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29. 本当に欲しいもの

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 夜明け前、ミレーユとエドガールの二人は連れ立って客室をあとにした。
 城を出る前に、ミレーユは衣装室に忍び込み、最低限の着替えと下着だけ小さなトランクに詰めた。衣装を吟味する暇もなく、着の身着のままで出て行くという表現がふさわしい。
 思い出の手紙も、したためた日記も、華やかなアクセサリーも宝石もなにもかも置いていくことにした。
 持ち出すのは愛読書一冊だけだ。
 その著者であるエドガールと、まさかここから逃げ出すことになるなんて……
 ミレーユは信じられない思いで、エドガールの端整な横顔を見上げる。
 エドガールはこういう事態に慣れているのか、いつでも脱出できるよう、すでに小さなトランク一つに荷物をまとめていた。
 一族たちは依然としてミレーユの部屋を見張っているらしく、その不在には気づいていない。
 きっとピエールがうまく立ち回ってくれたんだろうと、ミレーユにはわかっていた。
 二人はギヨームに助けられ、エドガールの客室から勝手口まで城内の長い道のりを、一族の目に留まらず安全に通り抜けることができた。
「まさか、下男があなたの側についているだなんて……」
 ミレーユが信じられない思いで言うと、エドガールは人差し指を振る。
「下男じゃない、ギヨームだ。可愛い娘と孫のいる、勤続二十年のギヨーム・ブーケだよ」
「随分詳しいのね」
「うん。そりゃね。敵陣内部に間者を忍ばせておくのは、兵法の基本だよ。こちらについたほうが有利だと思わせ、さらに強固な信頼関係を築いておかないと。まあ、かなり大金が吹っ飛んだけどね」
 暖かそうな毛皮の外套に身を包んだエドガールは、肩をすくめる。
 エドガールは私に出会うはるか前から、一族を探るために準備をしてきたんだ……
 彼が人狼族と戦うためにたゆまぬ努力をしてきたかと思うと、身につまされる。
 ミレーユも同じで、一族の掟のために多くのことを我慢してきた。
 そうして今、二人でそれぞれの一族を裏切ろうとしている。自分を育ててくれた、先祖たちと一族とその掟を。
「……ミレーユ。本当に後悔はないのか? 今ならまだ引き返せる」
 シルクハットの陰から、気遣わしげな眼差しが見下ろしてくる。
 後悔かぁ……。後悔するとしたら、このまま一族の中に留まり、なにもできずに朽ち果てていく自分にだ。そんな人生、たしかに失敗はないけど、他になにもないのだから。
 どこかもう、あきらめていた。夢も願望もすべてを殺して死んだように生きていくぐらいなら、せめてここでエドガールの手にかかりたいと、心から願った。
 どうせ死んだ身。だから、大失敗してもいい。飛び出してみたい。
 ミレーユは改めてそう決意し、首を横に振った。
「私は自分の決めたことに一切後悔はないの。むしろこんな機会を与えてくれたあなたに、感謝しかない。この先なにがあっても、どんな困難があっても、すべて受け入れて生きていくつもり。あなたはどうなの?」
「僕は君と一緒になれるなら、喜んですべてを投げ捨ててやる。僕はさ、先祖にも一族にも掟にも、一度たりとも助けられたことなんてないんだ。そんなもんはこれっぽっちも僕を幸せにしてくれなかった。僕がこんなに人生を犠牲にして、尽くしてきたのにさ!」
 彼はめずらしく感情的に吐き捨てたあと、声を抑えて続けた。
「生まれてからずっと掟に従い、従って従って従い続けて、いろんなことを我慢してさ、それがいったいなんだったんだろう? それで世界がよくなったとは到底思えないし、僕自身が幸せになったかと問われれば、そんなことはない。いったい誰の、なんのための掟なんだ? 僕には正直、君たちが殺すべき邪悪な一族だと、うまく思えないんだ……」
 彼は深呼吸してから、静かに付け加えた。
「だが、君は違う。君は伯爵やお兄さんを愛している。彼らも君のことを愛してるだろう。だから、僕と一緒に来ることで君が不幸になるのなら……それだけは、避けたいんだ」
「なら、あなたは私の家族が悲しむからといって、私のことをあきらめるの? 私が兄や祖父が大事だと言ったら……」
「あきらめたくないよ……」
 彼はミレーユの手を取ると、その指先に口づけした。
「あきらめない。あきらめたくはないよ。……だが、君の気持のほうが大切だと思うんだ」
「そういうことなら、私は大丈夫。あなたと一緒に行きたい。もうずっとね……子供の頃から、こうなるような気はしてた。もし、いつか大人になって、本当に欲しいものができたとき、きっと両親も兄も祖父も裏切ることになるって。たぶん、子供心にわかってたのね。私の幸せはどうあっても一族と対立することになるって……」
 そう。いつかこうなる日が来るような気がしてた。
 その日が来たら私は、禁じられた境界線を越え、閉じ込められていた壁を破り、危険を冒して外に出ることになるだろう。そのときにきっと、たくさんの恐怖と不安に襲われるだろう。自分を生み育ててくれた人たちへの罪悪感は尋常じゃないだろう。
 けど、私はどうしても幸せを掴みたい。
 現実に掴めなくてもいい。掴もうと、努力したい。あがきたい。試してみたい。
 この命が儚く脆いものであるなら、なおさら……
 ミレーユは覚悟を決め、彼の手を握る力を込める。
「今を逃したら、私もあなたも永遠に灰色の壁に閉じ込められ、生涯そこから抜け出せず、生きることになる。だったら今、危険を冒しましょう。人生に一度ぐらい、そんな瞬間があったっていいでしょう? 私たちがこれまでどれだけ自分の自由を殺して生きてきたの?」
 自分の自由を殺して、という言葉に、エドガールは感じ入った様子で黙り込む。
 そうして、強い眼差しでうなずき、こう言った。
「本当だな。そのとおりだ。ミレーユ、一緒に行こう。こんなところから逃げ出すんだ」
 ……そのとき。
「ミレーユッ!」
 キッチンのほうから鋭い声が響き、二人はハッとしてそちらへ振り向いた。
 ドカドカと足音が高く聞こえ、目の前のドアがバンッ! と勢いよく開け放たれる。
「ピエール……」
 そこに現れたのは、髪を寝グセでぐちゃぐちゃに乱し、寝間着を着込んだピエールだった。
 すると、エドガールが険しい表情になり、うしろ手に守るようにミレーユの前に立つ。
 ピエールもエドガールに負けず劣らず険悪な顔で苦々しく言った。
「おい。勘違いするな。おまえたちの邪魔をしにきたわけじゃない」
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