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10. 根底には温かいもの

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 書庫を訪れる者はなく、二人きりで静寂の中、心ゆくまでいろいろ話ができた。
 意外にも二人の呼吸はぴったりで、エドガールの伝えたいことをミレーユは瞬時に理解できたし、ミレーユの感じていることをエドガールは的確に言い当てた。多くを語らずとも、お互いの考えていることがわかったし、おかしさや興味を感じるポイントがまったく一緒だった。
 エドガールの語ることにミレーユは共感しかなく、ミレーユしかわからない心情をエドガールは汲みとってくれる。
 お互いをよりよくもっと知りたい欲求は加速し、二人は交換した情報を貪欲に吸収した。
 意気投合した者同士の会話は楽しくて仕方なく、はしゃいだ気持ちは際限なく膨らんでいく。
 ミレーユは夢中で話しながら、淡く、甘酸っぱいようなこそばゆさを身の内に感じていた。
 ……楽しいな。こんなに楽しい時間を過ごしたのは、生まれて初めて……
 エドガールはやっぱり素敵な人だな、とミレーユは密かに胸をときめかせる。
 話している間中ずっと、彼の腕と自分の肩がかすかに触れ合い、それが時々気になった。
 嫌な感じじゃない。うれしいような、くすぐったいような、ふわふわした気分になるのだ。
 けど、なにかの拍子で彼の腕が離れてしまったとき、ひどく残念に思った。
 あまりに強すぎた失望感に、自分で驚いたぐらいだ。
 そのあとすぐ彼がさりげなく腕を寄せてきて、ふたたび二人の腕と肩が触れ合った。
 あっ……
 ドキッとして、そっと彼を見上げるも、気づいている様子はない。
 司祭と討論していかに自分がやり込められたかを、身振り手振りで熱心に説明している最中だった。
 小さく触れ合った箇所から彼の体温を感じ、鼓動が高鳴る。
 それは、ミレーユの人生にとって最良の、夢のような時間だった。
 大ファンで憧れていたエドガールに、肩先だけ触れるのを許されている気がして。
 少し触れているだけで親近感がぐんと増す。
 彼は徐々に心を開いてくれ、初めて見せられた笑顔はとても優しかった。
 二人きりの時間がこのまま終わらなければいいのに、と願う。
 二人は触れ合っていることなんておくびにも出さず、何食わぬ顔で会話を続けた。
 やたらドキドキしてしまい、途中からなにを話しているのかわからなくなる。
 うれしくて、楽しくて、気分は高揚し、このままずっと彼に触れていたくて……
 夢のような時間はまたたく間に過ぎ、ひとしきり話し終えると、エドガールは気まずそうに言った。
「すみません。つい、我を忘れて話しすぎました。ご婦人には退屈な話題だったかと」
「そんなことないですよ! すっごく楽しかったです。男爵の本、本当に大好きなんで」
 心から言うと、エドガールは頬を紅潮させ、エヘンエヘンと咳払いする。
 もしかして、照れると咳払いするのが癖なのかな……?
 ちょっと可愛いかも、と思ってしまい、内心で微笑む。
 その美しく整った冷酷そうな風貌と、恥ずかしがり屋の内面のギャップがすごく好ましかった。
 日頃から抱えていた彼への深い想いを伝えるなら、今しか好機はないと思い、口を開く。
「私、ずっと男爵の本を読み続けてきました。男爵の本を読んでいると、このかたの言ってることは私にしかわからないぞって、特別な気持ちになれるんです」
 彼ははっとしたように顔を上げ、こちらをのぞき込む。
 彼の視線を痛いほど感じながら、勇気を振り絞って告白を続けた。
「あの、私しか知らないはずの、すごく心の深いところまで、そっとなぞられたような気がして……。思い込みかもしれませんが、そういうのが心の支えになるんです。すごくキツかったとき、癒されて、救われてました。だから、なにより、男爵の本が一番大好きです」
「……あ、はい。ありがとうございます……」
「もう本当に好きで、好きで……何度も繰り返し読みました。生涯の宝物でとても大切にしてます」
「は、は、はい」
「まるで魔法みたいですね! ペン先から放たれた言葉が、いつも私を助けてくれました。誰よりも、なによりも、直接。素晴らしい本をありがとうございます。ずっと感謝してました」
「はい……」
