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31. 初期の衝動というもの
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エドガールの領地エストヴィルの町は、グラスドノール城から見てはるか東に位置する。
本来ならばまず街道に沿って南東へ進み、湖のほとりにあるバンデネージュへ向かうのが近道だが、ここにはシャロワ伯爵の居城があった。追手がかかっていることをかんがみると、避けるべきだろう。
エドガールは当然ながら、事前にそれぐらいは予測していた。ゆえに真東へまっすぐ進むルートを取り、川沿いにある大きな町、リプスを目指す。
当初はグラスドノールで人狼の調査を終えたあと、念のため足がつかないよう単独で出立し、リプスにある満月亭という宿で待機している召使いたちと落ち合う予定になっていた。召使いたちにリプスで待つよう命じたときも、エドガールを含めて皆、気楽な観光旅行気分だったし、リプスにあるスキプトン川の遊覧船に乗ろうなんて話をしていたものだ。
実際にグラスドノール城へ行って滞在してみるまでなにが起こるかわからなかったし、人狼の拠点であるという情報がデマの可能性もあったし、ここまでシリアスな展開になるなんて予想していなかった。
それがまさかドンピシャで人狼一族の拠点を突き、しかも月食の聖贄宴に居合わせ、人狼の令嬢と駆け落ちすることになるとは……
事実は小説より奇なりとはこのことだよな、とエドガールはしみじみしてしまう。
グラスドノール城へ到着したのはほんの三日前なのに、もう何年も昔のように思えた。
ミレーユという思わぬ同伴者が増えてしまったが、召使いたちはエドガールの奇行に慣れているし、まあ大丈夫だろう。
問題はエストヴィルに帰ったあとだ。ドラポルト邸で主人の帰りを待ちわびている老執事ベルナール・ドゥミが、うら若い未婚の令嬢を連れ帰ったと知ったら、なにを言われるか……
考えただけでエドガールは頭が痛くなってきたが、先のことを考えても仕方ないかと開き直った。そもそも自分は奇人変人ヴァンパイアの異名を持つ男なんだし、ベルナールにいちいちビクビクしていたら、なにもできなくなる。
「閣下、間一髪でしたな。ほら、城のほうはあれじゃあ、もう外には出られませんわ」
ギヨームにそう言われ、客車の小窓から振り仰ぐと、グラスドノール城のあるはるか山の上のほうは重く垂れ込めた灰色の雲に覆われ、本格的に雪が降り出していた。恐ろしいうなり声を上げて強風が吹き下ろしてきて、山頂のほうの雲が渦巻いているように見える。
いよいよノールストームが始まったのか。あれが……
山頂を睨みながらエドガールは肝を冷やした。ギヨームの言うとおり、まさに間一髪だ。
ミレーユといちゃついている場合ではなかったな……
そうは言っても彼女が部屋に来たときは、こんなことになるとは予想だにしなかった。彼女を連れて逃げようと決意したのも、肌を重ねたあとだったのだ。あと数刻出るのが遅かったら、二人とも城に閉じ込められ、その間にエドガールは血祭りに上げられていたに違いない。
「大丈夫。私が消えたと彼らが知れば、月食の聖贄宴は行われません。あれは、生贄を私に食べさせるために行われる儀式なんですから」
隣のミレーユが蒼白な顔で言う。
食べさせるために、という生々しい表現に衝撃を受けた。そうだと知っていたつもりだが、こうして直接彼女の口から聞くと、その残虐性がより増すように思う。
ミレーユ……。嫌な儀式を強いられていたんだな……
ノールストームのお陰で一族の奴らは追ってこられないだろう。追手がかかるのは吹雪が収まったあとになり、それまで数日の猶予があるから、無事にエストヴィルに着けるはずだ。
「奴ら、絶対追ってこれませんよ。こっちの馬のほうが百倍速いんでね。安心ですわ」
ギヨームが雪に負けじと大声で言う。
エドガールはほっと胸を撫で下ろすと同時に、ミレーユのことがひどく哀れに思えた。
化粧っ気のない顔は青ざめ、すごく寒そうで、古いドレスに身を包み、慌ててまとめた髪は乱れ、悪路で揺れまくる馬車に必死で耐えている。人狼一族の令嬢として厳しい掟に忍従し続け、ようやく自由になれたと思ったら、その手を引いているのは奇人変人偏屈男と称される自分なのだ。
客車の座席は狭く、二人座ってトランクを置いたらぎゅうぎゅうで、屋根に覆われているのは頭上のみゆえ、細かい雪混じりの風が前面から吹き込み、お世辞にも優雅な旅とは言えない。
駆け落ちの恋物語を読むとき、やるせなくなるのはいつもこんな瞬間だった。
初期の衝動というものはいつだって美しい。二人は雷に打たれたように恋に落ちる。そうして、勇気を出してすべてを捨て、二人だけの世界へ逃げようとする。きっと明るく幸せな未来が待っているに違いないと期待に胸を膨らませる。
しかし、二人を待ち受けているのは冷たく、空虚で、世知辛い現実なのだ。
大きな期待のあとには、同じだけ大きな幻滅が訪れる。必ず。
それが生活苦なのか、すれ違いなのか、社会的な批判なのかはわからない。あれほど蝶よ花よと褒めそやされていた女が、夜が明けて白日の下で見たら驚くほどの醜女だったなんてこともある。逆に、あれほど誠実で優しく見えた男がいざ一緒に生活を始めてみたら、ただ気が多いだけの無節操な浮気男だったなんてことも、よくある話なのだ。
