持ちになれ、ミレーユは夫を出迎えるべく踵を返した。
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