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43. 初めて見えてくる景色というもの

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 ベルナールと言い合って以来、ようやくエドガールはミレーユと夫婦らしく振る舞うことを許された。
 屋敷内で手を握ったり見つめ合ったりしても、ベルナールにうるさく言われなくなったし、徐々に監視の目は弱まり、夜にお互いの寝室を行き来するのも自由になった。
 いや、自由になったってさ。夫婦なんだから、そんなの当たり前じゃないか……
 エドガールは内心そう愚痴りつつも、ベルナールに邪魔されなくなった現状がうれしいのは間違いない。
 相変わらずシャロワ伯爵からはなんの音沙汰もなく、テールブランシェにも動きはなかった。
 人狼についてせっせと書き溜めてきた調査レポートは箱にすべて放り込み、物置の奥に封印した。
 彼らの生態をあばき、生活や内面に踏み込んで「人類にとって害獣」だの「その性質は残虐非道」だの、勝手に決めつけることに強い抵抗を覚えたからだ。
 たとえて言うならそれは、生きたまま解剖しているような暴力性を感じる。どんなに体を細かく切り刻み、「これは腎臓」だの「これは心臓」だのと、名前をいくらつけたって、対象を理解していることにはならない。
 そんなの、ただの暴力じゃないか。
 彼らがどんなことを思い、どんなことを夢見て温かい心臓を鼓動させ、それがどんなときに速まるのかなんて、絶対にわかりっこない。
 ミレーユが人目を避けるように幽閉生活を送ってきたのは、一族からの監視だけが理由じゃない。
 社会から向けられる、そういう決めつけや偏見の目があったからだ。
 彼女がそんな見えない暴力に晒されていたかと思うと、この身を切られるような痛みを覚えた。
 誰かを分析することや勝手な決めつけというものが、初めて怖いと思った。……怖い。とても怖い。それで、大切な人が傷つけられたり、失われたりするのが、とても。
 これまでずっと邪悪な人狼を駆逐せんとしてきた。
 先祖の教えに従ったまでだが、その教えが本当のところはどうなのか、自分の頭でしっかり考えてこなかったと言わざるを得ない。
 なんの疑いもなく人狼を憎み、平然と彼らを分析して追跡し、無自覚に暴力に加担してきた。
 ミレーユに出会って……どうしようもなく彼女に恋をして、初めてそのことに気づいたのだ。
 差別される側の立場に立ち、初めて見えてくる景色がある。
 だから、これまでしてきたことを後悔したし、無知で愚かだった自分を深く恥じた。
 これまでの僕は、随分と重たいものを背負いながら生きてきたんだよなぁ……
 今になってつくづく思う。黒煙騎士団としての使命。先祖代々の教えと掟。領主としての責任。そして、人狼を駆逐し、人類を救おうという正義……
 それらのために、人生の大半を犠牲にしてきた。
 あらゆる我慢を強いられ、厳しい規律に縛られていた幼少時代。体を鍛えて訓練に励み、人狼の研究に時間を費やし、無きに等しかった青春時代。あとは、黒煙騎士団として、男爵として、作家として、仕事に奔走していた記憶しかない。
 やりたいことなんて、なに一つやってこなかった。
 そのすべてが無駄だったなんて、思いたくない。
 思いたくなかった。本当に。
 そう思うには、あまりに自分を犠牲にしすぎた。
 ずっと真剣だったし、大げさではなく、本当に命懸けで一つ一つのことを成し遂げてきたのだ。
 だから、それらをすべて手放す瞬間は、鈍い痛みと哀しみをともなった。
 心を深く抉られるような心地がしたけど、手放したのだ。ミレーユのために。
 ……違う。ミレーユを大切にしたいと思う、自分のためにだ。
 手放したあとは、心も体も随分軽くなった気がした。
 少しの寂しさもあったけど、それもじきに消えた。
 そうして平和に時は流れ、やがて年が明け、厳しい寒さも終わりに近づき、少しずつ春の足音が聞こえはじめる。
 エドガールは小説の執筆に領主の執務にと忙しく、デスクにかじりついて書類を睨みつける日々が続いていた。
 それでも、ミレーユがいる生活は明るさと活気に満ち、かつてない喜びを感じている。腕まくりをして気張る彼女や、疲れきってすやすや眠る寝顔、大輪の花が咲いたような笑顔を、そばで見ているだけで幸せだった。