そのときは、そうはなるまいと、どれだけ強く望んでいたとしても。
本来ならばまず街道に沿って南東へ進み、湖のほとりにあるバンデネージュへ向かうのが近道だが、ここにはシャロワ伯爵の居城があった。追手がかかっていることをかんがみると、避けるべきだろう。
エドガールは当然ながら、事前にそれぐらいは予測していた。ゆえに真東へまっすぐ進むルートを取り、川沿いにある大きな町、リプスを目指す。
当初はグラスドノールで人狼の調査を終えたあと、念のため足がつかないよう単独で出立し、リプスにある満月亭という宿で待機している召使いたちと落ち合う予定になっていた。召使いたちにリプスで待つよう命じたときも、エドガールを含めて皆、気楽な観光旅行気分だったし、リプスにあるスキプトン川の遊覧船に乗ろうなんて話をしていたものだ。
実際にグラスドノール城へ行って滞在してみるまでなにが起こるかわからなかったし、人狼の拠点であるという情報がデマの可能性もあったし、ここまでシリアスな展開になるなんて予想していなかった。
それがまさかドンピシャで人狼一族の拠点を突き、しかも月食の聖贄宴に居合わせ、人狼の令嬢と駆け落ちすることになるとは……
事実は小説より奇なりとはこのことだよな、とエドガールはしみじみしてしまう。
グラスドノール城へ到着したのはほんの三日前なのに、もう何年も昔のように思えた。
ミレーユという思わぬ同伴者が増えてしまったが、召使いたちはエドガールの奇行に慣れているし、まあ大丈夫だろう。
問題はエストヴィルに帰ったあとだ。ドラポルト邸で主人の帰りを待ちわびている老執事ベルナール・ドゥミが、うら若い未婚の令嬢を連れ帰ったと知ったら、なにを言われるか……
考えただけでエドガールは頭が痛くなってきたが、先のことを考えても仕方ないかと開き直った。そもそも自分は奇人変人ヴァンパイアの異名を持つ男なんだし、ベルナールにいちいちビクビクしていたら、なにもできなくなる。
「閣下、間一髪でしたな。ほら、城のほうはあれじゃあ、もう外には出られませんわ」
ギヨームにそう言われ、客車の小窓から振り仰ぐと、グラスドノール城のあるはるか山の上のほうは重く垂れ込めた灰色の雲に覆われ、本格的に雪が降り出していた。恐ろしいうなり声を上げて強風が吹き下ろしてきて、山頂のほうの雲が渦巻いているように見える。
いよいよノールストームが始まったのか。あれが……
山頂を睨みながらエドガールは肝を冷やした。ギヨームの言うとおり、まさに間一髪だ。
ミレーユといちゃついている場合ではなかったな……
そうは言っても彼女が部屋に来たときは、こんなことになるとは予想だにしなかった。彼女を連れて逃げようと決意したのも、肌を重ねたあとだったのだ。あと数刻出るのが遅かったら、二人とも城に閉じ込められ、その間にエドガールは血祭りに上げられていたに違いない。
「大丈夫。私が消えたと彼らが知れば、月食の聖贄宴は行われません。あれは、生贄を私に食べさせるために行われる儀式なんですから」
隣のミレーユが蒼白な顔で言う。
食べさせるために、という生々しい表現に衝撃を受けた。そうだと知っていたつもりだが、こうして直接彼女の口から聞くと、その残虐性がより増すように思う。
ミレーユ……。嫌な儀式を強いられていたんだな……
ノールストームのお陰で一族の奴らは追ってこられないだろう。追手がかかるのは吹雪が収まったあとになり、それまで数日の猶予があるから、無事にエストヴィルに着けるはずだ。
「奴ら、絶対追ってこれませんよ。こっちの馬のほうが百倍速いんでね。安心ですわ」
ギヨームが雪に負けじと大声で言う。
エドガールはほっと胸を撫で下ろすと同時に、ミレーユのことがひどく哀れに思えた。
化粧っ気のない顔は青ざめ、すごく寒そうで、古いドレスに身を包み、慌ててまとめた髪は乱れ、悪路で揺れまくる馬車に必死で耐えている。人狼一族の令嬢として厳しい掟に忍従し続け、ようやく自由になれたと思ったら、その手を引いているのは奇人変人偏屈男と称される自分なのだ。
客車の座席は狭く、二人座ってトランクを置いたらぎゅうぎゅうで、屋根に覆われているのは頭上のみゆえ、細かい雪混じりの風が前面から吹き込み、お世辞にも優雅な旅とは言えない。
駆け落ちの恋物語を読むとき、やるせなくなるのはいつもこんな瞬間だった。
初期の衝動というものはいつだって美しい。二人は雷に打たれたように恋に落ちる。そうして、勇気を出してすべてを捨て、二人だけの世界へ逃げようとする。きっと明るく幸せな未来が待っているに違いないと期待に胸を膨らませる。
しかし、二人を待ち受けているのは冷たく、空虚で、世知辛い現実なのだ。
大きな期待のあとには、同じだけ大きな幻滅が訪れる。必ず。
それが生活苦なのか、すれ違いなのか、社会的な批判なのかはわからない。あれほど蝶よ花よと褒めそやされていた女が、夜が明けて白日の下で見たら驚くほどの醜女だったなんてこともある。逆に、あれほど誠実で優しく見えた男がいざ一緒に生活を始めてみたら、ただ気が多いだけの無節操な浮気男だったなんてことも、よくある話なのだ。
そのときは、そうはなるまいと、どれだけ強く望んでいたとしても。
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