「ごめんなさい、偉そうに。こういう形でしか伝えられない私を許してください。お話しできる機会もそうないですし、感謝を、どうしても伝えたくて」
「とんでもない。こちらこそ……」
 ミレーユは恥ずかしい気持ちを抑え、両手を組み、祈るような気持ちで告げる。
「好きです」
 すると、エドガールは耳まで赤くし、咳払いを繰り返した。
 その紅潮した美しい頬を見上げながら、ミレーユは思う。
 彼は人嫌いと噂されてたけど、たぶん、すごい照れ屋さんなだけなんじゃ……
 たしかに愛想は悪いし、とっつきにくいけど、根底には温かいものがある人だ。
 照れまくっている様子に、見ているこちらがきゅんきゅんしてしまう。
 ややあってエドガールは気を取り直し、こちらを見て問うた。
「先ほど、ラフェル紙の……夏に連載していた記事を読んだとおっしゃいましたね」
 とっさに「はい!」と勢い込んでうなずく。
「あの捕食者の記事ですよね? エッセイもお書きになるんだと思って、楽しく拝読してました!」
 すると、エドガールは二本指で自らの唇から顎をなぞり、考えながら言った。
「あれをお読みになって……どう感じました?」
「え? ええと、どうって……?」
「あの記事は信じられるものでしたか? それとも、荒唐無稽こうとうむけいなくだらない妄想だと思われましたか?」
 エドガールの白っぽい水色の瞳はどこまでも真剣だ。
 その薄氷のような色彩に見惚れながら、自らの胸に問うてみた。
「くだらないなんて、そんな風には思いませんでした。捕食者はいると思います」
「いると思う?」
 エドガールは鋭く瞳をきらめかせる。
「あ、いえ。なんて言えばいいのかな。記事にも書かれてましたよね? お伽噺の怪物は、たとえ話だって……」
「ええ」
「いるじゃないですか。それこそ、社交界にも教会にも学校にも、下手したら家庭の中にだっていますよね? 捕食者っていうのが、精神的に誰かを傷つけ、それで癒しや快感を得る人たちのたとえ・・・なんだとしたら……世界中どこにでもいると思います。わりと身近に」
「なるほど。では、たとえ話ではなく、現実に、本当に、いると思いますか?」
 質問の意図が理解できず、「えっ?」と聞き返してしまう。
「ですから、本物の捕食者ですよ。物理的に人間を……人肉を食らう怪物のことです」
「物理的に?」
「物理的に」
 エドガールは言い、凝らすように目を細める。
 彼の美しく澄んだ瞳を目に映しながら、なぜそんなことを聞くんだろう? と純粋に疑問だった。
 あたかもミレーユが、現実に人肉を食べる怪物の存在を知っているかのような言い草だ。
 このとき、頭の片隅を黒煙騎士団の話がよぎった。
 ――煙のように現れ、一族を葬り去り、煙のように去っていく。奴らは我々をただの害獣か、畜生にも劣る存在だとみなしている。
 ――ドラポルト男爵は黒煙騎士団の末裔じゃないか、という疑いがある。
 まさか……カマをかけているの?
 エドガールの怜悧な眼差しは、じっとこちらを観察している。まるで、表情の微細な変化をも見逃すまいとするように……
 息を詰めてそれを見返し、どうにか声を絞り出した。
「……いいえ。そんな怪物はいないと思います。物理的に人肉を食べるなんて、あり得ません」
「そうですか……」
 ふいっとエドガールは視線を逸らす。
 その瞬間、追及の矛先から逃れられた、と安堵が込み上げた。
「すみません。長居しすぎました。読書の邪魔をしてしまいましたね」
 というエドガールの謝罪に、「大丈夫です」と首を振る。
 いつの間にか触れ合っていたはずの二人の腕は離れていた。
 そのことが、ひどく寂しい。
 なにやら物思いに沈んだ様子でエドガールは立ち上がった。
「あの。ありがとうございました。お話しできて、すごく楽しかったです」
 声を掛けると、エドガールはぼんやりしてポツリとつぶやいた。
「……いい香りがしますね」
 あまりに唐突な言葉に、思わず「へっ?」と聞き返す。
 すると、エドガールははっと我に返り、慌てて言った。
「し、失礼しました。変なこと言ってすみません。今のは忘れてください」
 彼はますます顔を赤くし、居ても立っても居られないといった様子で立ち去ってしまう。
 その長身の背中を、少し切ない気持ちで見送った。
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