 エドガールはようやく、自分が誰のために頑張るのか、なんのために仕事をするのか、その答えのようなものを見つけた気がする。
 大好きなミレーユとこれから増える未来の家族のためにと思うだけで、なんだか力がもりもり湧いてきて、いくらでも仕事がこなせる。
「……それは愛ですな。坊ちゃま」
 突然背後から声がして、エドガールは飛び上がった。
「いや、びっくりするわ! おまえはいったいどこから湧いてくるんだよ!」
 椅子から落ちそうになりながら、勢いで散らばった書類を拾い上げる。
 エドガールは書斎で独り、せっせと原稿を書いていたのだ。
 いつのまにか音もなく忍び寄ってきたベルナールはしれっと言った。
「坊ちゃまがちゃんと執筆をされているかどうか、確認しにきたのです。私には監督責任がありますから」
 なぁーにが監督責任だよ……。頼んでもないのに勝手なことしやがって……
 という愚痴は内心に留めておき、一つ咳払いしてからベルナールに忠告した。
「ならば、今すぐ立ち去ってくれ、ベルナール。いいか、執筆には集中が必要なんだ。おまえがいると気が散って筆が止まってしまうからな。……って、なにをニヤニヤしてるんだよ?」
「坊ちゃまもようやくまともになってきたなと、安堵しておるのです。愛というものはとてもいいものですぞ。私も若い頃を思い出すなぁ。愛は無敵です、坊ちゃま」
「なっ……。べっ、別に、そんなんじゃない! 男として頑張りどころだと責任を感じてるだけだ」
 そう言ったのに、ベルナールは完全に無視して持論を展開する。
「それなのに、愛を軸に生きていける人というのは、実に少ない。皆、いつのまにか振り落とされ、逸れてしまうのです。不思議ですねぇ。愛がこれだけ素晴らしいものだと誰もが知っていて、巷には愛を称える芸術品が溢れ、宗教が世界的なものになっているというのに。なぜ見失ってしまうのでしょう? そこが人間の、実に不思議なところです」
 ベルナールは言いながら去っていき、セリフを言い終わると同時にドアがバタンと閉まった。
 あとには書類の山とエドガールだけが残される。
 ……愛だって?
 今のエドガールにとって、その単語は今ひとつ腑に落ちなかった。大げさで壮大すぎるし、なんだかわざとらしくて尻がムズかゆくなる。
 ミレーユに対する自分の気持ちは、もっとささやかでほんわかしたものだ。
 それだけじゃなく、熱く激しく力強い部分もあり、とても一言では言い表せない。
 ミレーユは可愛い。もう、可愛くて可愛くて堪らない。たまにドジを踏んだり、頑固だったり、勘違いしたりするところもすべて美点でしかない。
 一般的に欠点と呼ばれる部分が、たとえようもなく愛おしく感じられた。
 人狼であるところも彼女の魅力を引き立てている。あの可愛すぎる尻尾を見て、平常心でいられる人間がいるんだろうか? 愛くるしすぎて、ヨシヨシと撫で回さずにはいられない。
 奥さんていうより、妹とか娘とかに対する感情に似てるかもしれないなぁ……
 そんなことを思う。実際に妹や娘がいたら、可愛いとか守ってやりたいとか、そういった気持ちになるんじゃなかろうか。
 もちろん、ミレーユに対してはそれだけじゃない。夜はちょっと淫らなことをしたいとか、そういう欲望もあるわけで……
 佳境に入ってくると彼女の肌から立ち昇る、レテの花に似た香りを思い出すだけで、股間が熱く疼く。
 甘い匂いに酔いながら彼女と交わるのは、筆舌に尽くしがたく甘美な恍惚境だった。さすが、雄をその気にさせるという、人狼のフェロモンなだけある……
 ……い、いかんいかん! 今は執筆に集中せねば!
 頭をブンブン振って煩悩を追い払い、両頬をピシャリと叩いた。
 彼女のことを考え出すと、ついつい妄想が膨らみすぎてしまう。
 けど、そんな難点も含めて幸せだった。
 彼女に恋焦がれ、切なくなったり楽しくなったり、毎日が本当に色鮮やかで生き生きしている。
 こんな薔薇色の季節が自分に訪れるなんて予想しなかった。
 それだけでも、心から彼女に感謝したい気持ちだ。
 だが……
 エドガールはふとペンを止め、視線を上げる。
 窓の外の小さな庭園では、雲一つない空の下、庭師とミレーユがちょうど野良仕事の真っ最中だった。
 こうして、視界の端にいつも彼女がいる生活は幸せだ。
 なんの問題もないはずだった。
 しかし、ミレーユが時折見せる、どこか寂しそうな横顔だけが気になっていた。
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